『すまない』──彼の言葉が、背中を押した。
そして私は今、飛行機に乗っている。
──だって、もう我慢がきかなかった。



Salut D'amour



「うわ〜、陽射し強いなー」
日本土産をたくさん詰め込んだ重いスーツケースを引きずって空港を出ると、は空を仰いだ。
きらきらとアスファルトを焼く太陽に、汗を奪うようなからからの風。
「帰って来ちゃった」
アメリカ。
不思議だけれど、今回は『帰って来た』と表現するのがしっくりくる。
後ろを振り返れば、小さい都市空港。
国内線の乗り継ぎだって、何とかかんとか一人でできた。
「順調、順調!」
大満足である。
実は、今日こちらに帰って来たことは、バージルにはまだ告げていない。
バージルは仕事中だろうし、迎えに来てもらうなんて手を煩わせたくない。
それに、突然一人で帰って、驚く彼の顔を見たいという気持ちもあった。
ただいま!と抱きついたなら、バージルはいったいどんな反応をするだろう。
「楽しみ!」
逸る心のままに小走りで、はバスに乗り込んだ。



タクシーを使わずにバスにしたのは、節約のためだけでなく、街をじっくり見たかったから。
それに、一人での移動に慣れたかったからでもある。
セントラルステーションで一日市内バス乗り放題のフリーパスを4ドルで購入し、ついでに無料のバスブックを貰って、路線を調べる。
行き先の方向の車線を少し歩いて、バスストップを探す。
これだけで既にかなりの冒険気分なのだが、無事に目的の路線バスに乗り込んで、しかし本当のサバイバルはまだまだこれから。
こちらのバスには『○×病院前』などという便利なバスストップ名がない。
では何を目印にするのかと言えば、『×○Ave. at ○×St.』だの、現在バスが走っている通りの名称だけが頼りなのである。
もちろんバスブックにはちゃんと地図が載っていて、細かいストリート名なども書かれているのではあるが、土地勘が全くない旅行者には不便極まりない。
(アバウトもいいとこ……)
更にもう一つ、旅行者(外国人)泣かせの問題点。
新しい型のバスには電光掲示板があるので、自分がどこの道のどの辺りを走っているか確認できるのだが、古いバスにはそれすらない。
つまり、目で外の道路標識を確かめ、耳で次のバスストップを聞き取らなくてはいけないことになる。
緊張の中ヒアリングと的確な状況判断が求められる、かなり厳しい体験を強いられるのだ。
……これをバージルが見逃す訳もなく、は既にバスを乗り継ぐ練習をさせられている。
しかしそのときは隣にバージルがいたので、がぼーっと景色に気を取られて『ツーリスト気分』のまま乗り過ごしそうになる直前で「こほん」と咳払いしてくれ、深刻な状況になることはなかった。

今は完全にひとり、である。

きょろきょろと道路標識を確かめ、手元の地図と照らし合わせる。
目的の乗り換えまでは、まだまだ20分はかかる。
そこでようやく少しだけ気が抜け、はゆったりと座席に腰掛けた。
(あ……この道、見たことがある)
安全運転なのか、それとも窓にへばりつくのためか、バージルは車のスピードをあまり上げない。
お陰であちこちドライブしてもらっている内に、街の繋がりなども分かるようになってきた。
慣れさえすれば、碁盤の目のように道と道が交わるアメリカの交通網は、日本よりもずっと分かりやすい。
少しでも見知った景色にホッと息をつくと、は座席にくにゃりと沈んだ。



──夜12時、日付が変わった辺りで、バージルから電話があった。
朝方も電話したばかりだったので、は不思議に思った。
「どうしたの?」
『……いや。分からないなら、それでいい』
返って来たのは、戸惑ったような呆れたような、複雑な声。
バージルはそのときは結局何も言わず、普通に会話を交わして電話は終わった。
その数分後、またも携帯が震えた。
またまたバージルから、今度はメール。
「鮭フレークが欲しいとかかな」
言えなかったおつかいメモか何かかと何気なく開いてみて……は息が止まった。

『Happy birthday dear

実にシンプルな文。
それだけにずっしりと響いた。
「もう……さっき言ってくれればよかったのに……」
朝の電話のときは「明日誕生日だな」などあっさりしていたから、バージルはそういうのにこだわらないタイプなのかと思っていたけれど。
(そうじゃなかった)
きっと、時間きっちりに電話するだけで相当恥ずかしかったのだろうと思う。
こらえても零れてしまう笑みのまま、送られて来たメールはちゃっかりと保護しておいて、はバージルに電話を掛け直した。
すぐに繋がる。
『……どうした?』
回線の向こうで何事もなかったかのようにとぼけるバージルに、きっと絶対顔が赤くなってるよと思いながら、はひたすらくすくす笑った。
嬉しすぎる。
何なんだ気持ち悪いなどなど突っ込まれ、ようやく伝えるべき言葉を見つけた。
「ありがとう。バージル」
数瞬だけ間が空いて、バージルが咳払いした。
『……誕生日おめでとう、
「ありがとう……」
直接言われてみれば、それはそれでひたすらくすぐったい。
耐え切れなくなってわああ!と叫び出す前にジョークで雰囲気を断ち切るべく、は口を開く。
「で、プレゼントは何をくれるの?」
『おまえは……全く』
全て理解した上で、バージルが苦笑した。
『何がいい?』
「え」
まさか素直にそう来るとは思わなったので、は固まった。
そんなの考えてない。
「ば、バージルのくれるものなら、何でも……」
『それが一番困るんだが』
「う」
確かにそうだ。
『決められないなら、縁日の射的で取ったぬいぐるみで済ませるぞ』
「あれはあれで嬉しかったけど、それはいや!」
『なら、次の電話までに考えておけ』
「……はい」
この場合予算はいくらまでとか聞いたらだめだよね、など色気のないことは何とか胸に納めておく。

どうしようかな〜と頭をひねっていると、バージルが静かな声で呼び掛けて来た。
「ん?」

『直接祝ってやれなくて……すまない』

「あ……」
ずきん。
押し殺すような声音に──お祝いしてもらっているはずなのに、何故か胸がきりりと痛んだ。
ずきん。
「そんな……。いいよ、こうして電話でもメールでも嬉しいし」
さっきまでは、確かにそうだった。
……そうだったはず。
「だから、なるべく早く会おうね」
それはいつのことだろう。
二週間後か、三か月後か。
まさかもっと先だったら?
「バージル……」
不安に駆られて名前を呼ぶと、バージルの溜め息が聞こえた。
『悪いが、もう切る。そうしないと……切れなくなる』
慌てた。
そんなことを言われるのも初めてなら、こんなに電話が切れてしまうのが怖いのも初めてで。
今にもぷつりと通話が切れてしまいそうで、携帯を持ち直すのももどかしい。
「あの!バージル。またね?」
『ああ。また電話する』
バージルはそう告げると、本当に素早く電話を切ってしまった。
いつもなら、より先に切ることはしないでくれるのに。
「バージル……」
もう携帯から届くのは、無機質で乾いた音だけ。
バージルとの電話の後はいつだって必ず会いたくなるけれど、今回はもっともっと切実だった。

直接祝ってやれなくて、すまない。

この言葉を、バージルはどんな顔で口にしたのだろう。
電話では分からない。
──会わなければ。
「おばあちゃあん!!」
深夜にも関わらず、は大声で祖母を呼んだ。
夜が明けたらすぐにアメリカに帰ると、そう言うために。
誕生日の残りは日本時間だったら、あと23時間。
だけど、アメリカに帰ればタイムリミットがすこしだけ延びる。
直接、バージルに誕生日を祝ってもらえる。
バージルに、会える。





「Excuse me」
ゆさゆさ肩を揺さぶられ、は目を開けた。
目の前には、大柄な女性。
他人なのに何か見覚えがあるとぼんやり思えば、彼女はバスの運転手だった。
「え。……あっ!?」
嫌な予感に周りを見渡せば、乗客は誰もいない空っぽのバス。
「終点だよ。ここでよかったの?」
ドライバーが苦笑した。
「あ。ああ……乗り過ごしちゃいました……」
うっかりしていた。
長時間の飛行機の移動の後、車に乗って気を抜いたら眠ってしまうことなど、長年自分をやっていれば想像できたことなのに。
「どこで降りる予定だったの?」
ドライバーがバスブックを覗き込んで来た。
「ここです」
はしょんぼりと地図の一点を示す。
そのバスストップはあまり路線が通らない細いストリートと交わっているので、確かあまりバスの本数自体がなかったはず。
「ずいぶん派手に乗り過ごしたんだねー」
「そうみたいです……」
「しかもここ、あんまりバス通らないとこだね」
「ええ」
「最終目的地はここ?まだ乗り継ぐの?」
「乗り継ぎます。目的地はガブリエル公園です」
項垂れるに、ドライバーがぽんと肩を叩いた。
「いいよ。ガブリエル公園までは連れていけないけど、いちばんバスが通る道まで乗せてってあげる」
「いいんですか?」
ぱっと顔を輝かせたに運転手は苦笑して、運転席の横のスーツケースを指差す。
「あれ?」
確か自分の足元に置いておいたはずなのだが……
「ここらも前よりは安全になったけどね。まだまだ油断しちゃだめだよ、アジアのお嬢さん」
どうやら眠って手荷物に目が届かなくなったの代わりに、スーツケースを見張ってくれていたらしい。
(うわあ……)
無防備にも程がある。
バージルがこれを見ていたらどれだけ雷を落としたことやら、想像するだに恐ろしい。
「すみません……」
「いいっていいって」
大きく笑うと、ドライバーはひらひら手を振って、を運転席にいちばん近い席に招いた。
「飛ばすけど、簡単にこの辺の道案内してあげる。大通りだけでも名前覚えると役に立つよ」
「ありがとうございます!」



ジェシカと名乗ったそのドライバーとあれこれ楽しく語りながら、バスは来た道を戻った。
が旅行者でなくこちらへは帰って来たということを知ると、さすがのジェシカもその無防備さに呆れ果て、まるで母親の如くこんこんと説教を始めたが、誕生日であることをこそっと伝えると、途端に態度を変えて祝ってくれた。
やがて大通りに到着し、ジェシカはバスを停める。
荷物の重みでよろよろ足元の覚束ないに、豪快な素振りで親切にもスーツケースを下ろしてくれた。
「じゃあね。誕生日、たっぷり彼氏に祝ってもらいなさいよー!」
パッパーとクラクションを鳴らしてバスが出発する。
「ありがとう、ジェシカー!またバス乗るねー!」
ぶんぶん大きく手を振れば、またクラクションが返って来た。
「いいひとだったなあ」
今回のことをバージルに話すのは怖いけれど、それでも黙っておくにはもったいない話である。
何とか寝過ごした辺りを端折って伝えられないものかなどと考えつつ、バスブックを確認する。
ジェシカは大通りまで送ってくれただけではなく、公園までのルートを地図に記してくれた。
この距離なら、バスを使わなくても歩いて行ける。
そうして公園まで辿り着けば、家はもうすぐだ。
予定よりも遅くなってしまったが、まだ時刻は夕方。
太陽が完全に沈む前に帰れるだろう。
がらがらとスーツケースを引きずって、元気よくは歩き出した。





閻魔刀に付着した不気味な色の血液を振り払い、バージルは空を見上げる。
夕刻。
日本ではもう恋人の誕生日が終わってしまった。
今の自分にできることは全部した……とは言え、何とも遣り切れない。
積み重なる依頼はまるで狙ったように次から次へと雨のように降り注ぎ、一向片付く気配はない。
いい加減に全て投げ出して、日本に行きたい。
に会いたい。
もう、そうしてしまおうか。
しかし、誕生日には間に合わなかったというのに、今更すぎる気がしないでもない。
第一、まだプレゼントも用意していないのだ。
は欲しいものを思いついただろうか。

──俺なら欲しいものを聞かれても、即答できるのに。

答えたとき、彼女はどんな表情をするだろうか。
いつものようにぎゃあぎゃあ騒いで躱すのか、それとも……
どれだけ考えてもこれだけは答えが出ないと気付き、バージルは不毛な考えを断ち切った。
これから家に戻ったら少し休んで、電話しよう。
ひとつ呼吸を吐くと、バージルは後ろで蠢く化け物の残党にゆっくりと振り返った。





「うそぉ……」
手元の地図を広げ、は途方に暮れていた。
バージルから広いと聞いていた公園が、まさかこれほどまでに広いとは思わなかった。
「明治神宮?京都御所?」
どれだけの敷地面積があるのか、見当もつかない。
かてて加えて、闇雲にうろうろ迷っていたらとっぷりと日が落ちてしまっていた。
周りが暗いというのも、土地の感覚を鈍らせる。
「何度か散歩したはずなんだけど……」
バージルと歩いたルートも、どこかにあるはず。
それさえ分かれば、いくら方向音痴の自分でも何とかなるはずなのだが。
小径に点在する案内板を縋るように見上げる。
「公園の案内図……現在地が擦れて読めないし!」
噴水なんて直してる暇があったら地図を直してよ!と管理局に八つ当たりして、ふと思いつく。
……噴水。
そういったシンボル的なものは、だいたいにおいて敷地の真ん中に作られるものなのではないか。
噴水を見つければ公園の中央ということで、別の……見覚えのある路を見つけることもできるのではないだろうか。
「よし。噴水だ!」
くたくたになった足を励まして、はきりりと唇を引き締めた。





最後の化け物にとどめを刺すまで、予想以上に手間取ってしまった。
いつもなら手際よく重ねて三枚のところ、早く速くと焦るからこそ手数が増えていたことを、バージル自身は気付いていない。
家まで早足で向かいながら、ポケットの中の懐中時計の蓋をぱちんと開く。
今電話すれば、ちょうどいい時間帯だ。
ふと辺りを見回す。
ここは通話には不向きな大通り。
雑音に邪魔されない、どこか静かな場所はないものか。
かと言ってカフェなど店に入るには、手持ちの刀が目立ち過ぎる。
なら、どこが……
(公園)
どうせ、ガブリエル公園を突っ切って帰ろうとしていた。
噴水の音をに聞かせてやるのもいいかもしれない。
微かに心が晴れ、バージルは足取りも軽く公園に向かって歩き出した。





擦れた現在地の描かれた案内表示を何とかかんとか解読し、は噴水広場に辿り着いた。
「わあ……」
バージルから聞いた通り、いっそシンプルと呼べそうな程にクラシカルな石の噴水。
ガブリエルという天使の名が冠された公園のシンボルらしく、優美な天使が百合を抱いている姿の石像がてっぺんに飾られている。
下から穏やかにライトアップされて照らし出された水面には、今宵の月が浮かぶ。
さらさらと心を潤す水の音。
「……一人で見に来ちゃった」
ハプニング続きで噴水を目標に歩いて来てしまったが、本当はバージルと来たかった。
噴水の台座に刻まれた何やら古めかしい文章も、彼ならすらすらと蘊蓄まじりで読み聞かせてくれただろう。
心安まる噴水の音を聞いていたら、どっと疲れが出てしまった。
慣れない道をひたすら歩き、足がもう棒のよう。
きょろきょろ辺りを見回しても、どの路にも見覚えがない。
(噴水と一緒に、周りの路も改修しちゃったのかな)
思いつかなかった事態に一気に心細くなった。
糸が切れたように、ぺしゃんと噴水の縁に腰掛ける。
そうするともう全身が鉛のように重く感じて……
「情けない」
ぱたりと涙が零れた。
こんなところで一人、泣いていたって仕方ないのに。
強がってなんかいないで、バージルに空港に迎えに来てもらえばよかったのか。
(結局、私は一人じゃ何にもできない……)
夜闇が一層、孤独と不安を増幅させる。
頼りない周りのライトアップでは、の心を照らしきれない。
「電話……しようか……」
バージルに。
今、アメリカにいると。公園にいると、そう伝えて。
こんな中途半端な再会はしたくなかったけれど。
「何時なんだろ」
かたっと携帯を開けば、デジタルの文字は9時を告げている。
せっかく時の流れに逆らって来たのに、今日という日ももう残り3時間。
「あーあ」
何やってるんだろう。
ぺしっと携帯を額に押し当てる。
……と。

待ちわびたLovin' Youのメロディがおでこの辺りから流れ出した。
──バージルだ。



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