第四.五話 夏 / near and dear




みーんみーん
じーわじーわ
空は抜けるような青さ。
セミには嬉しい天気だとしても、炎天下で部活をさせられる身としては、白いペンキで空に雲をもっともっと描き足したくなる。それでもむしむしするなら、いっそ雨粒を落とすなどして。
夏休みはもう10日を残すばかり。
部活で登校する時にしかクレドに会えるチャンスがないことを思えば、早く夏休みが終わってほしい気もするけれど。

「あつい……」

今日も部活でマネージャーとして出勤中。
体感気温40度は容赦なく体力気力を奪う。じっと立っているだけで、ぽたぽた汗が頰を伝っていく。
は頭にかぶったタオルで顔を拭いた。せっかくの日焼け止めも、また塗り直さなければならない。油断すると首元から上だけ焼けて、ジャージ下の肌との対比がチョコスティック菓子の逆バージョンみたいな面白おかしい見た目になってしまう。
じじっ。
間近でセミがやかましく鳴いた。
「セミの鳴き声って、余計に暑さを盛り上げてくるような気がしない?」
「そうね……」
返ってくるキリエの声も張りがない。
思わず隣の彼女を見る。
くたりとした栗色の髪までも、元気がないと伝えて来るようだ。
「キリエ、しばらく木陰で休んでおいでよ。連中は紅白戦で、今は手がかからないから」
ぽんと彼女の肩に手を置く。触れた肩は布越しでも熱い。
キリエは深々と息を吐いた。
「じゃあ……甘えちゃおうかしら」
「うん!熱中症になったら大変だから。いっそ保健室に行く?」
「木陰で大丈夫。ごめんね」
校庭の端っこ、どっしり大きな桜の木の下にキリエと歩いて行く。
芝に部員用の大判タオルを敷いて席を作ると、キリエは申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ごめんね。タオル汚して」
「いいのいいの。どうせ帰りにまとめて洗うんだし」
とにもかくにもキリエを座らせる。
「あと、これも」
スポーツドリンクを薄めた水筒を手渡す。中の氷がからんころんと鳴って、中身はまだまだ冷たそうだ。
他にもっと涼しくなる方法はと顔を巡らせて──視線の先に目を留め、は思わずニヤリと笑んだ。
(私の役目はここまでかな)
「じゃあ、キリエ。私は戻るね」
「ありがとう。なるべく早く練習に戻るから」
「いいから、ごゆっくり〜」
手をひらひら振り、グラウンドに目を向ける。
こちらへ小走りでやってくるのは、頼れる人物。
(来たね!)
右目で慣れないウインクを飛ばしてみせたものの、左目までつられて半分閉じてしまった。その表情に呆れながら、ネロが立ち止まる。が、その呆れ顔もすぐに真剣な表情になった。
「キリエは大丈夫なのか?」
「保健室に行くまでじゃないって。でも、心配だったら」
「無理にでも連れて行くよ」
「ん。任せた」
キリエに直接渡そうと思っていたバインダーから、スコア用紙を外してネロに渡す。
ネロに任せておけば本当に安心なので、は心置きなくその場を離れた。



「なー、ネロはー?」
「サボりか?」
エースに抜けられた白チームが、わらわらとの周りに集まってくる。
「護衛中」
腰に手を当て端的に答えると、その場の誰もががっくり項垂れた。
「しばらく戻って来ねぇな……」
「どうすんだよ……」
眉をハの字に落としてすっかり意気消沈しているメンバーに、は眉を吊り上げた。
「もう!ネロ1人抜けたくらいで何なの!?頼りっぱなしで情けないと思わないの!?俺がネロの分まで活躍するぜ!何ならエースの座も奪ってやるよ!とかそういう気概はないの!?そんな弱気じゃ交流試合のムンドゥス高校には勝てないよ!」
「暑苦しい……」
「もっと熱くなりなさいよ!」
「わかったわかった」
鬼役に徹するマネージャーに檄を飛ばされ、部員たちはしぶしぶ試合に戻って行った。
「ったくもう……ネロだってまだ一年生なのに」
ピッピッとホイッスルつきで連中を送り出してから、はちらりと木陰を見た。
キリエはネロから借りたのだろうジャージを頭から日除けに掛けて、三角座りしている。水筒を傾けて、ちゃんと水分補給もしているようだ。
ギラギラ太陽とキリエの間には、抜かりなくネロが立ちはだかっている。手にはが渡したバインダー。用途を説明するまでもなく、こちらが意図した通り、キリエを扇いであげている。
ネロの顎から汗がしたたるのを認めて、キリエがハンカチを差し出した。それをやんわり断ると、ネロはTシャツの襟元で乱暴に顔を拭った。苦笑したキリエは手を伸ばして彼の汗をやさしく拭いてやっている。
ネロの顔が赤いのは、暑さのためだけではないだろう。
(んんー、青春)
どうしてもニヤけて緩んでしまう口元から、くわえていたホイッスルが落ちた。
「ぁあ」
ホイッスルを拾い上げるために身を屈めると、その拍子に校舎の廊下が──正確には、廊下を歩くの『青春』の姿が目に飛び込んで来た。
(クレド先生!先生!!)
まさか心の声が聞こえた訳ではあるまいが、クレドもこちらに気付いた。
(わああ!!先生!!)
は背後の紅白試合のことを忘れ、クレドにおおきく手を振った。
クレドも応えて、ちいさく右手を上げた。真夏でも長袖の白いワイシャツに濃紺のネクタイをびしりと締めた姿だが、クレドの場合はやけに涼しげに見える。
(先生ーーー)
ラッキーなことに、今日は会えた。雨だと部活そのものが中止だから、この炎天下にも地に跪いて感謝のキスを捧げたくなる。
(チェス部に来たのかなぁ)
今すぐ廊下に駆け込んで訊ねたいところだが、仕事を放棄するのはクレドがもっとも嫌うこと。はグッとその場に踏み止まった。
学校さえ始まれば、先生に話しかけるチャンスはいくらでもあるはず。なかったら作るのみ。
名残惜しくも何とかぺこりと一礼してから視線を引き剥がし、紅白戦に向き直る。
拾った砂まみれの笛を体操着でゴシゴシ拭いて、しっかりくわえる。
(いいとこ見せなきゃ)
頑張っていると、誰より尊敬するクレドに認めてもらうためにも。
胸に下げたストップウォッチが鳴った。ハーフタイムに設定した時間。
は思い切りホイッスルを吹いた。





「なあ。あいつら、あんなに仲良かったか?」
「どの人たちのこと?」
グラウンドの紅白戦に目を上げたキリエに、ネロは違う方向を親指で示してみせた。
「クレドと
「え?」
予想と違った組み合わせに、キリエは目をぱちぱちさせた。示された方向を振り返る。
言われて観察してみれば、はとびきりの笑顔でキリエの兄にぶんぶんと手を振っている。そしてクレドもクレドで、手を上げて応えてやっている。その顔には笑みとまではいかないものの、穏やかな表情が浮かんでいる。
「あら」
「なんだ?あのクレド」
ネロが不気味そうに呟いた。それでもバインダーでキリエを扇ぐ手は止めない。
キリエはそっと微笑した。秘密を打ち明けるように、小声で囁く。
「あのね、ネロ。……兄さんね、近頃楽しそうなの」
「何だって?」
聞こえなかったネロが、キリエに顔を寄せる。
「だから……そうなったらいいな、って」
「そうなったら?何がどうなるって?」
聞き落としたのかと更にキリエに頭を近づけて、互いの髪が頰に触れる。肌の熱が、近い。彼女のあまい香りが──
「っ、ごめん!」
ネロは慌ててキリエから離れた。
ピィーッ!
まるでネロを咎めるように、ホイッスルが耳に突き刺さる。
「ハーフタイムだ」
瞳を不自然に揺らしてグラウンドを見ると、キリエがネロの手からバインダーを取り上げた。
「私もそろそろ戻るから。ネロは先に行って」
「もう?平気なのか?」
「ええ。大丈夫。と、あなたのおかげよ。ネロ」
ふわりと笑顔を見せられて、ネロは照れ隠しに手の甲で鼻をこすった。
「……じゃあ、行くよ」
「あ、待って。あなたも水分補給していって」
「ん」
差し出された水筒に何も考えず口を付け、ネロの動きがぴたりと止まる。キリエが首を傾げた。
「どうかした?もう水筒からっぽだった?」
「……いや。今のでちょうど終わった」
「そう。ネロの分も残ってて良かった」
「これ、向こう持って行くよ」
「ありがとう」
今はもう氷すら溶けたそれを振り、ネロは今度こそグラウンドに駆け出した。
ちらりと後ろを振り返れば、気づいたキリエが手を振ってくれる。
片手を挙げて顔を前に戻し──ネロは眉根を寄せた。
(キリエはこういうの、全く気にしないタイプか?)
なまじ幼い頃から共に育ったから、まさか意識すらされていないのだろうか。
さっき水筒を差し出したキリエには、何の躊躇いもなかった。
(──間接キスってやつだろ?)
キリエのつややかな唇が、鮮やかに脳裏に蘇る。
瞬時に全身の熱が上がって、これではキリエより先に自分が熱中症に倒れそうだ。
「……Shoot!」
ネロは思い切り頭を振って映像をかき消した、ことにした。





「キリエ、どうした。大丈夫か?」
親しい声に呼ばれ、キリエは後ろに顔を巡らせた。
クレドが窓を開け、心配そうにこちらを見下ろしている。
「兄さん。平気よ、もう部活に戻るところなの」
敷いていたタオルについた草を払って、ゆっくり立ち上がる。周囲の草いきれも今は気にならない。涼しい木陰で休ませてもらって、だいぶ楽になった。
クレドは妹のわずかな異変も見逃さないよう、目を細めて注視している。
「あまり無理するな」
「ありがとう。みんな優しいね」
「みんなとは?」
キリエはクレドにタオルとジャージを見せた。
「このタオルを敷いてくれたのはだし、ジャージを貸してくれたのはネロなの」
「そうか。……彼女にもしっかり休むように伝えてくれ」
何気なさを装った平坦な声音に、ごほんと咳払いが続く。
キリエはそっと微笑んだ。
(この暑さに女の子の体調を気にするのは普通だもの、そこまで意識しなくていいのよ)
どうやらはクレドのお気に入りの生徒のひとりらしい。
そしてそれはの方でも同じ気持ちであるようなのだ。
直近の学期末テストで、は赤点を取らなかった。それが嬉しいのやら寂しいのやら──返却の際に喜び合うべき両者は、何とも形容しがたい複雑な表情をしていた。もちろん、一言二言交わされたであろう言葉はキリエには聞こえなかったが。
(二人とも、成績上がって単純に喜んでるようには見えなかったのよね)
にも、ましてやクレドにも何かをはっきり確かめたことはないけれど、二人の中間地点にいるキリエは『そうだったらいいな』とひそかに思う。
身近にいる大切なひとたちが好きあっているのは、とてもしあわせなことだから。
「そういえば、は体育祭の実行委員になったのだろう?」
「よく知ってるのね」
物思いを中断し、キリエは目をまるくした。
担当クラスでもない、体育教師でもない兄がそれを知っているとは。
クレドは感情を隠すように後ろで腕を組んだ。
「ダンテが、例によって追試の時に教えてくれてな」
「ああ、そうだったの。ダンテさんも実行委員だって聞いたわ」
「らしいな。体育祭が無事に終わるといいが」
真面目な兄の大袈裟な溜め息。キリエはくすりと微笑んだ。
「次期生徒会長が二人に目を光らせてるから安心よ。現会長もとっても優秀だし」
「バージルとルシアか。それもそうだな。……バージルと言えば」
ふと、クレドが声のトーンを変えた。
「体育祭の打ち上げとして、セイディー・ホーキンズ・ダンスがあるだろう」
「ええ」
キリエはポニーテールを揺らして頷いた。
セイディー・ホーキンズは、女子から男子にエスコートをお願いできるダンスイベントだ。
この学園ではプロムよりももうすこしカジュアルな内容で、体育祭の後夜祭としての位置付けになっている。
キャンプファイヤーも焚かれるし、体育祭関連はなかなか熱いイベントが目白押しなのだ。
だが、まさかその浮ついたイベントを、お堅いこの兄が口にするとは思わなかった。
目顔で問いかけると、クレドは思案するように遠くを見つめた。
「……に、バージルを誘うよう背中を押してやったらどうだ?」
「バージルさんを?」
キリエは兄そっくりの栗色の瞳を瞬いた。
と仲がいいのは、あの二人ならダンテさんの方だと思ってたけど……どうして?」
ついとクレドは顔を背けた。
「いや、彼女が好きなのは……。……まあ、とにかく後悔しないように動くべきだと思ってな」
「……。……そうね?」
腑に落ちないなりに、同意しておく。
いきなりクレドがしかつめらしい眼差しで振り向いた。
「おまえはどうなのだ?」
「私?私はもちろん、ネロにお願いする予定よ」
「ネロか」
無意識だろう、クレドは顎髭を摘むような仕草で何やら考え込んでいる。そうして何度も頷き、
「まあ……そうだろうな。……うむ。それがいい」
一連の兄の動きに、キリエは思わずふっと吹き出した。
「もう、何なの?兄さん、今日はすこし変よ?」
「そうか?」
そうよと答えようとした時、チャイムが鳴り響いた。校内では夏期補習を受けている者もいるはずだが、ここにいるクレドは授業ではなかったのだろう。
「そういえば、兄さんは今日はクラブに来たの?」
「ああ」
話題が変わって、クレドはあからさまにホッと表情を緩めた。
「新学期から転入生が二人来るのだが、そのうちの一人がチェスに興味があって入部希望らしいから、部長に伝えておこうと思ってな」
「良かったじゃない、一時はクラブ存続の危機だなんて言ってたのに」
「入部だけでなく、真面目に続けてくれなくてはな」
「最初の手合わせは手加減してあげたら?兄さんがこてんぱんにしたから逃げちゃった子もいたんでしょう?」
「手を抜くなと怒るくらいの生徒の方が嬉しいのだ」
「それはそうかもしれないけど」
ピィーッ。
元気の良いホイッスルが響く。兄妹は同時にを見た。部員たちから使用済みのタオルを次々と渡されて、あっという間に一山かかえこんでいる。
「休憩も終わりね。を休ませてあげなくちゃ」
「キリエも無理するなよ」
「そういえば、ネロには?休めって伝えなくていいの?」
その名を聞くや、クレドは再び小難しい表情になってしまった。陽射しを遮るように手を上げる。
視線の先、ネロはグラウンドの真ん中でチームメイトに囲まれてストレッチしている。
「あれは……まあ平気だろう。そうヤワではあるまい」
「兄さんたら」
「ではな」
話は終わりとばかりに、からからと窓が閉じられる。
やれやれと溜め息をつくと、キリエはグラウンドに歩き出した。
がすぐに気づいて手を振ってくれる。
同じように手を振り返し、キリエは内心、首を傾げた。
(バージルさんを誘うように背中を押せって……?)
どういうことなのだろう。
クレドはバージルの数学も受け持っている。年度始めの頃に食卓で「バージルはとても優秀だ」と話したこともあったが、だからお気に入りのとの仲を取り持ちたいとでも言うのだろうか。
(そんなこと……まさかね?)
兄は嬉々として青少年の色恋沙汰に首を突っ込むようなタイプではない。
ますますわけが分からなくなってしまった。
「キーリエっ!もう平気なの?もっと休んでて良かったのに」
ぱたぱた走って来る、元気な。キリエもつられて微笑んだ。
「もう大丈夫よ。こそ、休んで来たら?私がホイッスル代わるわ」
「んー。いいよ。あ、でも一瞬だけお願い。日焼け止め塗り直したくて」
「ええ」
ホイッスルを手放すと、はポケットから日焼け止めのボトルを取り出して、勢いよくてのひらに出した。ざかざかとパテのごとく塗り込めていく。
ハーフタイムでの休憩時間、はおそらく部員にドリンクやタオルを準備していて、結局自分は休めていないのだろう。
クレドの気遣いを伝えようとしたとき、
「キリエは?使う?」
ぱっと振り向かれてしまった。
「さっき塗ったから大丈夫。ありがとう」
「うん。……ね!さっき、クレド先生が通ったね!」
今ちょうど口にしようとしていた名前とタイミングに、キリエはドキリとした。まるでいたずらを見つかった時のようにこそばゆい感じが胸に広がるのは、クレドその人との噂をしていたからだろうか。
「新学期から、クラブに転入生が入るみたいよ。それで部に顔を出すんですって」
「へええ!どんな子かな?先生もすごく喜んでるんじゃない?」
「そうね」
──は気づいているだろうか。転入生よりクレドの方が気になっているようなその口調。それも、いきいきした笑顔で、誰かと違って感情を咳払いや腕組みで隠しもせずに。
「また手合わせで部員逃さないといいけれど」
「ああ、そんなこともあったよねー。先生、結構落ち込んでた」
キリエはをそっと見た。
たとえばネロだったら忘れていそうな細かいエピソードまで、実によく覚えてくれている。
やはり背中を押す方向は、自分の直感の方が正しい気がする。身内贔屓でないならば。

(……『そうだったらいいな』は遠いのかしら、近いのかしら……)

体育祭まで、あと約二ヶ月。
その時は誰と踊っているのだろう。










2019.09.14