たぶん、これまででいちばん長く感じたフライトだったと思う。
隣のシートには、スペイン語訛りの英語を話す少女がいた。母がスペイン人で、父がイギリス人なのだという。
巻き舌で、can'tをカントと発音して話す少女はとても可愛らしい。
(ほらね、バージル)
は隣にいない恋人を想う。
程度の大きさはあれ、違うバックグラウンドを持つ人間がふかく関わり合うことなど、この広い世界では珍しくもなんともないのだ。




Blooming




空港は相変わらず人、人、人でごった返していた。
その中をは迷わずすいすいと進む。
12時間ほどの空の旅で海を越え、ここはもうアメリカ。
以前はやっぱり成田空港よりも肩に力が入って、入国審査を抜けるだけで疲れ切ってしまったが、今は違う。
パスポートを見せれば職員に「Welcome home」と迎えてもらえることも素直にうれしい。
それに、周りの言葉が英語であふれているだけでなぜかホッと安心する。世界でいちばん大事なひとが使う言語だからだろうか。
彼が使う言葉は音楽のようにやさしい気がする。
やさしい?は知らず微笑んだ。バージルが使う言葉はシンプルな返事か、こ難しい単語のどちらかだというのに。
(早く声を聞きたい)
Well、でも、That's right、でも何でもいい。バージルが使う言葉なら、何でも。
いつもの癖で気合いを入れて転がしたスーツケースは軽かった。腕ががくっとなって一瞬驚いたが、すぐにその理由を思い出す。
(おみやげなんて買ってる暇なかったもんね)
「Bye !」
名前を呼ばれて前を向くと、さっきの女の子が手を振ってくれていた。あの子のおかげで、帰りの機内はずいぶん明るい心持ちで過ごせた。
にっこり笑っても同じように手を振り返そうとし──突然、激しいブザーが辺りに鳴り響いた。
「え?」
ざわめきがさざ波のように広がると共に、空港職員が集まり出す。
女の子の姿も人に飲み込まれて見えなくなってしまった。
「な、何?」
鳴り止まないブザーは隣の出国審査のブース、荷物チェックの金属探知機の所からだ。
(麻薬か何か?)
関わり合いたくないと思いつつも恐る恐る人垣を肩越しに覗いてみて、は息を飲んだ。

「───── !!」

聞き慣れない国の言葉の怒号。それが尋常ではない単語だということは、男が持つ拳銃が説明した。
一瞬前の賑やかな光景が、嘘のように静まり返る。
テレビか映画でならばよく見るシーン。
銃を構えた男と、羽交い絞めにした人質。その人質は──
「Mommy !」
必死にもがく、あの女の子の声が悲痛に響いた。





(いつも乗っている便は到着した頃か)
バージルは掲示板を見上げて息をついた。到着した便の表示は上からばらばらと捲られ、どんどん次へと入れ替わる。
と二人で使う便は大抵決まっていた。
出発時刻に無理がなく、なおかつ到着時間もあまり夜遅くならない便。そうなると自然に何本かに限られて来る。
恐らくも、使い慣れたそのどれかに乗るだろうと思った。
(もしも、帰って来るならばだが)
気分は重く沈んで冴えない。
に一週間は考えろと言った。そのくせ自分は、こちらに帰って来たその次の日から空港で待ち続けている。
(どうかしている)
ずっとロビーから到着口を眺め、黒髪が見えればそれだけで胸が早鐘を打つ。勘違いだったときの落胆と、にはもう会えないのではないかという焦燥感と。
気が触れてしまいそうだった。
家で待つことと空港で待つこと、どちらが楽とも言えないが、それでも空港の方が彼女に近い気がした。
日本へ発つ飛行機を何十本も見送り、その度に「あれに乗って行けばよかった」と後悔し、「行き違いになったらどうする」と僅かでも都合のいい方に考えた。
たまにの実家に電話を入れ、彼女が帰って来ていないと聞くと一喜一憂し──そうして既に一週間。
頭上で、掲示板がまた文字の並びを変えた。
が乗るとしたらこれという最後の便を迎えてしまい、今日はもう見込みがなさそうだ。
(帰るか)
重い体で気怠く立ち上がると、前方がやけにざわついている様子が見えた。
(何だ?)
つい先日も金属探知器に引っ掛かった者がいたが、それはどうやらベルトか腕時計だったらしく、その騒ぎもすぐに収まった。
どうせそんな粗忽者だろう。
そう踵を返しかけ、

「子供は離しなさい!」

いきなり届いた声にバージルは耳を疑った。
飛び込んで来たそれは紛れもなく、彼が待ち望んでいた声。──ただし、こんな台詞が聞きたかったわけではない。
目を凝らせば、その無鉄砲な姿がはっきりと確認出来た。
「全く……!」
どうして彼女は一人の時に限って普通に帰って来られないのか。
嬉しさに焦燥に苛立ちに。どれかひとつに感情を絞れないまま、バージルはの元へ走った。



「子供は離しなさい!」
自分にここまで勇気があるとは知らなかった。
かちかち震える顎を、はキッと持ち上げる。
睨む先、銃口を突き付ける男の腕の中には女の子。何としても彼女を助けたいという気持ちだけが、を支えていた。
さっきから男は何か必死に喚いている。その言葉はには分からず、男にもの言葉は通じていないようだった。
ぐいぐいと少女のこめかみに銃口を押し付け、恐らくは金か何かを要求しているのだろう。
警備はまだ来ない。
緊迫した空気の中ひたすらじりじりと、周りの誰も手を出せず、固唾を飲んで成り行きを見ているしかなかった。
(どうしよう、早く誰か)
は最前列でうずうずと足を踏み替えた。
「Dad !」
それまで懸命に恐怖を堪えていた少女が、ついに耐え切れずに暴れる。
「だめ!」
下手に男を刺激してはいけない。
が、幼い彼女には無理なこと。
男が苛立ち紛れにトリガーに指をかけた。
「きゃあああああ!」
少女の金切り声が一層、男を焦らせる。
(まずい!)
このままでは、あの子は、
「っ……!」
後先考えず、は男に飛びついた。
「やめなさい!」
少女を取り返し腕に庇って、身を屈める。
聞こえた周囲の悲鳴がやけに遠い。
「─────!」
男が何か叫び、直後、不気味に銃口がぎらついた。
その銀色に、恋人が重なる。彼の銀色はもっとうつくしかったけれど。
(バージル)
バージルの姿が脳裏を過った途端、自分の無計画さに激しく後悔したものの、この子を助けたい気持ちに変わりはない。
(バージル、ごめんなさい)
あんな形で別れたくなかった。もう一度会って、ちゃんと気持ちを伝えたかった。だけど、もう。
はぎゅっと目を閉じ、少女を抱き締めた。

ガァン!!!
轟音が鼓膜をつんざく。
硝煙の匂いが鼻をつく。
どこを撃たれたのかすら分からない。
それとも痛みを感じないほど、あっさりと死んでしまうものなのか。
「痛っ……」
思わず零れた反応に、

「おまえが痛いはずはない」

真上から高飛車な声が降って来た。
(え!?)
の心臓が跳ねた。
よく耳に馴染んだ声色。自分が帰って来たのはそれを聞くため。
だけど、彼がここにいるわけが──
「おまえたちは無傷だ」
いるはずのない彼が、バージルが目の前にいた。安堵なのか憤怒なのか判断つきかねる表情で。
「ばーじ」
がその名前を呼び切る前に一瞬だけ微笑してから、バージルは身動きした。なおも凶弾を放とうとしている男に、尋常ではない速さで詰め寄る。
「─────!?」
『もろに撃たれたのに何で動けるんだ』との意味だろうその疑問を皆まで聞くこともなく、バージルは相手の手首を捻り上げ銃を奪う。プラスチック素材のそれ。
「これで金属探知器を騙せると思ったのか?」
浅知恵だなとバージルは吐き捨てた。男の手の届かない所まで銃を蹴る。
男は武器を奪われてもなお抵抗を見せている。
「命を奪わないだけ感謝しろ」
が撃たれていたら、一秒で殺している)
バージルは暴れる相手の腕を絡め、背負い投げでフロアに叩きつけた。硬い床に強か背中を打ちつけられ、男はついにぐうの音も出なくなる。
反撃の意思が完全になくなったのを見てから、バージルはその場から身を引いた。
一段落ついた頃になってやっと到着したらしい警備員が、どたどたと男の身柄を取り押さえる。
安全が確保されると、それまで静まり返っていたギャラリーからどっと歓声が湧いた。
(目立ちすぎたか)
舌打ちしたくなるが、手段を講じている余裕などなかった。
ともあれ、彼女は無事で済んだのだから。
バージルは安堵に息をつき、それから自分が守った存在に向き直る。
「バージル……」
は女の子を抱き締め、ひたりと彼を見つめていた。
バージルもを見つめ──
「Mom ! Dad !」
女の子が家族の元に走り出す。それを受けてバージルとだけでなく、周囲も観劇から現実に引き戻された。
「君!大丈夫か!?」
犯行に使われた銃を捧げ持つようにしながら、警備員がバージルに寄って来る。
バージルは膝の埃を払って頷いた。
「問題ない」
「しかし……」
警備員は眉根を寄せた。
しっかり頷いている彼にはどこにも出血もないようだが、それでも銃弾は確かに彼を直撃していたはずで……ゆっくりとバージルの周りを歩いて探る。
「まともに横腹に食らったように見えたが……」
「いや、本当に」
「大丈夫です」
なおも訝しむ警備員と、それを振り切ろうとするバージルの間に、女が立った。
もちろん、である。
彼女の姿に、警備員の警戒が僅かに緩む。
「ああ、君か。君も無茶なことをしたなあ。でも、なぜ彼が大丈夫と?」
当然の質問に、は微笑んでバージルの腕を取る。
「彼は私の夫なんです」
警備員は目をぱちぱち瞬いて、ふたりを交互に見比べた。
「何、夫婦なのか!」
「はい。夫は警官で、今着てるこれ、防弾ベストなんです」
すらすら飛び出したの言葉に、警備員とバージルの目が同じように見開かれた。
「警官?いやあ、さっきのジュードーは見事だったもんなあ。警官か、なるほどそれでねえ」
『イッポン!』などと笑いながらばんばんとバージルの背中を親しげに叩く。
バージルはじろりとを睨んだが、彼女は斜め上へ視線を逃がしている。
仕方なくバージルは、成分がほとんど溜め息の返事を押し出した。
「……ああ。こちらへは休暇で来ているところだ」
「それはそれは!きっと市長から奨励が与えられるだろう!詰所に来て、名前や勤務先を」
興奮しだした彼に、バージルは面倒そうに首を振った。
「いや、いい。大きな騒ぎにしたくない」
「せっかくのバケーションですし」
も自分のスーツケースを指差し、助け舟を出す。
休暇という絶対的な単語と大きな荷物に、警備員も眉尻を下げた。
「あ、それはそうですな……。でも、名前くらい」
「名はダンテだ。NYPD66署に配属されている。何かあったらそちらへ頼む」
ダンテさん、ニューヨークの66署、と繰り返した後、人のいい警備員はおどけて敬礼を決めてみせた。
「分かりました。連絡しておきます。よい休暇を!」
こうしてバージルとのふたりは何とかその場を抜け出した。
そそくさと現場から急ぎ離れていたためには気付かなかったが、警備員が見送って手を振るその遠く後ろ、女の子とその両親もおおきく手を振っていた。





車に乗り込んで、それから家に到着するまで、バージルももむっつりと無言だった。
バージルは睨むように正面しか見ていないし、は助手席に乗ってはいても窓の外しか見ていない。
ラジオを付けることもなく、ただごうごうと車の行き交う音しかない空間。
……どちらも何を言うべきか、決心しあぐねていたのである。



家に着き、バージルがガレージに車を入れる間、は脇で立ち尽くしていた。
いつもなら先に玄関の鍵を開けていることが多いので、自分が車から降りるのを待っているらしい様子をバージルは少々不思議に思った。もちろん、家の鍵はふたりとも持っている。
とりあえず特に何も言わずにバージルが解錠して扉を開く。開いて、を先に通そうと後ろを振り返った途端──そのが、一気に行動に出た。
思いっきり、バージルの袖を掴む。
?」
ぐいぐいと引っ張られるまま玄関から廊下を抜けてリビングに入って、中央にあるソファの前で立ち止まる。
、どうし」
どん!といきなり突き飛ばされて、さすがのバージルもよろめいた。
体勢を立て直す前にもう一度押されて、そのままソファに押し倒される。が腰に馬乗りになってきたので、バージルはそのまま身動きが取れなくなった。
「おい」
「黙っていて」
目を合わせないまま、は黙々とバージルのコートを肌蹴ていく。着込まれたベストもするすると脱がせる。……そのどちらにも同じように銃弾の痕がある。
痛ましく貫通した布地と滲んだ赤を見てわずかに唇を噛み締めたが、は長くは指を止めなかった。

バージルはどう反応していいものか、訳が分からないまま混乱している。
そうこうしているうち、あっという間にすっかり上半身が晒された。
バージルの肌の隅々まで手を滑らせ──はおおきく息をついた。
「ほんとに怪我、してないんだね……」
てのひらの感触はいつも通り。
ぽたりと、涙がバージルの胸に落ちた。
「よかった……」
もう、うぅーと呻くような声しか出なかった。彼の無傷の肌に頬を乗せる。
「……それを確かめたかったのか」
自分にとってたかだか銃弾一発で傷を負わないのは当たり前のことだが、にとってはそうではない。
バージルは嗚咽で震えるの頭をそっと撫でた。
「驚かせたな……」
何度も何度もなだめるように触れる。
すこし落ち着きを取り戻し、顔を上げたは、なぜかバージルを睨んでいた。
「驚いたっていうより、心配したよ」
「……心配?」
しゃくりあげながらもきつく睨んで来るに、バージルも顔を顰めた。
「心配だと?それは俺の台詞だ」
既にやさしい声音も表情も一変している。
「あんな……相手は子供を人質に取るような卑劣な男で、銃を持っていたんだぞ?俺がいなかったらおまえが撃たれていた」
「でも!」
「おまえが撃たれていたらと思うと」
自分のようには済まない。
当たり所がよくて入院、悪ければ。
──今でも、ぞっと寒気がする。
「もう二度とあんなことはしないでくれ」
「……」
「返事は?」
「……バージルも」
「何?」
「今日みたいなことはまだ仕方ないとしても……それでも、旅館でしたみたいに、自分を傷つけようとしないで……」
言われて、バージルは胸を突かれた。
が怯えていたことを思い出す。
確かに、刀を持ち出して自傷しようとしたのは──焦るあまりに常軌を逸していた。
バージルはゆっくりと頷く。
「ああ。もうあんな真似はしない」
「バージルが普通の人じゃない、っていうのはもう分かったから……」
すこしだけ無理やり、は笑顔を作った。
「……恐ろしくならなかったか?」
銃で撃たれても怪我をしない自分に、矢張り怖いと、戻って来たことを呪わなかったかと、バージルは問う。
はふるふると顔を振った。
考え考え、自分なりの答えを口にする。
「生涯ずっと一緒にいるひとは、丈夫な方がいいでしょ?」
今度はちゃんと、100パーセントの笑顔で答えた。
「tough……」
が選んだ言葉に、バージルは喉の奥で笑う。
「確かに丈夫ではあるな」
「でしょ。だから嬉しいよ。私が選んだひとは間違ってなかった、って」
がくれるのは、自分が求めていた言葉ばかり。
それでもバージルは重ねて聞かずにはいられない。
「悪魔でもか?」
「悪魔でも」
『丈夫』なことを荒療治で確認させられても、もうには迷いがない。
その様子を愛しげに見つめ、バージルは観念したように微笑した。
「これで俺にはもう秘密はないぞ」
てのひらでの髪をかきあげて頬に触れる。
そのぬくもりに自分もてのひらを重ねて、はうっとり心酔した。
(あったかい)
別れた日のあのつめたさが嘘のように、しっかりとバージルの体温を感じる。ちゃんと隣に、こころを感じる。
そうなると、もっともっと伝えたいことがある……
はからかうように目を細めた。
「実は私には、まだ秘密があるんだよ」
「何だ?」
何を言い出すのかと、バージルが二度瞬きする。
その腕を引っ張って起こし、はバージルに抱きついた。そうしてごく小声で、囁く。

──狼のバージルも、嫌いじゃないよ。

「……おまえは……」
バージルが額に手を当てた。
今はもう照れてそっぽを向いているの顎を掴んで、強引に上向かせる。
「え。ちょっと」
「嫌いじゃないんだろう」
「ま、待って、あのね、それはここでとか今すぐとかそういう意味じゃ」
「聞かん」
さっきとは逆の状態、彼女をソファに押し倒す。
つかまえた手首から伝わる速い脈に、バージルはやっとこころの底から安心した。
「……帰って来てくれたんだな……」
「帰って来たよ……」
自然に何度も何度も唇が重なる。
「『警官』には度肝を抜かれた」
「『ダンテ』には呆れた」
キスと会話とくすくす笑いで、唇は息つく間もなくいそがしい。
「あの少女……ハーフか」
「あ。分かった?」
「イントネーションでな」
「さすが」
ハーフ。があの子供を助けようと無茶をした気持ちが分かった。
同時に、彼女が未来について真剣に考えてくれているだろうことも。

「なに?」
旅館で最後に残した言葉を、今度はしっかり声に乗せて告げる。

「愛している……」





翌朝、バージルはキッチンに立っていた。
はまだ夢の中。彼女が起きてくる前に、こんな朝に恒例のメニューを用意しておこうと思った。
パンケーキと、有り合わせのサラダ。そのサラダを作ろうと冷蔵庫を開け、そこがひっそり寂しいことに気付く。今日は買い出しに行かなければ。ふたりで。
賞味期限ぎりぎりの材料で生地を作ったらレードルに取り、熱したフライパンにまるく食べやすいサイズに広げる。
それからごく自然に、テーブルの上の砂時計を返し──バージルはちいさく笑った。
(俺も使っていたのか)
砂に頼らずとも、生地にふつふつ空いていく穴で焼け具合は分かるのに。
単純に、彼女とおなじものを共有するのが嬉しいのだろう。
砂時計はあと半分。生地にちいさな泡が立つ。そして、あまい匂いが立ち込める。
もしかしたら匂いでが起きてくるかもしれない。
慣れた手つきで、バージルはパンケーキをひっくり返した。裏は完璧なきつね色だ。



天気もいいから、外で食べたい。
の鶴の一声で、バージルが用意した食事は公園に持ち出されることになった。
昼ちかくの太陽は、ほぼ真上から燦々と降り注ぐ。
たまに小路で擦れ違うのは見知った人々ばかり。交わす何気ない挨拶が、の心をうきうき弾ませる。
ここを離れていたのはせいぜい一週間ちょっとの出来事なのに、頭で考えることが多すぎて、もっと長く離れたような気がする。
でももう、本当に本当に、帰って来たのだ。
「この公園に桜があればいいのにね」
さわやかな水音を立てる噴水、その後ろに桃色や白色の桜がはなやかに咲いていたら、さぞ綺麗だろう。
「寄贈したら植えてもらえないかなあ」
桜。見る度に切なくなってしまう前に、ふたりの楽しい思い出で上書きしたい。
の気持ちがやんわりと伝わってきて、バージルは面目なく思った。
「また見に行けばいい」
すっと無許可で繋がれた手に、は微笑んだ。
「来年?」
「ああ、来年」
一年後はすごく遠いような気もする。けれど、桜だけを待って過ごすわけでもない。巡る季節は、ふたり一緒にいればきっとあっという間だ。
奇しくもふたり、おなじことを考えていた。



噴水の傍のベンチに紙皿を広げてパンケーキを分ければ、何より贅沢なブランチの始まり。
「パンケーキ焼いてくれるの、久しぶりだよね」
ふわふわの生地にはちみつがとろりと滴る。は満面の笑みでフォークを使った。
「そうだったか?」
バターしか乗せていないものを口に運びながら、バージルはもそもそ答える。
「もっと作ってくれていいのに」
「飽きるぞ」
「飽きないよ」
そう言ってにこにこと、本当にうれしそうに自分が作ったパンケーキを食べる彼女の姿は、
「……確かに」
飽きないな。
素早く顔を寄せて、唇の横に口づける。
バージルのいつもの不意打ちを咎めようとしたが、代わりに、
「おかわり」
まだ近くにあった彼の唇に素早くキスした。
間近な青の瞳が驚きで揺らめく。
ふとその色を見て、はあることを思い出した。
「あの……」
「どうした?」
何やら切り出しにくそうに目を泳がせた彼女を、バージルはそっと覗き込む。
「その、バージルが嫌だったら別に無理にとは言わないし、そもそもないのかもしれないけど、その、写真をね」
まさにしどろもどろ。
そこまで気を遣わなくてもいいだろうにとバージルは苦笑した。
「俺の両親の写真か?」
ぴくっとが反応した。そろそろとバージルを見上げる。
「……ある?」
「ある」
「あ、あの、でもね」
「もう少し落ち着いてからでもいいだろう?」
「うん。……でも、本当にいいの?」
「見て、おまえが落ち込まないなら」
「……それってどういう意味?」
むすりと頬を膨らませたの頭を撫で、抱き締める。
父母の写真など、もう随分見ていない。
(父は、母は、彼女と会ったなら……どんな顔をしただろうか)
どれほど知りたいと思って希求しても、それだけは叶うことはない。
だが、おそらくは──
瞳を閉じる。
脳裏には、いつでも幸福そうに微笑んでいた母。
人間のエヴァと生きると決めたとき、父スパーダもきっと、自分と同じことを考えたに違いない。
(誰よりも彼女を幸せにする)
改めて、つよく思う。
(改めて)
バージルはを離し、ベンチから立ち上がった。
「バージル?」
突然の行動に、首を傾げる。
それから……の息が止まった。


バージルは地面に片膝をついて胸に手を当て、まっすぐにを見ている。
それはあの夜のあの出来事をなぞるように。

の目前、バージルは地面にひざまずく
それから胸に手を当て
最後に真摯な瞳で想い人を見つめ
「Marry me ?」
すべての秘密がなくなった自分と、もう一度。

思いがけない感激。
はぎゅっと瞳を瞑った。
前回よりも今の方が、しあわせだ。
ただひとつ同じなのは、自分の答えだけ。

「     」

相変わらず、舌足らずな発音だ。
照れ隠しにバージルは口元を手で覆った。








→ afterword

12万hitsお礼の三作目です。
やっとお礼ぽく糖分多めの高カロリーになったかと思うのですが、いかがでしたでしょうか…

書き終わった早々、
・旅館行ったのに温泉入浴も浴衣もないとはけしからん!(というかもったいない!)
・狼シーン端折っただと!?
とか、いろいろいろいろ後悔ありますが、それはまた次回以降に…!

ちょっとでも幸せ気分を感じてくださったら、この上なく嬉しいです。
お読みいただき、本当にありがとうございました!!
2009.4.26