「おまえにはもう外で飲ませない」
バージルはただ一言、むっつりと言い放った。
「そんな!」
はあんぐりと口を開けた。ソファのバージルに勢いよく詰め寄る。
「永遠に禁止なんて言わないよね?」
ただの冗談なんでしょと顔を引き攣らせる彼女に頓着せず、バージルは本を開いた。以前に読んだとき、論理的だがつまらないと零していた『Justice』だ。
つまらなかったなら再読しなくてもと、彼からペーパーバックを取り上げる。
「クリスマスくらい、行ってもいいでしょ?」
しかしバージルはきっぱりと顔を横に振った。
「駄目だ」
「高校生の“ grounded ”じゃあるまいし」
「おまえが望むなら“外出禁止”にしてもいい」
「何それ!……ね、バージル。おねがい?」
「……駄目だ」
「……。」
「……。」
傍から見れば熱く見つめ合っているとしか思えないふたりだが、片や「泣き落としなら効くだろうか」と考え、片や「そうそういつも折れてはやれない」と腹を決めている。
「バージル……Darling ?」
「駄目だ」
バージルは頑として首を縦に振らない。彼にしてみれば当然だ。
にアルコールを摂らせたくないのではなく、あのバーに行かせたくないのだから。
——事の発端は、二週間前に遡る。



Champagne Wishes & Caviar Dreams




天井とテーブル表面は複雑にカットされた鏡で仕上げられ、あちこちでまばゆい光の乱反射を起こしている。
ピラミッドのように積まれたグラスは店内奥に置かれているにも関わらず、きらきらとよく目を引き、見る者の心を浮き立たせる。
ビルの最上階、通りに面した壁は全面ガラス張り。そちらを見れば、外を流れる車のヘッドライトまでもが店のインテリアの一部となる。
今夜はこの新しくできたバーのプレ・オープン。すっかり馴染みとなった近所のスポーツバーが出資したということで招待状を貰い、があまり乗り気でないバージルを引っ張って来たのだ。
内装は正統派でないものの、いかにも連れが喜びそうなバー。
バージルは少々苦い思いを抱いた。……ここのバーテンダーは、みな若い。更に、何か決まり事があるかのように、全員が男。
「わー!綺麗!やっぱり来てよかったね」
は上機嫌でるんるんとバージルに腕を絡めた。外から夜気を連れてきた彼のジャケットの感触が、指にひんやりと伝わってくる。
ワンピースとスーツ、ふたり余所行きの身支度で夜遊びするのは、やっぱり楽しい。
「これだけ混雑していたら、まともな酒が飲めるとは思えんな」
バージルはうんざりと辺りを見回した。
二ヶ所のカウンターも、その間に点在するテーブル席も、どこもかしこもゲストでごった返しており、その合間を縫うようにウェイターがせかせかと立ち回る。
シェイカーやミキサーの音が途絶えることなく鳴り響き、客の会話と相俟って、店内のBGMすらよく聞こえない。
(品が無い)
バージルとしてもと行きつけの新しい店を開拓することに異論はない。だがやはり、せめてオープンして三ヶ月後くらいに来るべきだった。

バージルは肘に置かれた彼女の手を軽く叩いた。
「飲みたいカクテルがあれば俺が作ってやる。帰るぞ」
セリフはその半ばから、喧しいミキサーに掻き消された。
「あ!あの席あいたよ!」
彼の手をひらりと離れ、がカウンターの端っこを素早く確保する。
「おい……」
早く早くと笑顔で手招きされ、バージルは渋々と恋人の横に座った。スツールに残された先客の体温の生暖かさが、より一層バージルの機嫌を悪くする。
「で、バージルは何が飲みたいって言ってたの?」
「……もういい」
「すみません、混んでいてご迷惑をお掛けしております」
感じよいバーテンダーがふたりの前に立った。黒髪に、黒縁の眼鏡がよく似合っている。声の調子からして、彼も若い。
「ご注文は何にされますか?」
カシューナッツとダークチョコレートが申し訳程度に提供された。
「ええと、じゃあ、私はフローズン・ダイキリ。バージルは?」
店員の華やかな笑顔に恥じらうように(バージルにはそう見えた)、はちいさい声でカクテルを注文した。
「……ジンバック」
飲みたい酒を注文したようには思えない低い声音で、彼もオーダーを告げた。
「かしこまりました」
無論、どんな客のあしらいにも慣れているバーテンダーは不機嫌な客にもいっかな動じない。わくわくと見守るの前で、てきぱき流れるように淀みない手順でカクテルを二つ作り上げた。
「お待たせ致しました。フローズン・ダイキリとジンバックでございます」
「おいしそう!」
が歓声を上げた。
出されたクリスタルグラスは華奢で、無用心に乾杯すれば簡単に割れてしまいそうだ。
(安っぽい店ならまだ許せたが)
こう何もかも揃っていると、何だかとても面白くない。
バージルは無言で自分のタンブラーを引き寄せた。
「乾杯!」
「……ああ」
真新しいグラスに遠慮するように、バージルはと杯を合わせる仕草だけ交わす。
「……うん!おいしい!」
は出されたカクテルの虜になってしまったようで、ストローを手放さない。
「がっつくと咽るぞ」
「分かってる」
本当に分かっているのか、とバージルは顔を振った。
……元々バージルはアルコールを人前で摂取することをあまり好まない。
家でゆったりととっておきのワインでも開ければいいものを、何故わざわざこんな不健康な喧騒の中で飲まねばならないのか。
によると、日本には『飲みニケーション』なる造語が存在するらしい。主に職場の上司や同僚と酒を酌み交わしながら交流することを指すらしいが、もとより親しい間柄で飲むならともかく、酒の力を借りてしかコミュニケーションが取れないような相手と飲まなければならない場など、想像してみただけで苦痛だ。しかもそれは半ば強制されるとに聞いた。バージルにしてみれば、そんなものは美酒の無駄、悪しき慣習としか思えない。
アルコールは程よい量を、こころを許した相手とゆっくり嗜むのが一番なのだ。
巡り巡って更に悪化した不機嫌を隠そうともせず、バージルはジンバックをあおった。
不健康な喧騒は、止むことなく彼の神経を逆撫でし続けている。
「すみませーん、次、何か甘いのお願いします」
気付けば、バージルの本日の強制飲みニケーションの相手は、更に注文を重ねていた。いつの間に干したのか、フローズンカクテルとは違う形のグラスまで空にされている。
いつか自分が教えた『ショートカクテルは3口で』を、今宵のは忠実に守ってしまったようだ。
(しまった)
不注意を呪いつつ、バージルはグラスを掲げたの手を押さえた。
「次で止めておけ」
「えー。まだ三杯目だよ?ほら、バージルも何か頼んだら?」
品が無い、酒の無駄だと苛々しつつも、カクテルを煽る手は止まっていなかったらしい。指摘され、いつの間にか空になっていたタンブラーに目を落とす。
がそれを店員側へ押しやった。
「帰りはタクシーなんだし、そんな水みたいなの飲んでないで、もっと楽しもうよ!」
真新しい洒落た空間、美味な酒——完全には調子に乗っている。
感じのよい男の店員、美味な酒——それらに対するこちらのピリピリした気持ちも知らないで。
(全く……)
酔った訳でもあるまいが、頭痛がする。バージルはタンブラーからバーテンダーへ重たい視線を上げた。
(強い酒、か)
バーテンダーが自分を挑発している——訳が無い。が、こちらの会話は向こうには筒抜けなのだ。
「……マティーニ。エクストラ・ドライで」
「かしこまりました」
若いバーテンダーは澄ました笑顔で頷いた。カクテルグラスとタンブラーをふたりの前に用意し、氷で冷やす。
「クリスマスには皆様にシャンパンをサービスいたしますので、ぜひお越しくださいませ」
「へえぇ!バージル、絶対こなきゃ!」
「いや、予定があるだろう」
「うちで開くパーティーのこと?そのあとで、ダンテさんともいっしょに連れてくればいいじゃない」
「どうせ家でも飲むんだろう?酔っ払いに団体行動など不可能だ」
「でも、もよろこぶと思うけど」
「……。」
バージルはを出されると弱い。
「お待たせいたしました」
会話が途切れたところへ、カクテルが差し出された。
「お任せされたご注文ですが、お客様はアジアの方とお見受けしましたので」
バーテンダーは柔らかく笑み、にグラスを勧めた。
「わー、かわいいカクテルですね!」
ピンクのグラデーションが鮮やかにタンブラーを満たし、りんごとスライスレモン、それにチェリーが華やぎを添えている。
は早速こくりと口をつけた。
「味も甘くて飲みやすい!これは何てカクテルですか?」
「シンガポール・スリングだ」
バーテンダーより先にバージルが答えた。
「彼女はシンガポール出身ではないがな」
バージルはいかにも不興そうに、のカクテルに口をつけた。手のひらの中で融けかけの氷が硬い音を立てる。酒の味がいいのが、また憎い。
「お客様も、どうぞ。マティーニです」
「……ああ」
バージルは無表情で新しいグラスを手にした。
オーダー通りエクストラ・ドライ。ジンをストレートで飲んでいるようなマティーニは、今のバージルにはいつもより遥かに苦々しく感じた。
「おいしいね!」
隣でがほんのり上気した頬で笑う。
(これが素面だったら……)
バージルは頬杖をついて彼女からグラスを遠ざけた。そんな自分の頬も熱くなっている。
(酔ったか?いや、まさか)
飲んだのはたったの二杯、それも両方ともベースはジンで揃えている。ジンには強いはずだ。
(場に酔ったか)
慣れない雰囲気に身を置いて、アルコールの回りが速くなったのかもしれない。
「バージル、目のふちがあかくなってる!かわいい!」
はころころ笑って抱きついてきた。完全に酔っている。
。帰ろう」
「いや!もういっぱいちょうだい!」
はぶんぶんと顔を振った。もう空にしたタンブラーを前に突き出す。
「そういえばバージル、めがねなんていつ買ったの?よくにあってるね。かっこいい!」
——黒髪眼鏡のバーテンダーは、苦笑してバージルを見た。
あまりのことにバージルは一瞬すべての感情が消え……隣のの赤い顔を見て、一気に怒りが戻ってきた。
が酔っ払っているのは分かる。だが、こいつと俺の、何処をどう見たら間違える?)
共通点はオールバックくらいしかないのに。
(しかも、見間違えておいて「かっこいい」だと?)
最高に気分が悪い。
「……帰る」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
バーテンダーは最初と変わらず、感じよくふたりを見送った。その笑顔がなおさらバージルに火を注ぐ。
二度と来るか、とバージルは奥歯を噛み締めた。
。立て」
スツールから立ち上がり、の腕を引く。
「やだってば!」
駄々をこねてしっかり握ったままのグラスを何とか指からもぎ放す。の背に右手を当て、左手を膝の下に入れ、そのまま抱き上げる。
「ぅわ!ちょっと!ねえ!」
「黙れ。暴れるな」
「じぶんであるけるってば!」
「転んで怪我するのが見えている」
そうして、きゃあきゃあ騒ぐを何事かと囃し立てる周囲の目から庇うように連れ出し、バージルは外で車を拾った。
タクシーの後部座席でバージルの膝を借り、はこんこんと眠りにつき——それが功を奏したのか何なのか、翌日の彼女は酔いが残るどころか元気いっぱい。
何故かバージルだけ二日酔いに襲われ……彼はひどく疲労困憊。
バーの雰囲気、店員、それに僅かな酒での二日酔い。全てが悪い配合でシェイクされ、そしてバージルは心に誓ったのだった。
(あのバーには二度とを連れて行かない)
と。



忘れようと遠ざけていた記憶がまざまざと脳裏に蘇り、バージルはますます仏頂面になった。
「どうして駄目なの?」
はしゅんと眉を下げる。
弱々しい彼女に流されず、バージルは再び本に手を伸ばした。
「この前の様に、カウンターの向こうの店員と隣のこの俺を間違えるほど泥酔されては困る」
途端、があっと肩を揺らした。本人も記憶のベールの向こう、何となくは覚えているらしい。
「あっ、あれは!小学生が先生のことをお母さんて呼んじゃうのと同じで……」
「意味が分からん」
バージルは思い切り眉を顰めた。
いくらが酔っていたとはいえ、あれはとても不快だった。本当に不快だったのだ——素面の彼女が、ダンテと自分を呼び間違えるくらい。
「それにおまえは眼鏡が好きなようだしな。かっこいい、そうだ」
「だから……ああ。確かにあの夜は酔い過ぎました。ごめんなさい……」
はがっくりと、バージルの膝におでこをつけた。何度も謝る。
繰り返される謝罪の言葉が次第に涙に濡れていき、バージルは肩で息をついた。
「……横に居たのに、おまえから目を離した俺も悪かった」
「ううん。私が調子に乗って飲みすぎたのがいけないの」
が洟をすすりあげる。
「確かにな」
バージルは彼女にティッシュを取ってやった。
「でも!マルガリータもサイドカーもギムレットも、頼んだのみんな美味しかったんだもん」
「そんなに飲んでいたのか?俺が聞いた時は、まだ三杯だと」
「……覚えてない」
バージルは愕然とを見た。
フローズン・ダイキリとシンガポール・スリングの間に、自分の知らないグラスがそんなにあったとは。
指の結婚指輪でこちらの関係は分かっていただろうが、パートナーのペースを注意してくれないバーテンダーがいるようでは、ますますもってあのバーにはを連れて行けない。
「当分バーには行かない」
バージルはきっぱり言った。
どうあっても今回は折れてくれないらしい伴侶に、もついにギブアップした。
「今年のクリスマス、つまらなくなりそう」
拗ねて横を向く。
「……それはない」
バージルは溜め息をついた。膝元にぺたりと座って鼻をかむ彼女の頭に手を乗せる。
は、ほだされるもんかとばかりにバージルを睨んだ。
「すごく楽しみにしてたのに」
「別にあのバーでなくても楽しくやれるだろう?」
「そうかもしれないけど」
「保証する」
バージルはそっと微笑した。
はまだ疑いをもって彼を見る。
「……。料理でも作ってくれるの」
「俺ならもっといい事が出来る」
「なに?」
「明かしたらつまらないだろう」
白のMy Phoneをに手渡す。
達に電話しろ。約束していた通り、24日の午後に来いと。正装でな」
「正装?どこかへ」
「出掛けない。だが、必要だ」
「そうなの……?」
訝しみつつ、はスマートフォンを受け取った。
パーティーの内容もよく分からないまま、に電話を掛ける。
しつこいコールの後、やっとが出た。その声は「今まで寝ていました」とはっきり分かるくらいに掠れていた。
寝惚けているかもしれないけど後でメールもしておくからと、とにかく約束を取り付ける。
電話を切る直前、ダンテの「おやすみー」という声が耳に飛び込んできた。
(おやすみ、って)
今はもう昼過ぎだ。
ふたり仲良く過ごしているのが伝わってきて、は自然とあたたかい気持ちになった。
たち、まだ寝てた」
くすくす笑いながらバージルを振り返る。
時計を見上げ、バージルは額に手を当てて呆れた。
「このままでいいのか?」
「なにが?」
「ダンテと暮らすと、堕落した生活がにも染み付くぞ」
「そんな大げさな。は一昨日こっちに着いたばっかりで、きっとまだ時差ボケしてるんだよ」
笑いながら、たちの生活を目蓋に思い描いてみる。
時計の示す時刻に捉われず、好きなときに好きなことをして過ごす。片方にいきなり電話を掛けてももう片方の声も一緒に聞けるほど、ずっと一緒に。
(……ちょっと羨ましいかも)
極端に言えば、暗くなったら寝て太陽が昇ったら起きているようなバージルとの規則正しい生活は、LEDの存在しない中世でも再現できそうだ。
(バージルは、たまーに夜更かししても、朝はちゃんと起きてるんだよね……)
それで睡眠時間が足りないこともないようだから、寝坊するとしてはちょっと決まり悪い。
(バージルもときどき一緒に羽目を外してくれたらいいのに)
また本を読み始めたバージルのぴんと伸びた背中を、はすこしの不満を込めて見つめた。



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