Simon Says




……トゥルルルルルル。

のどかな昼下がり、リビングの壁の電話が鳴り出した。
その音に、英語のクロスワードパズル(バージルお手製)と格闘していたと、彼女にたまにヒントを与えながら読書していたバージルが、ほぼ同時に顔を上げた。
ちらりと視線を送ってくるにバージルは無言でひとつ頷き、目だけで『電話に出ろ』と促す。
電話は苦手なのに……とのぼやきはあっさり無視され、溜め息混じりには立ち上がった。
そろそろ業を煮やして切れてもいいものを、電話は喧しく鳴り続いている。
覚悟を決めて、は受話器を持ち上げた。
「はろー?」
途端に、彼女の様子を観察していたバージルが額に手を当てた。
電話は何かの勧誘だったらしく、はすぐに受話器を置く。
「家の外壁のペンキ塗り直しませんか、だって。必要ないでしょ?断ったよ」
報告するに、バージルは何も言わずに人差し指でくいくいと彼女にこちらに来るように合図する。
もうこんなことにも慣れっこ。
はできるだけのろのろ近づくと、バージル正面のソファに腰を下ろして姿勢を正した。
バージルも本に栞を挟んで、と向き合う。
見つめあい、何が始まるのかと言えば。

「Hello」
「ハロー」
「HELLO」
「HELLO !」
「……。『willow』」
「WILLOW!」

バージルによる、発音レッスンである。
通常の会話ではお互いの顔が見えるし前後に話の流れもあるため、多少発音がおざなりでも意思は通じるが、電話だとそうはいかないため、先程の勧誘電話もにはいい練習の場なのである。(おそらくさっきの電話の相手も、あまり話が通じないので交渉を諦めたのだろう)
がいる間はバージルは一切、電話に出ない。
バージルへの取り次ぎが必要な場合にも、折り返しますと言わせる徹底ぶり。
できるだけ早く英語をマスターして不自由なく過ごせるようにとの愛ゆえではあるのだが、それにしてもバージルのレッスンはなかなかスパルタだ。

「今朝食べたゼリーは?」
「ジェロー」
「Jello」
「あ。JELLO !」
「swallow」
「SWALLOW !あ、そういえば、Jack Sparrowってかっこいいよね。さすがジョニーデッ「pillow」」
「……PILLOW !」

もはや、の言葉の最後には「Sir ! Yes sir !」と敬礼がついてもおかしくない状態である。
ひととおり練習が終わると、バージルがやれやれと大きく息をついた。
「やはりLの発音がまだまだだな」
「えぇー?いつも思うんだけど、大げさすぎない?」
「大袈裟くらいにしないと、日本人の発音は堅過ぎる。フランス人を見習え」
「あんなに舌回りません……。あ、そうだ、私でもうまいLの単語があるよ!」
「何だ?」
はこほん、と喉を整える。

「I Love VergiL」

ぴきーん。
そんな音がしそうな程、バージルが見事に固まった。
がひょこんと首を傾げる。
「だめ?結構自信があったのになぁ」
「……それは単語ではなく文だろう……」
どんな他愛無い単語が飛び出すかと思えば、まさかそんな不意打ちを食らうとは思ってもみなかった。
本人は発音レッスンの例文のように口にしただけかもしれないが──厳しいバージルでも、うっかり100点をつけてしまいそうな文。
かなりの理性でもって表情を引き締め、バージルはうーんと首を傾げたままのに再びしっかりと向き直る。
「次は、『Simon says』だ」
「またそれぇ?」
は疲れた〜とソファに仰向けにばたりと倒れる。
「いくぞ。Simon says……stand up」
「……はいはい」
仕方なくは立ち上がる。
この『サイモン・セッズ』は、幼児用のゲーム。
サイモン役のリーダーが何らかの指示を出し、プレイヤーがそれに従うというもの。
本来なら指示の前に『Simon says』と付かなかった場合はそれに従ってはいけないルールなのだが、どっちみちプレイヤーは一人でアウトの意味がないので、ふたりの間ではひたすらバージルが指示を出し、がそれを聞き取り行動する、王様ゲームもどきになっている。
ちなみに、「命令するのはバージルなんだから、Vergil saysでいいでしょ」とののツッコミは初回に黙殺されている。
バージ……サイモンの指示は続く。
「右手を上げろ」
「はいはい。いい加減rightとlightくらいは聞き取れるよ」
「文章になっていれば、だろう?」
ふんと鼻を鳴らしたバージルに、ネイティヴが文じゃなくて突拍子もなくlightとか言う機会がどれだけありますか?……とは、怖くて反論できないので黙っておく。
「目を閉じろ」
「はい」
「その場で時計回りに三回、回れ」
「……もー、人で遊ばないでくれる?」
文句を言いつつも、はぐるぐるとその場で回る。
しかし目を閉じているため、何回転しているのか微妙である。
「あれ?」
「ストップ、回り過ぎだ」
「あはは、やっぱり?」
少しふらつく足元に、は何だかちょっと楽しくなってきた。
「で、次のご指示は?バージル様」
「サイモンだ」
「はいはい」
「そのまま直進」
「えー、怖いよ。目開けてもいい?」
「……。」
「わかったよ。転んで怪我したらバージルのせいだからね」
「そんな危険なものはない」
確かに、広いリビングに足を引っ掛けるような物はなかったはず……けれど慎重に、は歩いた。
5、6歩進んだところで、はたと立ち止まる。
「どこまで直進するの?」
「ストップの指示が出るまで」
「……はいはい」
そういえば私、何でこんなことしてるんだっけ?と疑問になりつつ、はまた歩き出す。
……と。
「ん?」
上げたままの右手が何かに当たった。
布のような。でも、少し温かい。
「なにこれ?」
「俺だ」
「えっ?ぎゃあ!」
右手をどける前にバージルに抱き締められた。
「ちょ、なっ、ねぇ!」
「何か言いたいことがあるなら、まともな文章で言え」
もがくの頭に、楽しそうなバージルの声が降る。
「じゃ、じゃあ、離してください!」
「断る。」
「何それ!!」
情けないの声音に、バージルはくっくと笑いを噛み殺し切れない。
横暴だの卑劣だのとむーむー唸る彼女を離さないまま、彼女の耳に唇を近付ける。
「……
思わぬ近さで声を吹き込まれて、びくんとの肩が震えた。
「な、何」
「さっきの文章……今、言ってくれないか」
さっきの文章。
「……?……!!」
思い出して、はかきーんと凍りついた。
さっきの……Iで始まってLで終わるあの文章を、……今?
「あの、Lが2個含まれてるアレですか?」
「そうだ」
ぎゅ、とバージルの腕の力は強くなるばかり。
──迂闊だった。
あんな文章、自分の首を絞めるばかりなのに、どうしてさらりと言ってしまったのだろう。
でも、Lの単語と考えて、ごく自然に出てきたのがLoveとVergilだったのだ。
そしてその二つを結びつけることに、何の違和感も感じなかった。
だから簡単に口にしたまでだったのだが……
バージルの腕は熱い。
──だめだ。
あんなこと、こんなムードのときに言えるわけがない!
「ジャ、Jack SpaLLowはかっこいいよね」
「『SpaRRow』だろう。……おまえは『Simon Says』で指示しないと言うことがきけないのか?」
「何で私が言うこときくのが前提なわけぇ?もうサイモンなんて関係なくて、100パーセントバージルの命令じゃない!!」
「うるさい。言わないなら、その口塞ぐぞ」
背中の腕が離れた。
逃がしてくれるのかと思いきや、もちろんそんなことはなく、今度は腰に手が回される。
「う……」
離れようと上半身を反らせば、間近で視線が合ってしまう。
(胸の中でひたすら耐えるか、見つめ合いに耐えるか……うぅ〜)
どっちが寿命を縮めずに済むのだろうとぐるぐる考えるにお構いなし、余裕たっぷりでバージルは彼女の挙動を見守る。
「どうする……?」
「ア……」
「あ?」
顔を真っ赤にして震えるを、バージルはゆっくり瞬きして覗き込む。
もうすぐ、は自分が望む言葉を言ってくれるはず。
問題は──

自分がそれを待っていられるか、だ。
「ばーじる……」
混乱に、いつもより更に舌っ足らずになっている
──無理だ。待てない。
「ひどい発音だ」
腰に添えていた右手を持ち上げ、の唇を指でなぞる。
密着、そしてプレッシャーに耐え切れなくなったが目を閉じた。
……」
バージルが甘くを呼ぶ。
ふたりの唇の距離が、あと2インチ程になった刹那。

ぴんぽーん!ぴんぽーん!ぴんぽーん!

間抜けなチャイムが割って入った。
「宅配便でーす!」
「はーい!今いきます!」
なんてタイミング!とホッとしながらバージルを突き飛ばし、玄関に走って行く。
またしても邪魔が入り甘いひとときのお預けを喰らい、ぽつんと残され……バージルは超絶不機嫌モードである。
こうなってしまうとしばらくムッツリ黙ったまま、次にが何か(偶然でも)彼が喜ぶようなことを言うかするかしないと機嫌が直らないのが最近の光景、だったのだが。
「バージル〜!荷物が重いの、ちょっと来て手伝って〜。これ、日本からだよ」
「日本から?」
思いがけない朗報に、バージルの曇った表情がやわらいだ。
「やっと来たか」
「もう、バージルってば何を頼んだの?すごく重いんだけど」
女手では持ち上げることも不可能な厚手のずっしりとした段ボール箱を、ずるずるとカーペットの上を引いていく。
「貸してみろ」
そっとを横へどかすと、バージルは箱をひょいと抱え上げた。
「うわ、力持ち」
ぱちぱち拍手してみせる。
「これくらい大したことはない」
日本からのお届け物&の褒め言葉に、バージルの機嫌はいまやすっかり元通りである。
リビングのテーブルに箱をそっと下ろす。
「何かな?」
箱を開けていくバージルの手元を、わくわくとが見守る。
「梅干し、鮭フレーク、ふりかけ……あと何食べたいって言ってたっけ?」
「玉露。楽しみだ」
「韓国のりまで入ってる……おいしいからいいけど」
次から次へと魔法のように出てくるものは、白いご飯に合うような食品ばかり。
「うれしいけど、もうお米切れてるんだよね」
「買ってくればいい。……ああ、見つけた。荷物の主役はこれだ」
バージルがごそごそと取り出した物は、桐の箱。
「うわ。たいそうな箱だね。高級かつおぶし?」
「……違う。」
あまりに見当違いなの発言に噴き出すのを堪え、バージルは玉手箱のような箱の蓋を丁寧に開ける。
中から出てきたのは、もちろん鰹節などではなく。
「めっ、夫婦茶碗〜〜〜!?」
それは一揃いの茶碗。
濃紺のラインが一本、見事に滲んで実に味わい深い柄のこっくりと大きめの茶碗。
薄桃のラインがするりと恥じらうように引かれ、楚々とした小ぶりの華奢な茶碗。
どこからどうみても、夫婦茶碗である。
「恥ずかしいからいらないって言ったのに、おじいちゃんってば送ってきちゃったの!?」
「俺が頼んだ、と言ったろう」
ぶるぶるしているとは対照に、バージルは満足そうに茶碗をいろいろな角度で眺めて鑑賞している。
「美事な品だ。気に入った。さっそく使おう」
「だけど、お米ないんだよ。明日にしようよ」
「この際入れるものはテーブルロールで構わない」
「えええ」
茶碗にこんもりとパンが盛られる様子を想像してはげっそりするも、バージルは全く意に介していない。
飽きもせずに茶碗をすべすべ撫でている。
「……そんなにお揃いが嬉しいの?」
そんなバージルもあまり見ないので、はからかってみる。
からかった……つもりだったのだが。
「ああ。嬉しい。」
はっきりきっぱり返事されてしまった。
しかもとろけそうな微笑つき、である。
「〜〜〜。縁起悪いから、割らないように気をつけてね!」
墓穴だった。
目を細め、本気で嬉しそうなバージル。
珍しく可愛い表情だ……と見蕩れ、それからはハッと我に返った。
(そろそろ心臓を休めておかないと、本当に危険すぎる!)
こちらに来て、バージルと長く過ごすようになって心臓も日々強制的に過剰な負荷を与えられ、ずいぶん鍛えられているとは思うのだが。
「……ちょっと上行ってくるね」
「どうした?」
「スカイプでお礼の電話しなきゃ!」
すかさず聞いてくるバージルに、もっともな言い訳を作っては二階の自室へ逃げ出した。
「礼……こんな時間にか?」
バージルは時計を見上げる。
こちらは浅い午後だが、日本は真夜中。
まあ、通じなければすぐに戻ってくるだろう。
バージルは特に深く気に留めずに、再び荷物の整理を始めた。



リビングを飛び出したときはスカイプは言い訳だったのだが、パソコンを前にしたら、本当に電話してみるのもいいかもしれないという気になった。
「今向こうは……夜中の1時くらい?」
時差を考えると迷惑だと思ったが、いつ電話するにしてもどちらかが早起きか夜更かしで時間を調整しなければならないのだ。
とりあえず母の携帯へメールしてみる。
意外にも、返事はすぐに来た。
?連絡待ってたのよ。ちょっと待っててね』
「よかったぁ。お礼ついでに、家族の声で落ち着かせてもらおう……」
せっかくだから、テレビ電話にしようかな。
はウェブカメラとヘッドセットマイクを用意して、るんるんとパソコン前に座った。



その頃リビングでは、バージルが待ちぼうけ状態だった。
夫婦茶碗を発掘してから二時間経っても、は下へ降りて来ない。
「?」
さしものバージルも不審に思い、二階へ上がる。
そっと彼女の部屋の前で中を窺う。
「……だからね、うん。大丈夫。たぶん、学校に通うことになると思うんだ。うん。え?あ、そうそう」
耳に飛び込んで来たのは、元気なの声。
日本語で語る彼女の声は、どうしてこうもいきいきと響くのだろう。
英語の発音も綺麗になったし、だいぶ違和感を感じないようになったと思っていたのに。
バージルは脱力し、廊下の壁にもたれた。
母国語と同じトーンで自分と話してくれる日は来るのだろうか。
「大丈夫、アメリカももう慣れたよ。いろいろ日本と違って、見てるだけでも楽しいし。それにバージルもね、意外と優しいよ。まー、スパルタ教官だし、ちょっとエ……なんでもない。な、なんでもないってば!」
明るく弾むような会話。
アメリカ、ニホン、それに自分の名前。
それくらいは聞き取れるが、何を喋っているのかまでは分からない。
──アメリカでの俺との暮らしは、負担か?
出来れば考えたくはなかった。
けれど。
(愚痴か?……日本へ帰りたい、とでも?)
扉一枚隔ててどうすることもできずに、バージルは大きく溜め息をついた。
言葉の壁は、いかにも厚い。



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