Yの衝撃




あの悲惨なわかめ事件から、一ヶ月が経った。
私はもう両隣の住人に遠慮なくずけずけと文句を言えるようになったし、向こうは向こうで気軽にこちらにやって来る。
ダンテはしょっちゅう食べ物やおやつをねだりに、バージルは「ショウユを貸せ」などと言って。
いちばん手を焼くのが、マンションの管理人から貰ったという日本の食材を持ち込んで来ること。
この管理人はまただいぶお年を召されたおばあちゃんで、双子は彼女から孫のように可愛がられているらしい。一階に住んでいるので、双子が通りがかる度、まめに声を掛けてくれるようだ。彼らが日本に慣れない外国人だというのも、ついつい世話を焼きたくなるポイントなのだろう。
それは大変微笑ましい。……微笑ましいのだが、おばあちゃんがくれるものが、ひじきやら利尻昆布やらと乾物が多めで、少々扱いに困る日本食ばかり。「孫」の健康を考えての好意であっても、肝心の彼らにそれを調理するスキルなどあるはずもない。せめて調理済みのおかずを分けてやってください、とはさすがに図々しくて言い出せず。
いいのか悪いのか、私と兄弟の交流はどんどん増えてしまっている。



今日も仕事が終わってマンションの廊下を自室に向かって歩く途中、かばんの中のスマホがぷるぷる震えた。
「『オムライス』」
ダンテからのメッセージだ。夕食のリクエストらしい。彼からこの連絡があるのは、一週間に一、二回といったところ。叶えてあげる時もあれば、断る時ももちろんある。
けれど自分一人しかいない時、夕食メニューは適当なものになりがちだ。今日も何を食べようか考えるのも面倒くさくて後回しにしていた、その矢先のリクエスト。
オムライス。子供っぽいけど、たまにはいいか。
苦笑しつつ返事を打った。
「『卵買って来て』、と」
『Yes, ma’am』
短い返信がダンテの声で読まれた気がして、くすりと笑みがこぼれる。と、
「ぶっ!」
何かに盛大にぶつかった。
「す、すみませ……」
痛む鼻を押さえながら見上げれば、青い服。
私ははあと溜め息をついた。
「何だ、バージルかぁ。こんな廊下のど真ん中で立ち止まってないでよ」
バージルは振り向きざまに盛大に眉を跳ね上げた。大袈裟な。不機嫌を表現することに関して彼は天才的としか言いようがない。
「おまえこそ、歩きスマホとやらは罰金ものだろう」
「そちらの国ではね!」
「じきにこちらもそうなるだろうな」
「そうですね」
受け流し、辿り着いた部屋の鍵を開ける。
ノブを回したところで、バージルがまだこちらを見ていることに気がついた。
「どうかした?鍵なくて部屋に入れないとか?管理人さんに言ってあげようか?」
「鍵はある」
いらついたように答えて、しかしその先は黙ってしまった。煮え切らない。珍しくバージルが逡巡している。
まーた切り干し大根でも貰ってきたのかと思いきや。
「……コメならある」
ぼそりと呟く。ちいさすぎて、ぎりぎり聞こえるかどうかのトーン。
米。
そうか、さっきのダンテとのやり取りを小耳に挟んだのか。
ついにっこりしそうになって、私はきりりと唇に力を入れた。
バージルはダンテに比べたら、こういう時に損な性格をしていると思う。だからと言って甘やかす義理もない。このやり取りを楽しまなくては。
「うち、お米は足りてます」
わざとつんと突っ撥ねると、バージルは凄絶な眼差しで睨んできた。彼にとって不幸にも、私はもうその目には慣れてしまったから効果がない。
(いっそ笑顔の方が不気味で効果ありそうなのにね)
などと考えながら、もうひと声をじーっと待っていると、やっとバージルの視線が折れた。
「……鶏もも肉」
「Deal!」
ハイタッチしようと右手を挙げたが、そういえば相手はダンテじゃなくてバージルだった。もちろんタッチは返されることはなく、彼は溜め息と共に踵を返したのだった。



その日の夕食。
ダンテが奮発してくれた茶色い卵を贅沢に使い、ふわとろオムライスが完成した。
「いただきまーす!」
ダンテと私は床のコーヒーテーブルで向き合って、バージルはパソコンデスクの椅子に腰掛けて食べるのが、もはやうちでの習慣になっている。
そういえば、これまでバージルが単独でうちに来たことはないけれど、来たとしてもダンテのようにフロアに寛いで、狭いテーブルで私と顔を突き合わせてごはんを食べるなんてことはしないだろう。そこらへんの二人の性格の違いも分かってきて、何となく面白い。
「うま!」
「そうでしょうそうでしょう」
「まあまあだな」
「もうバージルの分は作らない」
いつものように他愛もない会話で、スプーンをどんどん進めていると。
ピカッ
窓の外が光った。
「雷!?」
私は慌てて腰を浮かせる。
すっかり頭から抜けてたけど、夜から雨になるとの天気予報だった。
「忘れてた!洗濯物取り込まなきゃ!」
「行って来な」
ダンテがスプーンを振った。
「ダンテはいいの?バージルは?」
「今日は洗濯ナシ」
「乾燥機でとうに乾かした」
なるほど、彼らは洗濯物を雨に晒す心配はない。
「お食事中、失礼っ」
背後の兄弟に断って、急いでベランダに出る。
最初の雨粒が手すりを叩くと、あとは一気に降り出した。犬も猫も騒ぎ出すどしゃ降りだ。
「わああ」
何とか無事に守った服を掻き集めて、部屋に入る。いや、入ろうとした時だった。
ピカッ
うちの左隣、ダンテの部屋の中が光った。
「え!?」
最初は雷がガラスに反射したのかと思った。
だが、違う。
何故なら──ダンテの「部屋の中に」青白い肌、赤い髪の半裸の美女がゆらりと立っていたのだ。いや、立っているかも分からない。女の腰のあたりから下は影のように黒くて見えないのだから。
女が細腕を気怠そうに持ち上げる。弾みをつけて振り下ろす。紫色の閃光が部屋に充満して、何事もなかったようにまた消える。
「な、な……」
女がこちらを見た。
妖艶に微笑む。そして、腕を、
「ぎゃーーー!!!」
私はせっかくの洗濯物をその場にだばだば落とし、その山を踏み越えて部屋に駆け込んだ。



「何だ?」
「どうした」
双子から同時に声がかかる。
あのバージルまでもが聞いてくるくらいだ、私は余程ひどい顔をしているのだろう。
「あ……あ……」
部屋に入っても、まだ歯ががちがち噛み合わない。今見て来たものが信じられない。
ゆうれい。それも、雷を操る幽霊。
──本当に出るんだ。このマンション。家賃が格安な理由が証明された。
がたがた震えるまま、ダンテに顔を向けた。
「だ、ダンテ」
「あん?」
「こ、今夜、うちに泊まって行かない?」
「はあ?」
「と、泊まって行った方がいいと思う。絶対。悪いことは言わないから」
隣の部屋にはアレがいる。確かめたくないが、きっとまだ、いる。だからダンテが帰ったら、鉢合わせしてしまう。
ダンテは小首を傾げて瞬きをした。なぜだか楽しそうに、ぱちぱちと。
「どうも色っぽい誘いには思えねえんだけど……そういう誘いなのか?」
「……?」
何を言われているのか分からなくて、でも、ダンテの揶揄いを含んだ眼差しに、私の冷静さがすこしだけ呼び戻された。
……とんでもないことを言ってしまった!
「ちちち違うよ!そうじゃなくて」
手をばたばた振る。
「でも、ダンテは、今夜は、うぅー」
どう説明したらいいのだろう。
はっきり告げてしまったら、彼を驚かせることになる。彼に幽霊耐性はあるだろうか。一般人はそんなものを持ち合わせていないと思うのだが。
「まあ、とダンテが考えている事はまるで違うだろうな」
いつの間にかベランダに立っていたバージルが、ダンテに顎をしゃくった。
「部屋を見て来い」
私は驚愕した。
「な!な!ダメだよ!今は!」
未だに恐怖で全身が震えている。
いや、寒い。冷気?足元にわだかまる冷たい空気は、私だけが感じているのだろうか?鳥肌が立つほどの寒さ。
腕をさすりながら見上げれば、バージルも頷いた。
「ダンテに今夜ここに泊まって欲しいというより、この冷気が止まればいいのだろう?」
「え……」
バージルもダンテの部屋の幽霊を見たのだろうか。その割にやたら落ち着いてはいるけれど。
ともあれ、私は神の助けとばかりにこくこくっと頷いた。
「ひ、光も消えて欲しい!」
「……ああ、光もな」
「冷気と光?」
ダンテは眉を顰めてみせたものの、すぐに何か思いついたらしい。
「行って来る」
ひらりと立ち上がる。
さすが男子。豪胆だ。……と片付けていいのか分からないけれど、彼はまるで怯えていない。もしかして、「出るよ」と管理人さんに言い含められていたのだろうか。それか、ダンテはもう遭遇したことがあるとか……
私はまたもぶるりと大きく震えた。
「き、気をつけてねダンテ」
「おー」
実に気楽に玄関を開けてしまう。
ばたん。ドアが閉じる音がやけに響いた。
私は残ったバージルを見た。彼は呑気にお茶を飲んでいる。
「だ、ダンテは部屋にいるアレの正体、分かってるの?」
「恐らく」
「それでもあんなに余裕なの?」
「おまえが怖がり過ぎるだけだ」
そんなわけがない!
誰だって幽霊は怖いはずだ。
が、私が反論するより先にバージルが口を開いた。
「ところで」
「な、何?」
「洗濯物はいいのか?」
ベランダを指差す。
「ああ!!」
ぐちゃぐちゃ放り出され、雨の洗礼を受けている洗濯物。今ならまださほど酷い汚れにならず済むかもしれない。
……だが。
あれを取り込むには、またあそこに近づかなければならない。
幽霊の近くに行かなくてはならないのだ。
一人でベランダに行くのは怖い。怖すぎる。
「ば、バージルさん」
──私は今になって、彼の米を受け入れておかなかったことを後悔した。
案の定、彼はすぅっと冷えた目を細めて私を見下ろしている。
そして。ああ。笑顔。これがバージルの、笑顔。
美しさも極まれば見る者に恐怖を与えるのだと知る。
さて、どうするか?彼の心の声が聞こえてきそうだ。私はひょっとして幽霊と対峙した時よりも震え上がったかもしれない。
「バージルさん。鶏もも肉、お返しします」
「いらん」
「次はタダでオムライス奢ります」
「いらん」
私は涙目になった。
「じゃあいったい何を奢ったら」
「考えておく」
ほんの一瞬だけ意地悪抜きの楽しそうな顔を見せ、バージルは踵を返した。さっさとベランダに出る。
「あああ、そんな大胆な!ま、まだいたらどうするの!?」
「俺は何も怖くないからな」
ぽいぽいと服を拾っては私に投げる。
一枚一枚あわあわと受け取っていると、ふとバージルの手が止まった。
「どうかし……」
私もぎくりと動きを止めた。
隣の部屋から会話が聞こえる。

「お前さー、あいつ怖がらせんなよ」
「ああら。怖がらせたつもりなんかなくってよ。こんな雷の夜は血が騒ぐの」
「だからってな」
「だいたいあなたも、あたしの苦手なワンちゃんを傍に置いて行くからいけないのよ。寒いったらありゃしない」
「それと雷とどう関係あるんだよ」
「近づかないでって牽制してたのよ」
「ったく……早くギターに戻ってくれよ。犬コロはあっちやるから」
「そうして頂戴」

「……ダンテ、幽霊と会話してない!?」
「かもな」
「か、かもなって!ねぇ!」
「おまえのために追い払ってやっているのだろう」
「そ、それってほんとに幽霊がいるってこと!?ねぇ!」
「煩い。もう忘れろ。早く洗濯し直せ」
「忘れろって……」
洗濯機の方向に押し出されながら、私は頭がぐるぐるしていた。
このマンションには幽霊が出る……



ダンテはけろりと何事もなかったように私の部屋に戻って来た。
「安心しな。もう大丈夫だから」
ぽんぽん肩を叩かれる。
確かにさっきの肌を粟立たせた冷気はもう感じられず、梅雨どきのむっとした熱気が代わりに部屋を満たしている。
さすがにまだ恐ろしくて、ベランダから隣を確かめようという勇気は出なかったが、何となくダンテの言う通り大丈夫なような気はした。
それでも、太陽が闇を追い出してくれるまで、まだまだ長い。
朝になるまでに、またあの雷が……幽霊が現れたら?
やはりワンルームとは言え、ダンテに泊まってもらうべきなのでは?
「ダンテ……」
あくまで怖がる私に、ダンテは笑って言った。
「まー、夜中に怖くなったら、壁叩けよ。どんどん、って。おまえが叩いた回数プラス1回、俺が叩き返してやるから」
それでも怖かったら、部屋に来な。何時でも歓迎するぜ。
にぃっと微笑まれれば、頼っていいんだという安心感に、ほーっと肩の力が抜けた。
幽霊が出る部屋に逃げ込むのもどうかと思うが、ダンテが一緒なら平気だ。と、思う。
「じゃあ、ほんとに怖くなったらお願い……」
「臆病すぎるのも考え物だな」
横でバージルが呆れた。
「怖いものは怖いの!いいですよ、ダンテにしか頼らないから!」
いーっと顔を顰めて憎まれ口を叩いているうち、すこしは元気が出てきた。
それを合図に、兄弟もそれぞれの部屋に引き上げて行ったのだった。



お風呂は明日の朝に入ることにして、私はもうさっさと毛布をかぶって寝てしまうことに決めた。
ベッドに入って、スマホを握り締める。もふもふ動物の癒し動画をエンドレスで観ていれば、眠気もそのうちやって来るはず。
「ふああ……眠い眠い」
暗示をかけてみる。
明るいと眠れないたちなので、常夜灯だけ残して電気を消した。
……やはり暗いと怖い。脳裏に半裸の幽霊がまざまざと蘇る。
「うぅ……」
これ以上恐怖に侵食されて本格的にパニックを起こしてしまう前に、先手を打たなければ!
言われた通り、ダンテ側の壁を叩く。どんどんと、2回。
(ダンテぇ)
ややあって、向こうからどんどんどん、と元気よく音が返って来た。
ああ!今ほどここのマンションの壁の薄さに感謝したことはない。
向こう側にダンテが寝ていて、こちらを気遣ってくれている。ありがとうダンテ。次の夕食リクエストが来たら、絶対に応えてあげよう。
私はおやすみの気持ちを込めて、4回叩いた。
すぐに5回返ってくる。
と、反対側の壁が、どん!!と激しく叩かれた。
バージルとは何も約束していないから、このやりとりが煩かったのかもしれない。
(全く……今日くらい見逃してくれたっていいのに)
そんなことを考えるうち、私は無事に眠りについた。





翌朝。
すがすがしい朝の光の中でなら、私はすっかりいつもの調子。るんるんとゴミ出しに出かけた。
花壇には、雨露に濡れた紫陽花がきらきら光っている。かたつむりがのほほんと葉っぱを伝う。昨日の恐怖体験など嘘のような晴れやかな気分で、それらを眺めて歩いて行く。
途中、管理人さんに出くわした。
「おはようございます。昨日の雷は凄かったですね」
「おはよう。そうねえ、なんだか昔を思い出しちゃったわ」
「昔?何かあったんですか?」
おばあちゃんはちょっと口ごもった。
辺りをきょろきょろして、声を低める。
「……若いお嬢さんにこんなお話したらいけないと思ってたけど……昔ね、昨日みたいな雷のすごい夜、ちょっと事件があってね……」
──私の意識が白くなる。
管理人さんは語った。
昔、事件が起こったのは、私の部屋の玄関向かって右側。つまり、バージルの部屋だったのだと。
(昨日の……壁を叩いたのは……)
何の疑いもなく、彼だと思っていた。ダンテとのやりとりに、煩い!という意味を込めた壁ドン。
──もし、バージルじゃなかったとしたら?
いや、バージルだ。絶対に、彼だ。こんなタイミングよくポルターガイストなんて有り得ない。
管理人さんと別れ、がくがく震える足を励まし励まし一歩一歩進めて、私はバージルの部屋の前に立った。
ぴんぽーん。チャイムを鳴らす。
ややあって、バージルが姿を現した。いつもと同じ顔、いつもと同じ態度。
「何か用か」
私はごくりと喉を鳴らした。
「あのう……昨夜、バージルさんも……壁、叩いてくれました、よね……?」
「壁?」
「はい……。煩い!って感じで、ドンッて」
バージルはゆっくり瞬き、もったいぶって口を開いた。
「それは──」







→ afterword

バージルさんです!壁を叩いてくれたのは、バージルさんです!絶対に!
私はゾンビとかクリーチャー系はバイオで慣れたのでまるで怖くありませんが、幽霊とかポルターガイスト的な、重火器で物理的にどうにか倒せないモノは苦手です。
でも、両隣に双子がいてくれたら心強いですよね。双子のせいで(今回のネヴァンさんとケルみたいな)怖い思いをすることもあるかもですが。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
2019.7.2