スーツをきっちり着込んだ彼。
「行こう」
微かに緊張を含んで凛と上げられたその横顔は、三割増し以上だった。




Honeymoon



帰国の挨拶もそこそこに、バージルとはかしこまって彼女の両親に相対した。
賑やかな家族が、今日は奇妙におとなしい。
……もしかしたら、この場でいちばん落ち着いているのは、かもしれなかった。
婚約のことは両親には既に電話で連絡はしてある。
父も母も「もう?」などと驚いてはいたが、心から祝福してくれた。
思えば初めてアメリカへ渡ったときから、の両親はふたりを優しく見守ってくれていた。
大学を辞めてまで、知り合って間もない外国の男についていくなど……アメリカの治安も含め、もちろん散々心配はされたが、バージルの礼節ある振る舞いも功を奏して、頭ごなしに反対はされなかった。
その上で、今のしあわせがあるわけで──は深く、両親に感謝している。
「お父さん。お母さん」
ははにかみながら、左手の甲を上げた。
きらりと主張しているのは、ある朝突然、自分の一部になった指輪。
最初はそわそわ落ち着かなかったそれも、今はすっかり肌に馴染んだ。
バージルの想いの証。
緊張していたの両親の強ばった表情もほどける。
「ま!素敵じゃない。見て、お父さん」
「すごいなあ」
父と母の顔を順番に見つめ、ぺこりとお辞儀する。
「挨拶が遅くなっちゃったけど……私たち、婚約しました」
母がくしゃりと泣きそうな顔で微笑んだ。
「おめでとう、
「ありがとう……」
もう一度ぎこちなくお辞儀して……はそっとバージルを窺う。
バージルは部屋に入って来てから、一言も口をきいていない。
(まさか緊張でがちがち?)
彼に限ってそんな、まさか。
ふとバージルがこちらを向いた。
覚悟を秘めた、真剣な眼差し。
(いよいよ?)
ついにバージルが挨拶するのかと、の心臓がばっくばくと跳ね上がる。
……そしてバージルはおもむろに口を開いた。
何故か、を見つめたまま。

「There's nothing I wouldn't do for you. So... always be with me」

『おまえのためなら何でもする。だから、ずっとそばにいてくれ』
それからバージルはゆっくり深々と、の両親に頭を下げた。





とんとんとん、とんとんとん。
まな板と包丁が規則正しいリズムを作る。
夕食を用意する、せわしなくて穏やかな時間。
「どうなることかと思ったけど……」
の母が味噌汁の味見をしながら、隣の娘をちらりと見やる。
「憎たらしいほど幸せそうねえ」
「娘に対して、そんなこと言うー?」
が吹き出した。
「だって、バージルくんったらにはもったいないくらいのいい男じゃない。さっきの言葉、私もときめいたわよ」
「え。意味わかってたの?」
「私達にも分かるようにゆっくり言ってくれてたもの」
「そうなんだ……」
てっきり二人には理解出来ていないと高を括っていた。
あんな恥ずかしく、そして嬉しいセリフ。
の顔がかーっと真っ赤になった。
「あれを私達の前で言うのが、彼なりの挨拶だったんでしょ。あーあ、いいわねぇ……」
母の視線はそのまま娘の指輪に止まる。
「それも高そうだし」
「あ!お味噌汁、沸騰しちゃうよ!」
すかさずはガスコンロに逃げた。
実家がこんなに気まずいものだとは、今までからしたらとても考えられないことだ。
(このままじゃからかわれ続ける!早く新婚旅行に行かないと!)
はおたまを持ってくるりと母に向き直った。
「あのね、お母さん。実は新婚旅行先のことでお願いがあるんだけど」
「メールで言ってたことなら、もう予約してあるわよ」
「本当!?」
「でも、交換条件があるの」
「……はい?」
思いがけない母の発言に、の動作がぴたりと止まった。
そんなこと前は何も言っていなかったのに。
母は腕を組んでぴしりと言い放つ。
「結婚式挙げてからになさい。何の話もしてないから、どうせ挙げる気ないんでしょ?でも、そんなの許さないわよ」
「ちょちょちょちょっと待ってよ」
「バージルくんのタキシード姿、見たくないの?」
「見たい!……じゃなくってですねえ、こっちにいられるの二週間しかないんだよ?」
「今すぐ教会とドレスを探せば、何とかなるわよ」
「えええ!?いや、無理だよ!!例え場所や着るものがどうにかなったとして、もっと大きな問題が……」
「『そっちの問題』はなら何とかできるでしょ」
「……。」



『そっちの問題』は、縁側に座って猫のミーコとのんびり寛いでいた。
前に来たときは、風通しのいいここでの昼寝が最高に気持ちよかった。
けれど今は、だいぶ涼しくなって肌寒ささえ覚える。
ちりんちりんと耳に心地よく鳴っていた風鈴も、もう飾られていない。
「……バージル。寒くない?」
声を掛けると、肩を引いてバージルが振り返る。
「猫を抱いているから、大丈夫だ」
確かにバージルの膝にはミーコがまんまるくクロワッサンのようになって眠っている。
ミーコはバージルをもうすっかり家族の一員として認めているようだ。
も隣に座った。
ぎこちなく膝を抱える。
「こっちもずいぶん涼しくなってたんだね」
「そうだな」
「……。」
「……。」
……結婚式のことは非常に言い出しにくい。
手続き関連などの仕上げは帰国してからにしようと話してはあったものの、式に関してはまだ何も話していなかった。
は考えなかったわけではないが、バージルも特に何も言わないし、大袈裟なことをする必要もないと思っていた。
だからさっき母に言われたとき、虚をつかれて本当に焦ってしまった。
(バージルは絶対いやがるに決まってる)
しかし母との交換条件を飲まなければ、新婚旅行の計画も立て直しになってしまうわけで……
「……。あの……」
ミーコを撫でる振りをして、さりげなくバージルとの距離を詰めてみる。
バージルもに顔を向けた。
「式のことか」
「えっ」
どきんと見上げると、バージルは溜め息をついて苦笑した。
「さっき義父に、おまえのウェディングドレス姿を見たいと言われた」
「ああ……」
そっちも手を打っていたのか。
自分の両親ながら呆れる。
「そこまで言われたら、挙げないわけにもいかないだろう」
「……ごめんね」
「何故おまえが謝る」
バージルが目をすがめる。
はちいさく肩を竦めた。
「だって」
何だか無理やりすぎて、本当に申し訳ない気がする。
黙っていると、バージルがぽんと頭に手を乗せて来た。
「俺も、おまえのドレス姿を見たいから構わない」
ぱっと顔を上げれば、擦れ違いで目を逸らされる。
「……実はこういうことになるだろうと思って、結婚許可書を持って来ている」
「えっ!?」
は目をまんまるく見開いた。
アメリカでの婚姻手続きは、ふたり揃って役所に結婚許可書を貰いに行くことから始まる。
そして規定の日数以内に神父や裁判官の立ち会いのもとで式を挙げ、許可書に彼らのサインを貰う。
それを再び役所に提出すれば、晴れて法的にふたりは夫婦と認められるのだ。
許可書の有効な期間は割と長いので、もバージルと一緒に役所に結婚許可書を貰いに行っていた。
『こちらでは何でも時間がかかるから』バージルはそう説明したのだったが。
(まさか、こうなることを見越して……?)
少し待っても視線を合わせてくれないので、仕方なくはバージルの肩に頭を乗せた。
「……ありがとう。私もバージルのタキシード姿、見たい」
バージルが口元を緩めた。
「決まりだな」
「うん。ありがとう……」
ぴたりとくっついてきたに、バージルにむくむくと悪戯心が湧き上がる。
「礼は行動で示してもらいたいが」
彼女の顎を指で持ち上げられれば、がうっと反応に詰まった。
「……私は言葉の方がいい」
「言葉でもいい」
「あ。」
引っ掛かったな、とバージルはにやりと笑う。
「や、やっぱり」
「俺はどちらでもいいぞ?」
「…………。」
?」
バージルの催促に、
ぷしゅん。
ミーコがくしゃみで返事した。
「み、ミーコが寒いって!さ、中に入ろう!」
ナイスタイミング!とすかさず猫を抱き上げて、は立ち上がる。
ばたばたと足音高く逃げ出した彼女に、バージルはやれやれと苦笑した。





それからは目が回るような忙しさだった。
教会探しにドレス選び。
特に大変なのは教会の方。
バージルは日本のことをよく知らないので何かを手伝うにもなかなか上手くいかず、とて式を挙げるのは初めてだからいまいち段取りがよく分からない。
それでも、両親(主に母)とインターネット、雑誌の力を駆使して、何とか急な結婚式にも対応してくれそうな教会が見つかった。
郊外の、こぢんまりとした教会。
下見に訪れたのは午後で、壁のステンドグラスから洩れる光が息を飲むほどうつくしく──も、そして彼女の反応を見たバージルも、式を執り行う場所として心から満足したのだった。



用意しなければならないものも、たくさんあった。
「サムシング・フォーは集まった?」
「まだ……」
母の言葉に、はぐにゃりと頭を抱えた。
正直、教会にドレスにと駆け回っていて、そんな細かいところまでとても気が回らなかったのだ。
なにかひとつ、古いもの。
なにかひとつ、新しいもの。
なにかひとつ、借りたもの。
なにかひとつ、青いもの。
どれも用意できていない。
「借りる……おばあちゃんの指輪を借りられるかな」
本来なら隣人や友人のものだが、こんな突然融通をきかせてもらえるのは身内しかいない。
母も大きく頷いた。
「そうね。新しいものは、ドレスに合わせて白いパンプスを買ったからそれでいいんじゃない?」
「じゃあそれで。えっと、古いものは……」
「俺のアミュレットを使えばいい」
母娘の話題に、バージルが割って入った。
手にしているのは、金の鎖に赤い石が繋がれた古めかしいペンダント。
「相当に年季が入ってそうだけど……それは何なの?」
首を傾げる母。
何かを訊ねられたことは理解し、バージルはアミュレットをに手渡しながら説明する。
「これは当家に伝わる宝石で、小さい頃に母から譲られたもの。……俺の弟、ダンテも同じ物を持っている」
「そうなんだ……」
ずしりと重々しい感触のアミュレット。
旅行先まで持って来ていたとなれば、相当大切なものに違いない。
「バージル、ありがとう。大事に身につけさせてもらうね」
「ああ」
バージルは満足そうにふわりと微笑した。
彼を見つめ、はぴんとひらめく。
「あ!」
「何、どうしたの。
訝しむ母に、はいたずらっぽく笑ってみせる。
「青いもの、見つけた!」
バージルの双眸。
「……だけど、身につけるものじゃないじゃない」
照れを含みながら未来の息子の瞳をちらりと見て、母は肩を竦めた。
はぶんぶんと顔を振る。
「そうだけど。これ以上に綺麗な青いもの、見つけるなんて無理だよ」
──彼の青を、知ってしまったら。
「これで4つ、見つかったね」





結婚式当日。
準備で忙しすぎて、はマリッジブルーに陥る暇もなかった。
「それじゃあミーコ、お留守番よろしくね」
この家で唯一、式に参列できない家族を抱き上げる。
くしゅっ。
ミーコが全身でくしゃみした。
「またくしゃみー?風邪でも引いたの?」
病院に連れて行った方がいいかな。
呟いたに、後ろから現れたバージルが苦笑した。
「……それは、そういうことではないくしゃみだな」
「どういうこと?」
式の朝、花嫁の近くで猫がくしゃみをすると、彼女はしあわせになれる。
ちょっとしたジンクスに過ぎないが、祝福は多ければ多いほどいいに決まっている。
「おまえはしあわせになれる、ということだ」
バージルは大役を果たしたミーコをひと撫でしてやった。
「……?」
「もう行くぞ。遅れる」
一瞬だけ視線を交わして、バージルはの手を引いた。



鏡に映った、これは一体誰だろう。
はぎこちなく、婚約指輪を嵌め替えた右手を挙げてみる。
鏡の中のお姫様みたいな恰好をした人物は左手を挙げている。
まぎれもなく、これは自分だ。
「うわぁ」
ウェディングドレス姿にはとてもふさわしくない声で呻いてしまった。
プロの手によるメイクもきらきらと完璧で、純白のドレスに身を包んだ自分は、呆れるくらいに『夢見ていた花嫁姿』そのものだった。
(ちょっと感動……)
くるくるポーズを取りながら感激していたところ。
コンコン。
ドアがノックされた。
「あ、もう準備できてます」
これから式の前に両親とバージル、4人で記念撮影をするのだ。
さっき母親も先に行ってしまったし、係が呼びに来てくれたのだろう。
「今行きま……わっ」
慣れないハイヒールと、裾の長いドレス、目の前を塞ぐヴェール。
足がもつれてよろめいた。
転びそうになる寸前、
「おまえのそそっかしさはドレスを着ても直らないな」
バージルがを抱きとめた。
「バージル。な、なんで」
「遅いから迎えに来た」
「あ……」
急がなくちゃね、と顔を上げ……の目はバージルに釘付けになる。
タキシード。
ぴしりと決め、いつもより更にぴんと背筋を伸ばしたバージル。
バージルも、じっとを見返す。

「「三割増し。」」

自然、ふたり同時にそんな言葉を発した。
それからくすくすと笑いあう。
「何でも似合うバージルと違って、私はどうせ似合ってないですよ!」
「冗談だ」
笑みを真顔に戻し、バージルはじっとを見つめる。
「……綺麗だ」
とどめのような発言に、は頭から湯気が出そうなほど真っ赤になった。
彼女の心拍数など頓着せず、バージルはそっと顔を寄せる。
「花嫁になる前に、もう一度だけ」
触れるだけのキス。
子供がするようなそれだが、が最も苦手とする不意打ち攻撃。
「ああ!」
は恥ずかしさで思いっきりバージルから顔を背けた。
いつまでたっても不意打ちに慣れることはできない。
ましてや今日のバージルは三割増しモード。
(かなうわけがない!)
拗ねる振りをして、鏡を覗き込む。
「あーあ、せっかくのメイクが。グロス取れちゃってない?」
これから一生の記念になる写真撮影があるのに!
鏡を気にする彼女に──照れをどうやっても隠せないに、バージルは顔をほころばせる。
「俺くらい近寄らなければ分からない」
「……全くもう……」
「行くぞ」
差し伸べられたバージルの手に、はウェディンググローブに包まれた手を重ねた。





式のことは、実ははぼんやりとしか覚えていない。
教会の扉が厳かに開かれると、一目惚れしたステンドグラスがきらきらと真っ先に目に飛び込んできた。
ヴァージンロードを父と歩き、祭壇の前のバージルに辿り着く。
この瞬間ばかりは、バージルも緊張していたと思う。
それでも全ては神父の導きのまま、自分の周りを流れるように進んでいった。
ただひとつ。
宣誓の言葉だけは、しっかりと心に残っている。

「I Vergil, take you to be my wife, my partner in life and my one true love.
I will cherish our union and love you more each day than I did the day before.
I will trust you and respect you, laugh with you and cry with you, loving you faithfully through good times and bad, regardless of the obstacles we may face together.
I give you my hand, my heart, and my love, from this day forward for as long as we both shall live.」

毅然と誓いを立てたバージルの、玲瓏たる声。
彼の言葉をしっかり胸に受け止めたら、次はの番。
同じく英語で誓いを立てた。
彼のように流麗には無理だったし短い文を覚えることで必死だったけれど、それでも、彼女なりに心を込めて。

「I ,take you Vergil to be my husband, promise to be your confidante, always ready to share your hopes, dreams and secrets.」

神父を見る前にそっとバージルを窺う。彼の唇はこう動いた。『Perfect』。

宣誓の次は、リングピローで順番を待っていた指輪の出番。
デザイナーのホリーに手伝ってもらって作った、世界で同じデザインは2個しかない結婚指輪。
手が震えてしまって映画のようにスムーズに嵌めることは出来なかったが、ちゃんとそれぞれ主の指に収まる。
バージルもも、自然と安堵の微笑が零れた。
「You may now kiss your bride. 」
最後の最後、神父がバージルに合図した。
バージルがゆっくりとのヴェールを上げていく。
……久々にヴェール越しでない視界と、バージルの姿。
まぶしい。
意識するまでもなく目をつむる。
控え室でしたように、バージルが顔を寄せてくる。
打ち合わせでは額にと言っていたくせに、バージルはの唇にキスをした。
抗議しようにも参式者の手前、せいぜいぎゅっとバージルの腕を引くくらいしか出来ず。
──倒れてしまいそうだ。
恥ずかしさにふらふらと、体勢を立て直す間もなく結婚証明書へのサインが待っていた。
ついうっかり漢字で書きそうになったところをバージルの咳払いに助けられ、何とかアルファベットで署名する。
一切が終わると、神父が手を広げた。
それを受けて家族と友達が立ち上がり、ふたりをあたたかい拍手で祝福してくれた。



実際の時間は、せいぜい20分。
あっという間だったようにも、永遠に続きそうだったようにも思う。
外に出れば、高い青空と、目が眩むような陽射し。
何でもないいつもの空なのに、この色は一生忘れないだろうとは思った。
仕上げのフラワーシャワーと鐘の音。
周りの視線を受け、バージルは最初こそ疲弊した顔をしていたものの、しゃんと伸びた姿勢は変わらなかった。
のブーケは、急な招待にも快く駆けつけてくれた、大事な親友へ。
白い鳩が飛び立つ先を目で追い掛けると、バージルと目が合った。
何かひとつ、青いもの。世界でいちばん綺麗な青。
そう言おうとしたら、先にバージルが口を開いた。

「おまえと出逢えてよかった」

はぐっと口元を覆った。
泣きそうだ。
「もう少しだけ待て」
バージルがそっと手を上げての髪にくっついた花びらを取った。
「分かってるよ」
すん、と鼻に力を入れて我慢して、はバージルの肩を払う。
それからふたりは周りの目を掠めて短いキスをした。
気付いたのは新郎新婦のちょうど真ん中、ちらりと瞬くアミュレットだけ……



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