いつもよりも0が2つも多く並んだ小切手。
その凄まじい価値の紙切れと目の前の豪邸を見比べて、彼はふうっと溜め息をつく。
「さすが日本の電気メーカーの重役」
こんな大邸宅にやって来たのは、普段ならば絶対に受けない『ボディガード』の依頼を受けたため。
『お守なんざごめんだね』とこれまでクールに決めてきた便利屋のプライドも、たまりにたまった請求書と、依頼主に提示された金額の前にぐらりと揺れて、そしてあまり抵抗する間もなく負けてしまった。数字がずらずら踊る、あの額面は卑怯だ。
彼に貸しがある一部の友達(?)だけは、大金が入ると聞いて大喜びしていたが。
「どうせなら可愛いお嬢さんをお守りしたいね」
軽口をひとつ叩いて、ベルを鳴らす。
「今日から雇われてる。名前はダンテだ。正門を開けてくれ」
お嬢様のボディガードの方ですね。お待ちしておりました』
気取った声がスピーカーから洩れると共に、自動制御の門が重厚な音を立ててゆっくりと開いた。
「……なんか気にいらねぇな」
むすっと呟き、ダンテは門を潜った。




Caged Bird




通された屋敷は、外の厳重な門も納得の設えだった。
悪趣味なまでにごてごて飾られた館内は、思わず現代建築を懐かしく思ってしまうほど。
首を巡らせているだけで、きらきらしい装飾に眩暈を起こしそうだ。
「ここにはマリー・アントワネットでも住んでるのか?」
お嬢様がおられます」
思わず零したダンテの皮肉も受け流し、執事は深々と頭を下げる。
「それで、いつお嬢さんは出掛けるんだ?」
「本日、お嬢様の外出のご予定はありません」
「じゃあ、オレの役目は?」
護る相手が外に出ないのなら、ボディガードは何をしていればいいのか。
呆れて腰に手を当てたダンテに、執事はおおと大袈裟に目を丸くする。
「勿論、お嬢様のお部屋の外で警備に当たって頂きます」
「部屋の外?」
「はい」
「屋敷に不審者なんて入れねぇだろ?」
「いつ何時、何が起こるや分かりませんゆえ」
物々しい態度をいっかな崩さない執事。
ダンテはげっそりと気力を削がれた。
「……まあ、大金が入るなら何でもするよ」
「そのように願います。ダンテ様の腕は確かだと伺っております。旦那様も頼りにしておられましたよ」
「そうだ。その旦那様や、お嬢様にはいつ会えるんだ?」
「はい?」
意外なことを訊かれたとばかりに、執事がダンテを見上げた。
「と、仰いますと?」
なかなか老獪な執事だ。ダンテは肩を竦める。
「ボディガードが主人の顔を知らないとか、普通はないぜ」
「はあ……そういうものですか」
「そういうもんだ。万が一の時に、お嬢様を誤射なんてブラックジョークすぎるだろ?」
「ななな、何ということを!」
「だからさ。挨拶くらいはさせてくれよ」
誤射と言われてさすがに恐ろしくなったのか、執事は乗り気でないながらも諒承した。



「こちらがお嬢様です」
執事がもったいぶって紹介したのは、可憐な少女。
ダンテはもう少しでヒュウと口笛を吹いてしまうところだった。
「初めまして。と申します」
ふわりと下げた優雅な頭の動きにつれて、黒髪がさらりと流れる。
もう一度顔を上げて、ダンテに合わせた瞳は潤んだ漆黒。
いかにも深窓の、といったたおやかな人物だ。
こんな儚い物腰の女もいるなんて、世界はまだまだ広い。
まじまじを見つめたダンテだったが、「うおっほん」と執事のしわぶき付きエルボーで正気に戻された。
慌てて、しゃんと背筋を伸ばす。
「あ、ああ。オレはダンテ。聞いてるかもしれねぇけど、今日からあんたのボディガードに雇われてる。よろしくな」
いつも通り、挨拶に右手を伸ばす。
勢いよく伸びてきた手に数瞬だけぱちぱちと瞬きをして、はおずおずと自分の手をそっと重ねた。
「……よろしくお願いします」
いかにも壊れやすそうなちいさな声と、ほそい指。
(作りもんみてぇだな)
身に纏う雰囲気も、体のつくりも、所作までもが繊細。
は本当に精巧な人形のようだ。
ダンテは思わず、ぎゅっと彼女の手を掴んだ。そのままぶんぶんと上下におおきく振る。
揺さぶられた拍子に、の人形のようなつくりのからだから、甘い香りがした。
「だ、ダンテ様!何をしてるんですか!!!」
執事があわあわと二人を引き離す。
「あ、悪い……何か、つい」
頭を掻きながら謝れば、
「いえ。ちょっとびっくりしましたけど」
彼女はほんのわずか、微笑んでいた。



依頼料の一部を前払いで受け取ると、ダンテの住み込みのボディガードの仕事が始まった。
食事も美味しく、宛てがわれた部屋は毎日メイドが綺麗にしてくれる。
待遇は完璧だったが、ただひとつ。
(……暇すぎる!)
護衛すべきは、ダンテが来た日から今まで、まだ一度も外出していない。
大学に籍を置いていると言うことだったが、学校へ通学もしていなかった。
高名な教授や講師がぞろぞろとやってきては、彼女一人のために教鞭を執っていく。
「幼稚園の時に誘拐未遂事件があったのですよ。それで旦那様が心配なされてから、お嬢様は学校に通われていません」
執事はそう説明した。
確かに大金持ちの娘というだけで、脅迫の目標としては分かりやすい。
「……で?オレの仕事は?」
ダンテはふああと欠伸をした。
出掛けないを護衛しようにも、廊下でうろうろするだけ。実に暇だった。
は「お嬢様、とお呼び下さい」
忠犬のような執事がぴしゃりと釘を刺す。
「……『お嬢様』は、ずーっとこんな風に部屋に引きこもってるのか?」
言い直したダンテに満足の笑みを浮かべると、執事はいかにもと重々しく頷く。
「お嬢様はお小さい頃から病気がちで……おいたわしいのです」
「……へえ?」
確かに色白な彼女は、あまり丈夫そうには見えなかった。
が、それでも陽の光を浴びない方が不健康ではないだろうか。
「何をお考えか知りませんが、とにかくダンテ様はお嬢様を万が一のときにお護りすればいいのですよ」
執事がじとりとダンテを横目で流し見る。
「その万が一も起こりそうにねぇけどな」
ふああ。
もう一度、つまらなそうにダンテは欠伸をした。





それから更に、もう一週間が何事もなく過ぎた。
はまだ外出しそうにない。
さすがにダンテはじりじりしてきた。
(だいたい、と話したことだって一度しかない)
さりげなく付きのメイドに探りを入れてはみたが、やはり太陽光を浴びてはいけないなど、そういう特殊な体質なわけでもないらしい。
それならなおのことだ。
ダンテは屋敷の周りを見回って来る、と執事に告げて庭に出た。
(こもりっきりの方が病気になるってもんだよな)
の部屋は二階。
ジュリエットがロミオを待っていそうなバルコニーの奥、窓には豪奢なレースのカーテンが風にそよいでいる。
今の時間はおそらく部屋には彼女ひとり。
(あれじゃまるで籠の中の鳥だ)
ポケットに手を突っ込んでさりげなく辺りを見回して、誰も自分を気にしていないことを確認する。
それから、
「よっと」
身軽に壁を蹴上げて、の部屋のバルコニーに上がった。



はいつものように本を広げていた。
今日これを読み終わらなければ、明日教授に見せるためのレポートが仕上がらない。
溜め息をついて、ひたすら左から右へ文字を追う。
さして興味もない内容。
つらつら文章が目の前を流れては、何も残さずに消えていく。
まるで時間のようだ。
自分を素通りしていくだけの虚しいもの。
さわっ、と風が部屋を吹き抜けた。
もう冬だけれど、今日はぽかぽか陽気がよくて窓を開けていたのだ。
「いい風……」
うっとりと髪をかきあげ──は息を飲んだ。
いつの間に、というかどこから入ったのか、男が目の前にいた。
「っきゃ「悪い」
吸い込んだ風が悲鳴となって吐き出される寸前、ぴたりと男の手が口を塞いだ。
「悪い。怪しい奴じゃないんだ。……これでも一応な。悪い」
男は何度も謝ってくる。
はびくびくしながら背の高い相手を上げた。
さらさらの銀色の髪に、青空の色の瞳、気楽に着こんだ赤いコート。
……確かにどこかで見覚えがある。
もう叫ばないから、と彼の手をぽんぽんと叩いて合図した。
「ああ、悪い」
男がそっと手を離す。
どきどき弾む胸を押さえ、はあはあと荒い呼吸を繰り返してから、は改めて相手を確認した。
しかし、名前を思い出せそうで思い出せない。
小骨が喉で引っ掛かっているようにもぞもぞと気持ち悪い。
「あなたは……ええと……」
名前を忘れられたことも気にする様子もなく、男はにっと笑った。
「ダンテだ」
ああ。そうだった。
ある日突然、父が雇ったボディガードのひと。
は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。人の名前を覚えるのが苦手で……」
「一度しかまともに会ってねぇもんな」
「そうでしたね」
まだ俯いたままのの肩をぽんと叩くと、ダンテはぐるりと部屋を眺めた。
ここもやはり『マリー・アントワネット』状態だ。
オペラの小道具にしか思えない華奢な椅子に、断りもなくどかりと座る。
「あんた、ずっとこの部屋にいるのか?」
突然の侵入者の、それもいきなりの不躾な質問にも、はこくりと頷いた。
「はい。食事とか入浴とか以外は……」
「つまらねぇだろ」
頬杖をついて、ダンテはじぃっと観察するように無遠慮にを見つめた。
さっきからこっち、はあまり表情を変えていない。
ダンテに長いこと見つめられ、はそっと横を向いた。
「……あまり体が強くないので……」
「病気じゃないんだろ」
「それはそうですけど」
かたん。ダンテが椅子から立ち上がった。
窓の外を指差す。
「外出てみないか?」
「え?」
ダンテの長い腕の動作に思わずつられて、は窓を振り返った。
差し込む午後の光。まだまだ太陽の位置は高い。
ふと、先程のことを思い出す。
さっき感じた風はとても心地よかった。
直接あの中に身を晒したら、どれだけ爽やかだろうか。
けれど。
「……私、午後からは授業が……」
午後は、数学の講師が来る。
ピアノのおさらいもしておかなければいけないし、それに、それに……
「いい天気だぜ」
張りのあるダンテの声に、カーテンまでもがを誘い出すようにおおきく膨らんで揺れる。
「行こう」
まだが心を決めないうちに、ダンテは強引に手を引いた。
は慌てて身を捩る。
「あの、ちょっと待ってください」
「何だ?今、出かけたいって顔してたぜ」
「違うんです。だってこっち、窓ですよ」
彼女の言葉の通り、ダンテは躊躇わず窓に向かっていた。
(そういえば、ダンテさんはどこから部屋に入って来たの?)
扉が開く音を聞いた覚えはないのだけれど。
そう問うと、ダンテはくしゃりと頭をかいた。
「あー。楽な方法があるんだよ」
「楽な方法ですか?」
「これからまた使うから」
「?」
疑問符を浮かべたを、とにかくバルコニーに押し出す。
「ちょっと目つぶってろ」
「え?」
「いいから。オレを信じてろって」
それでも目を閉じないに、ダンテは掌で目隠しした。
もう片方の手でぐいと抱き寄せる。
「よっ」
ダンテの掛け声、そしてふわりと体が浮く感覚の後、
「っ!?」
すぐに地面に足が着いた。芝生のやわらかな感触。
ここは一階……というか、屋敷の外だ。
「え?」
思わずはバルコニーを仰いだ。
あそこからはかなりの高さがある。
ふわり、なんて簡単に降りられる高さではないのだが……。
「だ、ダンテさん……あなた、今……」
「な。楽だったろ?」
誤魔化すように、ダンテはの頭をひと撫でした。



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