形なんて本当はこだわらない。
石の大きさだってどうでもいい。
彼がこの指に嵌めてくれる、それがいちばん大事。
だけど、やっぱり……




Platinum chain



ジュエリーショップ、三軒目。
「うーん……」
ブリリアントカット、ステップカット、プリンセスカット。
石のカットに、こんな舌を噛みそうな名前がついていることも知らなかった。
最初に主役の石の形を決める方が簡単だと思ったのだが、それすら甘かったと思い知らされる。
その上さらに、指輪のデザインともなると──
「うー」
今日もたくさん婚約指輪を見て回ったが、どれもいまいちピンと来ない。
「みんな同じに見えてきたよ」
ごしごし目を擦る
まさか「俺は一軒目から全部同じに見える」とは言えずに、バージルは曖昧に頷いた。
「今日は帰るか?そう焦らなくてもいいだろう」
「……そうだね」
店でなくとも、インターネットや雑誌で調べるのもよさそうだ。
今日はもギブアップ。
「焦る必要はないが、結婚指輪の前には決めてくれ」
「ま、まさかそんな悩まないよ」
「そうか?」
軽く冗談めかし、バージルは目を細めてを見つめた。
「何でもいいがな。おまえが気に入るのが一番だ」



本来の順序からしたら、婚約指輪選びは男性がするもの。
だからバージル達の場合は少しだけ特殊なのだろう。
リビングのソファに結婚情報誌を広げ、つらつらと記事を眺める。
その中の一文に、ははたと首を傾げた。
(予算は一般に、お給料三ヶ月分……)
「……バージルのお給料って、いくら?」
かなりリッチに暮らしているが、具体的な額など聞いたこともないし、そう簡単に聞ける話題ではない。
というかこれから結婚しようとしている相手の収入に無頓着だったのも、有り得ないといえばそれまでなのだが。
(年齢からしたら、一ヶ月2000ドルくらい…?三ヶ月分なら、6000ドル)
ドルでそんな高額な買い物をしたことがないので、いまいちピンとこない。
(円だとだいたい……適当に考えても60万か)
「〜〜〜ろくじゅうまん!!?」
驚きすぎて、雑誌を放り投げてしまった。
「60万……」
ゆっくりと左手を広げてみる。
この指に、そんな高価な指輪に見合う価値があるのだろうか……。
そう考えたら、うきうき盛り上がっていた気持ちが何だかしぼんでしまった。
「はあ……」
ぺしょりとうなだれる。
そこへ、背後の扉が開く音がした。
「上がったぞ」
お風呂上がりでほかほかしたバージルが入って来る。
まだドライヤーを使っていない髪から滴る水をタオルで受け止め、悠々と歩くバージル。
その姿をは無言で見守った。
「どうした?」
何やら深刻な面持ちのを訝しみつつ、バージルは傍へ立つ。
ふわりと漂うシャンプーの香り。
何故だか無性に胸が苦しくなって、は視線を揺らした。
「なんでもない」
バージルを直視できない。
(……何だ?)
そんなに、バージルはそっと首を傾げた。
何か様子がおかしい。
些細な感情も隠しておけずリトマス紙のように顔に出やすいことを、彼女はまるで自覚していないのだろうか。

バージルはいつものようにさりげなく隣に腰を下ろした。
が緊張しているのが伝わって来る。
「何かあったか?」
手を伸ばしての髪を撫でる。
黒という強い色に反して、頼りなさを感じるくらいにやわらかなその指通り。
絡むことなくすとんと滑ってしまう指を、飽きることなく何度も持ち上げる。
を落ち着かせるために撫でているつもりなのに、彼女の髪を撫でて落ち着くのは自分の方だ。
バージルにとって、いちばん心が安らぐひととき。
「あの」
突然、それまでされるがままだったが顔を上げた。
「……ん?」
見上げられ、バージルは指を止める。
「あのね……」
は視線を右へ左へ彷徨わせた。
なかなか出て来ない"I……"の続きを、バージルは急かさずに無言で待った。
こういうときのは単語を探しているわけではない。
何か言いにくいことを切り出そうとしているのだ。
だから言葉を促す代わりにバージルは、再び指を彼女に伸ばす。
が何を言い出そうと、この手が届かない距離には離れない。
「あの!」
がかたんと立ち上がった。
バージルの指を振り切るように、背後に回る。
「髪!濡れたままじゃ風邪引くよ」
「……?」
「乾かしてあげる!」
言うなり、ばたばたとドライヤーを取りに部屋を出て行く。
バージルはひとり、その背中を見送った。
「嬉しくないとは言わないが……」
──逃げたな。
が何を言いかけたのか皆目分からず、バージルはそっと溜め息をついた。





翌朝。
を学校へ送って行き、バージルは家へ戻った。
今日は珍しく依頼が来ていない。
だが、暇な時間があって、更にもいないときにはいつもそうしているように、刀の手入れに勤しむ気分にもならなかった。
(今朝もの様子はおかしかった)
ソファに座り、足を組む。
昨夜、いつからおかしかっただろうか。
(俺の髪を乾かす、など)
あのとき、バージルの髪さらっさらだね!ずるい!とはしゃぐは明らかに無理していた。
その証拠に、うるさいドライヤーの必要がなくなった後は、ぴたりと会話も止まってしまったのだから。
(一体何が……)
バージルは昨夜のことを順々に思い浮かべる。
夕食の後はバージルの『宿題はいいのか?』と呈した苦言も無視するくらい、お気に入りのドラマに熱中していた。
だからそこまでは普通のだ。
「その後か?」
そんな特別な出来事が何かあっただろうか。
バージルがシャワーを浴びる前も、戻ってからも、は同じソファに座っていた。
──と。
そのソファの下に、ぽとりと落ちている雑誌が目に飛び込んで来た。
最近、が熱心に読んでいる情報誌だ。
バージルはどんなデザインがいいの、と指輪の特集ページを見せられた記憶がある。
「それを真剣に悩んでいるのか?」
……にしても、引っ掛かる。
華やかに彩られたページを次々に捲り、不自然に開き癖がついた部分に辿り着いた。
何の気なしに、それを読む。
そして次第にバージルの表情は曇っていった。
『一般に、婚約指輪の予算は給料三ヶ月分と言われています』
どれだけを戸惑わせたものか、その偉そうに並んだゴシック体の活字たち。
「……これだな」
バージルは不機嫌に雑誌をばさりと閉じた。
自分がプロポーズ前に指輪を用意していれば、何ということはなかったのに……。
けれど今さら悔やんでも仕方ない。
少しだけ考えると、バージルは電話を何本か掛けた。





午後二時を過ぎ、はその日全ての授業を終えた。
今日はバージルは仕事がないと言っていたから、車で迎えに来てくれているだろう。
(ひょっとしたら、ショッピングモールに連れて行ってくれるかも)
指輪を選ぶために。
「あーぁ……」
今はそのせいで気が重い。
ジュエリーショップのガラスケースを覗いているときは、値札の文字なんて小さすぎてよく見ていなかったし(恐ろしいことには、値札さえないショップもあった)、ただただ気楽だった。
とぼとぼといつもの待ち合わせ場所まで牛のような遅さで歩く。
パッパー。
珍しく、バージルがクラクションを鳴らしてを呼んだ。
ウインドウが下り、バージルが顔を出す。
、急いでくれ。約束があるんだ」
「約束?」
はきょとんとした。
そんなこと、今朝は何も言っていなかったのに。
疑問に思いながらも、とにかく小走りでは助手席に乗り込む。
ドアがぱたんと閉まったとほぼ同時、本当に急いでいる様子でバージルは車を発進させた。



道路をかなりの速度で走り抜け、バージルが車を停めたのは自宅前だった。
「あれ?」
てっきりどこかに出掛けるのだと思っていたは、ぱちぱち瞬きつきでバージルを見る。
「約束って」
「家でな」
腕時計を見、バージルはひとつ頷く。
「間に合ったか」
「お客さん?」
「どちらかと言えば、俺達が客なわけだが」
「?」
「さ、下りろ」
さっぱり話についていけないながらも、はバージルに従った。



それから十分も経たないうちに、チャイムが来客を告げた。
「はーい」
たまたま近くにいたが玄関の扉を開く。
外でにこにこ待っていたのは……大きなバッグを抱えた小麦色の肌の迫力美人。
「こんにちは」
極上の笑顔で微笑まれ、思わずの腰が引けた。
こんなゴージャズな知り合い、にはいない。
「こ、こんにちは」
一応失礼のないように挨拶し、すぐさま後ろを振り返る。
「ば、ばーじる!バージルにお客様いらしたよ!」
リビングから現れたバージルが苦笑した。
「いや、彼女はおまえに用があるんだ」
「え?」
どうして、と迫力美人を改めて振り返る。
「初めまして、さん。私はホリー。ジュエリーデザイナーよ。これからどうぞよろしく!」
輝くような笑顔と、予想もしていなかった自己紹介。
はぽかんと立ち尽くした。



ホリーは実に手際がよかった。
いくつものステンレスの輪がじゃらじゃらと連なった道具を取り出し、次々との左薬指に嵌めていく。
「あなたの指輪のサイズは5ね」
ぴったり嵌まった輪を、本人にも確認させる。
「5?私、そんな痩せたっけ!?」
ぎょっとして手をひらひらさせているの隣で、バージルが呆れた。
「また日本のサイズと勘違いしていないか?」
「……あ。」
たちまち真っ赤に頬を染めたにくすくす微笑み、ホリーは次はバージルに輪を差し出した。
「さあ、次はあなたの番よ」
「は?」
バージルが眉を寄せた。
「俺は別に……」
「あら。どうせ結婚指輪もご希望なんでしょ?」
「……。」
商売上手なデザイナーだと思いながら、その通りなので逆らわずにバージルはサイズを計測し始めた。
ホリーはそれを満足気に確認すると、居心地悪そうにもぞもぞしているに目を合わせる。
「さて、そうしたら本題ね。さんは、どんなデザインがお好み?」
「え……」
突然、そんなことを言われても。
ますますもじもじしだしたに、ホリーはああ、と手を叩いた。
「ごめんなさい。何の資料もなしにそれはないわよね」
参考にして、と彼女が差し出したのは、大量のポートフォリオ。
「わ……!」
思わずは感嘆の声を上げた。
ファイルに詰め込まれているのは、たくさんのデザインや写真。
一粒石を象嵌したクラシックなデザインの指輪から、流線的で個性的デザインの指輪。
石や台の、色や形も様々だ。
そのどれもが実に魅力的。
そしてどの指輪にも、持ち主だろう恋人たちの幸せそうな写真が添えられている。
彼らの指で、誇らしげにきらきら光る指輪。
「これ……みんな、ホリーさんが?」
「そうよ」
嬉しそうにホリーがウインクしてみせる。
「全部、今のあなたたちみたいに直接会って話を聞いて、デザインを相談してそれから作ったのよ。だから、どれもみんな完全に世界に一つの指輪なの」
「すごい……」
だから、ショーケースの中の指輪よりも目を引くのだろうか。
資料に釘づけになったに、ホリーは優しく笑った。
さんはラッキーよ」
「え?」
顔を上げると、ホリーはそっとの横を見た。
ほんのさっきまでそこに座っていたバージルは、サイズを測り終えるとその場から逃げるように席を外してしまった。
「彼に婚約指輪から選ばせてもらえるんだもの。せっかくだから、結婚指輪と重ねづけして映えるデザインにしましょうよ。気合入るわぁ」
腕まくりしそうな勢いのホリー。
「あ、だけど……」
はあわあわとポートフォリオを捲る。
料金表とか、そういうのはどのページに?
石は、材料は、一体いくら?まるで相場が分からない。
写真の裏まで探り出したの心配事に気付き、ホリーが吹き出した。
「そういうことはね、彼だけの秘密よ」
唇に人差し指を当てる。
「で、でも!」
噛み付きそうな勢いのに、ちちちと指を振る。
「女の子は、貰えるものは貰っておけばいいの。その方が可愛いってもんよ」
「う〜ん……」
「大丈夫!見積もりを見てバージルさんが蒼白になったら、あなたに気付かれない程度に石をちっちゃくしちゃうから!」
だから安心して好きなように決めなさいな!
ホリーは実に爽やかに言い切る。
からから笑うデザイナーに、もついに吹き出した。



デザインを決めるのは、結局その日だけでは終わらなかった。
ホリーがスケッチブックに描いてくれる指輪はどれも素敵で、とても一回の相談では決められなかったのだ。
彼女の事務所にも通い、何度も家に来てもらい……
分からないからいいと逃げたがるバージルも無理矢理に引っ張ってきて、そうしてやっと、デザインが決まった。
後に嵌めることになるだろう結婚指輪のデザインも合わせて決め、どちらもケンカしないどころか見事に引き立て合うようにホリーが調整してくれた。
「じゃあ、これを工房に持って行くから……仕上がりの連絡は、バージルさんにすればいいのね?」
「そうしてくれ」
連絡先を手渡すバージルの顔色はいたって普通で、は内心ホッとした。
(結局、値段なんてまるで分からないままになっちゃったけど……)
さりげなく探ってみても、ホリーもバージルもはぐらかすばかり。
前者に苦笑され、後者は不機嫌になったところで、さしものも諦めた。
(貰えるものは貰え、かぁ)
そう開き直れるといいのだが。
うーんと考え込んでいると、バージルとホリーは少し離れたところで何やら打ち合わせをしている。
もしや値段交渉か、とは聞き耳を立てた。
が、数字らしき単語は聞こえてこない。
「……では、ホリー。例の細工も」
「分かってるわ。それじゃ、また」
(細工?)
何のことだろう。
そうこうしているうちに、ホリーがの方へ向き直った。
「じゃあね、楽しみにしていてね、さん!」
「あ、はい。ありがとうございました」
はぺこりと頭を下げる。
「一体どちらが客か分からんな」
苦笑しつつも、その割には彼女が可愛くて仕方ないといった表情でバージルはを見つめた。
は照れ笑いで視線を逸らす。
「だってホリーさんにはいろいろ融通してもらっちゃったし」
玄関の錠を下ろす。
もう今日のところは誰も来ないだろう。
こほんと咳払いし、はそろりとバージルに並んだ。
「……さっきの、何のお話?」
「さっきの?何のことだ」
明らかに惚けているバージル。
は溜め息をついた。
「ほんのさっきの。私がいないところで、二人でごにょごにょと内緒話してたでしょ」
「気になるか?」
バージルが意地悪く目を細めた。
はうんうんと拳を固める。
「そりゃもう」
「一応言っておくが、浮気ではないぞ」
「分かってるよ!もー、はぐらかさないで!」
固めた拳を振り上げれば、バージルがそれを軽々受け止めた。
自分の手で包んだ彼女の拳をぽんぽんと、あやすように叩く。
「気にしなくていい」
「……でも」
「それよりも」
バージルはすっとを見下ろした。
「俺が浮気していないと、やけに自信たっぷりだな」
「え?」
「その自信はどこから来るんだ?」
「え」
じいっと覗き込まれ、はたじたじと下がった。
「そ、それは、だって」
「“だって”?」
「だって、……ええ?」
あまりに粘られてしまうと、不安になる。
(そりゃ、バージルもホリーさんとはよく会ってるし、電話もしてるみたいだし、……彼女は美人だし、だけど、でも、まさか、そんな)
そわそわ瞳を揺らす
バージルがクッと喉を鳴らした。
「……冗談だ」
「バージル〜〜〜!」
「俺に浮気する余裕があるかどうか、自分で確かめてみろ」
有無を言わさず抱き上げる。
「わぁっ」
ていよく話題をすり替えられた。
そう分かってはいても、連れ去られる道中もあちこちに仕掛けられる悪戯に、自身の余裕がすっかり削られていき……結局『細工』のことは聞けずじまいのまま、夜は更けた。



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