「バージル。読書中、失礼します」
がそそそと妙な仕草で近付いてきた。
「どうした?」
こんな態度は言いづらいことがあるとき。
とりあえずバージルは読みかけの本から目を離す。
考えた通り彼女はなかなか続きを言わない。
促そうかと口を開いた瞬間、が顔を上げた。
「あの。感謝祭、三人招待したい人がいるんですけど」
「感謝祭?」
そういえばそんな時期だったか。
バージルはをまじまじと見た。
(学校の友人なら、こんなに遠慮もしないだろうな)
となると……厄介な人物が脳裏を過る。
しかし、あとの二人は?
(奴は三人分うるさいが)
「三人?」
「そう、三人。お父さんとお母さんと、それからダンテさん」
──ああ。それで三人か。
合点がいった。
「だめかな?」
がおずおずと見上げてくる。
「いや、駄目ということは……だが、ダ」
「ありがとうバージル!さっそく電話してくる!」
言うが早いか、スキップしだしそうな勢いでリビングを駆け抜けていく。
彼女の喜びに水を差すことは彼には到底出来なかった。
「義父母と……ダンテだと……?」
嵐の予感。
バージルはひとり頭を抱えた。


Lemonade




真綿のような雲が浮かぶ薄曇りの日、ふたりは父母を迎えに空港に向かった。
ロビーではそわそわと周囲を見回す。
「二人とも迷わないといいけど」
「そうだな」
バージルもさりげなく辺りを窺った。
飛行機の発着陸の度に、旅行客や見送りの人々が空港内を満たす。
何度か利用した自分たちでもなかなかスムーズに身動きが取れないのだ、旅慣れない人ならなおさらだろう。
「空港内の案内図は送ったか?」
「うん」
「なら分かるだろう」
「だといいんだけどね……」
やはり落ち着かない。
両親が海外旅行をするのは久しぶりのことだ。
が飛行機のチケットを送って招待したとき母はかなり驚き、焦って電話してきた。
「ちょっと、どうしたの?」
慌てた母の声に、は何だかすこしだけ照れた。
「感謝祭に来て欲しくて。あと、写真だけじゃなくて実際に家も見てもらいたいし」
「それは……確かにあなたたちの暮らしぶりが気になってるけど」
「じゃあ、ぜひ来てよ。バージルの弟も招待してるの」
実は両親にバージルの家族と会ってもらいたいというのも、今回ひそかな目的でもあるのだ。
「ダンテさんにもちゃんとご挨拶しないとね」
母もそれには深く同意した。
「うんうん」
「だけど、チケット高かったでしょ?バージルくんに迷惑かけてない?」
「それなら大丈夫。私がバイトしたの」
は電話の前でわずかに胸を張った。
「バイト?が?そっちで?」
母の疑いの声音に、ははああと溜め息をついた。
心配性がここにも一人。
「……ちゃんと出来ました」
「何をしてたの?バージルくんもついてるし、変なことはしてないと思うけど」
「あのねぇ……。中華のファストフードで働いたの」
「中華?」
「そう。ちゃんとした仕事でしょ」
再び胸を反らす。
──実は、バージルを説得するのも大変だったのだ。
バージルは飛行機代くらい自分が出すと意見を曲げなかったし散々もめたのだが、最終的にの「社会経験が必要なの!」という我が儘で折れてもらった。
が、その後「ではどこで何をするのか」でまた一波乱だった。
『家に近く』て『ちゃんとした』働き口。
更にネイティヴではないとなると、普通よりも限定されてきて……
無事に中華のファストフードに採用が決定した後も、「制服の丈が短い!日本食の所はないのか?」などなどバージルは文句たらたらだった。(それは「カウンター越しの接客しかしないから大丈夫!」とも自分でもよく分からない説得をして言い包めた)
ともあれ、バージルとの約束のもと期間限定のバイトだったが、も楽しく働き、おまけにちょっとした親孝行もできて彼女としては大満足である。
「じゃあ、そういうことなら……」
母がぼそりと呟いた。
実際はアメリカに来たくて仕方ないに違いない。何せ、たちの暮らしぶりは写真でしか知らないのだ。
一度ちゃんと家も環境も見てもらえばもっと安心してくれるだろう。
「うん。お母さんたちが来るの、私もバージルも楽しみにしてるよ」



「あ。来た来た!」
新たにバゲッジクレームから吐き出されて来た人の波の中に両親を見つけて、は素早く立ち上がる。
その手をバージルが掴まえた。
「おまえが迷子になりそうだ」
「あ。ごめん」
が後先考えずに動いてしまうのはいつものこと。
(俺がを見失うわけはないが)

「うん」
は差し出された手を素直に取る。
そうしてふたりしっかり手を繋いではぐれないように、両親を出迎えた。
「フライトお疲れさま」
ちょっと眠たそうな父母から荷物を受け取りながら、はなんとなく違和感を覚えた。
その正体を探して、ふと見下ろした手元のスーツケースの仕分け用のタグ。
そこに刻まれた三文字のアルファベットは日本の地名ではない。
(あ、そっか)
出迎える場所が日本じゃないから、何か変なんだ。
「どうかしたか?」
ぼーっと鞄を見つめるにバージルが気付いた。
ううんと顔を振り、はからころとケースを押す。
「ちょっと嬉しくなってみただけ」
帰る場所が二つ。それも海を隔てて、遠い地に。
そのどちらにも大好きな家族がいる。
(なんて贅沢)
「バージル」
今度はから手を差し出した。
「迷子にならないように繋いでて?」
「ああ」
バージルは両手を塞いだ荷物を片手にまとめて、彼女の手を取った。
そんなちいさくも甘いやりとりひとつひとつが両親を安心させていることを、ふたりは知らない。



バージルが運転する車で家に着くと、両親は「映画のセットのようだ」と感激していた。
なかなか家には入らず珍しげにアプローチを見て回っている。
(最初にを連れて来たときを思い出すな)
スーツケースを玄関に運び入れながら、バージルは懐かしい記憶を引っ張り出した。
あのときもは外で長々と時間を費やしたのだった。
「あの親にしてこの子ありとか考えてるでしょ」
彼の様子を見咎めて、が後ろからぼやいた。
バージルが愉快そうに振り向く。
「おまえにしては鋭い」
「どうせ……」
母の分の荷物を受け取る。
運び込もうとして、そういえばと立ち止まった。
「どの部屋使ってもらうの?」
今回は父の仕事の関係で三日という短期間しか滞在してもらえないが、その間だけでもちゃんと寛いでいってもらいたい。
バージルが先に立って廊下を歩いた。
ゲストルームの扉を開ける。
「二階も空き部屋はあるが……ここでいいだろう」
二階の客室は主寝室に近い。
バージルの思惑には気付かないまま、は頷いた。
「この部屋って私が風邪引いたときに使って以来だね」
「そうだな」
使っていない部屋とはいっても両親を呼ぶ前にふたりで念入りに家じゅうを掃除してあるので、その辺は抜かりない。
「さて。私は今日の夕食作りを始めます」
よし!と気合いを入れたに、心配そうにバージルが視線を落とした。
「明日、本当にアレを作るのか?」
その言い方に引っ掛かり、はむっと彼を睨む。
「作ります」
「失敗したらどうするんだ?」
「レシピ見てちゃんと作るから大丈夫です」
「だが、初挑戦であんな料理は」
「だから練習しておきたかったのに」
「肉屋で貧血を起こしかけたのはおまえだろう」
「……そうだけど!」

ー。バージルくんー。お邪魔するわよー」

ふたりの痴話喧嘩は、玄関先の声でストップを掛けられた。
もバージルも同時に溜め息をつく。
「いざとなったら……」
「うん。お母さんに手伝ってもらうから」



初日の夕食はなごやかに進んだ。
和洋取り混ぜた、気取らないいつものメニュー。
「あら、そのお茶碗ちゃんと使ってくれてるのねえ」
母がふたりの食器に目を留めた。
結婚前から使っている夫婦茶碗。
「バージルのお気に入りだよ。届いた初日からパン入れて使ってたもん」
日本語だが何を言われているのか雰囲気で察したらしいバージルが、つと横に顔を向けた。
照れた婿に父が頬を緩める。
「そうかそうか」
「お父さん、ご飯おかわりは?」
「じゃあもらおうか」
「バージルは?」
「いや、いい」
「あら。私達に気を遣ってるなら、そんなことしなくていいのよ」
ふたりの英語の会話に素早く反応した母に、もバージルも驚いて顔を見合わせた。
特に分かりやすく喋っていたわけでもない。
ぽかんとしたままのに母がにっこり微笑んだ。
「実は私達も英語の勉強を始めたの。バージルくんとも通訳なしで直接お話ししたいってね」
「そうなんだ。まだまだ適当だから、間違えても流してくれよ」
「……。」
バージルは一瞬だけ眉を寄せ、すぐに戻した。
自分のために言葉を勉強してくれるのは、純粋に嬉しい。
だが単純にそればかりではなく……。
をからかうときの言葉にも気をつけなければ)
今まではどうせ分かるまいと、彼らの前でも少しばかり際どい発言をしたこともあったのだが。
「ありがとう」
ポーカーフェイスは崩さないまま、曖昧にバージルはお辞儀をしておいた。





11月27日。
感謝祭である。
現在、家にはひとり。
朝からキッチンにこもって、大事な大事な夕食の支度にかかりきりなのである。
の両親はバージルの道案内のもと、街を観光中。
正直あの三人だけで大丈夫なのかなあと不安ではあったが、バージルも分かりやすくゆっくり話してくれていたし、英語を勉強中という両親のやる気も功を奏して、予想以上に順調に出掛けて行ったのだった。
ということで。
「残る問題は……」
は両手を腰に当てて、目の前に鎮座している七面鳥と対峙する。
昨夜バージルが言っていた通り、初めてコレを肉屋で見かけたときは、大きさとあまりの生々しい肉感(生なので当たり前と言われれば当たり前なのだが)にぎょっとした。
けれど感謝祭と言ったらTurkey Day、七面鳥がなくては始まらない。
「さて」
極力、七面鳥は見ないようにして、はまず詰め物を作ることにした。
パンくず、セロリに人参、たまねぎとマッシュルーム、そしてパセリににんにく……次々と材料を取り分けてレシピ通りにあらかじめ計量したところで。

ぴんぽーん

チャイムに呼び出された。
「誰だろ?」
三人がもう帰って来るわけもないし、こんな日にまさかケーブルテレビの勧誘でもないだろう。
それにしても、心当たりがない。
ぐずぐずしていると、またまたチャイムが鳴った。
仕方ない。
「はーい。今行きます」
エプロンで手を拭いて、玄関に駆けつける。
ノブに手を掛けようとした瞬間、相手が自分で扉を開けた。
「わっ」
バランスを崩してよろめいたを、
「おっと、悪い」
その人物が受け止めた。
聞き覚えのある声とよく知っている背丈にそろりと目を上げれば、果たしてその人物は、
「ダンテさん!」
ダンテだった。
「よう」
陽気に手を挙げる。
「夕方まで待てなくてさ」
ニッと笑って、けれどの姿に目を落とすと真顔になった。
「……やっぱ迷惑だったか」
「あ、そんなことは」
慌てては首を振った。
「バージルと、私の両親は出掛けちゃってますけど」
ちゃん一人?」
「はい」
「……へぇ」
それはラッキーと嬉しそうににこにこしてみせながら、ダンテは内心「オレが早く来たなんて知ったらあいつは大激怒だな」とぞっとしない考えを抱いた。
「それはともかく」
扉から吹き込む冷たい風に、ははっと我に返る。
「まだお構いできませんけど、どうぞ中へ入ってください」



バージルは義理の両親とともに街を歩いていた。
から「久々の海外だけど、気を遣ってあちこち連れ回さないでいいからね」と言付かっている。
彼女にそう言われるまでもなく、二人は広く見回るよりもとバージルが普段よく行く場所など知りたがった。
(親としてはそういうものかもしれないな)
かくして、結局は家からそう離れていない公園周辺をのんびり歩いている三人だった。
やわらかい足元の土には木々から落ちた葉のじゅうたん。
季節の移り変わりを楽しむ散歩にはもってこいだが、少しだけ寒い。
隣を気遣おうとして、バージルは今はその相手がいないことを思い出す。
「……やはりと来たかったのでは?」
後ろの二人を振り返る。
自身は「夕食に賭けてるの!」と言っていたが、二人は娘と過ごしたかったに違いない。
「それはそうだけど、でもいつでも来ようと思えば来られるもの」
単語を選ぶように丁寧に母が答えた。
「私はバージルくんと長く過ごせて嬉しいわ」
「今まで君とこうして三人だけというのはなかったからね」
父もうんうんと頷いてみせる。
「……そうですね」
バージルは(彼にしては珍しく)神妙に目を伏せた。
気まずいというのではないが、どうも……照れてしまう。
何を好んで聴くのか、何をよく食べるのか、ふたりでどこへ出掛けるのか。
二人は別に自分を値踏みしようとかそういう態度ではないし、純粋に興味を持ってくれているのが伝わってくるのだ。
奇妙で落ち着かないのに嫌ではない、あたたかい感覚。
「でも、あなたたちが楽しく暮らしてるみたいで本当によかった」
母の言葉に、バージルはそっと顔を上げる。
やはり親子。とよく似たその横顔。
「あなたに出逢えて、はしあわせだと思う」
母はゆっくりとバージルに微笑んだ。
「これからもあの子をよろしくお願いね」
頷こうとしたバージルの肩に、父が手を乗せる。結婚式のときよりもしっかりと『託された』、と思った。
結婚の挨拶に行ったときのように、バージルは深々とお辞儀をした。



「あ、ダンテさん、ついでにコショー取って!」
「これか?ほら」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ダンテはなぜかキッチンに立っていた。
最初はリビングでおとなしくテレビを見ていたのだが、他人の家でじっとしていなければならない時間ほどつまらないものはない。そして性に合わない。
そこで、「悪いからいいです!」と断ると押し問答した後で、やっと彼女の手伝いをするに至ったのだった。
としては招待しているダンテをキッチンに入れるのはあまり気が進まなかったが、細々と手伝ってもらって実はかなりはかどっている。
ダンテは普段はあまり家事に従事しないようだが、台所の小物などあれこれ珍しそうに手に取っている。
(案外ダンテさんに家事を教えたらいい主夫になるかも?)
密かに想像を巡らせつつ、は調理を一段落させた。
後はこのボウルいっぱいに混ぜたスタッフィングを七面鳥に詰め込むだけである。
「……。」
言うは易し。
覚悟を決めかねてスプーンをぷらぷらしていたら、ダンテがボウルを指でつついた。
「オレがやろうか?」
「え」
意外な申し出にきょとんとすると、ダンテはぷっと吹き出した。
「やっぱり迷ってたか」
ごく自然にスプーンを取り上げ、てきぱき詰め物をしていく。
調理というよりは作業という感じだが、手際よい。
「さっきから七面鳥と目を合わせねぇから、絶対無理してると思ったよ」
「あはは……」
すっかり見破っている辺り、さすがバージルの兄弟。
お手上げだ。
「ほんと言うと、結構困ってたんだ」
「だよなあ。最初から七面鳥がこんがり旨そうな肉なわけねぇし。オレも生の鳥なんて初めて見たよ」
「そうなの?それにしてはあんまり引いてないね」
「そりゃね」
(仕事でもっとグロテスクなもん見てるし)
ダンテはぎこちなく笑った。
「男だしな」
「頼もしいね」
「だろ?」
「うん」
二人で会話を交えながらの料理。
そのおかげでだいぶよそよそしさはなくなり、打ち解けてきた。
詰め物を終えた七面鳥をオーブンに入れてしまえば、とりあえず大仕事は終了だ。
は二人分のコーヒーを淹れ、ダンテにカウンターに並んだスツールに座るように労った。
バージルと朝食を取るときに使うこの席は、リビングで話をするよりも一層、砕けた雰囲気を作り出す。
「なあ」
ダンテがにやにやと頬杖をついた。
「はい?」
「バージルのどこに惚れた?」
「!!?っごほっ」
は飲みかけのコーヒーにむせる。
「なっ、突然そんな」
「こんな質問、社交辞令みたいなもんだろ?」
ダンテは引き下がらない。
「……。」
「……。」
顔を真っ赤にして俯いたに、ダンテはバージルのように腕を組んで渋面を作った。
「分かるぜ。やっぱあいつの長所なんてすぐ出てこないよな」
「違います!」
ダンテの言葉に、はバッと顔を上げた。
「好きすぎてどこがとか咄嗟には出てこないんです!!」
一息で言い切られてそしてついでに思いっ切り睨まれて、ダンテは──腹を抱えて笑いだした。
「な、何ですか!?」
がたりと椅子を引いたを、ダンテは更に可笑しいと笑い続ける。
ひたすら笑われて、はむっと唇を尖らせた。
すこしはダンテと仲良くなれそうな気がしたのに、これだ。
「はは、悪ぃ……ははは……」
謝る気があるのかないのか、ダンテは必死で笑いながら笑いを我慢してに向き直る。
不審そうに自分を見つめる黒い瞳にぶつかって、ようやくちょっとだけ落ち着いた。
「……悪かった」
「ほんとですよ。何がそんなに面白かったんですか」
むっすりと不機嫌なままの
そんな表情もバージルにはたまらないに違いない。
「バージルをさ」
「え?」
突然でてきた名前に、は怒るのを忘れてダンテを見上げた。
バージルと同じ顔で、けれど違う笑顔で、にっこりとダンテは微笑む。

「兄貴をよろしくな。あいつも相当、ちゃんに惚れてるみてぇだから」



オーブンから香ばしい肉の焼ける匂いが漂うようになった頃。
ぴんぽーん
ベルが来客を告げた。
「あ。みんな帰ってきたかな」
そろそろ戻ってくる時間だろう。
「オレが出るよ」
ダンテは何か思いついたというようにささっと立ち上がる。
「うちの両親、あんまり驚かせないでやってね」
足早に遠のく背中に、は苦笑して声を投げた。
「ラジャー」
返事ばかりは颯爽と完璧なダンテだったが。

「ええっ!!?」
「バージル君かい!?しかしきみはまだ車を……」

混乱した両親の声がキッチンにまで響いてきた。
頭を抱えた後──も爆笑したのだった。



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