Peanut butter & Jell-O




空港に降り立ってから、はほとんど喋らなかった。
タクシーの窓からただただ周りの景色にじいっと見入っては時折、あの建物は何?、などバージルに聞くだけ。
そんな彼女に、知っている建物ならできるだけ詳しく説明してやり、知らない建物のときは地図を広げて名称だけは教えてやり……バージルは、改めてしでかしてしまったことの大きさを実感していた。
アメリカではは右も左も分からない上、自分以外に知り合いが一人もいない。

(俺がしっかりしなければ)
(俺がを守らなければ)

時を数えれば数えるほど、強くなっていくばかりのそんな決意。
バージルは広い後部座席の真ん中に、ちいさくぽつんと投げ出されていたの掌をぎゅっと握り締めた。



ダウンタウンでタクシーを降り、バージルはを振り返る。
、何か食べるか?機内食の後何も食べていないだろう」
自分の車を駐車場から動かす前に、細々とした用事は済ませておきたい。
そう伝えると、はきょろきょろと辺りを見回した。
そしてぱっと顔を輝かせる。
「あれ!あのドーナッツ食べたい!」
の視線を追ってバージルが発見した店は、ドーナッツ専門店。
「日本じゃ長時間並ばないと食べられないんだよ!」
「日本人は並ぶのを厭わないからな……甘い物が食事でいいのか?」
「うん!行こう!」
急に元気になったに苦笑を浮かべながらも、バージルは少しだけホッとしていた。



香りだけでげっそりしそうなバージルを横目に、はむしゃむしゃもぐもぐと甘ったるいドーナッツを頬張る。
その間も、外の様子を興味深そうに観察することは忘れない。
実は向かいのアイスクリーム屋も日本では行列のできる人気店なので入りたいのだが、さすがにバージルの反応が怖くもある。
(まあいっか)
初日であれこれ制覇しなくても、これは旅行ではない。
どきん。
自分で考えておきながら、途端に心拍数が上がる。
もう既に新しい暮らしは始まっているのだ。
目の前の、バージルと。
(何をいまさら……!お、落ち着かなきゃ)
は緊張をドーナッツと一緒にごくりと飲み込む。
バージルはそんなの一挙手一投足を見守っていて、の皿が空になったのを確かめて視線だけで『美味しかったか?』と尋ねる。
は笑顔でこくこくと頷いた。
指に残っていたシュガーグレーズまでぺろりと舐めてみせる。
つっと彼女から視線を逸らし、バージルがコーヒーを啜った。
「……店で食材を買って行かないとな」
家の冷蔵庫は長期間の旅行後の空っぽな状態で何もない。
これからの生活に向けていろいろ必要な物があるが、何をおいてもまずは食糧だ。
食材と聞き、がおそるおそるバージルを見上げる。
「ご飯がないのはわかるけど、まさか毎食毎食ハンバーガー?」
バージルは真面目な表情で大きく頷いた。
「無論そうだが?」
「えぇっ!?」
「くっ……冗談に決まってるだろう……」
珍しくバージルが声を立てて笑った。
余程ウケたのか、俯いて肩を震わせている。
そんな彼に一瞬見惚れるも、すぐには膨れた。
「もー、こっちの食生活なんてろくに知らないんだから仕方ないでしょ」
棘を含んだにバージルは何とか笑いをなだめ、努めて真剣な顔に戻る。
「悪かった。……そうだ、日本米も買って行かないとな」
「お米?それも日本の?」
はぱちぱちと目を瞬いた。
「こっちじゃ高いでしょ?」
「オチャヅケを食べたい」
「……ああ」
今度はが吹き出した。
お茶漬けは日本滞在の間にバージルがなぜだか気に入って、の祖父と一緒によく食べていた庶民メニューなのだ。
「今度、鮭フレークも送ってもらおうね」
「それなら、梅干しなどと一緒にもう頼んである。他に必要な物もあったしな。来週辺りに届くだろう」
「……準備がいいことで……」



バージルに先導されて入ったスーパーマーケットは広大で、はひたすら呆気に取られた。
「すっごい!」
店内の広さもさることながら、日本との決定的な違いは何といっても商品のサイズ。
「これ……牛乳?」
車の洗剤のボトルのような特大サイズの牛乳を手に取り、は呆れたような声を出した。
他にも、ヨーグルトやゼリーの3個パックなんて可愛い方。6個バックが平然と並んでいる。
お菓子コーナーに入れば、筒型ポテトチップの6本セットなどもある。
とにかく全てが大きいか、量が多いか、はたまたそのどちらもか。
「これは気をつけなきゃ太るよね」
ぼそりと呟く。
「しかも何この色」
の目を引いたのは、ケーキ。
サイズは日本でも見かけるようなホールのものなのだが、クリームの色がカラフルすぎて食べ物というよりはおもちゃを連想させる。
日本のサンプルのケーキの方がよっぽど美味しそうである。
「いかにも健康に悪そう……」
「そんなものは買わないから安心しろ」
バージルはてきぱきと必要な雑貨をカートに入れていく。
このカートもまた『子供を乗せる用ですか?』というくらいに大きい。
そこへ最後に米を積み上げたところで、バージルはを振り返った。
「おまえは何かいるものはないのか?」
「うーん」
きょろきょろ辺りを見回して、はあっと声を上げる。
とととっと売り場に走って行って、お目当てのものを手に戻る。
バージルがそれを見て唖然とした。
「……食べるのか?」
「だって、やっぱりアメリカといったらコレな気がして……」
が照れながらカートに入れたのは、ジェローのパックと、ピーナツバター。
「ピーナツバターは別に珍しくないだろう」
「うん。だけどほら、場所が変わると何か違うものに見えて来るんだよね」
「ピーナツバターは無糖のものもあるが?」
まだ健康によさそうな方をバージルは薦めてみる。
が、はふるふると顔を振った。
「どうせなら甘い方から挑戦してみたい」
「……まあいい。ジェローは俺は食べないからな」
バージルがそう断言したジェローとは、ゼリーの素。
簡単に作れる(そしてもちろん甘い)ことで有名なそれもやはり、何やら素敵な色のゼリーの写真がパッケージに大きく印刷されている。
「分かってるよ、一人で作って一人で完食します」
がらがらとカートを押していたバージルが、ぴたりと足を止めた。
よそ見をしながら歩いていたは、どすんと彼の背中に激突する。
「いたた……何、どうしたの?」
「やはり食べる。」
「はい?何を?さっきの毒々しいケーキ?」
「違う。……ジェローだ」
食べないときっぱり言っていたくせに、その舌の根も乾かぬうちに何を言い出すのやら。
は呆れてバージルを覗き込む。
「何で急に?」
「おまえが作るんだろう?」
「うん。そうだけど」
「ならば食べる」
「……はい?」
わけがわからないまま立ち尽くしているを残し、バージルは再びカートを押して行く。
(……の手料理が食べたいなんて、言えるか)
できれば甘ったるいゼリーではなくてグリルドチーズサンドなどの方がいいのだが、それを素直に言えないために、メニューはある程度我慢しようと思ったバージルであった。



スーパーマーケットを出ると、バージルは旅行前に車を預けた駐車場へ向かった。
はきょろきょろしながらバージルの後ろにくっついていく。
「あれだ」
バージルがキーのボタンを押すと、ピピッと前方の車がライトを光らせた。
ぱっと見は黒に見えるダークブルーの大きな車体。
「わ、左ハンドル〜!セレブ〜!」
大喜びで助手席に回り込む
彼女があまりにも顔を輝かせているので、『アメリカでは普通は左ハンドルだし、車線は日本と逆だ』と言いそびれてしまったバージルであった。



犬のように窓から顔を出して外を眺めるに何度も「危ない!」と注意が繰り返されつつ、バージルの車でのドライブが続いた。
「片道4車線〜!」
車の量が多くてもスムーズな流れに、はご機嫌だ。
道の脇にはヤシの木などがずらりと並び、いかにも海外という景観を作り出している。
小一時間ほど走ると、洋画で見るような平たく広い家々が建ち並ぶ住宅街に入った。
「あの家だ」
バージルが指差したのは、その中の一角。
「うわあ……」
広い庭つき一戸建て、日本人からしたらどう見てもセレブな家である。
「車は……ガレージに入れるか」
呟いてバージルはダッシュボードの中のリモコンを取り出してスイッチを押す。
「?」
何のスイッチかとが車を見渡せば、車ではなく、外から物音がした。
振り向けば、ガレージのシャッターがするすると開いている。
「うわあ……」
「『セレブ』か?」
もはやその一言も言われ慣れたバージルは少しも動じず、右手でチェンジレバーをRに入れる。
「あ」
後ろに動き出した車に、はわくわくと期待と緊張をにじませながらバージルを横目で見つめる。
「どうかしたのか?」
バージルはバックミラーを見ながら素早くガレージに車を滑り込ませていく。
「あれ?」
拍子抜けするには構わず、あっという間に駐車は終了。
「……」
「着いたぞ?」
何故だかつまらなそうな顔をしているに、バージルは首を傾げる。
ドアを開いてやっても彼女は無言。
(何なんだ?)
「……ま、いっか」
ころりと態度を変え、は車を降りる。
すぐに目を引く、鮮やかな足元の緑。
「わー、スプリンクラーがある!おじゃましまーす!」
「邪魔も何も、おまえの家だぞ」
わいわいと庭へ走り出したの背にそんな言葉を投げながら、バージルは買い出して来た食糧や荷物を下ろす。
「ああっ、通りの向こうに公園がある!」
はひょこっと首を伸ばして見渡す。
「ガブリエル公園だ。さすがにセントラルパークとまではいかないが、なかなか広いぞ」
「へー。あ、あれ、工事中なの?」
の言葉にバージルもその方角を確かめ、頷く。
「ああ。噴水を改修しているんだったか」
「完成が楽しみだね」
「そうだな」
さっきのの様子が引っ掛かってはいるが……はしゃぎまわるのを見れば、具合が悪いとかそういうことではないようだ。
「転ぶなよ」
窓から顔を出すな等、さっきから子供にするような注意ばかりしていると呆れるも、いつものように気難しい表情を作ることが出来なくなっている。
ふとすると頬が緩んでしまう上機嫌な自分。
「……落ち着くべきなのは、俺か?」
バージルはぽつんとひとりごちた。



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