今年の春は、ずいぶんとまたせっかちだ。
それが嬉しくて、は隣のバージルにわくわくと身を寄せる。
「ね、桜、楽しみだね!」
「ああ」
返ってきた返事はいつものように短く一言。
けれど普段ならその次はそっと目を合わせてくれるのだが、バージルは前を向いたままだった。
周りに広がるのは箱根の街並み。
には、バージルは初めて訪れた土地をじっくりと観察しているように見えた。
それがとんでもない勘違いだということに気付くのは、数時間後。




Sakura to Kimi




日本の桜を見たい。不意にバージルが切り出したのが、3月の半ば。
バレンタインの『逆チョコ』で航空オープンチケットだけは先に確保してあったものの、肝心のバージルがいつ、どこに滞在したいなど、約一ヶ月もの間──彼にしては珍しく、決めあぐねていたのだ。
もちろんは一つ返事で旅行を快諾したのだが、桜のシーズン真っ盛りということもあって、慌ててあちこち滞在先を探した。
桜だけでなく、建物や風情そのものを楽しめるところ。そんな我儘に応えてくれたのが、この箱根。
当然どこの宿も軒並み予約でいっぱいだったが、ガイドブックに載っている観光スポットからはバスを乗り継がなければならない遠目の温泉は、まだ部屋が空いていた。
箱根に来るのはバージルはもちろん初めてで、も幼い頃に家族旅行で来たきりだ。
「やっぱりちょっと遠いね」
事前にインターネットで用意してきた地図通り、まずは駅から出ているバスに乗り込む。
いくつもの旅館やホテルを巡回するだけあって、車内は座席に座るどころか足場の確保もままならない程の大混雑だった。
「すごい混みっぷり」
掴まろうとした手すりからぐいぐい奥へ押し流され、の拠り所がなくなった。
頭の上にぶら下がっている吊り輪を見つけ何とか手を伸ばすと、それは別の手に取られてしまう。
「バージル」
何で取っちゃうのと顔を顰めた途端、バスががくんと発進した。
「う」
踏ん張っていなかったため、バージルの胸にどすんとぶつかる。しかも、しっかり彼の足を踏ん付けるというおまけつき。
よろめいたまま、バージルの肩に手を掛けて体勢を持ち直す。
「ごめん……」
「そのまま掴まっていろ」
もごもご上げられた頭に、バージルは手を乗せた。
「でも」
周りの視線に遠慮して、ちょっとだけ迷い──は結局、肩からは手を外し、バージルの吊り革を持っていない方の手首に掴まった。瞬間、違和感を覚える。
(……?)
触れたバージルの肌は、服を通してもわかるくらいにひやりと冷えていた。
(つめたい)
今日はそんなに寒かっただろうか。
は彼の袖の中にそっと手を入れて、直接手首に掴まった。



宿泊施設で停車する度に乗客は減って行き、終点まで行くと人数はぱらぱらまばらになった。
最後まで一緒に残ったグループはサイクリング目的らしかったが、バージルとはここから更にバスを乗り継がなければならない。
「わー……」
古びたバス停を見上げ、はげっそりした。
次の便は一時間後。
出立前は、のんびりしたいからあれこれ予定を詰めちゃわない方がいいね、などと話していた。そうして下調べを怠った結果、山手線にでも乗るような感覚で適当にバスに乗ってみたら、見事にこの有様。
数行しか書き込みのない時刻表を見て、バージルも溜め息をつく。
「下調べはすべきだったな」
「あのときはバージルも賛成してたでしょ……」
それでもふたりでいれば、暇を持て余してしまうなどということはない。
辺りを散策したり、他愛無いことを喋ったりしているうちに、あっという間に一時間が経っていた。
やっと到着したのは、よたよたと頼りなく車体も古いバス。
本数も少ないが、乗車する人も少ない。街へ出たその帰りという雰囲気の老婦人が手押し車を引き、ふたりの後に乗り込んだきりだった。
がらがらの車内、いちばん後ろの長い座席を二人占めする。
のんびりと、バスは出発した。
車窓が通す背景はどんどん都会から離れているだけあって、醜悪な電飾や視界を塞ぐ背の高い建物は一切ない。
景色につられてが、そしてすぐにバージルも長座席の真ん中から窓へ寄る。
「すごい!日本じゃないみたい」
「いや、これが本来の姿なのだろう」
「ああ……そっか」
窓を開けて日本の原風景にはしゃぐに、吹き付けてくる風に僅かに目を細めたバージルが髪をかきあげた。
気分的なものかもしれないが、空気がおいしい。
「こんなに緑に囲まれてたら、目が良くなりそうだね」
「杉花粉も多そうだぞ」
「あ、それは嫌かも」
まだそれほどひどくはないが花粉症のことを思い出し、はすんと鼻を鳴らした。



二本目のバスも、終点まで乗っていたのはバージルたちだけだった。
下りると、肌に触れる空気は清潔で冷たい。
「雨降るのかなぁ」
ぴかっと晴れていたらよかったのだが、空は鈍錆色で冴えなくくすんでいる。
「折り畳み傘なら持って来てある」
バージルが鞄を指差した。
「あ、それを心配してるんじゃなくてね。雨降ったら、桜が散っちゃうから……」
「成程」
心配そうに空を見つめると同じように、バージルも薄曇の空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく、その行方を目で追う。あれならば。
「……このまま保つだろう」
「そうなるといいね」
バージルの『予想』に、は嬉しそうに微笑んだ。



荷物を一旦立ち寄った旅館に預けてしまうと、休む間も惜しんで桜を観に向かった。
花見が目的の海外旅行というのも考えてみたら、なかなかに贅沢だ。
さくら名所100選のひとつ、訪れた小田原城址公園は開花のピーク。
満開を迎えた桜並木のなかを人の波に逆らわずに、お堀に沿ってのんびりと歩く。
頭の上の薄桃色の雲、それを見透かすと天守閣が見える。
「綺麗だね……」
は感嘆の溜め息をついてバージルに話し掛ける。
けれど彼からは『ああ』もしくは『そうだな』といつものあの言葉が返って来なくて、は首を傾げてそっと隣のバージルを見上げた。
彼はどこか遠くを──少なくとも目の前の桜よりも、もっと先のものを見るような眼差しをしている。
「バージル?」
どうかしたのと訊ねると、彼はゆっくりと顔を振った。
それからをじっと見つめる。
「……手を繋いでもいいか?」
ごく小さな声で訊かれ、はすこし驚いたが、すぐに笑顔で手を差し伸べた。
「もちろん」
何故か躊躇いがちに繋がれたバージルの手は、やはりつめたい。初春の寒さのせい、そして水辺を渡る風のせいとばかりに片付けられないほど、冷えている。
「バージル、寒い?手が冷たい」
「いや。平気だ」
「そう?でも、花冷えって言葉があってね、桜が咲く頃はまだ寒くなるんだよ」
はくるくる言葉を重ねた。
「あったかいものでも飲もうか。ほら、甘酒とか」
屋台を見かけたが、ふわりと離れかける。思わずバージルはつよく彼女の手を引いた。
「っと、……どうかした?」
びっくりして振り返るの肩に、花びらが舞い落ちる。
バージルはそれを眺めて、二度顔を振った。
「……部屋に戻ろう」
「え、もう?」
「戻る」
反論を封じ込めるような物言いで、踵を返す。
そして、まだふわふわとに纏わりついたままの薄っぺらく頼りない桜の花弁を、バージルは何故か忌々しそうに払った。



公園から旅館に向かう道すがら、ふたりはずっと手を繋いでいた。
桜があまり目につかなくなるにつれて、不思議とバージルの表情が緩んでいくようには感じた。
聞いてみるまでのことでもないが、すこし気になる。
(桜が観たいって言ったのは、バージルなのに)
想像と実物で何か落胆でもしたのだろうか。
そういえば今日はどこか心ここに在らず、うわの空のままな気がする。
(疲れてるのかな)
フライトから今まで、ひと所に留まらず移動している。
母国に帰って来た自分はともかく、バージルにとってはまだまだ慣れない、言葉の通じない旅先だ。
「バージル、つかれ」
っくしゅん!
労いの言葉は、くしゃみによって掻き消された。
「おまえの方が寒そうだな」
苦笑して繋いだ手を離すと、バージルはの肩を抱き寄せた。
気遣おうとしたのに逆に気遣わせてしまった。あーあと呆れながらも、は自分を包む彼の腕の力に酔いしれた。



旅館はこぢんまりとして、親しみやすい雰囲気に溢れている。
とはいえ。今回の手続きはバージルに任せることは出来ないため、はかなり萎縮中。
「旅館に自分でチェックインするのとか初めて」
さっきは荷物置きに来ただけということもあり、これほど変な緊張はしなかった。それが、改めてゆっくり滞在するために入るとなると、旅館はどことなく敷居が高い。
「バラージオより緊張するか?」
「あ、それはない……」
「ならば堂々と行け」
偉そうに背中を押してくるバージルを、じろりと眺めやる。
「ツーリストのバージルは、今回は気楽だもんね」
「いや……」
バージルは曖昧に視線を揺らした。
「ん?」
てっきり「全部おまえに任せておく」と意地悪な笑みつきで返ってくるかと思ったが、拍子抜けだ。
「行くぞ」
戸を開けるのだけは自分の仕事とばかりにバージルは旅館の扉を引く。
もじもじと玄関を通って来るに気付くと、受付から愛想のよい従業員が現れた。
「お待ちしておりました」
出迎えは感じのいい仲居さん達。若いバージルとを迎えても下に軽んじることもなく、丁寧に腰を折って挨拶してくれる。
「こんばんは。お世話になります」
がぺこりと頭を下げると、落ち着いた色ながらも艶やかな着物が似合う仲居さん……恐らく若女将も、深々とお辞儀する。
「We're so glad to see you, sir. We hope you’ll have a great time in Japan. 」
着物姿のしとやかな女性からすらすら飛び出した英語に、バージルはわずかに目を見開いた。隣で手続き中のがこっそり笑う。
「一応ね、英語もお願いできる旅館にしたの」
「そんな事は一言も……」
「別に恩着せがましく教えることじゃないでしょ?」
台帳に記入を終えたが顔を上げた。
「お部屋にお通し致しますね」

にこやかに先導に立った仲居さんと連れ立って歩き出す前に、バージルが彼女を止めた。
「先に行ってくれ」
「うん」
何だろうと内心不思議に思いながらも、は頷いておく。
(朝食のことか何か?)
出発前に、『旅館の朝ご飯は納豆が出るかも』と少々脅しておいたので、そのことかもしれない。
このときのは、その程度のことしか思いつかなかった。



が充分に離れると、バージルは英語が通じる若女将に向き直る。
「May I ask you a favor?」
「Of course, sir」
バージルの容姿と雰囲気、そして英語を使うことにいくらかの照れを含んではいるが、若女将はしっかりと職務に準じた。
「Actually, I'm terribly sorry to bother you. But...」
『頼み』を告げるバージルの口調は暗い。
けれど、本当に無理難題を吹っ掛けるような人物ならこんなに律儀に言葉を選んだりしないもの。その手合いに慣れている若女将は、おっとり鷹揚に微笑んで先を促した。
だが。
バージルが内容を語るうち、彼女の表情は少しずつ曇っていった……



「わぁ!」
通された部屋に、は感嘆の声を上げた。
「眺めのよいお部屋でしょう」
「本当ですね!桜があんなに」
窓の外は山が連なっているし、夕暮れどきの光は庭の花霞をより幻想的に演出している。
そしてもちろん、部屋。
和室の畳の透き通った香りにどこかほっとするのは、日本人ならではだろうか。
「ゆっくり寛げそうなお部屋ですね」
満足に顔をほころばせて周りを見渡すに、仲居さんが次の間を開いた。
「奥様」
「……。」
「奥様?」
「……あ」
仲居さんが言う『奥様』が自分のことだと気付くと、の顔がみるみる赤くなった。
(そ、そうだよね)
チェックインのときの書類は事務的につらつら書いただけだったのでそこまで考えなかったが、改めて呼ばれてみると……どうしても照れてしまう。
『Mrs.』よりも『奥様』の方が何故か恥ずかしい。
「すみません。慣れなくて」
俯いた『若奥様』に、仲居は柔和に微笑んだ。
「いえいえ。お幸せそうなご様子で、お迎えする私達も嬉しいですよ」
「ありがとうございます」
通された次の間も広々として──今はまだ何もない。
「旦那様は布団でお休みになれますか?」
「あ……」
そういえばバージルは布団を使ったことがあまりない。
(でも、長い間ソファで寝てたくらいだし)
あの期間を思い出せば、どうということはないだろう。
「大丈夫です。畳の上で寝るの、気に入ると思います」
「では、お夕食の後でご用意に参りますね」
「……はい。おねがいします」
は何でもないことのように返事し心付けを渡した。が、この熟練した仲居さんには、きっとばっちり、照れも恥ずかしさも伝わってしまっているに違いない。



バージルも部屋に到着し、それから時を置かずに食事の時間になった。
「おいしそう!」
長机に品良く並べられた和食は、旅館に泊まる楽しみの一つ。
そして何より、
「お代わりは?」
「……軽く頼む」
お櫃の中の二人分のほかほかご飯。それをバージルによそうことは、繊細な煮付け料理のように幸福な気分を心に沁み込ませた。
バージルがふと箸を止める度に名前と調理法を教え、も分からないものは仲居さんに教えてもらう。
季節の彩りも情緒ゆたかなお造りからお吸い物まで、目で舌で味わい尽くす頃にはもうお腹がぱんぱんだった。



食器も下げられ、全ての用事を済ませた仲居さんが退室すると、部屋はすっかりしずかになった。
食休み──バージルは窓の桟に座って障子戸に軽く寄り掛かっている。足元、緑の畳も不思議とあまり違和感がない。最初からそこに在るべき姿のように様になっていた。
はぼんやりバージルに見惚れる。
桜も月も星々も、すっかり彼の引き立て役の額縁。
紺色の空に、銀の髪がさらりと揺れる。
(何度見ても……)
「……どうした?」
の視線に気付いて(あるいは気付いた振りをして)、バージルがゆっくりと振り返った。
「夜桜って、三割増しだと思って見てた」
擦り寄るように近づいて、バージルの膝に頭を乗せる。
ぺたりと預けられた頭を、バージルは愛おしさのすべてを込めて撫でた。
「サクラはこの三日程で散ってしまうようだな」
「仲居さんがそう言ってたね」
「散るには惜しいものだが……」
「うん……」
がそっと目を伏せる。睫毛の影がちいさく揺れた。
「でもね、毎年そう思うけど、次の年にはまたちゃんと咲くから」
「……。」
ふと、バージルの指がの頬に触れた。
(また、つめたい)
部屋にいるのに、食事の後なのに……はそっと肩を竦めた。
今朝最初に手を繋いだときも、それから何度か彼の肌に触れる度につめたいと感じた。外にいたから冷えただけだと思っていたが、どうやら違う。
「バージル、寒い?」
手を重ねると、バージルはそれを拒絶するように素早く手を抜いた。
「バージル?」
どこか様子が変だ。
「具合悪い?無理してない?」
訊ねると、バージルは何故か苦しそうに顔を背けた。
「……何でもない」
「きっとフライト疲れ、花疲れだね。私も疲れたし……もう休もうか」
は努めて明るく隣室を指差した。布団なら、もう隣室に用意されている。



いつもと変わらずやさしい気遣いを見せるに、バージルはぎゅっと瞼を閉じた。眉間を指で揉む。頭痛が酷かった。──日本に来るよりももっと前、覚悟を決めた頃から、治らない。
散ってしまう花など一緒に見に来るべきではなかった。
日本に到着してからというもの、ずっとずっとどうしても嫌な想像が頭から離れてくれない。
真実を告げることで、この関係が散ってしまうかもしれない。
「バージル?眠い?」
が見上げて来た。考え事に心を取られる度、彼女に余計な心配をさせている。
(限界だ)
バージルは深く息を吸い込んだ。
言うならもう言ってしまいたい。いや、言わなくては駄目なのだ。そのつもりで、安全な日本に彼女を連れて来たのだから。
(まだ壊れると決まったわけではない)
可能性は……きっと自分の誠実さ次第。
隠せば隠すほど、自分が苦しくなるだけ。それは巡り巡ってをも苦しめることになる。
ならば早く──

噛み切ってしまいそうなほど唇を引き結び、バージルはその名前を呼んだ。
「ん?」
も並んで桟に腰掛ける。
バージルはできるだけ優しくの頬に手を添えて、しっかりと目を合わせた。
「話がある」
改まった様子でひたと見つめられて、はぱちぱちと瞬きをした。
「なに……?」
しばらくはバージルは何も言わなかった。
しんと漂うつめたい夜気と、桜を散らせる風の音。
……更に時が満ち、が身動きしようとした矢先、バージルはゆっくりと口を開いた。

「俺は悪魔だ」

「え?」
いきなり降って来た異質な単語。はきょとんと目を丸くした。
(突然、また言葉遊びか何か?)
だとしたら、思い当たることはただひとつ。
「そんな、いまさら?」
「何?」
訝しんだバージルの胸元に手を添えて、はにっこりと外の月を指差した。
「バージルが狼になるなんて、今に始まったことじゃないでしょ」
くすくす笑い出した彼女の誤解に、バージルの心奥がぎしぎしと軋んだ。
比喩で済まされるなら、どれだけ良かっただろう。
「違う。聞いてくれ、
楽しそうに笑んだままの恋人の視線をもう一度自分にしっかりと戻させ、バージルはごつごつ痛いものを喉に飲み込んだ。
これだけ声が出なかったことなどない。
ほんの少し過去、に求婚したときは、あのときはむしろ想いがこの胸から早く出たいと疼いていたのに──今は……
「俺は……」
悪魔だ。
先程の告白を再び繰り返す。そうして今度はもっと具体的に説明を付け加える。
「……俺の身体に流れる血のその半分は、悪魔の血なんだ」
「あくまの……ち」
馴染みのない単語はも分かるくらいに下手な発音で零れたが、バージルは普段のように咎めることもなく、そうだと重く頷いた。
「母は人間だったが、父は……悪魔だった。それも、とても強大な力を持つ悪魔だった」
「バージルのお父さんが……ということは、ダンテさんも、なの?」
思い至ったに、バージルはもう一度しっかり頷く。
「ああ。あいつも勿論、悪魔だ」
「……。」
だから今までバージルは家族のことを口にしなかったのか。
(でも)
どう反応していいのか皆目見当も付かない。は視線を彷徨わせた。
冗談かと考えたくても、エイプリルフールならもうとっくに過ぎている。
(バージルが嘘ついたことなんて、一度もない)
けれど今、彼が告げている事柄はには遠すぎて、何か違う国のお伽話でも聞かされているようだ。
思考に紗が掛かっていて、現実のものとはとても信じられない。
「それで今、ご両親は……」
「二人とも既にこの世にいない」
「そ、うなの……。でも」
が何とか目を上げた。
「私の想像する悪魔と、バージルは違うよ。バージルは人間にしか見えないよ」
「まあ……信じられないだろうな」
心を読んだかのように、バージルが僅かに苦笑した。
大きく肩で息をついて観念するように瞳を伏せる。
「……見ていろ」
またしっかりとの目を捉えると、右手を何もない空間に掲げて何事か小さく呟く。
すると瞬き一回ほどの時間だけで、バージルの手は精巧なつくりの日本刀を掴んでいた。
「……どう、なって……」
目の前で起こったことが理解できない。
突如手品のようにするりと出でた一振りの日本刀──バージルは「今おまえが見たままだ」と答えた。
「俺が喚んだ」
あっさりと言うバージルの次に、は刀に目を奪われた。これには見覚えがある。
「この刀って、おじいちゃんが直したもの……?」
「そうだ。あの時は世話になったな」
それほど昔のことではないはずなのに、今は遠い過去のように懐かしく思える。と出逢った日。
バージルはそれを穏やかに思い出したが、の方はそれどころではない。
「でも……ねえ、これって、テレビでもあるじゃない。最近よく見る、マジックの」
必死に自分の中で認識できる現実と目の前で起こっている異質な出来事を結びつけて折り合いをつけようとする彼女に、バージルは閻魔刀の鞘を払った。
窓辺の薄明かりの中閃いた、銀色の刃。はびくりと肩を揺らす。
「ちょっと、何……」
「悪魔だと証明する」
バージルが構えた刃はきんと光を弾くように冴え、一度目が合ったら逸らせなくなりそうな程にうつくしい。ただ見ているだけで背筋に鳥肌が立つくらい、鋭く研ぎ澄まされている。
それを、バージルは己の腕に当てた。
「何してるのっ!!!」
刃を下に引く寸前、はバージルに飛びついた。
「やめて!!!」
邪魔をされて、バージルは眉を顰めた。
「俺の怪我はすぐ治る、それを見れば」
彼女程度の力では、微動だにすることなく宛がわれたままの刀。は必死で留めようと柄を握った。
「わかったから……信じるから、やめて……お願い」

なおバージルは刀を納めようとしない。
どうしても身を以てこの瞬間に真実を明かそうとするバージルの瞳。海色の双眸は昏い光を湛え、と向き合っている。
瀬戸際のその感情に呼び名をつけるとしたら、『狂気』。
(悪魔)
の中にすとんと恐怖は下りてきた。
『バージル』と『悪魔』という単語が結びつく。
(そ、っか)
バージルと初めて逢った日のことを思い出す。
あのとき自分は何故だか恐怖を感じていたではないか。
得体の知れない、理屈で片付けられない恐れを、確かにこの身体は感じ取っていたのだ。
今更──ぞっとした。
「……!」
急に力の抜けたに、バージルは目を細めた。
?」
大丈夫かと手を伸ばす。
「ぃやっ!」
触れようとしてきた彼の手を反射的に振り払って、それからは愕然とした。
(バージルの手を)
「ご、ごめんなさい」
そんなつもりではなかった、と思う。
「いい。……覚悟はしていた」
弁明しようとした先で、バージルは無言で立ち上がった。
右手の刀はもう消えている。まるで先程のシーンこそが幻だったかのように。
「ちょっと待って、今のはね」
バージルと同じように立ち上がろうとして、はそれが出来ないことに気付いた。腰が抜けてしまっている。恐らく、先の一瞬の恐怖で──
立てないを苦しそうに見、バージルは唇を噛んだ。
「俺はずっとおまえを騙していた。……叶うなら、このまま騙していようと思った」
それが無理だと悟ったのはきっと、結婚式でのの宣誓を聞いたとき。
『秘密を分かち合うことを約束します。』
あの言葉は彼女自身が綴ったもの。
嬉しかったし、苦しくもなった。
(これが『秘密』だ、
バージルはから逃げ出すように背を向ける。
「バージル!!どこに行くの」
襖に掛かった手と、こちら側の背中。
「帰るんでしょ!?なら、私も」

「来るな」

叩きつけるようにバージルは言った。
「……おまえだけで、よく考えて欲しい……」
俺が傍に居たらおまえは自分で考えられないだろう。
の方は向かないまま、バージルはそう言葉を重ねた。
見なくても彼女が今どんな表情をして、どんなことを言おうとしているか手に取るようにはっきりと分かる。
(おまえは優しいから)
だからこそ、『これからもずっと一緒に居て欲しい』──その答えを強要することは出来ない。
「私はバージルと、」
が口に上らせたそれは、バージルが今いちばん言って欲しい台詞。
「今は駄目だ」
遮る。
「一週間か、二週間か……その後もまだ、おまえが同じ気持ちでいてくれるなら」

襖から廊下へ消える前、バージルはひとたびを振り返った。
─────愛してい 。
彼の唇はそう告げた。

「過去形なのか、現在形なのか……声に出してくれなきゃ分からないよ……」
もう襖は閉ざされてしまった。3センチよりももっともっと分厚い隔たり。



はひとり、取り残された。



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