翌朝。
時差のせいか緊張のせいか、は確実に睡眠不足なのにも関わらず、妙に意識のはっきりした朝を迎えた。
(朝ご飯の手伝いしなきゃね)
を探し、キッチンへ向かう。
どうやら既にキッチンにはと、それからバージルがいるようだった。薄く開いた扉から会話が漏れ聞こえる。
「意外と早く起きたな」
「まさか寝坊すると思ってた?」
「思っていた」
「……。」
「昨日は遅くまで騒いだからな」
「騒いだけど、夕食が手抜きだったから、朝はちゃんと作ってあげたいと思って」
「そうか……」
「……ね、もうすぐたち起きるから、邪魔しないで」
「まだ大丈夫だ……」
「バージル……」
はその場に凍った。
どうやらもう少し時間を置いた方がよさそうだ。
くるりと回れ右をして、
「っ!」
何かにばふっとぶつかった。
「何してんだ」
ダンテが埋もれて来たの頭をそのまま抱え込む。
「ダンテこそ、顔洗いに行ってたんじゃなかった?」
彼は珍しくより一足先に起きていた。
「もう洗った。で、こんなとこで何してんだ?」
「あ、待って、今ちょっと」
「ん?」
の制止は間に合わず、ダンテがキッチンへ踏み込んだ。
(うわー!)
が、の心配に反して、中の二人は普通に朝食の用意をしていた。……の顔は真っ赤だったが。
(やっぱり邪魔しちゃったじゃない!)
(はぁ?何だって?)
小声でダンテに突っ掛かる。訳が分からずダンテも声を潜めた。
「あ、おはよう二人とも!もうすぐご飯できるから待っててね!」
菜箸を反対に握ったまま、が言った。



せっかくなので、朝食は庭に出したままのテーブルで取ろうということになった。
10時を回ったところの陽気は清々しく、弱めの風もまたとても心地よい。
今日は一日中いい天気になりそうだ。
「あー、明るいとこで見ると凄惨な感じ」
が横を見て苦笑した。
昨夜大活躍だったグリルは、焦げや野菜くずが太陽のもとにしっかり晒され、大変にぎやかなことになっている。
「夜は見えなかったからな」
あれを片づけるのか、とバージルは針のように目を細めた。
もまた宴の跡を深刻そうに眺める。
「手伝うよ」
「そんな、いいよ」
が慌ててパパパと手を振る。
「それより!今日のデートはどこへ行くの?」
ダンテに問い掛ける。
「ん」
グリルドチーズサンドの塊を口に入れたばかりのダンテが、苦しそうに眉を寄せた。超特急で飲み込む。
「……今日は水族館」
ダンテの言葉に、がはっと振り返った。
「そうなの?」
どこへ行くかはまだ話し合っていなかった。
「行きたいって言ってたよな」
確かに、こちらへ来る前の電話でそんな会話はしていた。ただ、の挙げた願望はあまりに広範囲すぎたし、聞いていたダンテは冗談混じりだったように思えたのに。
(ちゃんと覚えててくれたんだ)
あれ、違ったっけとダンテは首を捻っている。
「嫌ならはっきりしておかないと、こいつはそのまま水族館へ連れて行くぞ」
間を空けたに、バージルが忠告した。
もちろんは首を振ってダンテに向き直る。
「今日の行き先は、水族館!行きたいって話してたんだ」



平日午後の水族館は、さながらダンテとふたりだけの貸し切り状態だった。
ぽかぽか心地好い陽射しを背に浴び、エントランスまでの緩やかなスロープをのんびり歩く。
建物の壁をびっしり飾るのは、手のひら大の素焼きのプレート。それぞれ魚が刻まれていて、その群れは入り口に向かって泳いでいる。どうやら一枚一枚、地元の子供たちが心を込めて作ったものらしい。
「ヒレが片方だけ小さい魚ばっかだな。そんな種類あったか?」
ダンテがと繋いだ手ごと、プレートを指差した。
「あれは確か、クマノミ。アニメで人気のキャラクターだよ。帰ったら映画観る?」
「ああ。多分オレはにちょっかい出すか寝るかしかしないと思うけどな」
「それ、映画観てる時に限らないような」
じゃれあいながら、チケットブースに声を掛ける。
大人用を二枚買い、入場の印をぱちんと入れてもらう。
いってらっしゃいと返されたチケットを見て、が顔を綻ばせた。
「見て!パンチまで魚の形してる」
「すげぇ。入り口から魚だらけだな」
「水族館だもんね」
「帰る時には鱈フライかなんか渡されそうな勢いだ」
「それはさすがに……」
がくっくと笑った。
「中のレストランのメニューが気になるな」
「たぶん、ダンテが想像してるような魚料理はないと思う」
「残念」



館内は薄暗く、水槽だけにやわらかく照明が当てられて、とても幻想的だ。水の反射が青いカーペットのフロアにゆったりとたゆたい、まるで海の底を散歩しているような気分になれる。
ごくたまに擦れ違う他の客も、スーツ姿同士のカップルだったり、やけに年の差があって秘密めいた組み合わせだったり……この現実から切り離されたような空間に、美事に溶け込んでいた。
普段は人目を集め過ぎてしまうダンテも、ここならそれほど目立たずに行動することが出来そうだ。
この水族館の一番の見所は、4階まで吹き抜けの高さ12メートルもあるオーシャンタンク。ダンテとは水の圧倒的な量感に気圧されながら、海の生き物を堪能した。
「あれ、鮭だって!」
「まだ3インチくらいか。マリネにして食うしかなさそうな小ささだな」
「きらっきらで綺麗だね。鱗が銀色のラメみたい」
「こいつらって、でっかくなったらやっぱりマーケットに売られるのか?」
「ダンテ、さっきから食べることしか考えてなくない?」
「実は腹減ってんだ」
「もう?」
朝もあんなにおかわりしてたのにとがダンテを振り返ったとき、ぴんぽんぱんぽーんと館内放送が始まった。
『ただいまの時刻より、中央メインフロアのオーシャンタンクにて、ダイバー4名による餌付けショーが開催されます……』
「飯だってさ」
ダンテが羨ましそうに唇を突き出した。
それがたまらなく可愛くて、は彼の肩に思い切り頭を寄せた。



やがてアナウンス通り、目前の大水槽にダイバー達が姿を現した。それぞれ、餌が入っているのだろう大きな袋を手首から提げている。
魚の切り身のようなものがばら撒かれ、周囲の水が濁った。すると、さっきまでのんびり遊泳していたエイが我先にと飛びついては身を翻す。
はわあと歓声を上げた。
「やっぱりみんな殺気立ってるね。ダイバーも怖そう」
「オレの餌付けなら簡単だぜ?」
本当に空腹を抱えているらしいダンテは、何やら含んだ眼差しでを見つめた。
も冗談めかして彼を流し見る。
「ピザで手懐けられるもんね?」
「お。作れるようになったのか?」
はぎくりと肩を揺らした。
「そ、それは、まだ……バーベキューレベルってことで……」
しどろもどろに言を継ぐ。
母親に教えてもらいつつ練習を始めたものの、本当のところ、レシピなしではまだ肉じゃがの味付けすら怪しい。
日本では手軽に作れるカレーライスも、こちらではルウを買い求めることがまず最初の難関だ。となると、食材に火を通す……そう、昨日食べたバーベキューがまさにの現在レベル。
小魚よろしく目を泳がせたを、ダンテは慰めるように抱き寄せた。
「オレならテリヤキソースのボトルが一本ありゃ何でも食うから」
「ごめん……次までにピザ焼けるように頑張る……」
うっかりぐっさりと痛いところを突いてしまったらしい発言に責任を感じ、ダンテは焦りながら話題を探した。
と、タイミングよく、目を引く魚が通り掛かった。
「あれ見ろよ、。こんな殺気立ったお食事タイムの中、澄ましたカオの魚がいるぜ」
「ん?」
指差された方を見れば、確かにやる気のなさそうな、図体の大きい魚がのろのろ泳いでいた。いや、正確には泳いでいるとも言えないかもしれない。何しろ魚は縦にゆらゆらしている。
「何だアレ……。具合悪いのか?」
「あれはナポレオンフィッシュですね」
客の声を耳聡く聞きつけたらしい係員が、つつつとふたりの横に並んだ。
「ナポレオンフィッシュ?」
「はい。あんな様子でもいたって元気なベラ科の魚です。ダイバーにも物怖じしないのですが、のんびりした性格なのか、どうも餌付けショーでは食事してくれないんですよねぇ」
困ったものですと眼鏡を直す係員。こちらのことなど勿論気にするはずもなく、ナポレオンフィッシュは鮮やかな青緑の巨体を堂々と見せびらかしている。
大人でも抱えきれない大きさで迫力があるものの、出っ張ったおでこと分厚い唇が妙に愛嬌を振りまいている魚。
はまじまじと見入った。
「何か、憎めない魚」
「当館でも人気があるんですよ」
係員は他にもあれこれと指を差して魚の種類を教えてくれた。どうやら暇を持て余していたらしい。
「もうそろそろショーは終わりですが、やっぱりナポレオンフィッシュは食べてませんねぇ」
最初よりだいぶ薄くなった袋をぶら下げたダイバーが、たちに手を振りながらこちらへ泳いで来た。まだ食べ足りていないらしい魚たちが、お供のようにぞろぞろと群をなして行進してくる。
ダイバーはナポレオンフィッシュに気付くと、そちらへ腕を伸ばして海老の剥き身らしき餌を見せ付けた。すると魚はゆっくりと姿勢を縦から横に戻し、餌に向かって泳ぎ始めた。
「おっ、食うか?」
思わずダンテが口を開けてしまった。
しかし気まぐれな魚は結局口を開くこともなく、すいーっとダイバーの後ろへ隠れるように泳いでいく。ダイバーも「失敗」と両手を広げて首を傾げた。
「Nice try」
ダンテがダイバーに手を上げ、もそれに倣って手を振った。
ダイバーが最後に袋を逆さに振ると、今まで食べっぱぐれていた小魚たちがここぞとばかりに食事にあやかった。それを見届け、こちらにもう一度手を振ってから、ダイバーはフィンをくねらせタンクから上がって行った。
さて、と係員がダンテとに向き直る。
「お二人さん。まだ時間があるなら、別館のオーロラアイランドでペンギンに餌をあげていって下さいねぇ」
「え!私たちが餌付けできるんですか?」
「丸ごとのアジに触れるなら、大丈夫ですよ。あと10分くらいで始まります」
の目が輝いた。
「ダンテ!行こう!」
もう頭はペンギンでいっぱいのに、ぐいぐいと手を引っ張られる。ダンテのお腹がぐるると鳴った。
「そろそろマジでオレの餌付けも頼む……」