『君よりあの子の方が要領もいいし、仕事を頼みやすいんだよね』
──すみません。
『新人じゃないんだから、もう少し何とかならないかね?』
──努力します。
『行動で示して欲しいけどねえ』
──     。



「……夢……」

いやな夢だった。
重い頭を振って、は起き上がる。
ぐっしょりと汗をかいた背中が、さっきの悪い夢の名残を宿している。
いや、夢ではあるが、あれは実際に起きた出来事だ。それもそう遠くない過去。
いつものように会社で仕事をしていて、そして上司に注意を受けたときの記憶。
上司は厳しいことで有名な人物で、更になまじ自分自身が優秀なものだから、少しばかり部下への配慮が足りなかった。
些細なことで怒鳴られるのはしょっちゅうで、けれどそれはどれも上司が正しいことばかりだったから、は他の社員と同じようにただ頭を下げて謝って……その繰り返しだった。
でも、別に『あの日』──がこちらの世界に足を踏み入れた日──特にひどく怒られたわけでもない。
(……限界だったのかも)
心では耐えているつもりでも、体は不調を訴えていた。
本気で逃げ出したいと思った。
だから、この世界に迷いこんだ。
それがきっと答え……。
『向こうの世界で何かあったんじゃないのか?』
しんと自分を捉えていた、海の底のような瞳。バージル。
彼はもっと早く見抜いていたのかもしれない。
『不安を覚えると、姿が虚になる』
何も間違っていない。バージルは正しい。正しすぎるくらいに。
誰より先に事態を理解していた。
それはつまり、それだけのことを考えてくれていた証拠。
表現として分かりにくいだけで、バージルは優しかったのに。
「……ぶっちゃった……」
バージルは怒っているだろう。
現実を受け入れられない弱い女だと。
「謝らなきゃ……」
『すみません』でも『努力します』でも、無言でもなく。
自分なりの言葉で、せいいっぱいの気持ちを込めて。
おわびにもうひとこと、『ありがとう』も付け足して。
心から。



「バージル?」
階下に下りても、彼はいなかった。
青いコートは掛かっていたから、遠くへは出掛けていないだろう。
「どこへ……」
部屋を見回して最後に辿り着いた窓の向こう、外は糸のような雨が降っている。
そのくすんだ景色の中。
「あ」
見つけた。
中にもいられず、でも遠くへ離れることもできずに、どうしようかと雨の中で迷子になっている人物。
彼に似つかわしくない、どこか頼りなげな背中。
(私よりも先に消えちゃいそうじゃない)
は雨露をしのげそうな物を手に、外へ飛び出した。





外はさらさらと雨が降っていた。
頬にあたる雨粒でそれはしっかり分かるのに、バージルは掌を掲げて確かめてみる。
ぽつんぽつんと思い出したように手を叩く雨。
風も僅かだが吹いている。
雨も風も体温を奪っていくが、事務所の中に戻る気分にはなれなかった。
だが中にを一人残したままここを離れるわけにもいかず……ただ立ち尽くしていた。
はまだ泣いているだろうか。
──どこか遠くから来た女。
彼女の世界には存在しないという化け物に襲われたときも、それから何度も体に異変が起きても、それまでが涙を見せることはなかった。
もしも彼女の姿が今朝よりも消えているようなことにでもなれば、ダンテは激怒するだろう。そろそろ拳の出番かもしれない。……殴られても仕方ないと思った。
冷静になれば、もう少しましな方法があったように思えてならない。
穏やかに、オブラートに包むように、もっと他の言い方でもやり方でも。
(あいつならどうしただろうか)
普段ならダンテの考えを知りたいなど滅多に思わない。
「Darn it !」
バージルは唇を噛んだ。
ダンテならうまく彼女に伝えただろう。泣かせることも、手を上げられることもなく……
ひょっとするとの笑顔も引き出して。
の笑顔など俺は見たことがない)
泣かせる方が簡単だとは、あまりに──
バージルは溜め息をついて、灰色の空に掌をかざす。
けれど雨は当たらなかった。
「……?」
さらさらと雨音は続いているのにおかしい。
ふと視界が薄暗くなったように感じて振り返れば、が立っていた。せいいっぱい背伸びして、青いコートをバージルの頭上で広げている。
バージルは目を見開いた。信じられない光景。
……」
自分でも呆れるほど声が掠れた。
「風邪引いちゃうよ」
硬い表情で、それでもほんのすこしだけ微笑んではバージルを見つめる。
「ごめんなさい。傘が見当たらなかったし、私はコートも持ってなくって」
コートをバージルに着せかける。
一瞬だけ触れた彼の肩はつめたかった。
バージルは微動だにしない。
は雨に濡れることも気にせず、横にそっと並んだ。
深呼吸で気持ちを整えて、それから口を開く。
「あのう……さっきはぶってごめんなさい」
隣から、かすかにバージルが息を飲む音が聞こえた。
「バージルが正しいのに。かっとなって周りが見えなくなったの」
掌を彼に見せる。右だけでなく左も、それも肘から下がすっかり見えなくなっている。
透明な浸食はどんどんひどくなるばかり。
ぐっと涙を堪えて、は唇をきゅっと持ち上げた。
「現実はこの通り。もうすぐ全身消えちゃうかも」
よわい声にたよりない言葉。ぎしりと胸を突かれて、バージルは目を瞑った。
笑顔とは呼べない笑顔。そんなの顔は見たくない。
──だったらどうする?

「そうはさせない」

「バージル」
雨の匂いを感じた、その拍子に息が詰まった。
目の前には水を吸って色が濃くなったあおいコート。
「バージル……」
はバージルにすっぽりと抱き締められていた。
「おまえは何が不安だ?どうしたら安心できる?俺は何をしたらいい?」
矢継ぎ早に頭に降ってくる声。
バージルがこんなにたくさん語るのなんて初めて聞いた。
──彼を怖いひとだと思っていた。ほんのつい数時間前まで。

「……元の世界に帰りたいか?」

答えられずにいたら、バージルは今度はゆっくりと、しずかに問い掛けてくる。
なおも言葉を探しては目を伏せた。
自分はここにいていい存在なのかどうか分からない。
地に落ちた雨が長く姿を留めることができず蒸発してしまうように、いつか姿が消えてしまうかもしれない。
それでも。
はさっきバージルがそうしたように、掌を上に向けて差し伸べた。
ぽつんぽつんと水がたまる。これが一瞬のことだとしても今はまだ目に見える、ちいさな水たまり。

「もうすこし、ここにいたい」

これが今のの本音だった。
「それでいい」
バージルが頷いた。彼の顎が頭のてっぺんに触れる。
くすぐったさに、はおでこをバージルの肩口にくっつけた。
「ありがとう……」
さらさらと、雨はまだ止まない。
バージルのコートは水を吸ってどんどん重くなる。
寒さにくしゃみをしかけ、はとあることを思いついた。
「雨が上がったら、みんなで買い物に出掛けたいな。私もコートが欲しい」
バージルの胸を押して彼を見上げる。
「もちろん、バージルが幽霊とデートしてもいいって言ってくれるなら、だけど」
ほんのすこしだけ照れを含んで、は綺麗に微笑んだ。つくりものではない表情。
初めて見せる顔。
「構わない」
長く見つめることは出来ず、バージルは目を逸らした。そして視界に映った彼女の右手は──
バージルはの手を強く引き寄せる。
雨が上がったなら、出掛けよう。





その夜。
依頼から帰ったダンテは、バージルから事情を聞くとみるみる不機嫌になった。
自分がいないときにそんな状態。
はバージルに怯えなくなっていて、バージルもバージルで異様に(ダンテからしたら気持ち悪いと思えるほど)雰囲気がやわらかい。
「何だってんだ」
いらいらとキッチンに立ち冷蔵庫を開け、トマトジュースを取り出す。
だいたいどうしてここの所は自分への依頼が多いんだ?
はけ口が見当たらず、仕方なくジュースで怒りをがぶがぶ飲み込んでいたら、がこちらに来るのが見えた。
「ダンテ?お腹空いたの?」
ずいぶん明るい声。
そしてそれと見合う、彼女の姿。
一瞬苛立ちを忘れてダンテはほっと口元を緩めた。
「直ってんな」
手も足も、どこもかしこもくっきりはっきり普通の人間。
「今はね」
なぜだか恥ずかしそうには俯いた。
「これなら明日、出掛けられるよね」
「ああ」
彼女を立ち直らせた理由がバージルだとすれば腹立たしいが……嬉しいことには変わりない。
「祝杯。ジュースだけどな」
いたずらっぽくトマトジュースを持ち上げる。
も手でグラスを持って乾杯の仕草をした。
「健康的でいいよ。……あれ?」
「ん?」
がつつつっとダンテの斜めに回り込む。
「ダンテ、怪我してる。大丈夫なの?」
「……ああ」
何のことかと思ったが、に手の甲に触れられてようやくダンテは怪我のことを思い出した。
依頼先、ちょっとばかり油断した代償のなまくらな傷。
「もう瘡蓋で塞がってるけど、でも結構深いみたい」
心配を滲ませたに、ダンテはぷらぷらと手を振って見せた。
「こんな傷。言ったろ、オレ達はスーパーナチュラルな存在だって」
「あ、そうだったね」
人間と化け物の中間の存在、とだけは聞いている。
はそれでも割り切れない様子でダンテの手を見つめた。
「それより」
怪我を気にされることに慣れていないダンテは、無理やり話題を変えるべく会話を切りだす。
はよくオレ達に『私のこと不気味じゃないか』って訊ねるけど、おまえこそオレ達が怖くないのか?」
重たい剣を軽々振り回したり、銃を乱射したりして異形の化け物を退治する存在。
どう考えても『一般人』という枠には収まらないだろう。
ああ、とはちょっとだけ視線を揺らした。
「……最初は怖かったよ」
特に、バージル。
初めて目の前に現れ、刀を振った彼は……今思い出しても、ちょっぴり怖い。
そういえばダンテだって常人には不可能な運動神経を披露していた。あのときもうちょっと冷静な判断力を持っていたら、そのジャンプ力の方がよほど化け物めいていて怖かったかもしれない。
「でも、今は全然怖くないよ」
二人と暮らしてみて、彼らが化け物というよりはスーパーマンの方に近いということがよく分かった。
それにだいたい、自分だって幽霊みたいなもの。
自分こそスーパーナチュラルだ。
そう言うと、ダンテはほっと髪を揺らした。
「そうか」
嬉しさを表すような自然な動作で、ダンテがひょいっと空き缶をゴミ箱に投げる。からんからんと騒々しい音を立てて吸い込まれる缶。
その放物線を目で追って、は目に映ったダンテの傷から瘡蓋が剥がれかけていることに気付いた。
「ほんとだ。もうほとんど治ってるね」
確認するようにダンテの甲を撫でてみる。そこはするんと何もない。
「よかった」
心底安心したように、は顔をほころばせる。
何気なく触れられて、笑顔を見せられて。
(おまえ無防備すぎんだよ……)
ダンテは正直、天を仰ぎたい気分だった。
「あのさ。すっかり安心してもらってるとこ、脅かすつもりはねぇけど」
「なに?」
くるんと瞳を上げたに、ぐいと近づく。
「オレ達にしてみたら、おまえはご馳走。美味そうな匂いぷんぷんなんだぜ」
「えええ?」
「一口もらっていいか?」
にいっと白い歯を見せるダンテに、はぎょっと身を引いた。
急に何を言い出すかと思えば。
いつもの冗談かと思いきや、ダンテの目はまっすぐ真剣そのものだ。
(ご、ご馳走?)
化け物が喜ぶものと言ったら何だろう。
さすがに体のパーツは手放したくない……。
ダンテは自分の首の辺りを見ている気がする。
首。動脈。……血が欲しいのだろうか。ダンテもバージルも、吸血鬼のような牙はなかったような気がするが……
「血、なら……」
再生されるものなら、あげられる。
それくらいなら、世話になっているお礼として差し出すべきなのかもしれない。
「ど、どうぞ……?」
はぎゅうっと堅く目を瞑った。手は痛みに耐えるべく、しっかり服を掴んでいる。
──その滑稽な姿の可愛らしさと言ったら。
吹き出しそうになるのを堪えて、ダンテは顔を寄せた。
噛みついて血を吸うため……では、もちろんない。
「ご馳走様」
の首筋に、ちゅっとちいさな音を立てる。
敏感なところに一瞬だけ触れたやわらかい唇。
「……!?」
痕を手で押さえて、はがっと頬を真っ赤に染めた。
「は、はははっ……はは!」
目前では、堪え切れなくなったダンテがついに爆笑しだした。
遠慮なく大笑いしている彼に、は恥ずかしさのあまりにふるふる震える。
最高だの可愛いだの言われても、ちっとも嬉しくも何ともない。
(こっちはかなり本気で血を捧げる覚悟だったのに……!)
「あ、悪魔!」
「実はそれでBingoなんだ、
もうだめだ限界だ、とダンテが喉を反らした。
「ダンテ!!!」
むしろこっちがその喉に噛みついてやりたい!と悔しく思ったのだが……、最後はもぷーっと吹き出した。





翌朝。
真新しい光を受けて、外は美事に晴れ上がっていた。
ダンテがばんと気合いを込めて、扉を開く。
「行くぞ、
「ちょっと待って」
はきょろきょろと全身を確かめた。
今のところ、異常はないようだが……
「大丈夫だ」
バージルがの背中を押しやった。
「消えたら俺のコートを貸してやる」
その抜けがけめいた提案を地獄耳で聞き咎めて、ダンテはびたりとの横に立つ。
「バージルのコートは裾が割れてるからだめだろ。オレのを貸してやるよ、
「俺のコートの方が丈がある」
あっという間に烈しく睨み合いが始まってしまった。
ぴったりちょうど真ん中に挟まれ、はぞくりと肩を揺らす。
こんな状態では険悪すぎて、楽しい外出どころではない。
「あの。どっちも嬉しいんだけど、」
「「何だ?」」
「私が着ても、二人のコートは消えないの?」
雰囲気を断ち切るべく投げかけられた素朴な疑問に、双子はまんまと押し黙った。
「どっちだよ、バージル」
「俺に聞くな……」
さっきまでの勢いはどこへやら、急に気弱になった両者。
はくすりと背中を丸めた。
そろそろ二人の喧嘩の収め方が分かってきたような気がする。
「そのときはそのときでいっか」
遠慮なくコート借りるからね。
そう言って屈託なくほころんだ、の花のかんばせ。
数秒だけじっくり見惚れて……ダンテとバージルは互いにちらりと目配せした。
同じ形の目に、ご丁寧にも同じ想い。
我先にと告げた言葉は、

「「ずっとここにいろ」」

考えた通り。まるで事前に言い合わせていたかのように重なってしまう。
「え、ええ?何、急に」
右左とあたふたしたの右手を、
「どうせ帰る方法も分からねぇんだし」
ダンテが強引に指を絡めれば、
「いや、分かったとしても……」
バージルは左の肩に手を置いて指先での頬に触れる。
「ちょっと?」

「「帰さない」」

左右をがっちりと悪魔に密着されたはまるで生贄のよう。
しかし。
「帰れって言われても……帰らないよ?」
ぽそりと呟いてそれきり真っ赤に俯いた生贄の横顔に、囚われたのは悪魔たちのほうだった。





その後のお話。
私は、ダンテとバージルがいる世界を選んだ。
元の世界に帰る方法がないから、なんて消極的な理由からじゃない。
だいたい、こっちは化け物が闊歩している危険極まりない世界。いまだに一人で外出なんて怖くてできない。
それでも私はこちらの世界が大好き。
幽霊でも人間でも、あるがままの自分をしっかり認めてくれるひとたち。
そして、同じだけ彼らを必要としている自分。
バージルに「元の世界に帰りたいか?」と聞かれたらきっぱり「ううん」と答えるし、
ダンテに「ずっとこっちにいろよ」と言われればはっきり「うん」と答える。
……そういえば。
最近、私の体に異変は起こっていない。
それはきっと二人が傍にいてくれて、不安を感じる暇なんてなくなったから。
たぶんもう大丈夫。
ちょっと前はまだ不安定でよく手とか足とか消えたけれど、その度にダンテかバージル、それか二人ともがこう言った。

『心配するな』

たったそれだけなのに、どんな魔法よりも効果的。
なんて適当な綺麗ごと。
だけど今の私はまるごとすっかり、それを信じている。
魔法が解ける鐘の音は、聞こえない。







→ afterword

一周年記念の双子夢です。
ふっと落ち込んだり自信がなくなったりしたとき、双子がそばにいたらいいなーと思って書きました。
双子夢ですが、兄が優勢な気がするのはきっと気のせい。そう、気のせいですよ!(逃走)

それでは、一年間どうもありがとうございました。
またこれから次の一年を心機一転で積み上げていきます!

2008.11.28