繋がらない血
人知を超えた兄たちの力
──そんなもの、ほんとうはどうでもよかった
大好きだと、愛していると
知っているのに気付かない振りをした
永遠に分かり合えないものだと 自分は独りだと
だから家を飛び出した──




homecoming




ここに来るのは、実は初めてではなかった。
「はあ……」
溜め息を零して何度見上げてみても、味も素っ気も無いコンクリートの建物。
「まだ名前も付けてないんだ……」
ここは事務所のはずだが、看板など分かりやすい表示は何も出ていない。
錆びかけの窓枠や、斑模様に汚れた壁まで行ったり来たりを繰り返し、それに飽きた所でようやくは扉に目を移した。
中には、世界でたった二人の自分の家族──兄たちがいるはず。
二年前に家を鉄砲玉のように飛び出して以来、彼らには会っていない。
二人が便利屋を始めたことも、仕事が順調に軌道に乗って独立した事務所を開いたことも、風の便りで聞いた。
ずいぶん前に訪ねて来たことはあったのだが……結局、中に入る勇気が出ずに終わっていた。
だから、今回こそは。
(どっちがいるかな)
上の兄、バージルが中にいた方がいいかもしれない。
下の兄のダンテだったら家出当時のことを火がついたように怒って、事がややこしくなってしまいそうだ。
騒いでもらった方が嬉しいときもあるが、今回は平穏そろりと済ませたい。
ここへはただ、近くに戻って来たんだと挨拶に寄っただけなのだから。
(ああ、でも……)
バージルは怒らせると相当に怖い。
無言で圧力をかけられるように睨まれるよりは、ダンテに大声で怒鳴られる方が気分的には楽かもしれない。
──要は、どっちがいたとしても怒られてしまうということ。
いつまでも悩んでいたって仕方ない。
「……よし!」
迷いに迷って何度も上げ下げした手で、やっとノブを包む。
それをがちゃりと開く寸前、
バターン!!!
バネ仕掛けかと思うくらいに豪快に、向こうから扉がにぶち当たって来た。
「っ……」
火がついたような激痛に、くらりと後ろに倒れる直前。
「悪ぃ!」
力強い腕がの背中を支えた。
扉を開け放った張本人、その空色の瞳がまるく彼女を覗き込む。
「…………!?」



最後に「おにいちゃん」と呼べたのは、いつだっただろう
いつしか微妙な気持ちが入り乱れて、素直に呼べなくなっていた
言葉すらも片言に
いろんな誤解を、そのままに放っておいてしまった
あのときのあの間違い
まだ、間に合うのだろうか



……疼痛にゆるゆると瞼を開ければ、見知らぬ天井が視界にぼやけた。
!起きたか!」
鼓膜にぴりりと刺さるような大きな声に、の意識が途端にぱちんと覚醒する。
忘れる訳がない、懐かしい声音。
「ダンテ兄……」
そっとベッドサイドを向く。
別れた頃からすこしだけ大人になっただけで、後はあまり変わっていない様子のダンテが心配そうに覗き込んでいた。
相変わらず羨ましいほど美事な銀の髪が、の頬にかかりそうな程の近さに踊る。
「おまえ、いつこっちに帰って来てたんだよ……」
ダンテの手にぐしゃりと前髪をかきまぜられると、さっきドアにぶつけた額がじんわりと痛みを訴えた。
けれどそれよりも、触れられて注ぎ込まれる兄の体温の心地よさが、心にきりきりと痛みを起こす。
言いたいことはたくさんあったが、喉がつかえて何も言葉が出て来ない。
「ったく……」
無言のままのに何度も何度も顔を横に振り、ダンテはやっと僅かに微笑んだ。
(ダンテ兄……)
あまりにも変わっていないその姿は、過去の記憶を揺り起こす。
が高熱を出して寝込んだ日、あのときも不快感でうなされて起きる度、ダンテが枕元にいてくれた。
額に乗せてくれる冷たい濡れタオルはときにまだびしょびしょで、作ってくれたスープは塩気が強すぎて喉が渇いて……ダンテは完璧な看病をしてくれたとはお世辞にも言えなかったが、薬を買って来てくれたり病院へ連れて行ってくれたバージルよりも、の記憶にやさしく焼き付いている。
今のダンテはあのときと同じ表情をしていた。
心配で心配で、どうしようもない。そんな顔。
「……ごめんね……」
兄を見ていたら思わず、そんな言葉が洩れた。
ダンテは何か言い掛け、一度口を閉ざす。
目を揺らし、最初に考えていたこととはどうやら違うことを言う。
「いいさ。……もう、ずっとここにいるんだろ?」
じっと見守り、それでいて否定を許さないような深い瞳。
「それは……」
たじろぎながらもが答えようとしたとき、

「ダンテ、ここに居るのか?」

ちゃっ、と音を立てて扉が開いた。
「あ」
そちらを振り向き、声で予想はしていたものの、やはり驚きは隠せない。
現れたのはこちらも二年前と変わらない姿の──もう一人の兄。
「……バージル兄」
呼ばれた方は全く心の準備が出来ていなかったらしく、彼にしては珍しく分かりやすく表情を変えた。
何故、と語る青の目。だがそれもほんの一瞬のこと、すぐに険しく顰められてしまう。
「俺はお前の兄ではない」
きんと鋭い声音が吐き捨てられた。
予想外すぎる言葉に、はびくりと肩を揺らす。
「あんた……何言ってんだよ」
ダンテが面倒臭そうに眉を寄せる。
制止しようと身を乗り出すダンテには目もくれず、バージルは硬い態度を崩さない。
「家を飛び出しておいて、今更舞い戻る理由は何だ?」
「おい!」
「随分身勝手だな?これで金が欲しいなど下らない用事なら、聞く耳はない」
「バージル!!」
「も、いいよ」
ついに立ち上がったダンテの腕を、責められている本人のが引いて止めた。
「もういい……」

ダンテの腕に掴まるようにして起き上がる。
さっき強かにぶつけた額はまだずきりと痛むが、左手をついて何とか支える。
「無理すんな」
ダンテが肩に手を置いてきた。
それもそっと外して、ベッドをぎこちなく下りる。
「ありがとダンテ兄、会えて嬉しかった」
「おい、ちょっと待て。まだ何も」
戸惑うダンテは敢えて見ないように、は震える瞼を何とか上げて、戸口に立ったままのバージルに微笑む。
「バージル兄も……本当はもっと話したかったけど」
「俺は話すことなど何もない」
バージルの方はには一切視線を寄越さないまま、出て行く彼女のために道を開けた。
「だよね」
それも彼らしいと、はそっと横をすり抜ける。
体全部が部屋を出てしまう一歩手前で、後ろを僅かに振り返った。
ひたとこちらを見つめたままのダンテと、背中を向けて全く無視しているバージル。
「じゃあ、……さよなら」
それ以上何かを言いたくなる前に、はドアを閉めた。



が去って、部屋は一気に殺風景になってしまった。
辺りがどんよりと暗いのも、何も陽が落ちて明かりを灯す時間になったからというばかりではない。
「……どういうつもりなんだよ、あんた」
視線で人を殺せそうな程の鋭い目で、ダンテはバージルをきつく睨んだ。
「せっかく帰って来たってのに、また追い出すような真似しやがって」
「本当に帰って来たのか?」
びしびし向けられる殺気にも全く動じず、バージルはつと窓辺に立った。
問われたダンテは少々言葉を探す。
「そりゃまだ何も聞いてねぇけど。でも、あんただって……に帰って来て欲しいだろ?」
「……」
バージルは肯定も否定もしない。ただ微動だにせず外を見ている。
居心地悪く取り残され、ダンテは大きく溜め息をついた。
「……あんたばっか怒って狡いだろ……」
「お前も怒ればいいだけだ」
バージルは窓の外から目を離さずに呟いた。
そこから見えるものといえば──とぼとぼと寂しそうに歩いて行くの姿。
本当にこいつは素直じゃねえなと頭を振って、ダンテも窓枠に腰掛けて妹の後ろ姿を見つめた。
「オレもあんたも、二人で寄ってたかって大激怒か?確実にあいつ泣くぜ。それで楽しいか?」
「怒っても慰めても、どちらにしても泣かせることになる」
「……おい……」
他に言い様はないのかとダンテは頭を抱える。
が、今はぐずぐずしている暇はない。
夜の帳が下りたら、この周辺は一気に危険地帯と化してしまう。
「行けよ」
ダンテの命令に、バージルが目を細めた。
「何?」
「お姫様のお迎え。せっかく戻ってくれたのを追い出したのはあんたなんだからな」
そっくり返るダンテに、バージルは探るような視線を向けた。
まだ迷っている様子と見て取って、ダンテは顎を外へ向けてしゃくってみせる。
「マジで嫌われても知らねぇぞ。行けよ」
その言葉が功を奏したのかどうか、バージルはゆっくりと窓から離れた。
「……お前はどうするんだ?」
バージルとしてはどうも何かが割り切れない。
──このダンテが、に対してあっさりと抜け駆けを認めるわけがないのだ。
案の定、ダンテはにやりと笑って腕を組む。
「ご心配なく。オレはオレで、ご機嫌取りするさ」



金の髪の母は優しかった
銀の髪の兄たちも、いつだって自分を庇ってくれた
だけど
ひとり、この家で彼らと何がしかの繋がりもない真実
それはずっとずっと わだかまり
『お前は本当には独りなんだ』
そう胸を締め付けていた



「……靴も履かないで出て来ちゃった」
薄い靴下だけの頼りない足で、怖々と歩く。
事務所を出て辺り一面はまるで砂漠のようにざらざらと砂に覆われ──それは、兄たちが仕事をしているためだと如実に語っている。
(兄じゃない、かぁ……)
それは本当のこと。
幼くして両親を亡くして孤児院に入る所を、バージルとダンテの母・エヴァに引き取られて育ててもらった身、彼ら双子とは血の繋がりはない。
ない、が……実際に言われると、身を切るように辛い。
「言われるようなことをした私も悪いけど……」
……二年前。
学校の友達と帰宅途中、悪魔に襲われた。
幸いにもダンテによって助けてもらい、友達にもにも怪我も何もなかった。
だが。
『あんたの兄さん、どうなってるの!?』
あっさりと悪魔を仕留めたダンテに対する友達の一言は、賛辞でも感謝でもない、そんな一言。
『どう、って』
今自分たちを襲ったモノと類は同じだと、本当のことはとても答えられなかった。
『ちょっと……普通の人とは違うの』
そう説明するのがやっと。
兄たちと血が繋がっていないことを話すと、友達は実にあっさりとに『彼らと離れるべきだ』と言い放った。
真実を隠されていても、何かを感じ取ったのかもしれない。
『あんたが普通の人間なら、あの人達といるべきじゃない。あんたのためにならないよ?』
その言葉は杭を打ち込むように、鈍痛を以ての胸を刺した。
実際に、赤子の手を捻るようにいとも容易く悪魔を片付けた兄の姿を見た直後で、怖かったこともある。
何が本当に自分のためなのか。
混乱したまま、目の前に提示された『一般的な』結論に流されてしまった。
急によそよそしく接するようになった自分にも、相変わらずやさしい兄たち。
けれどその態度すらも疑ってしまうようになり、は──今まで一緒に育ってきた絆を捨て、ただ同種だというだけの繋がりを選んで家を飛び出したのだった。



兄も妹も出て行って、一人になったダンテはやれやれと肩を竦めた。
……が戻って来た。
「かなり捜したのにな」
自分達の手で見つけてやることが出来なかった。
『ダンテ兄』
二年の歳月を隔て、久しぶりに自分を見上げて来た彼女は、その甘えた呼び方が似合わない程、やけに大人びて見えた。
前はあんなにも頼りなく、ちょろちょろと自分の後ろをついて回って来ていたのに。
(どんな時間を過ごしたんだ……)
想像もしたくない。
二年前のあの日……が忽然と姿を消した日。
原因なら分かっていた。
人間ではない、もう片方の力を振るってしまった、あの事だ。
内情を知らない他人の前で、人の身に許された枠を越えた力を発揮してしまったら、どうなるか。
普段からバージルには重々注意をされていたし、もちろんダンテにだって分かっていた。
けれど、目の前で大切な妹が命を狙われている刹那……そんな事は綺麗さっぱり頭から消えていた。
演舞のように軽やかに異形を葬る自分は、彼女達にはそれこそ化け物に見えただろう。
その場で命は救われたものの、は友達に疑念を抱かれ、結局のところ更なる窮地に立たされてしまった。
バージルに怒鳴られてみてももう遅く──は『人間の側』へ行ってしまった。
彼女が家に帰って来なくなってすぐ、バージルもダンテも捜索を開始したのだが、元より以外は他の人間と距離を置き、無用な接触は避けてきた自分達家族。
人間と悪魔、二つの世界をかろうじて結んでいた存在がいなくなった時、もう反対側に頼る手段がなかった。
(便利屋なんて始めたのも、のため)
ダンテは未だに名付けられていない事務所を眺める。
少ない手掛かり、その糸口だけでも得られるならば。
最初はバージルも開業することに対し首を縦には振らなかったが、の不在が二週間、一ヶ月と長引く内に、自ら街を歩き、事務所に相応しい建物の目星をつけてくるまでになった。
そうして悪魔の便利屋はひっそりと人間側にも根を張り……
それでもの消息は依然として不明だった。
自分達から逃げているのなら、捜しにくいのは当然の事。
人混みを歩けば彼女の容姿に似た者を振り返り、似た声に思わず足を止めて耳をそばだてる。
まるで恋うように、ひたすらに。
無慈悲に刻々と時間だけが流れてじりじりと焦る気持ちが先走るうち、いつしか「」という名前は彼らの間で声に出すのも躊躇われるようになった。
「二年か……」
そんなに長かっただろうか。毎日毎日を余裕もなく過ごしてきたから、あっという間だった。
ともあれ、戻って来たのだ。
バージルがいなければもっと和やかに迎えてやれたのだろうが……今その彼が迎えに行っている。ちゃんと連れて戻って来るだろう。
後は今度こそしっかりと、迎えてやるだけ。
「さてと。歓迎のお品は、と」
ダンテは腕まくりをして気合いを入れる。
威勢だけは完璧なものの、いまいち慣れない仕草でキッチンに立ち、冷蔵庫から苺のパックを取り出す。
、そして自分が大好物のストロベリーサンデー。『お帰り』と出してやるには文句なしの一品だ。
サンデーは、エヴァがたまに作ってくれたおやつだった。
アイスクリームにジャムと高カロリーのこのデザートは、あまり食べ過ぎるのはよくないと、そうしょっちゅうは食べさせてはもらえなかった。
けれど苺が旬の時期になり家に常備されるようになると、ダンテもも今か今かとわくわく待ち侘びた。
バージルだけは早々とこのデザートを卒業してしまったが、残る二人は、『苺の取り分のライバルが減ったな』などと歓迎していたくらいだった。
苺のみずみずしい甘酸っぱさと、ほっぺたが落ちそうなクリームは、いつでもお腹も心も完璧に満たしてくれた。
……母がこの世に別れを告げてからしばらくの間、あまりに辛い過去を思い起こすために法度となってしまっていたが、ある日何の前触れもなく、がキッチンに立った。
?』
首を傾げて呼べば、薄っすらと涙を浮かべた目で、けれど気丈に笑いながらは、
『ダンテ兄、一緒に食べよう』
そう言ってグラスを差し出した。
磨かれたグラスにはびっくりするくらい綺麗に、ストロベリーサンデーが盛り付けられていた。
『母さんのと同じだな』
ありがとうと受け取って、ダンテももしんみりとなった。
それでも苺とクリームはやっぱり甘くて美味しくて、ついつい自然に笑顔になれて……夕食前だったからバージルには内緒だったが、二人ともぺろりと全部平らげてしまった。
後で食事に手が伸びないを不審に思ったバージルが、冷凍庫の中のごっそり減ったアイスクリームを発見し、兄であるダンテの方を特にきつく叱ったが、それすらも楽しい記憶で──
「……うまくいかねぇもんだな」
到底、母やの作るサンデーに及ばない。
どうしてもそっぽを向いてしまう苺に、ダンテは苦笑した。



一大決心の末に兄たちの元を離れたのに、友達との暮らしは長くは続かなかった。
あちこち転々として、いつだって懐かしく恋しく思うのは……遠く離れてしまった兄たちのこと。
二人が自分を大切に想ってくれていることは何よりも揺るぎない事実だったのに、どうしてそれよりも幸せなことがあると思ってしまったのだろう。
馬鹿な判断をした。本当に、浅はかで愚かな判断を。
家を飛び出してちょうど二年が経ち、今なら素直に心から謝れそうな気がした。
日毎に募る想いに、はやっと決意を固めた。
前みたいに一緒には暮らせなくても、せめて、せめて仲直りだけでもしたい。
そうしてやっと兄たちには会えた……が、結果は見事に失敗。

「やっぱり許してくれないよね……」

壊れ物を扱うようなダンテの遠慮がちな目と、まるきりこちらを見なかったバージルと。
──二人とも、怒ってさえくれなかった。

もう、このままずっとぎこちないままでいるしかないのだろうか。
「……バージル兄……ダンテ兄……」
今になって、視界がゆらゆら滲み出した。
「帰りたいのにな……」
未練を込めて、事務所を振り返る。振り返って、は息を飲んだ。
見覚えのある影がひたひたと、彼女の後をつけていた。



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