月の冴えない夜
兄が尋常でない躍動を見せた、あの夜
こちらを振り返ったその青の目だけは何も変わらず、いつもの兄だったのに
怯えて、竦んで、逃げ出した
──そう、あの夜からだ
「おにいちゃん」と呼べなくなったのは




手で掬えそうな漆黒の闇が凝った影。
「ヘルプライド……」
傲慢を名に冠する悪魔が、数フィート先に蠢いていた。
手に持つ鎌がぎらりと鈍い光を照り返す。
あれは純然たる悪魔。
兄たちの傍を離れ、もうずっとその存在など忘れていた。
ごくりと唾を飲み込んで、は胸元を探った。ここに、身を護る術をひとつだけ持っている。
(ペンダントを)
銀のチェーンの先に、ちいさなボトルが下がっているペンダント。
まだがちいさかった頃……『最後に自分を護れるのは、自分しかいないのよ』金の髪の母はそう言って、細い首にこれを掛けてくれた。
中に満たされているのは聖水──悪魔祓いのために、特別に清められた水。
いつだったかボトルの中身を悪戯して、うっかり水に触れてしまったダンテが嫌そうに顔を顰めていたことを思い出す。
自分にはただの水でしかないが、悪魔には確かに効力を持つ水。
堅く絞られた蓋を慎重に外し、はじりじりとプライドを待つ。
ボトルに詰められた聖水はかろうじて一回、悪魔を祓うだけの量しかない。
確実に水を掛けるには、敵とかなり距離を詰めなければならない。
(絶対に失敗できない……)
指先が震えた。
悪魔との間隔が縮まるにつれて、死臭が鼻をつく。
錆びた鎌のディテールが、闇夜に不気味に底光りする赤い眼が、よりくっきりと見えるようになる。
「……っ……」
5歩分。
(だめ)
もうこれ以上、待てない。
目を閉じてペンダントを振り上げる。それがの手を離れる寸前、何かが拳を握りこんで動きを留めた。
「──!?」
ざぁっ
砂が踊る音が耳を打つ。
恐る恐る目を開ければ、千々に刻まれた黒衣の断片が雪のように視界に散っていた。
(ヘルプライドが)
既に影形もない。
こんなことが出来るのはの知る限り、たった二人。

「夜に出歩くのは危険だという事も忘れたのか」

音も無く刃を鞘に納め、現れた人物は静かにを振り返る。
ゆっくりと瞬く青い目は、言葉とは裏腹に穏やかだ。
「バージル兄……」
「大体、聖水を使う時でもない」
バージルはまだ震えたままのからボトルを取り上げ、元の通りに蓋を閉めた。
ちゃぷちゃぷと振って水が零れないのを確認してから再び、の首に掛けてやる。──かつて、彼らの母がそうしたように。
「これを使うのは最後の手段だ」
バージルの掌は、ついでのようにの頭にふわりと乗せられた。
はきゅっと唇を結んで、横を向く。鼻の奥がつんと痛い。
「……今もピンチだったもん」
「俺が居るのにか?」
「だって」
噛み付こうとするも、その相手はさっと背を向けた。そうしてはっきりと一言。
「帰るぞ」
「え?」
言われたことが理解できず、はバージルをきょとんと見上げた。
──帰る?
少し待っても動かない妹に、兄は口の端に笑みを浮かべた。
懐かしい、どこまでも不敵なバージルらしい微笑。
「正式に家出したいなら、俺達を納得させてから出て行くんだな」



今夜も、月は雲に遮られて冴えない顔だ。
かすかな月明かりにひょろひょろと伸びる、先を歩くバージルの影から離れないようについていく。
手加減なしの速度は、には少々早い。
「おにいちゃん」
呼び掛ければ、遥か前方のバージルがぴたりと足を止めた。
「歩くの早い」
むすっと呟いてみる。
兄の背中が溜め息で大きく上下するのが見えた。
「おまえが遅いだけだ」
振り返らず、バージルは左手を後ろへ伸べる。
差し伸べられた手を繋ごうと右手を伸ばすと、バージルはその手をぎりっと強く掴んだ。
を見下ろし、きつく睨む。

「遅い。歩くのも……帰って来るのも」

ぎゅうっと握られた手も、刺すような眼差しも──いたいのにやさしい。
(さっきはあんなきついこと言ったくせに)
……これがバージルだということを、は今ようやく思い出した。
「もう、怒ってもくれないのかと思った……」
「馬鹿者」
繋いだ手を引っ張るように、バージルは歩き出す。
ダンテが待つ、事務所に向かって。
「ダンテにもそう言ってやれ。おまえを怒りたくてうずうずしていた」
迷子を捕獲した手は、そのままずっと握られたままだった。



繋がらない血
人知を超えた兄たちの力
──そんなもの、ほんとうはどうでもよかった
大好きだと、愛していると
知っているのに気付かない振りをした
永遠に分かり合えないものだと 自分は独りだと
だから家を飛び出したのに
それは強がりなだけ 薄っぺらい決心でしかなく
こころから戻りたいところはただひとつ──



「おにいちゃん!!!」
ばんと大きな音を立ててドアを開くと、ダンテは壁に寄り掛かったまま待っていた。
「お帰り、お姫様」
にっと笑って、の頭を撫でる。
「怖かったろ?……あいつ。」
片眉を上げて後から帰って来たバージルをちらりと見れば、彼はふんと顔を逸らした。
「怖かった……」
兄たちのやり取りには気付かず、はこくりと頷いた。
素直で弱々しい態度に、ダンテはおおきく深呼吸する。
(だめだ)
こんな状態では、とても怒れない。
怒鳴ったり睨んだりする代わりにダンテは、の薄い両肩に手を乗せた。間近に瞳を合わせる。
「言っとくけどな、オレだって本当はバージルみたいに怒りたいんだぜ?」
「うん」
「これでもすっげぇ腹が立ってんだ。勝手に家出されて、二年も音沙汰なしで心配させやがって」
「うん」
「同じことやらかしたら、もう許さねぇぞ」
「うん……」
ぐすぐす鼻を啜り出したに、ダンテは出来るだけ力を加減してデコピンした。
「痛。さっきのたんこぶ、まだ痛いんだよ」
額を押さえ唇を尖らせ、はダンテを見上げる。
それを受けてダンテは愉しそうにもう一度、妹の額を突つく。
「これくらい我慢しろって。これやるから」
「なに?」
「腹減っただろ。仲直りの証」
ダンテが指差したのは、アイスクリームが溶けかけ、苺も四方八方を向いてしまって、ぐちゃぐちゃのストロベリーサンデー。
「母さんやおまえじゃねぇから、見た目は悪ぃけど」
味はうまいぜ。
「一緒に食おうぜ」
ぱちりとウインク付きでグラスを差し出され……は子供のように大泣きした。
「……こうして結局泣かせることになるんだ」
バージルが苦笑して、を座らせるために椅子を引く。
「あーあ。ま、あんたみたいに外道な泣かせ方じゃねぇだけマシだろ」
ダンテがほらほらとスプーンを手渡す。
「食ってみな」
促されるまま、は泣きじゃくりながらも何とかクリームと苺をスプーンに乗せ、ぱくりと頬張る。
苺は甘酸っぱくて、クリームは甘くて、最高の──
「美味いだろ?」
はおおきくこっくり頷いた。

「二度と心配などしてやらんからな」
「もうどこにも行くんじゃねぇぞ」

兄たちそれぞれの手厳しい言葉。
は詰まる喉から、ぐっと声を出した。
ありったけの気持ちを込めてこころから。

「ただいま!」







→ afterword

10万打お礼の双子夢です。
無事に「おにいちゃん」と言えて大満足です!(ハードルが低すぎる)
バージルのきつさとダンテのお母さんぶりに…すみません。
でもバージルは(他の夢が甘すぎるだけで)普通にツンツンだし、ダンテは絶対に包容力あって優しいですよね!(逃走)
もっとわーわー賑やかになるかと思いましたが…それはまた次の機会があったら。

それでは…ここまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました!!
2009.2.26