寝れば治ると思った頭痛は、朝になっても治っていなかった。
一睡も出来なかったのだ。




第四話 罠 / just a chocolate, whatever you say




「あのさ、……マジで?」
ダンテはスプーンを咥えたまま眉を寄せた。
「マジですよ……」
は大きく溜め息をついて、視線を逃がした。
窓の外は見慣れない景色。ゆずり葉がライムグリーンに透けている。
わざわざ学校から遠いカフェへ悪友を連れ出して、何を話題にするかといえば恋愛相談。
スプーンの柄を唇でぷらぷら弄ぶダンテは相談相手に最適とは思えない。が、それくらいは切羽詰まっているのだ。
……クレドとバージルの目の前で、バージルを好きだと言ってしまったこと。
(ああ……)
雨が降っていたあの日を思い出すだけで、胃がねじ切れそうに痛む。
(あんなこと)
最低だ。
保身のために。
「それでバージル、様子が何か変だったんだな」
ダンテがの奢り(相談、そして口止め料)のサンデーをひとすくい頬張った。
「罪作りなヤツ」
からかいを含んで笑う。
「……。」
いつものように言い返せるわけもなく、はがくりと項垂れた。
ダンテには、自分が本当はクレド先生が好きなんだとは明かしていない。そんな端折った説明しかしていないのだ、これはもう何を言われても仕方ない。
「ま、そんな落ち込むなよ」
ダンテがの分のタピオカミルクティーも飲んだ。
「おまえはさ、そのしつこい男の質問攻めから逃げたかったんだろ?」
「まあ……」
「で、そこへ都合よく、モッテモテのうちのお兄様が現れたと」
「うん……」
そしてついついうっかり──
いよいよ真下を向いて、もはやつむじしか見えなくなったに、ダンテは身を乗り出した。
「な。そこに来たのがオレだったとしたら、やっぱオレのこと好きだって言ってたか?」
「うん」
それはそうだ。はきっぱり頷く。
でっちあげるのは誰でも良かった──クレド以外で学生なら、誰でも。
ダンテは苦笑して軽く頭を振った。さらさらと銀の髪が躍る。
「今あいつの気持ちが分かった」
「うぅ……ごめん」
「いいって。オレ達、そういうのは慣れてるからさ」
「そういうの?たとえば?」
「例えば?……そうだな」
ダンテは頬杖をついた。
「巻き添えにとばっちり。よくあるのは、女の子がオレに告白するつもりでバージルに話し掛けるとか、その逆とかな」
「え。どうなるの?」
「オレはすぐ名乗る。けど、バージルはいい性格してるから最後まで聞くらしいぜ」
「うわー……」
もちろん双子とはいえ相手を間違える女子も女子だが……バージルの対応を想像すると恐ろしい。はちょっと青ざめてしまった。
「ご存知の通りオレ達モテるからさ、恋愛絡みのゴタゴタなんて日常茶飯事なんだって。バージルもおまえのこと知ってるし、何かおかしいとか気付いてると思うぜ」
「だといい……けど……」
慰めてもらっても、どっぷり沈んだ気持ちはまだまだ完全には戻らない。
ダンテと友達なように、バージルとも普通に友人でいたかったのに(そして最近は少し仲良くなったような気がしていたのに)、余計な水を差してしまった。
そしてとどめに、クレドにはバージルを好きだと誤解されたのだ。
(もう泣きたいよ、散々泣いたけど)
もう氷しか残っていないミルクティーをしょんぼり啜る。
「それにしても」
暗いに、ダンテは笑いかけた。
「理由が分かってみたら、すっげぇ面白いな。『そわそわしてるクールじゃないバージル』」
「あのね……」
「本当に脈あるんじゃねぇか?」
「だからー!」
くわっと怒ろうと身を乗り出し、はそのまま固まった。
「ん?……お」
の視線を追って、ダンテも目を丸くした。
「レディ!何してんだ、こんなとこで」
声を掛けられたのは、たちの同級生。
カフェの奥から現れたレディは、腰のエプロンを摘んでみせた。
「見て分からない?バイトよ」
言われてみれば、レディの艶やかな黒髪は学校にいる時よりもまっすぐ下りて、頬にかかる分はピンで留められている。
「可愛いじゃん」
ダンテが頭の後ろで手を組んだ。
レディはたちまち眉を聳やかしてきつい目を寄越す。
「お世辞なんか言わなくても、あなたたちのことは秘密にしておくわよ」
「……へ?」
今度はの目が丸くなった。
秘密?
「こんな遠い店まで来るなんて。デートなんでしょ?」
当然、とつまらなそうにレディは腰に手を当てる。
「言わないから大丈夫」
「ち、違うの、これは!」
は必死に手を振り、その否定っぷりにレディはダンテをちらりと見た。
「……あなたたち、付き合ってるんじゃないの?」
ダンテは無表情にサンデーを頬張った。
「残念ながら」
「ねっ?だからほんと気にしないで!」
それならどうしてこんなに学校から遠く離れたカフェなんかに、と暗にレディは目を細めた。が、結局は特に何も言わなかった。
代わりに店内のコルクボードを指差す。
「今ね、うち、バレンタインフェアなのよ。見たところダンテしかパフェ食べてないみたいだけど、あなたも何か食べていかない?」
にっこりとサービス以上の笑顔で提案されて、
(これこそ口止め料?)
はただでさえ寂しい財布をすっかり逆さにして、チョコレートソースのかかったアイスクリームを頼まざるを得なかった。





バレンタイン!
そういえばそんな時期だった。
昨日カフェでレディに指摘されるまで自分のことに頭がいっぱいで、世間の話題を忘れていた。
「今年も、そうね、調理室借りてまとめて作る?」
の横、キリエが部誌を捲る手を止めた。
「買えば楽なんだけどね」
もノートを覗き込む。
残念ながらサッカー部も他の部と同様、部費が潤沢とは言えない厳しい財政状況。
「板チョコでも怒るし、焦げケーキでも怒るし」
ぶつくさ文句を続ける。
とかく部員は繊細な心と舌をお持ちなのだ。キリエが用意したものは何でも喜ぶただ一人を除いて。
「あ!」
キリエがはっと顔を上げた。
「調理室、予約がいるよね。間に合わないんじゃない?」
「あ……あぁ!」
も思い出した。
去年も確か他の部のマネージャーの予約でいっぱいで、無理に頼み込んで閉校間際ぎりぎり貸してもらったのだ。当然作業は慌ててしまって落ち着かず、お菓子とラッピングの出来映えは散々だった。
「あーもう!来年は忘れず予約、って話してたのに!」
はくしゃっと髪を乱した。
どうしてこうも、うまくいかないことは続いてしまうのか。
「うち来る?」
キリエが部誌をぱたんと閉じた。
「え?」
「去年みたいなの、ばたばたしちゃうし嫌でしょ?」
「だ、だけど」
は露骨に狼狽えた。
(キリエの家には)
キリエの兄がいる。
会いたくて話したくていつも姿を探している、クレド先生が。
キリエは以前から幾度となく誘ってくれたが、毎回ぐっと堪えて断っていた。それは他のクレド好きの女子の手前、フェアではないと自らを戒めていたからで——けれど今回は「数学を教えてもらう」など個人的な用事ではなく、サッカー部のためと、いかにもな建前はある。
の心は揺れに揺れた。
「ありがたいけど、キリエ……やっぱり悪いよ」
「どうして?」
煮え切らない彼女に、キリエはくるんと目を回した。
「遠慮なんかしないで」
「それはー。……でもほら、クレド先生いるし!」
「兄さんはいるけど、邪魔させないから大丈夫よ?」
「あー……」
(そこはむしろ邪魔して欲しいんですけど)
が遊びに来てくれたら、私うれしい」
キリエの天使のような笑顔と、天使そのものの心遣い。
そこでついには両手を上げて、歓喜の降参をしたのだった。





土曜日はバレンタインデー前日ということで、どの部員も何だかそわそわしていた。午後を丸々使った練習も、どこか上の空。
それはもちろんルーキーでエースのネロも同じ。何気ない素振りでストレッチしつつ、いつもよりキリエを見る回数が多かった。
(ちゃんとキリエが用意するから大丈夫だってば)
ネロを見る度はくすりと笑った。
(……ただし、多分みんなと同じものだけど)



14日、日曜日の午後にはいつものように部活動がある。
午前中にチョコレートを用意すべく、はキリエと二人で買い物に出掛けることにした。
普段よく立ち寄るとキリエが教えてくれたスーパーの場所と名前を、はしっかり頭に刻み込んだ。今度もしかしたら「偶然」クレドと鉢合わせすることがあるかもしれない。
こぢんまりとした店内はレジが二台あり、親切そうな店員が三名いるばかり。
けれど真っ先に目に飛び込んできた野菜や果物はどれも色鮮やかに美味しそうで、特売品を始め、みんな良心的な値段がつけられている。
ここでキリエや──クレドがいつも買い物しているのかと思うと、は一気にこのスーパーが好きになった。
「材料はこれくらいでいいかな?」
キリエが手書きのメモとカートを見比べた。
板チョコレートに生クリームとココアパウダー、粉砂糖にナッツ。
ついでに小さなボックスにリボンなど、ラッピング用品も抜かりない。
「うん。……あ、これもよろしく。お金は後で払うから」
はチョコレートのパックを追加で放り込んだ。
「誰かにあげるの?」
キリエが優しく目を細める。
は照れ笑いを浮かべ、明後日の方向を見た。
「……約二名にね」



キリエとクレドの家には、スーパーから出てお喋りしているうちに到着した。
クリーム色の壁とキャラメル色のなだらかな屋根の家。玄関ポーチへ導く足元の芝と石畳のアプローチ。外観はとてもシンプルで、いかにも住心地が良さそうだと期待させる。
「さ、入って!」
「お邪魔しまーす……」
キリエに促されるまま、はそうっと玄関をくぐった。
「わー、素敵なお家だね〜」
個性のない言葉しか出て来ない。
丁寧に磨かれたフローリングは隅までぴかぴかで顔が映り込みそうだし、窓の傍に飾られたコーヒーの木はちゃんと世話されていて葉が元気につやつやしている。
ローテーブルにはテレビのリモコンと新聞数紙が整然と置かれて、もちろん埃ひとつない。
いかにも先生らしい暮らしぶり。
(もしかして、家では気楽にしてるのかなぁと思ったけど)
クレド先生は裏表なく「真面目」で「堅苦しい」ようだ。
は緊張していた頬を緩めた。
変な話だが、それでこそ先生だと思ってホッとしたのだ。
「兄さん?」
二階へ上がって行ったキリエが首を傾げながら戻って来た。
「……お留守?」
「そうみたい。そんなこと言ってなかったんだけど……」
「鍵は掛かってたよね」
「あ、それはいつものことなの。兄さん用心深いから」
「ああ、そっか」
、今笑ったでしょ?」
「や〜、先生らしくていいなぁと思っただけだよ」
ほんのちょっとの間に、どんどんクレドの情報が更新されていく。
意地を張らずにもっと遊びに来るべきだったかもしれないと、は後悔した。
そんなの気持ちに気付くはずもないキリエは、するすると先に立って廊下を歩く。
「キッチンはこっちよ。邪魔が入らないうちに始めない?」
「うん」
キリエに続いて台所に入る。
実のところ、学校での実習のことを思えばが邪魔者になる可能性の方が高いのだが。
「失礼します!」
威勢だけは良く、はキッチンに踏み込んだ。



場所をキリエの家に移しての調理実習は、それはそれは楽しい時間だった。
「……でね、ネロったらアグナス先生に相当きつく叱られたのよ!」
「あ〜、でも私もよく叱られてるよー」
「そうなの?」
「はい。威張れることじゃありませんが」
部活のこと、友達のこと、先生のこと……話題は尽きない。
もちろん手際のよいキリエは手もちゃんと動かしている。
板状だったチョコレートはお湯の熱で溶かされ、とろとろ甘い香りを立て始めた。
一方のはココアパウダーに粉砂糖を混ぜてふるいに掛けているところ。一応手伝ってはいる。
「そろそろいいかな。チョコ丸めよう」
チョコレートの粗熱を取った後、キリエがバットとスプーンをテーブルに乗せた。
二人が作っているのは簡単・美味しいトリュフ。粒の大きささえ揃えれば他に失敗しようがなく、トッピング次第でゴージャスな見た目も狙える定番品だ。
「これでいい?ちょっといびつかもだけど」
「大丈夫、綺麗にできてる」
アドバイスを貰いながらチョコレートを形作るうち、はだんだん楽しくなってきた。
(これくらいなら一人でも作れそう)
バットにころころ所狭しと並べられたトリュフは、ココアを着せられて見た目もなかなかだ。
「キリエー、これって」
私一人でも作れるかな?の続きは、宙に掻き消えた。

「ただいま」

──もう一人の住人の声がしたのだ。
(わぁぁ!!)
の手の中で、丸く捏ねられていたチョコレートが不自然にひしゃげた。
「お帰りなさい、兄さん」
当たり前だがキリエは動じていない。どころか、手元に集中して顔すら上げない。
「台所か?」
声と足音が近くなり、ついにクレドが姿を見せた。
(先生の私服だ……!)
多少ラフな格好をしているが、ネクタイをすればすぐ教鞭を振るえそうな姿。やっぱりと言うべきか、予想通りと言うべきか。
クレドの目がに留まった。

はぎくりとスプーンをバットに落とした。
「あ、お邪魔してます……」
「ああ……」
クレドはの姿に何か言いかけ、やめた。
落ち着かない気まずさが辺りを満たす。
「やだ、どうして二人ともそんな緊張してるの?」
キリエがくすくす笑い、おかげで空気が解けていく。
はちょっと唇を突き出した。
「だって何か……先生、スーツじゃないし」
も私服だしな」
「そんなことで?変なの」
ややあってから、ふとクレドがの左頬を指差した。
「……戦闘態勢か?」
「へ?」
「ああ、ほんと」
クレドの目線を追ったキリエも小さく吹き出す。
「なに?」
促されて、は食器棚のガラスに顔を映した。そこには、
「えぇっ!!?」
先住民のフェイスペイントよろしく、茶色く擦れた線がぴっと頬を横切っていた。
「きっと知らない間に触っちゃったのよ」
「信じられない……」
恥ずかしすぎる。
下を向けばココアであちこち茶色のエプロンが目に入り、キリエが差し出してくれたハンカチは綺麗で真っ白で──は一層ずーんと落ち込んだ。
が、打ちのめされたのも束の間、
「その勇ましい戦果を味見させてもらうか」
クレドがトリュフを一粒つまんだ。
「あ!」
(それはいちばん最初に作った不細工なチョコ……)
形を気にした様子もなく、クレドはそれを一口で頬張った。
(摘まみ食い!先生が摘まみ食いした!)
は瞬きすらできずに、クレドを見つめた。
「おいしいでしょ?」
の代わりにキリエがにっこり笑う。
チョコレートをじっくり味わい、ゆっくり顎を引いて頷き、クレドはそのあと誤魔化すように咳払いした。
「ウィスキーは無しか」
「当たり前よ、未成年にあげるんだから。それに摘まみ食いに文句の権利はないのよ、兄さん」
「それもそうだな」
ひっそり口元を和ませたクレドの表情。
は、帰りにもう一度スーパーに寄って買い物していこうと決心した。





冬も折り返した今朝は、すこしだけ寒さが和らいだ気がする。
昨夜遅くまで起きて寝不足の目をこじ開け、は鞄の中身を確かめた。
確かにちゃんと入っている。
緊張で気が重いが、今日でなければ出来ないこと。
「行って来ます!」
励ますように大きな声を上げ、は空元気で通学路に飛び出した。



月曜の気だるい雰囲気漂う学校の生徒玄関には、相変わらず早い登校のバージルがいた。狭いスペースにみっちり詰め込まれた一日遅れの贈り物を、無表情でサブバッグに入れている。
彼は今日も勿論おモテになっている。
「おはよう、バージル」
は努めて明るく声を掛けた。
「ああ」
こちらを向かないまま、バージルは軽く頷く。
「すごい数のチョコだね」
「下らない金の使い方だな」
「でも捨てないんでしょ?」
「さあな」
会話を続けても、一向に振り向く気配がない。
「バージル」
は拳を握って彼を見つめた。
「その……ごめんなさい」
ゆっくりと、バージルが目を上げた。
「何のことだ」
「だから、この前の……変なこと聞かせちゃった、から。だから、ごめんなさい」
もう一度頭を下げる。
バージルは溜め息をついた。
「それで、しつこい男は振り払えたのか?」
「え?」
何故バージルがそれを知っているのか——思い当たる節は一つしかない。
「……ひょっとしてダンテから聞いた?」
答えずバージルは前を向く。
「あのー、それで」
「モーニン、ハニー!」
突然、どかりと腕が頭に乗せられた。
「ダンテ。おはよう」
ちょうどいい所に割って入ってくれた。さすが友達……というかもしかしたら、タイミングを見計らって助け船を出してくれたのかもしれない。
「オレにチョコは?」
はダンテの腕で重い頭をこくんと振った。
「もちろん、あるよ」
「え!?」
ダンテの声とバージルの片眉が跳ねた。
「マジで!?」
「マジですよ」
鞄をごそごそ探って小さい箱を取り出す。同じパッケージを、二つ。
左右に内角110度ほど腕を広げ、はダンテとバージルに向けてそれを差し出した。
「はい、どうぞ」
「……。」
「あーそういうこと……サンキュ」
ぎこちない動作で双子は各々、からチョコレートを受け取った。
「荷物増やしちゃったね」
既にめいっぱいのバージルの鞄に目を落とす。
「そうだな」
バージルは貰ったばかりのそれをコートのポケットにすとんと入れた。
「ありがとう。バージルも、ダンテも」
手を合わせて感謝して、は玄関を後にした。
軽やかに遠ざかっていくその背中を何となく最後まで見送り、後に残された双子は無言で互いに背を向けた。別に義理以上を期待していたわけではない……が、同時に渡されると何だか非常にとっても面白くない。
「ま、いいけどな」
バージルと同じようにコートにのチョコレートを仕舞い、ダンテは靴箱を開けた。途端、プレゼントたちが雪崩を起こしかける。慌てて手で押し戻したものの、困ったことに余分なバッグなど気の利いたものは持って来ていない。
「なーバージル、予備の」
「ない」
「即答かよ。冷てぇな」
「見越して用意しないお前が悪い」
「けど、たくさん貰う気満々で用意するっつーのも……なぁ?」
ダンテの謙虚さなどまるで無視し、バージルはさっさと教室に向かってしまった。
「おい、ちょっと」
手伝えよと言いかけたものの、冷たい兄からの助けは諦め、ダンテは再び箱の山と相対した。
「教室まで行けば何とかなるか」
崩れてきた包みを全てそのまま腕にキャッチして抱きかかえる。そして器用にそのままバランスを取りながら歩く。まるで大道芸だ。
そのダンテに、今日一つ貰えるかどうかのラインの男子生徒は激しい嫉妬を隠しもせず、女子生徒は渡しやすくなったことに喜び、「これ受け取って下さい!」と山を更に積み上げるのに貢献した。





全授業が終わり、は出待ちをしていた。
場所は教官室前。お目当てはもちろん、アイドルなわけはなく教師。
ノートと数学の教科書と、それからおまけを抱えて待つこと三分。
教師がからりと戸を引いた。クレドの登場である。
「先生!」
すかさず前に立つ。
クレドはその場にぴたりと立ち止まってを見下ろした。
。どうした」
「分からない問題があるので、教えて下さい!」
教科書を開いて指差す。
(学校だと、話し掛けるのもそんなに勇気いらないのになぁ)
先生の家では落ち込んだりどきどきしたりと、最後まで本当に全く全然落ち着かなかった。
「この問題なんですけど」
設問を追って、クレドは僅かに眉を寄せた。
「説明が長くなりそうだ。中に入りなさい」
肩を引き、教官室へ入るよう促す。
「えっと」
は目を彷徨わせた。
教官室ではちょっとまずい。
「隣の教室じゃ駄目ですか」
「ああ、黒板で教えた方がいいか?」
「えーと、それはノートで大丈夫なんですけど……」
「……では?」
「実を言うと……先生の横の席の、アグナス先生が苦手なんです」
の呟きにクレドが返事するより先に、中から轟音のようなくしゃみが届いた。



幸い、教室は空っぽだった。
夕陽が窓から三列目の席までを見事なオレンジに染めている。
は化学も苦手だったのか?」
外の喧騒に紛れそうなほど穏やかな声で、クレドが訊ねてきた。呆れた口調ではないことには胸を撫で下ろす。
「だって、アグナス先生、『こんな基本の元素記号も分からないのかね!』って、それはそれはものすごく恐い顔で怒るんですよ……」
クレドはそっと笑い、すぐに気難しく髭を摘んだ。
「想像はつくが、元素記号は覚えなさい」
「はーい」
返事が子供っぽく甘ったるくなってしまうのは、もうどうしようもない。
クレドを独り占めしている、ただそれだけでを元気にするには充分だ。
(幸せすぎて、くらくらする)
にやつく下唇を噛んでみても効果は薄い。先生を見上げれば、まともに目が合ってしまった。
「……それで、問題は?」
「これです」
用意した問題を改めて見せる。
ざっと目を通し、クレドはもう一度教科書を返した。
「何処から引っ掛かる?まさか最初から手がつけられない訳ではないだろう」
「えっと、ここまでは何とか」
「これは」
クレドがごく自然にの手からシャープペンシルを取った。キャラクターのチャーム付きのペン。
文字を書こうとすると、ペンのキャップに付いたキディちゃんが手の甲に揺れる。何度かそれを振り払うような仕草の後、クレドは説明を止めた。
はこの筆記用具でいつもノートを取っているのか?」
「はい?そうですけど」
「邪魔だろう?こんな飾りは」
「そんなの考えたことありませんでした」
「無い方がはかどると思うが」
「あってもはかどりますよ!ところで先生、それ似合ってます」
は割と本気でそう言った。
実際、ペンはクレドには少々可愛らしすぎだが、盲目のにはそうは映らない。意外性には惹かれるもの。摘まみ食いのクレドには、たいそう心を奪われた。
「……説明に戻る」
「はい」
流れるように説くクレドの解法は、いつも通り心地よく耳に響く。
(意外性といえば……)
クレドは本当に真面目で堅苦しいだけなのだろうか。
考えたくないが、クレドがこんな風に滑らかに──数学以外を語る相手がいたりしないのだろうか。
「次のテストの準備はどうだ?」
いきなり問われ、は椅子の上でびくりと飛び上がった。
「……準備していないのか?」
「あ、ああ、違います!勉強してます!」
慌ててノートをぱらぱら捲って、クレドに見せる。
「毎日ちゃんと復習してますよ!授業のこと思い出してます!」
「そうか」
「本当ですよ!」
「なら、次は赤点は取らないで済むな」
「あ……」
「それとも、まだダンテに付き合うつもりか?」
「あー……ええと……赤点は取りません……」
「よろしい」
「頑張ります……」
ノートを閉じ、筆記具を添えて、クレドはを見た。
「分からない問題があったら、また聞きなさい」
なんて誘惑──今すぐ教科書全部さらい直して下さいとお願いしたい。
一瞬本気でそう言いかけたが口を開く前に、4時を知らせるチャイムが鳴った。
「今日はこれでいいか?」
クレドが椅子を引く。床が軋む音で、ははっきりと我に返った。
「あ、あと一つあるんです!」
まだしなければいけないことがある。今日しかできないこと。
「どれだ?」
律義に教科書を開き直したクレドに、その目の前に、隠し持って来たものを置く。
「これ……教えてもらったお礼です」
数秒、クレドが固まった。
「受け取って下さい……」
蚊の鳴くような声で付け足す。
クレドは、とりあえず教科書を閉じた。脳内でどんな理論が組み立てられていることやら──明らかに、どうしたものかと迷っている。
「しかし……」
断られてしまいそうな雰囲気に切羽詰まったは、ものすごい理屈を捏ねることにした。
「お菓子は校内に持ち込み禁止ですよね?」
「……そうだな」
クレドは安堵したように頷く。殊更しかつめらしい顔を作って、繰り返し何度も頷く。
「だからこれは、悪いが」
「没収して下さい」
はずいっと箱を押し出した。
「な」
「お菓子です。だから、見つけたクレド先生が没収」

「チョコレート、ちゃんとウィスキー入りです……」
祈るように、もうちょっとだけ箱を押す。
クレドは大袈裟なほど深く息をついた。
「……仕方ない。これは私が没収する」



いまだかつて、教官室に入ることにこれほど緊張したことはない。
小さく左右を窺うように視線を走らせてから慎重に、クレドは席に戻った。
こっそり書籍の死角になるように、綺麗に包まれたそれを置く。誰にも見つかっていないはずだった。
が、
「クレド!そそその箱は何だね?」
目敏い隣人は欺けなかった。
眉を吊り上げるアグナスから、出来るだけ箱を遠ざける。
「ただの“没収品”だ」
──ウィスキー入りの、クレドに没収されるために用意したもの。
(よくもそんな理由を見つけ出したものだ)
違反を取り締まった後にしては、クレドはやけに表情がやわらかい。アグナスは疑いを持って目を細めた。










→ afterword

学パロ、このシリーズではクレド先生が攻略対象だというのに、どうしても!ついつい!双子を構ってしまいます
乙女ゲーみたいに、ルート分岐したいくらいです…書くの膨大になるけど、いつか実現できたらいいなあ

2010.2.14