「ばーじるぅ」
いつにもまして、ひどいの発音。
だが顔を顰める前に、バージルは彼女の異変に気付いた。
くたりと肩に凭れかかって来るの、その頭の熱さ。
「……おまえ、熱が」
「風邪引いたみたいです……」
真っ赤な顔で、はダウン宣言をした。


Specialite



「39.2度」
が差し出した体温計を見て、バージルはどうしたものかとリビングの時計を見上げた。
時刻は夜10時。
病院に行くにしても、急患扱いだ。
それは全然構わないのだが……
「動けるか?」
「う……だるい」
回らない口でが答える。
熱が高いときは、起き上がるだけで辛い。
下手に病院に連れて行くよりも、このまま安静に寝かせておいた方がは楽だろう。
幸い、常備薬のアスピリンはある。
「明日の朝、病院へ行こう」
「ん……」
頷いた拍子に、濡らしたタオルがぽとりとソファに落ちた。
それを拾い上げて、バージルは溜め息をつく。
。ベッドで寝ろ」
いくらなんでも、こんなときまで意地を張ってソファで寝なくても。
しかしは毛布をずるずる目の下まで引っ張り上げると、強情にかぶりを振った。
「いや。」
「……。」
すげなく却下され、バージルは思いっきり渋面を作る。
「なら、客室のベッドを使え。それでいいだろう?」
一階のゲストルームはいずれ家族や友人を泊めるつもりで用意したベッドが入っている。が、今はほったらかしのままで、掃除以外で足を踏み入れることすらない部屋だ。
それを思い浮かべすこし考え、ようやくはちいさく頷いた。
「よし」
彼女の気が変わらないうちにと、バージルは素早くを毛布ごと抱き上げる。
「ちょっと、ばーじる!」
「この方が早いしも楽だろう」
「うー」
一人で歩けるだの熱が上がるだのと文句を言うを運びながら、バージルはこっそり「役得だな」などと思った。



何とかゲストルームのベッドにを寝かせると、バージルはとりあえずホッと一息ついた。
ソファで眠るよりは絶対にこちらの方が楽なはずだ。
そっと彼女の額のタオルに触れて、バージルは眉を顰める。
冷やしたタオルも、すぐに熱でぬるくなってしまう。
(やはり病院に連れて行くべきか……?)
けれどは寝ているだけでもどこか苦しそうだ。
(さすがに疲れが溜まっていたのか)
アメリカに連れて来てから、彼女が元気なことに安心してついついあちこち連れ回し、語学もみっちりと学ばせ──無理をさせてしまっていた。
(俺が悪い……)
頑丈な自分と比べるまでもなく、のことをもっともっと大事にすべきだった。
(すまない……)
薔薇色に上気した頬に触れてみる。
熱い。
ゆっくりが目を開けた。
「バージルの手、冷たくて気持ちいい」
「水を使っていたからな」
の片頬を包み込むように手を添えれば、とろんと目蓋を閉じる。
アスピリンが効いているのかもしれない。
「出来るだけ眠るといい」
冷たさが刺激になってはいけないと、そっと手を離す。
「あ……」
がまた目を開けた。
不安そうにバージルを目で追う。
「待って……もすこしだけ、そばにいて……」
熱のせいばかりでなく潤んだの瞳に、胸の奥のやわらかい部分がぎゅっと掴まれる。
バージルはの左手を取った。
額と同じように熱い手のひら。

──自分に熱がどんどん流れてくればいい。

「ここにいる。大丈夫だ」
ゆったり頷くバージルの深い声と、しっかり握られた冷たい手。
やっと安心し、はちいさく欠伸した。
……かすかな寝息が部屋のしずけさに溶けていく。



……不意に頭の下に冷たく硬いものが入り込んだのを感じた。
「なに……?」
「氷枕だ」
起こして悪かった、とバージルがの頭を撫でる。
「今、何時?」
「まだ夜明けだ。もっと寝ていろ」
うん、と頷き、は彼を見上げた。
「ばーじるは寝た?」
バージルは苦笑する。
「仮眠した。俺の心配をする余裕があったら寝る努力をしろ」
「ん」
ぐいっと引き上げられた毛布に埋もれて、はにっこり笑う。
「だいぶ楽になったよ。薬が効いたみたい。……バージルの看病も」
「それはよかった」
バージルは素早くのおでこに唇をつけた。
「だがまだ熱い。……さあ、もう寝ろ」
だから熱が上がったらバージルのせいだってば、とは口の中で無言の抗議をした。





昼前、は自然に目を覚ました。
相変わらずバージルはそばにいる。
「熱は……」
タオルを取り、額に触れる。
「だいぶ下がったか」
計ってみろと差し出された体温計を、はおとなしく口にくわえた。
そのまま、バージルが引っくり返した砂時計の砂が落ちるのをじーっと待つ。
砂が落ち切っても、水銀はそれほど伸びなかった。
バージルは37.8度の体温計とを見比べる。
「病院はどうする?」
は数秒考えて口を開く。
「薬飲んで、このまま寝てたい……」
「……そうだな」
外国で医者にかかるのは、慣れないことだらけで相当体力が必要だ。
幸い熱も下がりつつあるし、後はしっかり滋養のあるものを食べれば快復するだろう。
ちょうどもうすぐ昼時だ。
体温計を振って数値を戻し、バージルはを振り返った。
、何か食べたいものはあるか?」
訊ねられ、はすこし視線を泳がせた。
そしてぽつんと呟く。
「……おじや。」
「……何?」
聞き取れなかったバージルがを覗き込む。
はすぐにふるふると顔を振った。
「なんでもない。チキンスープでいいよ」
バージルの手料理なんて嬉しいな。
まだ顔が赤いままわくわく瞳を輝かせるに、バージルはやわらかく微笑した。
食欲があれば、なおさら安心だ。
「分かった。材料を買いに出掛けるが……一人で大丈夫か?」
はこくりと頷く。
「うん。もう大丈夫。寝て待ってる」
「なるべく早く戻る」
すっかりぬるくなったタオルをもう一度水に浸して絞りの額に乗せてから、バージルは部屋を出た。



(『オジヤ』とは何だ?)
ゲストルームのドアを後ろ手に閉じ、バージルはひとり首を捻っていた。
聞いたことがない単語。
だが会話の流れからして、どう考えてもそれは食べ物だろう。
……和食だろうか。
この前ショッピングモールでが購入してきた、『Recipes of Japanese Cooking』をめくってみる。
「Rice Porridge(お粥)ではないしな……」
これも見た目からして消化にはよさそうだが、栄養面では少し不安だ。
それに、どうせならちゃんと正確にのリクエストに応えてやりたい。
本を閉じると、バージルはパソコンを立ち上げた。
聞いた音だけを頼りに、インターネットで検索をかける。
ここ数年の日本食ブームのお陰もあって、レシピを載せるホームページがかなり引っ掛かってくれた。
あれでもないこれでもない、と文字列と格闘し、
「……これか?」
見つけたのは、リゾットのような色で具だくさんのお粥。
野菜も挽き肉も卵も入っているし、確かに栄養はありそうだ。
ざっと調理法に目を通せば、お粥のように米をやわらかく煮立て、味噌で味をつけるもののようだ。
「味噌味のリゾット、か?」
自信はないが、他にいくつかレシピを参照してみてもどれも似たような写真に材料だ。
(作ってみるか)
さらさらと材料をメモし、バージルは家を出た。



必要なものは足りない野菜と挽き肉と卵だけだったのに、これは風邪によさそうだ、あれもよさそうだとカゴに入れていくうちに、とんでもない荷物になっていた。
果汁100パーセントのジュースにスポーツドリンク、果物はりんごにパイナップルにぶどうにチェリーにオレンジ。
消化に良さそうなオートミールに食パンにジャム数種に、缶のスープ。
ドラッグストアで薬とドロップ、替えの氷枕も購入し、気づけば車の助手席は紙袋が山と積まれていた。
時間もかなりかかってしまった。

キッチンと車を二回往復し荷物を全て運び込んでから、ゲストルームをそっと覗く。
彼女はおとなしく寝ているようだ。
起こさないようにそのまま扉を閉め、バージルはさっそく謎の料理『オジヤ』作りに取りかかった。



……きゅうう。
懐かしい匂いに、お腹が鳴って目が覚める。
(味噌の匂いがする……)
くんくんと鼻を鳴らし、はそっと起き上がった。
しばらく寝ていたせいか関節が痛いような気がしたが、ぐるぐる目の前が回るような不快な眩暈はもうしない。
さっきよりもまた熱は下がっているだろう。
ベッドサイドに置かれたコップの湯冷ましを飲む。
(起きちゃおうかな)
もう大丈夫そうだし。
えいっと毛布をはいでベッドを下りようとしたところ。
「そんなに食事が待ち切れなかったか?」
「……あ。」
入って来たバージルにぎろりと睨まれた。
「おまえは絶対に風邪がぶり返すタイプだな」
「はは……」
気まずくて横を向いただったが、バージルが運んで来たミルクパンのその香りの誘惑には勝てなかった。
すぐに顔を戻す。
「いい匂い」
ふわりと漂う匂いはチキンスープではない。
「バージル。これって」
「あまり期待はするなよ」
バージルがそっと蓋を開ける。
「わ!」
ほかほかと湯気を立てているのはが最初にリクエストした、おじや。
──絶対に、こっちじゃ食べられないと思っていたのに。
「おじや!おじや!本当に作ってくれたの?」
「味は保証できないが」
バージルはあらぬ方向を向きながら、レードルを無造作に突っ込んだ。
気持ちは分かるが、……つまらない。
「もー。ちゃんと盛って?」
はお茶碗を両手でずいっと差し出した。
短く溜め息をついて、バージルはおじやを掻き混ぜてお茶碗に盛りつける。
「ほら」
「ありがとう」
渡された熱々のおじやに、は感動を覚えた。
煮込まれた野菜と、ふわふわの卵の色がやさしい。
添えられたスプーン(箸では食べにくいと気遣ってくれたのだろう、文句は言えない)でひとさじすくう。
ふうふうと冷まして、ぱくり。
「……。」
「……。」
黙々とスプーンを運ぶに、さすがにバージルは不安を覚えた。
不味いなら無理しなくても、と言おうとした瞬間。
「おいしい!」
が「ん〜!」と唸った。
味はもちろん、野菜の甘みも、卵の火の通り具合も完璧だ。
「すごーい!お母さんのおじやみたい!」
「……そうか」
すごい!おいしい!を連発しながらぱくぱく食べるに、バージルはほっと胸を撫で下ろす。
レシピに忠実に調理してはみたものの、何しろ知らない料理。
味見をしてもまるで意味がなかったのだ。
「おかわり!」
すっかり元気なに上機嫌を移されて、バージルはおかわりを山盛りでサーブする。
がぎょっと息を飲んだ。
「さすがにこれは多いよ」
「残すな。全部食べろ」
「無理だよ!これ何合炊いたの?」
「さあ」
「二人分は余裕であるよ?」
「とにかく、美味いというのが世辞でないなら全部食べろ」
「誓ってお世辞じゃないけど、全部は無理だよ!」
「……残すのか?」
「……。食べます……」
「Good girl」



バージルの心のこもったおじやの効果か、夜にはは元気に起き上がってテーブルで食事をできるようになった。
夕食はチキンスープで、これもバージルの手料理。
レシピに忠実なバージルの料理は、どれもものすごく美味しい。
それに何より、こころづかいがいちばん嬉しい。
(風邪を引くのも悪くないなぁ)
ひたすら窓の外を眺めて食事するバージルの横顔を見ながら、はそんなことを思った。
ただひとつ、栄養のためとは言え、かなりの量を食べさせられるのだけはきつかったが。



ソファで大丈夫!と言い張るを「また抱き上げて運ぶぞ」と脅してゲストルームへ押し込める。
むくれる彼女に体温計を手渡し、バージルは熱を計らせた。
「37.0度。ほぼ平熱だな」
もう用がなくなった氷枕を外す。
「念の為、薬はもう一回飲んでおけ」
「うん」
大人しくグラスに口をつけ、はふとバージルを見上げる。
「……ね。明日のおやつのリクエストしてもいい?」
「おやつ?」
「ドーナッツ食べたい」
飛び出した答えに、バージルは呆れて息をつく。
「あんな油っこいもの、まだだめだ」
「ええー」
あっさりと反対され、またもはむくれる。
「大丈夫だって言ってるのに」
「もう少し我慢しろ」
なだめるようにの頭に手を乗せる。
常とほぼ変わらないその額のぬくもりを確かめるように触れ……バージルはふと昨夜の熱さを思い出す。
薔薇色に上気した頬と、熱のせいで潤んだ瞳で自分を見上げ、「そばにいて」と言った彼女。

──風邪だ病気だと自分に言い聞かせなければ、とっくに理性が飛んでいた。

「もう少し我慢しろ」
再度呟いた言葉は、一体どちらに向けたものか。
自嘲しながら、いまだに膨れっ面ののおでこにキスを落とした。
驚いたがぱっと顔を逸らす。
熱のせいでなく、薔薇色の頬。
「今度熱上がったらバージルのせいだってば……」
「そうしたらまた俺が看病する」
昨夜と同じように、の左手を握る。
触れた額も、手のひらも、もういつも通り。
色っぽい彼女もそれはそれで魅力的だったが、やはり。
(何だかんだと元気に騒ぐが一番だ)
だから、あれこれ無理させるのは控えよう。……出来るだけ。
安心しきってゆっくりと眠りについたの寝顔。
あいている左腕を枕に、バージルもそっと目を閉じた。







→ afterword

44544番をご報告してくださった、夜月 虹さまに捧げます!
お渡しが遅くなりまして、本当に申し訳ございませんでした。

看病編、いかがでしたでしょうか。
バージルの料理はきっと完璧です。
そこに愛情という隠し味が加われば、おじやだろうがチキンスープだろうが、どんなレストランでもかないませんよ!(笑)
ただし、バージルの看病が効果的かどうかは…(笑)
いちいちアスピリンが手放せなくなりそうです。

それでは、リクエストして下さった夜月さま、お読みくださったお客様、本当にありがとうございました!
2008.10.1