「ん~……」
目覚まし時計よりも早く起きたものの、はベッドの上でごしごしと目を擦る。
友人夫妻の家で、外国で、時差もあってと全ての要素が重なり合って……何となく寝足りない。外国製のもっふもふのマットレスで贅沢な睡眠を味わったにも関わらず、フライト疲れが身体の底に残っている。
けれどもっと深刻なのは、下半身の筋肉痛。
「絶対バイクのせいだ……」
不自然な体勢で内腿が強張ったままの数十分。
「最低」
と口には出してみる。が、実際にダンテとの時間は最低──ではなかった。
彼のさらさらと風によく靡く銀の髪。
何を説明してくれているのかは正直あまり分からなかったけれど、耳にすうっと溶ける声。
の視線を導くために右に左に伸ばされた人差し指、その度に同じ方向を向く高い鼻。たのしそうに言葉を紡ぐ唇。
それから、初対面なのに驚く程ちかくにあった力強い背中。
(車じゃなくてよかった)
お陰で、ありとあらゆる返事がしどろもどろになってしまったことも、彼のちょっとした仕草にいちいち上気してしまった頬も、見られずに済んだから。
(ああもう、何であんなにかっこいいかな)
いろいろ気遣ってくれて性格も良さそうだし、ごく普通に会話していればいいだけのはずなのに、昨日はその『ごく普通』の状態を保つことすら出来なかった。
今日だって出来るかどうか、ひどく怪しい。
質問の返事をじっと待つダンテの青い瞳から逃げたくて、早く答えなくちゃと適当に返事していたけれど、その度に彼の機嫌が悪くなっていった気がする。
「ああもう……」
こんこん。
悩むの心情とは正反対、とても軽やかな音でドアがノックされた。
。起きてる?」
だ。 は慌ててベッドから下りた。
目覚まし時計が指す時間は、さっき起きてから三十分も経過している。
「起きてるよ。おはよう」
「おはよう。支度できたら下りて来てね。朝ご飯だよ」
「ありがとう」
は何となしに、部屋の鏡を覗いた。心なしか顔が赤い。
(この顔を何とか普通の顔色に戻してからじゃないと)
「あの、……
「ダンテさんももう下で待ってるよー」
それだけ告げると、の足音がぱたぱたと遠ざかっていった。
たのしそうなリズム。
「ああもう……!」
再び覗いた鏡に映る自分はどう足掻いても隠しようがないくらい、真っ赤な顔をしていた。





とりあえず簡単に身支度をして階下に降りると、リビングにはそっくりな姿が二つあった。
(見分け方は……)
ぴしりと背筋を正し新聞を広げている方がバージルで、ソファに寝そべってリラックスしている方がダンテだろう。
「お、おはようございます」
一大決心の元に声を掛けると、二人が同時に振り返った。
「お早う」
「おはよう」
(やっぱり似てる)
口々に挨拶を返されながら、よくもは見分けがつくものだと感心した。もっとも普段はダンテはこの家にはいないらしいが。
「よく寝れたか?」
ダンテが欠伸しながら起き上がる。
はこっくり頷いた。
「はい」
「嘘だね」
ダンテがびしりとの鼻に向けて指を突き出した。
「まだ疲れてる顔だ。簡単な返事の方選ぶなよ」
答えに時間がかかっても、オレは気にしねぇから。多分な。
さささっと告げた言葉はとても早口で……おそらくには通じていない。
横でさりげなく成り行きを見ていたバージルにも、それが分かった。けれど、「ゆっくり言え」などと口出しはしなかった。
決まり文句ではない本音を言うときに早口になってしまうのは、身に覚えがありすぎる。
そしてそれが言葉として通じていなくとも、想いとしてはちゃんと相手に届いていることも。
「じゃあ……まだちょっと疲れてるから……今日はのんびり、観光に連れていってもらって、いいですか?」
がぽつぽつと単語を繋げる。
「OK」
ダンテはおおきく笑って頷いた。
が会話から逃げようとしないで、ゆっくりでも本音を話してくれたことが何よりも何よりも、うれしかった。





朝食を摂ると、ダンテとのふたりは街へ観光に出掛けた。
移動手段は徒歩。
バイクの方が広範囲動けると主張するダンテ一人に対して、「近場でいいから」とを筆頭に他の三人が反対したのだった。
家を出発してみれば、頭の上には青空がさわやかに広がる心地好い天気。
たまには歩きも悪くないか、とダンテは思った。
バージルが持たせてくれたガイドブックを見ながら、ゆったりと近所を散策する。
は観光客らしく、周りをきょろきょろ物珍しそうに見渡している。
一人でいるときもこうなのか、それとも隣にダンテがいるからか。
(どっちにしたって)
「気をつけな」
足下に注意散漫なが歩道の段差に足を乗せかける手前、ダンテはポケットに突っ込んでいた手を素早く出して彼女の腕を引く。
「わっ」
完全に心ここに在らずだったは、思い切りバランスを崩した。
「歩きで正解だったな」
をしっかり立たせ、ダンテは苦笑してみせる。
「観光、楽しいか?」
「はい!」
はすぐさまきっぱりと頷いた。
久しぶりに再会した親友と遊べないのは残念だが、それを補うくらいにダンテといるのが楽しくなっていた。
変な緊張もなくなったのか、不思議と気疲れもない。
昨日の──いや、今朝起きた時点では考えられないことだった。
ダンテは言葉を選び話し掛けてくれるし、それでもが理解していないようなら身振り手振りを交えてくれる。かなり忍耐を強いていると、でも分かる。
けれど、申し訳ないと形ばかり遠慮するよりも、全身を耳に目にして彼の意思を汲み取ろうとする方が、ダンテにとっては嬉しいようだった。





街の中心のちょっとしたショッピングモールの中、目に入った看板にダンテはふっと頬を緩めた。
。スポーツバーに入ったことは?」
訊ねられ、はいいえと答えて建物を眺めた。
平屋の煉瓦造り、周りをぐるりと「Welcome MOONS FANS!」やら「Join us for ALL GAMES!」などのポスターで飾られている。
ネオンサインが目立つ窓の中は相当、派手そうだ。
「テレビでスポーツ観戦しながらお酒を飲むところ……?」
「まあそんな感じか。行こうぜ」
「え。でも……」
「昼間から酒なんて、あいつらには秘密な」
悪戯っぽく目配せして、の肩に手を乗せる。
「……少しだけならバレないかな?」
僅かに心を揺らした彼女に、ダンテはにやりと最後の一押し。
「絶対、バレない」
「じゃあ……行く」
「そう来なくちゃな!」
早く行こうぜとダンテはの手を引いた。



の予想通り、中はありとあらゆる騒音に充ちていた。
音楽、テレビの音。贔屓のチームかアルコールかどちらが目当てか分からないが、狭いバーに集った人々の歓声。
適当な席を見つけてダンテはするりと腰掛けた。
「座れよ」
戸惑うに、自分の隣の椅子を引く。
はそわそわ落ち着かない様子で腰を下ろした。
「緊張してるな」
ダンテはからかい混じりに笑う。がちょっとだけむくれて顔を横に向けた。
「それは誰だって、初めての場所に来たら緊張するでしょう?」
「オレがついてるんだから堂々としてなって。おーい」
ぱちんと右目をウインクし、ダンテは店員に勢いよく手を挙げた。
「ビール2本持って来てくれ」
カウンターの中の若い店員が、ひょいと背伸びしてこちらを窺う。
「2本だね」
「おっと、忘れるとこだった。もちろんオレ達はムーンズファンだから」
「あいよ」
きょとんとしたに、ダンテは地元チームのファンをアピールするとサービスが違うことを説明した。
「わざとライバルチームを挙げて連中を煽るのもオツだぜ。結局最後は仲良くなっちまったりな」
「へえ。楽しそうですね」
「今は昼間だから静かだけど、夜はそりゃもう賑やかなんだ」
静かだという今も既に耳がおかしくなりそうなのに、これよりも煩いのか。は目を丸くした。
ダンテは更に、バーのあちこちに鎮座しているテレビを順に指差した。
「この時期、あっちのテレビで野球。こっちはバスケ。秋はラグビー、冬はホッケー。とにかく年がら年中スポーツ三昧なんだぜー」
「そういうことだね」
店員が会話に割って入った。
右手の指で挟むように持ったビール、左手のホットドッグとピクルス、フライポテトの皿をテーブルに乗せる。
「昨日はムーンズもビルズも勝ったからね、サービスも豪華だよ」
「おお、サンキュー」
どどんと並べられたサービスに、ダンテは舌舐めずりしそうな勢いだ。
「これ一つでお昼分だね……」
呆気に取られて呟いたに、店員がじっと視線を落とした。
なかなか剥がれない彼の興味に、ダンテは僅かに眉を寄せる。
「どうかしたか?」
「いや……」
テーブルを離れかけ、しかしすぐに店員は踵を返した。
「うん、やっぱり一応確認させてもらおうかな」
「何を?金か?」
「いやいや、そうじゃないよ」
むすっと唇を尖らせたダンテには首を振り、店員はに掌を差し出した。
「身分証明書、持ってるかい?未成年にはアルコール出せないからね」
「あぁ」
そういうことか、とダンテは肩の力を抜いた。
アジアの人間は実年齢よりも若く見えてしまう。も疑われたのだろう。
肝心の本人は、ぺらぺら早口な店員の言葉についていけていない。きょとんとする彼女に、今度はダンテが掌を差し出した。
「年齢確認したいんだってさ。パスポートか何か、あるか?」
「あ、はい」
はごそごそと鞄を探った。
海外旅行の基本、いつでも提示できるように大事に持ち歩いている。……つもりだった。
「あ、あれ?」
「どうした?」
「ちょっと待って下さい……」
ない。
確かに、傷害保険の証明書やトラベラーズチェックの控えなど他にも大切な書類と一緒にケースにまとめて入れておいたのに。
(う、うそ)
さっきまでの暢気な気分が一気に消し飛んだ。
何度も何度も隅から隅まで調べるが、ちいさいバッグだ。見落としようがない。
「……?」
ダンテが心配そうに椅子を寄せた。
「ダンテさん、どうしよう」
「まさか、ない、とか……?」
「はい……」
「マジかよ」
顔色がまっしろになったに代わり、ダンテがバッグを検める。
中身をテーブルにあけて丹念に調べても──見つからない。
「あー。ないなら、悪いけどこれは没収ね」
店員がばつの悪そうな顔をしてビールを持ち上げた。
それが2本ともなことに、ダンテは思わず席を立ちかけた。
「え、オレの分も!?」
「だってあんた、彼女を差し置いて飲むつもりかい?」
「……。」
確かに、意気消沈したの隣でそんなことは出来ない。
ぐっと堪えると、店員は眉をハの字に下げた。
「ま、ホットドッグは食べてくれ」
悪いね、と店員はひらひら手を振った。
「ダンテさん……」
は遠ざかっていくビールを見ながら、同じようにビールを見つめているダンテに声を掛けた。
「ん?」
「ごめんなさい」
「え?」
「ビール……」
せっかく二人で楽しめそうな雰囲気だったのに。ぶち壊してしまった。
「そんなこと、もういいって」
がっくり項垂れたに努めて明るくぶんと顔を振ると、ダンテはテーブルの上に散らばったの持ち物に目を落とした。
「それより、パスポートないのは困っちまうよな」
「そうですね……」
本当にどうしたものか。
「こういうのって、どうすりゃいいんだ?」
ダンテはパスポートなんて持っていないから、どう対処したらいいものかさっぱり見当がつかない。
「えっと、失くしたら大使館に届け出るんだったと……思います」
「大使館か。どこにあるんだろうな」
「調べないと、ちょっと……」
「だよな」
ふたり、重く息をつく。
特にダンテは情けなさに髪をぐしゃりと掻き乱した。
不安になっているに、頼りになるところを見せたいのに何ひとついい案が浮かばない。
こういうときに頼りになりそうな男の姿がちらりと脳裏を過るのが、更にダンテを苛々させた。
(オレだって充分……)
片付けられないままになっている書類と、泣き出しそうなを交互に見つめる。
(……ん?)
いちばん上に重なったトラベラーズチェックの、使用記録が目を引いた。まだ一枚も使われていない。
「なあ、
「はい」
「おまえ、こっちに来てからパスポートケース開けたか?」
「えっと……」
はじっくり考えてみた。
滞在はまだ二日で、昨日空港でパスポートを使った後はちゃんとケースに仕舞った記憶はある。空港から家はダンテのバイクで直行だ。そして今日は家からここまで彼とずっと歩いて、その間の細々とした買い物はダンテに奢ってもらったり、現金で払ったり──とすると。
「開けてないです」
「じゃあ」
「……家だ!」
そうだ、思い出した。
パスポートの写真映りがどうのとと話したときに、家で取り出した。そして「大事な物だから失くさないように」サイドテーブルの引き出しに入れた。それからは用事もなかったし、触った記憶もない。だからそのまま、部屋にある。
「家にあります!」
ぱっと明るくなったにダンテもほっと胸を撫で下ろし、にっこり目を細めた。
「よかったな」
「はい!……ありがとう、ダンテさん」
はぺこりと頭を下げる。顔を上げると、まっすぐにダンテを見つめた。
「一人だったらパニックになって、きっとどうしようもなくなってたと思います」
「いや……」
急に真正面から真剣に感謝され、ダンテはすこしだけ居心地が悪くなった。
昨日からは簡単に「Thank you」と礼を言うが、今回の言葉は何か重さが違う。
向かい合ったまま言われたからか。
「そもそも、さ」
自分でも理由が分からない気まずさに、ダンテはわざと大袈裟な身振りで頬杖をついてみせる。落とした視線の先のピクルスをがぶりと噛んだ。
「オレがここに入ろうなんて言わなきゃ、焦る必要なかったんだもんな」
「あ、そうか」
がくすりと微笑んだ。
「でもどっちみち、そのうちパスポートを携帯してないことに気付いたと思うから」
「そうか」
「うん」
「じゃあやっぱオレのお陰だな」
「うん。ダンテのお陰。あ……ごめんなさい。ダンテさ」
「そのままでいいって」
『ダンテサン』と呼び直そうとしたを、ダンテの人差し指が妨害した。
「その方がいい」





ダンテとのふたりは、アルコール抜きで健康的に観光を楽しんだ。
まだ試合前で人が誰もいないバスケットボールチームのアリーナ、そのホールをぶらぶら歩いているうちに警備員に見つかって、時間を勘違いして来てしまったファンを装って試合スケジュールを教えてもらったり、ファンでもないのにグッズコーナーを冷やかしたり。
初夏の日差しの強さに気づいたダンテがムーンズのロゴとバッチの付いたキャップを買ってくれて、それを被って歩く。
お腹に収めたホットドッグがこなれて空腹を覚えるころには、ふたりの間に沈黙の塊は存在しなくなっていた。
もダンテも、お互いのことを知りたくてあれこれと言葉を重ねる。それが外国語を習得するのに一番の近道であることには気づかないまま。



家に戻る前に、どうにも小腹が空いた二人はスープスタンドに立ち寄ることにした。
目を離すとサンドイッチやサラダまで注文しそうになっているダンテを「夕食が近いんだから、バレたらバージルさんにもにも怒られるよ」などなどおよそ大人らしからぬ理由で全力で押し留め、結局だけがスープを買った。
「そういえばね。もうずーっと気になってることがあるんだけど」
熱々のクラムチャウダーをスプーンでかき混ぜ、が切り出す。
「ん?何」
さりげなくダンテは彼女のスープにクラッカーを浸した。
それを咎めて呆れるというよりは楽しそうに、はカップをふたりの中間地点に押しやる。
「前、わたしとでスカイプしてた時、バージルさんにいきなり回線切られたことがあってね」
「あいつが?へえ」
よっぽどを独り占めしたかったんだろうなとあまり深く考えずに返事したダンテに、はちょっとだけ間を置いた。
「……本当に、そう思う?」
「どういう意味だ?」
目線でも続きを促され、は探るように下からダンテを覗き込む。
「あれ……、ひょっとしなくてもダンテじゃなかったの?」
「はぁ?何でオレが?……あ」
即座に否定しようとして、ダンテはごくんとスープを飲み込んだ。
ひとつ、思い当たる節がある。
に初めて会ったとき(というか、家に忍び込んだとき)、そういえば彼女はスカイプしていた気がする。そしてパソコンのモニタに映っていた相手は、若い黒髪の──
「……だったのか」
「やっぱりね……」
ぷっ、とは吹き出した。
「バージルさんじゃなかったぽいなって昨日思ったんだ」
くすくす笑う。
ダンテはちょっと気まずそうに肩を竦めた。
「じゃあオレ達は完全に初対面てわけじゃなかった、ってことか」
何とかプラス方向へ話題を転じようと試みる。
「そうだね」
意外にもはこくりと真面目な顔で頷いた。
「もうずっとずっと前に、会ってたんだもんね」
ちゃんと挨拶したわけじゃないし、お世辞にも第一印象が良かったとは言えないけれど。
そう言ってまた堪え切れずに笑顔を見せる。
ダンテはしばし言葉を忘れ──に見とれていたことに気付いたときには、食べるのを忘れていたクラッカーがすっかりふやけてスープにとろけていた。