bella notte




リビングにはラジオが流れている。
タイトルは思い出せないけれど、よく知っている懐かしいメロディ。ヴァイオリンがやさしく揺らぐ。
静寂を薄めるためだけに無造作に選局された曲はノイズ混じり、しかしそれはふたりの時間を邪魔することはない。
「バージル。『ウィアード』のスペル、ど忘れしちゃった。どうだったっけ?」
は首を仰け反らせて背後のバージルに質問する。
彼女は今、ソファのバージルの足元に座り込んで勉強中なので、そんな奇妙な姿勢になってしまうのだ。
問い掛けられたバージルは読んでいる分厚い本から目を離さず、サイドテーブルに手を伸ばす。
「楽しようとするな」
取り上げた辞書をぼすんとの頭に載せる。
「重い……」
頭越しにしぶしぶ辞書を受け取り、はページをかさこそ捲っていく。
「あったあった。ええと、だぶりゅー」
ばたん。
バージルが本を凄まじい音で閉じた。
「あ」
は瞬間的に『教育的指導』に身構える。
「もう一度」
予想した通りにバージルの指示。
大きく息を吸い込んで、
「W!」
「Good. 」
イタリア人も真っ青なくらいに大袈裟に発音したに、ようやくバージルはOKし、読書に戻った。
彼曰く、会話の速い流れの中ではネイティブと言えどきっちり発音できなくなるが、だからこそ常に綺麗な発音を心掛けることが大事なのだそうだ。
そしてそれはも実感していて、シンプルな文章でも丁寧に発音する方が、どこへ行っても丁重に対応してくれる。
バージルは辛口だしスパルタだが、間違ったことは口にしない。
すこし厳しすぎるきらいはあるとしても、教師に最適な性格だとは思う。
だから、バージルに誉めてもらえればうれしい。
「今度のテスト、A+取るよ!」
リズミカルにかりかりとシャープペンを走らせながら、は宣言する。
このところ成績も良く、アダルトスクールのクラスもひとつ上へ上がるように勧められていた。
次のテストが最終試験のようなもの。
余裕で上のクラス入りをするためにも、かなり前からは準備をしてきた。
もちろんそのことはバージルもよく知っている。
「それは頼もしいな」
再びバージルが本を閉じた。
今度は先程のように「つい反射的にばたん!」ではなく、ゆったりと。
本を閉じた手はの頭へ伸びる。
「後悔しないように頑張れ」
「うん!」
愛しげにさらさらと彼女の髪を撫で……ふとバージルは時計を見上げた。
日付が変わる。
ラジオでは名曲がしずかにフェイドアウトした。
「もっと勉強しろと言いたいが、今夜はここまでだな」
ソファから立ち上がり、ラジオを切る。
途端に部屋の中の夜が深くなった。
が筆記具の手を止め、不服そうにバージルを見る。
「え。まだやるよ。もう少し」
「昨日は大分遅かっただろう。今朝の隈はひどかったぞ」
「気付いてたんだ……」
「隈が取れなくなる前に、早く寝ろ」
「うーん……でも」
「眠さを押して勉強しても身に付かない。それよりは朝、早起きするんだな」
「早起きかあ」
ちょっと苦手ではあるが、確かにこのままコーヒーで眠気を誤魔化しながら勉強するよりも、ずっと効果的だろう。
テラスに一式持ち出して、朝日の中で勉強するのも気持ちよさそうだ。
「わかった。もう寝る」
ううんと伸びて、辞書を閉じる。
バージルは今さっきまで読んでいた本を小脇に抱えた。
人には早く寝ろと言いながら、彼はベッドにまで本を持ち込むようだ。
「だいぶ読み進んだね」
はその本を指差す。
挟まれた栞が、ちょっとずつ後ろへ送られていく。
バージルのペースは速いので、栞を見守るのはちょっと楽しい。
「ああ、もう終盤だ。そういえば、こっちも終わったぞ」
バージルがペーパーバッグを持ち上げた。
表紙に『Best Seller』と箔押しの金ぴかシールが貼られた本。
ジャンルはミステリーで、そもそもはシールの謳い文句に負けてが購入してきたものだ。
だが、宗教や社会情勢が複雑に絡み合う本格派は難解で、気軽に読める内容ではなかった。
自然と本は『積ん読』になり、見兼ねたバージルが読み始めたというわけである。読み始めたのには気付いていたが、よもやもう読了していようとは。
「この本、映画化されるって知ってた?」
「いや。それほど人気があったのか」
「来春くらいに公開らしいよ」
「ほう」
「公開されたら、観に行かない?」
わくわくと見上げてくるに、バージルはにやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「結末を知っている俺と?」
「……どういう意味?」
「この作品は、確かに一癖ある。映画になって分かりやすくなるとも思えない」
「うん。それで?」
「おまえに状況説明しているうちに、うっかり犯人の名を口にしてしまうかもしれないぞ?」
「……意地悪すぎる!」
「だから」
ぶーっと頬を膨らませたに、バージルはますます愉快そうに顔を近づける。
「知りたくなかったら、口封じすればいい」
ほんの3インチ先でゆっくり瞬くバージルの瞳。
耐え切れずには目を逸らした。
「口封じって、普通はあんまりされたくないものなんじゃないの?」
「そうか」
バージルはわざとらしく顎に手を当てる。
「別に、俺はどちらでもいい」
「私だってどっちでもいいよ」
「ほう?……では言うが、犯人はヤ」「わああ!」
バラされそうになった寸前、は何とかバージルの口を押さえた。
バージルはくっと喉の奥で笑っている。
しかも口は手で覆われたまま、目だけで「さあどうする?」と問い掛けてくる。
──完全にバージルに遊ばれている。
はちいさく溜め息をついた。
「ほんとにいじわる」
手を外す。
そして笑いを噛み殺しているバージルの唇に、はそっと『口封じ』した。



寝室にはやわらかな静けさが満ちている。
ベッドの上、バージルがクッションに背を預けながら、本のページを捲る音。
サイドランプがぼんやり照らし出すバージルの横顔をこっそり見つめ、規則正しく擦れ合う紙の音を聞きながら……の瞬きの間隔は次第に長くなっていく。
とろとろと、ゆらゆらと。
「……眩しいか?」
バージルが明かりのことを聞くのはいつものこと。
「ううん」
眩しくないよと答えれば、バージルは空いている手で寝かしつけるようにの肩を撫でる。
そうっとゆっくりと撫でられ、は自分が子猫になったような気分になる。世界一しあわせな猫。
バージルの手の動きは止まるかと思えばまた動き出し、そのペースはの呼吸と重なっていく。
もう瞼が重い。
本当はもっとバージルを見ていたい。でも……
とろとろと……ゆらゆらと……

「……?」

答えが寝息だけになって、ようやくバージルは本を閉じた。
いつからこんな風になったのかは忘れたが、彼女が先に眠るのを見るのが好きなのだ。
隣の自分を信頼しきって、気持ちよさそうなの寝顔。
ひとしきり見つめているうち、バージルも眠りに誘われる。
彼女がセットし忘れた目覚まし時計も抜かりなく準備したら、あとはそっと横に潜り込む。
既にの体温であたたまった、しあわせなシーツ。

「また明日……」

恋人への一日の最後の挨拶は、おでこへのキス。
これはふたりの何でもないいつもの一日、月影さやかな麗しい夜。







→ afterword

59000をご報告いただいた、夜月 虹さまへ捧げます。
長らくお待たせしてしまって申し訳ございませんでした…。

何でもない日にしあわせを感じることができるのが、いちばんしあわせ。
いつもの会話と、いつもの愛情表現と。ふたりのそんな時間が書けていたらいいなと思います。

リクエストして下さいました夜月さま、ここまでお読みいただいたお客様、どうもありがとうございました!

2008.12.29