ダンテと相乗りを始めてから二回目の月が、天にかかっている。
「ん……」
穏やかなモーター音に包まれているうち、はうっかり眠ってしまっていたらしい。
郊外で周囲に悪趣味なネオンがないせいで、一粒ひとつぶを数えたくなる星明かりの下、車は今は路肩に停められている。
隣のシートは空っぽだ。
「ダンテ……?」
身動きすると、ぱさりと衣擦れの音がした。見れば、コートが首もとまでしっかり掛けられている。着倒されていい感じに味の出たこれは、自分のものではない。
「まだ寝てな」
こん、と窓がノックされ、上からコートの持ち主の声がした。
夜気の中では少々寒そうに映る姿で、ダンテは腕を伸ばしたり首を傾けたりしている。車の座席は煙草臭いが、彼に喫煙習慣はないということをはもう知っていた。
(どれくらい運転任せてた?)
ついつい、ダンテに甘えすぎていたようだ。
慌てて車を降りる。
ダンテはくしゃりと笑った。
「何だ……また可愛い寝息が聞けると思ったのに」
「それは私の番」
借りていたコートをダンテの肩に掛け、はさっきとは反対の席へ乗り込んだ。
「ダンテは眠って。出来るだけ距離を稼ぐから」
「交替は嬉しいが、そこまで急ぐ必要はないだろ?」
「どうして?まだ先は長いのよ」
「……まあ、そうだな」
他にも何か言いたそうだったが、口を噤んでダンテも席についた。目前にハンドルがないと気が抜けたのか、珍しく大きな欠伸をしている。
「じゃ、遠慮なく寝かせてもらうか」
「どうぞ。暖房つけましょうか?」
「いや。コートがあるから」
「寒くなったら言って」
「ああ。そっちこそ疲れたらすぐ起こせよ」
「うん」
ゆっくりと、は車を動かした。ダンテよりは慎重な運転。
先程を眠らせたように、規則的な振動がダンテを心地好くあやす。
(確かにこれは眠くなるな)
ダンテは素直に仮眠を取ることにした。
もぞもぞと楽な体勢を探して、毛布代わりのコートを首まで引っ張り上げる。
……と。しらない、やわらかい香りがふわりと鼻先に触れた。
「……の匂いが……」
呟きは大層ちいさかったはずなのだが──一瞬だけ、外の景色が早く流れた。





朝を迎え再び運転手がダンテにバトンタッチして数時間。景色はいつしか赤茶一色から、もう少し賑やかなものに移り変わっていた。
目に入るレストランやガソリンスタンドの数は意識しなくても増えている。
街路に植えられたココヤシの葉が風を受けて陽気に揺れている。
日暮れが近づき、二人は次のレストランで食事にしようと話していた。
「今日はちゃんとしたものを食べたいけど」
「“ちゃんとした”?昨日だってマシだったろ」
「あのピザが?」
「お嬢様め。オレの普段の飯を見たら卒倒するぜ」
「そんなことないけど、でもピザは飽きたんだもの」
「はいはい、お嬢様。今日の店選びは任せるよ」
「もう」
がたん。の気持ちを汲み取ったかのように、車が跳ねた。
車高の低いセダンは石や舗装の悪い部分を踏む度に大袈裟に振動する。
「乗り心地悪ぃな」
この道中何度目か、ダンテが悪態をついた。
「そういえばこれ、あなたの車じゃないの?」
「借り物だ。オレならもっとマシなの選んでるよ」
ダンテに反発するように、がこんと車体が跳ねた。
「またか!」
「ダンテが機嫌損ねちゃったんじゃない?」
「それは失礼」
軽口を叩く二人を許す気配はないようで、またもや派手にタイヤが弾む。
しかもボンネットの方で何やらぷすぷすと不吉な音がする。
「おーい……どうしたー?」
ダンテがハンドルをさらりと撫でてみても変わらない。
そうこうしているうち、がくんと一気に車がつんのめった。そのまま止まる。
「あ」
「嘘だろ」
「ガス欠?」
「いや、まだまだある」
舌打ちし、ダンテは外に出た。も続く。
「あちっ!」
ダンテが熱いボンネットを開けると、たちまち黒い煙が薄く立ち上った。
「それってどう見ても良くない兆候よね」
「見なかったことにするか?」
「そうね、このまま車を捨てて逃げましょ」
今度はが軽口を叩いた。屈んで動力部を覗き込む。さらりと髪が中に落ちかかったのを、危うくダンテが阻止した。おてんばな髪を後ろに梳いてやる。
「気をつけろよ」
「ありが、」
の礼の一言は、耳もとに触れたダンテの指のせいで、ぎこちなく掻き消えた。
「悪い」
慌ててダンテが手を引っ込めた。オイルが必要なロボットのようにぎこちない動きで、またエンジンを点検し始める。
「あー……こいつはオレの手には負えねえな」
ダンテと同じくぎくしゃくとも横に並ぶ。
「それじゃ、どうしよう?」
はあと溜め息をつき、ダンテはボンネットを戻した。
「プロに修理頼もう。その間、オレ達は動けねえけど」



うんともすんとも言わなくなった車を、ダンテはひたすら押して歩いた。念の為、が運転席で舵を取る。
「ダンテー。大丈夫ー?」
さっきから何度目か、後ろを振り返る。
すぐにひらひらとグローブの右手が翻った。
「心配すんなって。平気だ」
答える返事は息切れもなく、痩せ我慢風でもない。
「タフね……」
驚愕をもって、はダンテをミラー越しに観察した。
ダンテとはもう何十時間か至近距離で過ごしていることになる。けれどこうして一方的に彼を見る機会はあまりない。
(テレビ越しくらいで見たいルックス)
直視するには何だか照れる。
力仕事で暑くなったと上着を脱いで剥き出しになった肩には綺麗に筋肉がついていて、やけに目を引く。
女手では到底動かせないだろう車を押す力。
トラブルに直面しても、軽口ひとつで飄々と解決へ行動を起こす。
かと思えば、
「見つめられすぎて、穴が開きそうだ」
また冗談。そして笑う。
「あなたが過労で倒れないか見てるのよ!」
慌ててこちらも応戦する。そうやって誤魔化すしかなかった。
ただ、誤魔化しはしても目を離すことは出来ず──はダンテを意識せずにはいられなくなっていた。





夕方になってようやく彼らは町の修理工場を見つけて、車を押し込んだ。
「レッカーにも頼らんで、よくまあここまで来たもんだ」
今にも店を閉めようとしていた修理工は、呆れながらも作業を引き受けてくれた。
「どれくらいかかるかしら?」
「デートでお急ぎのとこ悪いが」
「ちょっと!私たち別にそんなんじゃ」
「そう、だから出来るだけ急いで欲しい」
遮ろうとしたを、更にダンテが割り込む。
修理工は再度エンジンを覗き込んだ。
「パーツや何かはうちにあるヤツでどうにか足りそうだ。でも、今日中にホイ完了とはいかないね」
折っていた腰を戻し、ガレージの外を指差す。
「この先に宿があるから、今夜はそこで休んで、明日取りに来てくれ。午後までにゃ直しとくよ」



教えられた通りに歩くと、広い駐車スペースをコの字型に囲んだ平屋のモーテルに辿り着いた。寂れた看板も普通すぎて、他に特に目を引く特徴もない無個性な宿。
何だかんだと疲れていたため、はすぐに部屋に入った。
一室は長期旅行者の滞在のことも考えて、家具一式が設えられている。
テーブルセットにベッド二台、バスルームにチェストにブラウン管テレビ。三ツ星ホテルとは比べるべくもないが、まずまずの品揃えだ。
(何より久しぶりのベッドだし)
車の移動も座っているだけで疲れることがよく分かった。
古びた建物に引けを取らないほど年季の入ったソファに、鞄を置いて一息つく。
「ダンテは……」
はたいたら埃が立ちそうな分厚いカーテンを開いて、外を見る。
そろそろ日も落ちるかという夕暮れのオレンジ色の中にはダンテの姿も、もちろんご機嫌斜めの車も見えない。
ダンテは作業を手伝うと言っていた。当分帰って来なさそうだ。
部屋はここともう一部屋を押さえたものの、周りの様子からして満室になるということはないだろう。フロントもベルを鳴らしてやっと出てくるくらいだし、客の利用はあまりないようだ。
「ふあぁ」
再びカーテンを閉ざし、欠伸をしながらテレビをつける。
が、流れ出した天気予報は面白みに欠け、はだんだん眠くなってきてしまった。
「……よし」
勢いをつけて立ち上がる。
埃まみれなのはカーテンだけでなく、砂地を走って来た自分も同じ。
バスルームが横にあるとなったら、居ても立ってもいられなくなった。
用事を足してくれているダンテには悪いが……
「……すぐ上がるから!」
言い訳を呟いて、はバスルームに飛び込んだ。



壊れてから時を置かずに修理を頼めたのはラッキーだった。
文句は多いが気はいい修理屋に車のことをよく頼み込んでから、ダンテはモーテルに向かった。
あまり流行っているとは言えない宿のようで、薄暗いフロントには誰もいない。薄い板のテーブルの向こう、真鍮のルームキーがじゃらじゃらと掛かっているのが見える。
「無用心だな」
デスクの上のベルをりーんと鳴らす。ややあって、老いた係が姿を見せた。
「今お着きで?」
「連れが先に来てるはずなんだ」
の名を出す。係は彼女の部屋の番号を告げた。
「ん?もう一部屋取ってあるよな?」
「はあ。ですが、鍵はお連れの方が持って行かれましたよ」
「……そうか」
すこし意外だった。
てっきり、ガレージで別れてから自分とは明日の朝まで顔を合わせないものかと思っていた。
嬉しい誤算。
それにしても、部屋に鍵を取りに来るようにするとは──これはよもや期待できるのだろうかと、善からぬ思惑が頭を擡げた。
(けど、二部屋もう取ってあるしな)
だいたい行動を供にした数日の言動を考えても、がそんな軽はずみなことをするはずがない。
(残念だけどな)
そういう時ばかり自分のいいように深読みしてしまう癖を鼻で笑って、ダンテはフロントを後にする。
の部屋はすぐに見つかった。
コンコンとノックするが、応えがない。もう一度強めに叩く。
?寝てんのか?」
やはり静かだ。
そっとノブを回す。彼にしてみたらそっとのつもりだったのだが──ぎっ、と不吉な音がして鍵が外れた。
「う。……これ、オレのせいになんのか?」
車に続いて本日二回目、物を壊してしまったかもしれない。やわなノブに溜め息をつき、ダンテはそのままドアを開けた。



は鼻歌混じりにシャワーを楽しんでいた。
熱い湯で埃っぽい身体から砂を含んだ髪、隅々まで丁寧に洗い流すと、本当に生き返った心持ちになる。
「お湯が使い放題って幸せ!」
水不足の地域ではこうはいかない。古い建物のこの部屋も水回りが心配だったのだが、幸いにもそれは杞憂で済んだ。蛇口を捻ればちゃんと湯水が勢いよく出る。
贅沢だがもう一度身体を洗おうかとソープに手を伸ばしたところで、ふと嫌なことに気が付いた。
「着替え忘れた……」
バッグから出したまではよかったが、下着はベッドの上に置いたまま。
「カーテン閉めといて良かった」
はタオルを身体に巻いて、バスルームから出た。
角を曲がったところで、
。そっちにいたのか」
長身の影と出くわした。
「っ……!!」
咄嗟のことに、悲鳴も出ない。
「ごめん!」
ダンテはコートが膨らむくらいの勢いで回れ右をした。
「なっ、なんで、」
呂律が回らない。
ダンテは警察の前に投降する犯人のように両手を挙げた。
「ノックはしたんだ、一応な」
「……聞こえなかった……」
「見てない。何も見てない」
「……。」
「だいたい、タオル巻いてるだろ?」
「見てるじゃない!」
酸素が足りなくなるくらい脳天から叫んだら、すこしは落ち着いた。
「……怒鳴ってごめんなさい」
「いや。驚かせて悪かった」
背を向けたまま、ダンテはぽりぽりと頭をかく。
「すぐ出て行くから、ルームキーだけくれ」
「あ。そうよね。そうだった」
フロントから渡されていた鍵をひとつ、後ろに回されたダンテの右手に握らせる。
「あのフロントのおじさん忘れっぽそうだったから、先に貰っておいたのよ」
「なるほどね。そのおかげでこうしていいもん見れたわけだ」
「……ダンテ!」
叱られてもちっとも懲りない男だ。
くっくと笑って揺れる肩に、結局も笑い出した。
「車は昼頃に取りに行こう」
「あ、うん。明日の朝はどうしよう?」
「オレはここを出たダイナーにいるから」
「じゃあ、そこで落ち合いましょう」
簡単に待ち合わせを決めて、ダンテは部屋を出た。
──ドアを閉めた中と外、ほぼ同時に気まずい溜め息を吐いたことを、二人とも知る由はない。



銘々が部屋で落ち着かない夜をやり過ごし……それでもダイナーで挨拶を交わしたときには、もう元のように戻っていた。
より後に来たダンテは、ベーコンエッグよりもコーヒーよりも先に、ストロベリーサンデーを注文した。
「朝からそんなパフェ食べてるの?」
ぼうっとしていた表情が真っ赤ないちごを目にした途端、元気にしゃきっと見違える。
「ここんとこ甘いもん食ってなかったしな」
「そろそろガス欠だったのね」
もくもくスプーンを運ぶ彼の目を盗んで、一粒いちごを頂戴する。
「一個もらうね」
気付いてダンテは「おい」と咎めかけ、結局やめた。
「ちょっと酸っぱくない?」
そう口を窄めたが、どうにも可愛らしかったのだ。
と──彼女のことを可愛いと意識したら突然、昨夜のバスタオル姿が脳裏に蘇った。
「……っごほっ!」
「やだ、大丈夫?」
何故か派手に咽せているダンテに追い打ちをかけるように、はまぶしい笑顔を見せた。