てのひらダンテ

one more bite 編




ちいさな彼がやってきたのは、春いちばんの風が吹く、とても気持ちいい日のことだった。
今日もあの日みたいに、ぽかぽか陽気が眠気を誘う。
こんな日に外へ出掛けられたなら、目に映る全てがきっと、わくわく心を奪ってくれるだろう。
「……外出さえ出来ればね」
明日締め切りの原稿を仕上げるため、わたしは必死にパソコンに向かっていた。
あともう少し粘ればもっと出来が良くなる気がして、うんうん頭を捻る。
けれど悩んでもちっとも埒があかない。
煮詰まったので、一旦モニターから離れることにした。
コーヒーでも淹れよう。
眼鏡を外して席を立つと、赤いハンカチがもそりと動くのが目の隅に入った。
もちろんあれはハンカチじゃない。
てのひらにちょこんと乗るくらいの小人──名前はダンテ。
さっきから何かを訴えて来ているのだけれど、忙しくてまるきり彼を無視していた。
だから、タイの仏陀みたいに寝そべったその背中は、きっとむくれているんだと思う。
(ダンテにもコーヒーを淹れてあげようか)
わたしはキッチンのシンクで、おもちゃの食器を手早く揃えた。
物書きなんて仕事をしている人間はロマンチストだと勘違いされやすいけれど、わたしは絶対に自分はリアリストだと思っている。
だけどそれがこんな──小指の爪先サイズのカップに慎重にコーヒーを注いで幸せを感じているのだから──不思議なもの。
「ダンテ。休憩に付き合わない?」
声を掛けて振り返ると、ダンテはもう既に立ち上がってこちらを向いていた。
「ん?」
なぜか、パソコンのモニターを指差している。何か文字を入れたのだろう。
ダンテとわたしのコミュニケーション手段は、このパソコン。
初めて出逢った日──名前を訊ねたわたしに彼は何とも派手なことに、机に置いてあった広告に銃で「DANTE」と撃ち込んで自己紹介してくれた。
ちいさな銃弾が立てる音はポップコーンが弾けるように小気味よくって耳に楽しく、綴られた文字は映画の演出めいていて見事としか言い様がなかったけれど……とてつもなく危険な会話手段。
彼の銃が小さいからといって、いくらなんでも有り得ない。
それ以来、我が家での発砲は禁止。言いたいことはパソコンで。
これがダンテに守らせているルールだ。
「なになに?」
ひょいとモニターを覗き込む。
ダンテが入力した文字は、
strawberry sandae
「ストロベリーサンデー?」
彼はおおきく顔を縦に振った。
キッと眉を吊り上げているところから見るに、さっきから主張していたのは『サンデー作ってくれよ』だったに違いない。
「サンデーね……」
苺はある。アイスクリームもある。……ジャムも、ある。
最近気付いてしまったのだけれど、わたしとダンテの食べ物の好みは限りなく似ているのだ。
そしてダンテもそれを知っている。恐らく、サンデーの材料がちゃんと揃っていることも。
ダンテがどんどんとブーツを鳴らした。
「うーん」
正直、面倒だ。
休憩は必要だけれど、そんなに仕事を離れてもいられない。……と、いうわけで。
「原稿が片付くまで待って」
膨れっ面の首根っこを掴んで、モニターから離れた位置にぽんと着地させると、ダンテはあんぐり口を開いた。
『横暴すぎんだろ!』そんなことを言っているような気がした。



再び原稿に没頭してモニターと睨めっこしていると、右肘の辺りでかさりと風が動いた。
「ダンテ?」
遠く下へ追いやっていたのに、彼は器用にもするするとデスクに上がって来ている。
おおきな音も立てずに忍び寄る様は、まるで猫のよう。
目を合わせると、『サ・ン・デー!腹減った!』ダンテの口はそう動く。
「……。」
わたしは答えず、仕事に戻った。
「えっと、次は……」
マウスから手を離して資料を捲って確認する。
用事を満たして、再び手をマウスに戻すと、
ごつん
「え」
クリックを妨害するように、何か──もちろん小人のダンテ──が座っていた。
「ダンテ、邪魔!」
あの一瞬の隙に……本当に素早い。
「もう、降りてよ」
むいむいと指でダンテを押すも、本気で踏張っているらしい彼は全然動かない。
「……そう。」
わたしはマウスを諦めた。
「知ってる?ショートカットを使えば、マウスなんて要らないの」
優雅に両手をキーボードのホームポジションに置いてみせれば、ダンテがむすっと眉を寄せた。
どうやらわたしの勝ち。
やれやれと作業に戻る。
……が。
「あれ!?」
さっき入力したはずの文章が綺麗さっぱり消えている。
というか、それは今も右から左へどんどんと消え続け──
「ダンテ!!!」
いつの間にかマウスからキーボードの上へ移動した彼は、deleteキーに足を乗せていた。
「こらぁっ!」
慌ててデコピンの一撃で、これ以上の損害を食い止める。
「そんなイタズラばっかりしてると、余計に待つ羽目になるんだからね?」
キーボードとマウスを手で防御しながらダンテを睨む。
さすがにその一言が効いたのか、彼はぴたりと静かになった。
モニターの前にしょんぼり座る。
「そうそう、そうやって大人しくしてればいいの」
これでやっと仕事に取りかかれる。と、思ったのだが。
じっ……
ちょうどわたしの視線の先、どうしてもどうしても視界に入る部分に、こちらを見上げるダンテの顔がある。
(無視)
あれはパソコンのロゴか何かだ。気にならない。
じぃっ……
ダンテは小人でちいさいくせに、何でそんなに目力が強いのか。
(無視無視)
あれはフィギュアか何かだ。気にするもんか。
じぃーっ……
きらきらとわたしを見つめる青い瞳。
そんなに真摯に健気に可愛い顔をしたって気に──、気にならないわけがない。
そして、勝てるわけもなかった。
「ああもう!」
根負けして立ち上がったわたしよりも先に、ダンテはひらりと机からジャンプしてキッチンへ走って行った。



「はい、おまたせしました」
ダンテにしてみたらバケツサイズの大きさのストロベリーサンデーを差し出す。
今の彼は満面笑顔だ。
ダンテは本当にうれしそうなので、こちらも和んでいないと言ったら嘘になる。
「じゃあ、大人しく食べててね」
わたしは仕事に戻らなきゃ。
席を立とうとすると、ダンテも慌てて立ち上がった。
「どうしたの?」
訊ねると、ダンテはサンデーを掬ったスプーンをわたしに見せた。
見たところ、まだそれは一口目。
「くれるの?」
ダンテはこくっと頷くと、『あーん』と更に手を伸ばす。
ちょっとだけどきっとした。
「何よ。毒味?」
誤摩化したら、ダンテはむすっと不機嫌に唇を結んだ。
「冗談だって。でも、そのスプーンじゃわたしには足りないよ」
彼はスプーンとサンデーを見比べて、ちょっと切なそうに視線を落としたものの、すぐに気持ちを切り替えて、勢いよくサンデーをたっぷり盛り上げた。
そして『これ以上はやらねぇぞ!』とばかりに、ずいっと差し出す。
仕事の邪魔をしたお詫びかもしれないけれど、可愛いところもある。
「……ありがとう」
わたしは首を屈めて、ダンテの『あーん』を受け取った。



その後はダンテも騒がず大人しくしてくれて、何とか原稿は書き上がった。
パソコンを切って、首を回すと骨がぽきぽきと悲鳴を上げる。
今日は疲れた。
寝る前にニュースでも見ようとテレビを付ければ、見事にホワイトデーの話題ばかりだ。
「ホワイトデーか」
今年は仕事で何もなかったなぁと、テレビの電源を落とす。
……それから、ふっと思い出した。
ダンテが、さっきくれた一口。
(もしかして?)
自意識過剰かもしれない。
彼にはまるでそんな気はないのかも。
だけど──
今は背中をまるめて熟睡中の、赤いハンカチ。

明日は休み。
二人分のサンデーを作るために、いちごを買いに出掛けよう。