バージルは自分は悪魔だと言った。
悪魔。devil、demon、evil、satan、diabolo、fiend。
背中に黒い翼があるのか、尻尾が生えているのか、牙があるのか、耳が尖っているのか、肌が蒼白いのか。
ハロウィンの子供達の仮装姿くらいしかイメージがなくて、にはさっぱり現実味がない。だから、そんなことよりも。
──隣にバージルがいない。
そのことの方が余程リアルだった。




Promising




いつの間にか外は夕暮れになっていた。
時間の感覚は薄れていくばかりで、ここが旅館で朝食と夕食をきちんと運んでもらえなかったら、本当に昼も夜も分からなくなっていただろう。
無論こうなることを見越して、彼は自分を安全な日本に、旅館にひとり残していったのだ。
ほんの何日か前に彼が座っていたその窓枠に頭を載せて、が考えることはいつまでたっても堂々巡り、バージルのことばかり。
桜が散る。
窓の外、風もないのにはらはらと、雨のように。
(そういえば泣いていない)
考えることが多すぎて、苦しすぎて、泣く暇がなかった。
その代わりのように、桜が。
(バージルはこれを見たくなかったのかも)
だけど自分はしっかり彼に伝えたはずだ。
桜は来年も咲くと。
(バージル)
刀を腕に当て、証明すると言ってみせたバージル。
あのときの彼は確かに常の彼よりも頑なで、瞳の底に狂気の片鱗を覗かせた。
けれど。
『俺はずっとおまえを騙していた』
バージルはそう言った。
にはその言葉がどうしてもしっくり来ない。
バージルは自分を騙した……のだろうか。
彼と過ごした日々が偽りだったのなら、例えば彼が帰った瞬間にすべての記憶が消えたとでも言うのなら、納得できる。
(でも、そうじゃない)
バージルがくれた指輪は、今もきらきらとやさしく輝いているのだから。
ふたりで重ねた時間は紛れもなく本物。
そして自分がバージルを好きになったのは、彼が人間だったからではない。
(バージルだったから)
既に自分達は、国境も人種も越えている。あとひとつ、種族を越えることくらい。

「I , take you Vergil to be my husband, promise to be your confidante, always ready to share your hopes, dreams and secrets.」

あの日の誓いの言葉は、まだすらすらと言える。
「希望も夢も秘密も分かち合います……」
正直、まだ事態の大きさは理解できない。バージルが悪魔だという、その意味を本当に知ったわけではないから。
映画のヴァンパイアみたいに、いつか自分の血を欲しがる日が来る?
自傷しようとした時のように、箍が外れてを傷つけることが起こる?
どれもが現実離れしていて、自分一人では想像すら及ばない。
けれど彼が自身の秘密のことで何かを心配しているのなら、それを分かち合い、和らげてあげられるのは自分しかいないと思う。
「それが夫婦なんじゃないの……?」

『I give you my hand, my heart, and my love, from this day forward for as long as we both shall live. 』

悪魔だというその身で、神の前に立ち、誓ってくれたバージルの言葉が偽りだとも思えない。
一週間、言われた通りに考えてみた。
散歩しながら、食事しながら。
けれどひとりでは散歩してみても景色は色褪せて見えるし、ご飯も(旅館の心づくしのお料理なのに)おいしくない。
ひどく、しずかだった。
何も起こらない。
楽しくなることも嬉しくなることも、寂しくなることも怒りたくなることも。
愛しく思うことも、愛しく思ってもらうことも。
これが平和なら、安穏なら、世界はなんてつまらないのだろう。
こうして離れてみると、バージルの普段の何気ない「ああ」とか「そうだな」の愛想のない──それでいて愛を感じる返事がどれだけ必要か、よく分かった。
一般の恋人がかけてくれるような言葉は少ないかもしれない。
けれど、バージルの瞳は、唇よりも雄弁だ。
これまで幾夜も熱を分かち合って来て、彼なしでは生きていけないと思わせるまで、自分を愛しておきながら。
(私にとってはこの先バージルなしで生きろっていう方が、辛いし苦しいんだよ)
なぜ、バージルをひとりで行かせてしまったのだろう。
なぜ、私はこんなところでひとりぼっちなんだろう。

よく考えろ?
おまえひとりで?

勝手すぎる。
(私のこころは連れて帰ったくせに)
愛しているのか、愛していたのか。
もしも勝手に別れを覚悟して過去形なんて使っていたら、ただではおかない。
「……Wastin' time ! 」
いつの間にか移っているバージルの口癖を無意識で使いながら、は鞄を引っ掴んだ。
今までのふたりの結婚生活はおままごとだった。だったら、これからが本番、嘘偽りない現実だ。





きらきらと光を反射する硝子の中、さらさらと落ちる色つきの砂。
バージルは砂時計があまり好きではなかったが、
「適当な感じがいいよね」
恋人はそう笑って、キッチンタイマーではなく砂時計を好んで使った。
パスタをアルデンテに。
チーズをすりおろす分量も、目方ではなく砂時計一回分の時間で、休み休み。
ケーキが生焼けだからと、オーブンで焼き直しするときも。
(あの時はちょっかいを出したな)
ダイニングテーブルについてオーブンを眺めながら暇そうにしている彼女と、その指先が弄ぶ時計のかたちを見ていたら、自然と手が出ていた。
後ろから抱き締めたは甘ったるいバニラエッセンスの匂いがした。触れた身体はスポンジケーキのようにやわらかかった。
「あと2分くらいならいいよ」
突然仕掛けた悪戯にも、珍しく乗ってくれた。
主がいないこっそりしたキッチンで、バージルは砂時計をひっくり返す。
どの部屋にいても、どの小物を見ても、のことしか考えられない。
(そうして、また5分経っている)
砂時計の上下を返す。
もう5分、ひとりの時間が始まる。きりがない。
ひどく、しずかだった。
言うべきことを言ってしまい肩の荷が下りて、楽になったことは事実。
怖がらせてしまったことだけは胸が痛いが、告げたこと自体に後悔はしていない。
これでもう彼女と自分の間には本当に隠し事がない。
後はただ、が帰って来ることを待つばかり……
「待つ、か……」
迎えに行きたい。
強引に連れ戻してしまえたら、どんなにか。
(怯えるを力ずくで捩じ伏せて?)
それこそ悪魔だ。
バージルは苛々と腕を組む。
日本まで迎えには行けない。
連絡手段の携帯電話は電源を切っている。家の電話も回線を抜いている。
今、自分に出来ることは──
バージルは車のキーを絡め取って、立ち上がった。





「お出掛けでいらっしゃいますか?」
部屋の渡り廊下からフロントに現れた姿に、旅館の若女将は常のように柔和に問い掛ける。のみならず、相手が何を望んでいるか推測するのも接客技術のうち。
失礼のないようにさりげなく様子を窺うと、相手が大荷物を引きずっていることに気付いた。それは「ちょっとお散歩へ」という手荷物ではない。
「チェックアウトをお願いします」
朗らかに微笑む相手は、今いちばん心を砕いているお客。
様……ご宿泊の予定はまだたくさん残っておりますが……」
彼女が外国人の夫と共に訪れたのが、一週間ほど前のこと。
同日、彼女を一人残して、その彼は出立してしまった。
「一人で過ごすにはもったいないお部屋なので。長い間ご迷惑お掛けして、ごめんなさい」
彼女は爽やかにお辞儀した。
その様子に女将は二、三度目を瞬く。昨日までの彼女とは表情がまるで違っていた。
食事を運んたときや布団を用意しに行ったときは心ここに在らずでぼうっとしていたのに、今はしっかりと地に足がついている。
吹っ切れてやけっぱち、という表情ではない。
もっと晴れ晴れと、前向きな。
様、差し出がましいことをお聞きしますが……バージル様の所へお帰りですか……?」
訊ねると、はぱちぱちと瞬きした。
「……そうですよね、ご存じですよね。はい。帰ります。バージルの所に」
それからすこし目を伏せて照れる。
聞いて、若女将は合わせの胸元をほうっと撫で下ろした。
「ああ……良かった」
「あのぅ……?」
何のことかとは首を傾げる。
「あ、すみません。実は、お客様にお渡しするものがございまして」
フロント背後の金庫を開け、白い封筒を取り出す。
「バージル様から、これをお預かりしておりました」
あの日、頼み事をしていった彼の沈痛な面差しが目に浮かぶ。あのときは何を頼まれるのかと緊張したけれど。
預かっていた封筒をに確かに手渡す。
はさっきとは反対へ首を傾げた。
「え?何でしょう」
「どうぞ、お確かめ下さい」
何が入っているのかまでは聞いていない。
が、彼女がチェックアウトする時、俺の所に帰ると言っていたら……これを渡して欲しい』
頼まれたときは、何と微妙なことを聞き出せと言うのだと思ったが。
『くれぐれも彼女をよろしく頼む』
一言ひとことに想いを込めるような言動。思わず「かしこまりました」と頭を下げていた。
実際、あまり悪い予感はしなかった。何組も形だけの夫婦を見て来ている自分の目が節穴でなければ、このふたりは大丈夫だと。
そしてそれは目の前で立証されようとしている。
「……航空券!」
が長細いチケットを取り出した。
「まあ」
「しかも、日付け……一週間前から有効になってます」
ほんっと、時間のムダだった。彼女はそう言って潤む瞳を何度も瞬いて、顔を歪めた。
「では、お帰りの手続きを致しますね」
「お願いします!」
早く帰って欲しい。そんないつもとは逆の見送り方を、若女将はうれしく思った。





彼から電話がかかってくるのはこの一週間で三回目だ。
「バージルくん」
義理の息子と話せることはとても嬉しいのだが、残念ながらその美声にうっとりするような呑気な状況ではない。
「ええ、はまだ帰って来てないわよ」
電話越しでもよく分かる彼の元気のなさ。更に小さくなった声に思わず電話のボリュームを上げる。
しかも相手はそのまま無言になってしまった。
確かに口数は普段から多くはないにしても、あまりにらしくない彼の様子。
何とか普段の覇気を取り戻してもらおうと、わざと意地悪に訊ねてみる。
「……ねえ、けんかの原因はまさかバージルくんの浮気じゃないわよね?」
即座に、怒気を含んだ否定の言葉が飛び込んで来た。
「じゃあ、が浮気した?」
バージルという人がありながら、自分の娘がそんなことをするなどありえないのだが。
当然彼も再び、今度は呆れたような疲れたような声色でノーと言った。
「なら、そのうち戻るでしょう。はあなたのこと大好きだもの」
そうだといいのですが。いつになく自信がなさそうに返事が来た。
本当にどうしたのか……そろそろ茶化さず詳しく聞こうと息を吸い込んだとき、受話器から雑音とビープ音が届いた。
「公衆電話なの?」
見れば電話のディスプレイには知らない番号が並んでいる。
外からです、小銭がないのでもう失礼します。どうせ嘘だろうが丁寧に言われれば、これ以上通話を長引かせることができなくなってしまった。
仕方ない。
「じゃあ、何かあったら電話しますから」
お願いします、と回線は切れた。
だがその直前に聞こえたのは、日常であまり聞かない種類の言葉。
──間もなく、成田からの便が到着します。


「……空港……?」



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