しずかな住宅地に忍び寄る、いたずら悪魔の影ひとつ。
「……ここか?」
にやりと笑って、彼は家の様子をこっそり窺う。
よくよく見知った不吉な気配は全くしない。
「よし」
足取り軽く、悪魔は侵入開始した。




Honey & Moon (... & Bee)



「だからね、まだ本当に写真なんてないんだってば」
はパソコンに向かって弁解していた。
相手は大学時代の親友。
現在スカイプで連絡を取っている真っ最中。
『嘘でしょ、絶対に信じないんだから!』
ブラウザ越しでも不機嫌がそっくり伝わって来て、は慌てた。
何を言われようと、まだバージルとは写真を撮っていないのだ。
「今度絶対送るから、ね?」
『またそうやって逃げるのー?』
もったいぶらないで見せてよー!
今日の彼女はなかなかしぶとい。
こちらの時間に合わせて早起きしてもらっているせいで、妙なテンションになっているのかもしれない。
「ごめんってば」
何とか話題を断ち切ろうとしたとき、
「ここか?」
コンコン、と部屋の扉が外からノックされた。
「あ」
『やった!彼のお帰り!?』
第三者の物音に反応し、親友が立ち上がる(のが見えた)。
「おかえりなさい。ドア、開いてるよー」
そう告げたものの、バージルは現れない。
こちらが電話中だと気付いていて遠慮しているのだろうか。
入って来ない彼に、は扉を開けた。
「バージル、今日は帰り遅いって言わなかった?だから出掛けるのも夜になるって、今朝……」
中を軽く見回し、バージルはつかつかと入って来る。
「いや、用事が早く終わったからさ。……早くデートしたくて帰って来たんだ」
「……そう、なの?」
それは嬉しいけど。
もごもご呟いて、けれどは訝しむ。
──何だか普段のバージルと違う。
バージルがまるでアメリカ人みたいに(アメリカ人だけど)、そんな軽口を叩くなんて。
それに言葉だけでなく、前髪はお風呂上がり直後みたいにぺたりと下りているし、着ている服もワイルドに着崩している。
(バージル、こんな服持ってたっけ?)
違和感がひしひしするが、でも、もちろんどこをどう見たってバージルだ。
(まさか熱でもあるのかな?それとも、酔っぱらってる……?)
まじまじ見ていたら、バージルはすいっと視線を逸らした。
「お。電話中?」
そのままひょっこりとパソコンを覗き込む。
当然ながら、モニター上部のウェブカメラははっきりくっきりとバージルの顔を捉えた。
『〜〜〜!!!ちょちょちょっと!!彼、かっこよすぎじゃない!!!』
友達が黄色い悲鳴を上げる。
「あ、あああ」
思わぬ対面をさせてしまった。
!!ちゃんと紹介してっ!!』
あわあわしているうちに、親友がいきり立つ。
渋々とはバージルの横に並んだ。
「あ、あの。彼がバージルです。……いつもは前髪上げてるんだけど」
それに、もうちょっときちんと服を着こなしてるんだけど。
「どうも。ダ、バージルです」
にこにこしている彼に「大学時代の友達なの」と紹介すると、バージルは見ず知らずの相手に『爽やかに笑った』。
これがパソコン越しでなくて本当の対面だったなら、がっちり握手でもしていそうな雰囲気だ。
(えええ?)
うすら寒いものを背中に感じ、は恐る恐るバージルを見る。
……外で何か悪いものでも食べて来たのだろうか。
「ねえ、バージル。何かあった?」
「どうして?」
問われ、バージルがすっと目を細める。
「どうしてそう思う?」
間近に覗き込んで来るブルーの瞳。
「え、だって……」
反論しようと口火を切ったものの、何でも見透かすその青の前に、全て飲み込まれる。
見つめていると吸い込まれそうになってしまう、いつものバージルの目だ。
……でも、どうして違和感を拭い切れないんだろう。
例えて言うなら、今まで海を眺めていたのに、気づいたら空を見上げているような。どちらも青なのだけれども──
はじっとバージルを見つめた。
バージルも、かすかに口元に笑みを浮かべてを見つめる。
と、がしゃん!とパソコンから妨害音が入った。
『ちょっと!!何いい雰囲気になってるのよ!!私のこと忘れてない!?』
ちっとバージルが舌打ちした。
「悪いけど、退場してもらうぜ」
ぎゃんぎゃん騒ぐ外野に、ぷちんと通話を断ち切った。
「あ!もう、何やって」
「これで邪魔者はいなくなったな」
の非難にもまるで動じず、にっと艶やかにバージルが笑う。
「バージル?」
「……比べてみるか?」
「え?」
笑みはそのまま、素早くバージルが顔を近づけて来る。
「ちょっ、」
今日のバージルは絶対なにかおかしい!と、が彼の胸を押してキスを拒んだ、それと同時。

ガッ!!!

細長くて黒い何かが、バージルの側頭部を強打した。
「いってぇ……」
目の前のバージルが頭を抱えてうずくまる。
ホッとしたのも束の間、は更に混乱した。
「な、に?」
バージルの足元には、見覚えのある日本刀。
見間違うはずがない。祖父が直した、バージルの愛刀だ。
「え?」
どうしてこれがバージルに投げられた?
訳が分からず、部屋の入り口を見れば──

「……戯れは終わりだ……」

「ば、ばーじる!?」
激しい怒りで顔が真っ白になっているバージルが、立っていた。





数分後。
最初に部屋に入って来たバージルと、後から来たバージル、そしてはリビングに移動していた。
二人のバージルに真向かうようにソファに座る。
……右のバージルを見れば、にっこにこと笑顔で手を振っている。
……左のバージルは、むすっと仏頂面のまま腕を組んで、さっきから何も言わない。
(左のバージルの方が話しかけやすい……)
一般人の意見とは全く異なるだろうが、は左を向く。
「あの。バージル。……だよね?」
「……ああ。俺だ」
バージルが低い声を押し出した。
やっぱりそうだ、とはうんうんと納得する。
滅多に笑顔を見せない彼が普通。
じゃあ、右のバージルは?
疑いの眼を向ける。
右バージルは、大袈裟なジェスチャーで腕を広げた。
「おいおい、ちゃん。恋人の顔も間違えるのか?俺がバージルだぜ?」
「いい加減にしろ、ダンテ!!!」
バゴォ!再び閻魔刀の鞘が唸る。
「黙っていればさっきから調子に乗って……!」
「どこが『黙って』だよ、ゴンゴン殴りやがって。少しくらい恋人気分を味わわせてくれてもいいだろ?ちゃん、すっげぇ可愛いな」
「……。」
右バージルの軽口に、左バージルのしろい顔が更にしろくなった。
もはや手の中の刀がその白刃を見せそうな勢いである。
物騒な雰囲気にが慌てて立ち上がる。
「ば、バージル!とりあえず落ち着いて!……あの、すみません」
余裕綽々の右のバージルにぺこりとお辞儀する。
「事情がよく飲み込めないんですけど、バージルとそっくりなあなたは……一体……どちら様ですか?」
おずおず見上げる。
……ぷっ。
右バージルは楽しそうに吹き出した。
軽快に立ち上がって、握手のために手を差し出す。
「混乱させてごめんな。オレは、ダンテ。バージルの双子の弟だ」

──ふたごのおとうと。

は完全に思考停止した。
一拍遅れてから、だからそっくりなのかとか、それなのにどうしてこんなに言動が違うのかとか……いろいろなことが頭を駆け巡る。
それでもまだ腑に落ちない。
だってバージルは、何にも……
「おーい。ちゃん?」
ダンテがの目の前にぶんぶんと手を翳す。
はハッと我に返った。
「あ、ああ……ごめんなさい。驚いた」
「だろうな。お兄ちゃんは何にも話してないみてぇだし」
「気味の悪い呼び方をするな」
黙ったままだったバージルが、重々しく口を開いた。
かなりの不機嫌だ。
はそろそろとバージルの様子を探ってみる。
彼は全く視線を合わせない。
(……危険信号……)
もともとバージルは自分のこと、家族のことについて語りたがらない。
そこへ突然、『双子の弟』の訪問だ。
先程から見ていれば、それほど仲良しとも思えない兄弟。
とてもではないが、このまま三人でいるにはまだ覚悟が足りない。
「あ、私、紅茶淹れて来ます」
緊張しすぎて喉もからからだ。
早口で宣言して、そのままキッチンに逃げ込みかけて……は後ろを振り返る。
バージルの好みは茶葉の種類からクオリティまで暗記しているが、ダンテの好みは分からない。
「ダンテさんは、もしかしたらコーヒーの方がいいですか?」
丁寧に訊ねられ、ダンテは目を丸くした。
が、すぐにニッと笑って手を上げる。
「コーヒーで頼むよ」





リビングに残った二人は、しばらく無言だった。
バージルはロダンのブロンズ像のように固まったまま、動けずにいる。
(ダンテと再会してから、ずっと嫌な予感はしていたが)
いつかには、ダンテのことも話さなければならないとは思っていた。
だがまさか、自分のいないときにいきなり何の前触れもなく会ってしまうとは。
不意にダンテがひょいっとソファを移動した。
いつまでもバージルと仲良く並んでいる必要はない。
「いろいろ悪かったな」
斜めの席から謝る。
バージルは鋭くじろりとダンテを睨んだ。
「それが謝っている態度か?」
「もちろん」
「……。」
「けどさ」
ダンテは親指でキッチンを示す。
「いくら何でも……隠しすぎだろ?」
逃げるように消えた彼女を思い出す。
(バージルのタイプはナタリー・ポートマンみてぇな女かと思ってたが)
外国人だという以外は、ごく普通な女の子。
──当然、人間の。
バージルに左手を翳してみせる。
「あの子の左手の指輪。……あんた、本気なんだろ。だったら、なおさら」
「分かっている」
バージルは両手を組んで、顎を支えた。
に話さなければいけないことが、まだ最低でもあとひとつ……残っている。
「今回の詫びに、いつでも手を貸すぜ」
ダンテが鷹揚に足を組んだ。
悪びれた様子の全くない弟を眺め、バージルは溜め息をついた。
「お前を斬ってみせるのが一番簡単なんだがな」

「お待たせしましたー」

がトレイを手に戻って来る。
彼女なりに気持ちの整理をつけて来たらしく、さっきよりはずっとしっかりした表情をしている。
(なるほどね)
確かに、普通の枠におさまる女ではなさそうだ。
ダンテはにやりとバージルを見た。
視線に気付き、バージルは嫌そうに眉を顰める。
双子の視線の応酬にはまるで気付かず、はダンテにコーヒーをすすめた。
「はいどうぞ、ダンテさん」
「サンキュ!」
コーヒーを受け取って、ダンテは今度は爽やかに微笑む。
「今夜デートだったんだろ?悪かったな、邪魔して」
「あ……いえ」
「この埋め合わせは……するんだろ?バージル」
いきなり話を振られて、バージルはハッと顔を上げた。
「……ああ。勿論」
やっととバージルの目が合う。
すこしだけ、ぎこちない。
(あー。さすがに今回はヤバかったか?)
二人を見比べ、ダンテはほんのすこし途方に暮れた。





コーヒー一杯分だけ過ごし、ダンテは帰って行った。
また会おうぜ!との言葉に、バージルだけは苦虫を噛み潰したような表情をしていたが。
「……賑やかなひとだね」
バージルとふたり、食器の片付けをしながらが口を開く。
水の音と食器の触れあう音が、適度に場を誤魔化してくれている。
「煩いだけだ」
「そんな」
あはは、とは笑う。
「……
きゅ、とバージルが水道の蛇口を捻って止めた。
しん、とキッチンが静まり返る。
も手を止めてバージルに体ごと向き直った。
たっぷり間を置いてから、バージルはおもむろに口を開く。
「弟の事……黙っていてすまなかった」
目を伏せて謝る。
は呼吸三つ分、そんな彼を見つめた。
言いたいことはいろいろある。
怒りたい気もするし、責めたい気もする。
他にも根掘り葉掘り聞いてしまいたい気もするし、今聞いたならバージルは包み隠さず話してくれるだろう。
それがどんなに彼にとって聞かれたくない部分であっても。
だけどそれは、あまり気分のいいことじゃない。
まだ何か秘密があったとしても……バージルなら、いつか絶対に自分から話してくれる。
「……いいよ」
ぺたりとバージルに抱きついた。
「バージルだって、私について知らないこと……まだまだあるでしょ」
……」
バージルはどう答えていいか迷い、そのまま立ち尽くした。
「たとえば」
いつものように抱き締めてくれないバージルを、焦れったそうに見上げる。
「私はミステリアスなバージルも嫌いじゃない、とか」
ね?とは青の瞳を覗き込む。
間近に見つめあい──負けたのは、バージルだった。
の視線を隠すように、その頭を自分の胸に押し付ける。
「……俺にはまだまだ秘密がある」
「実は三つ子とか?」
胸の中でがもごもごと茶化した。
「それより驚くと思う」
──ひょっとしたら、二度とこんな風に触れ合えなくなるかもしれない程に。
「いつか話す」
──ひょっとしたら、悩んでいたのが馬鹿らしくなる程、あっさりと受け入れてくれるかもしれない。
は分からない。
「うん。待ってる。……でも」
バージルが腕の力を緩めた隙に、はぷはっとその胸から脱出した。
「まずは今夜の埋め合わせに期待してるから」
鼻の頭にボタンの跡がついているに心底和み……バージルはやっとちいさく微笑した。
「望み通りに。明日、出掛けよう」



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