#3




ついに金が底を付いた。
バージルは重く溜め息を吐きながらコートを羽織った。
ダンテの事務所に向かうのは、そう苦でもない。
事務所が無人になる時間など弟の行動パターンは把握しているから、顔を突き合わせずに用を済ませることは雑作もなかったのだ。──今までは。
一月ほど前だっただろうか、女が事務所で暮らし始めた。
それは以前、バージルがヘル=バンガードに襲われているところを助けた女だった。
彼女が何故ダンテの事務所にいるか。
理由は何となく察しがついた。
ダンテと自分を勘違いしているのだ。
大方、助けた礼をダンテにし、ダンテはダンテでいい女に目がないから、彼女の勘違いを正すことなどせずそのまま傍に置いた。
──それは別にどうでもいい。
バージルはそもそも他人と関係を持つのが得手ではない。だからこそ、仕事のためでも電話線ひとつ引いたりもしない。
人間を助ける仕事を嬉々として選んでいるわけでもなかったが、働かなければ食い扶持も稼げない。
結局、楽に稼げる稼業がデビルハンターだったというだけだ。
バージルは再び大きくため息をついた。
今最大の問題は、ダンテの女がいつでも事務所にいることだ。
しかも何故だか、バージルの取り分の小切手の近くに必ず、いる。
これではいつものように素知らぬ振りをして金を取って来る事が出来ない。
一言声をかけるか、挨拶でもすればいいのだろうが──何の為に?
(……ダンテの嫌がらせか?)
最初はそうかもしれないと思ってみたが、弟がそんな歪曲した手を使う理由がない。向こうは向こうでバージルに会う必要が全くないのだ。
そもそも、いつだって言いたいことがあればストレートに言って来るし、言葉で足りなければ次は剣か銃弾が出るまでだ。
どうやって金を取りに行くか。
そうこう逡巡しているうちに、金が尽きて今日を迎えたのだった。
兎に角、運に任せて行ってみるしかないだろう。
バージルは事務所へ行くに辺り、夜を選んだ。
夜闇に身を忍ばせるのは得意中の得意。
音もなく建物に近づく。
ダンテはいない。
明かりが付いているのはバスルームだけだ。
ますます都合がいい。
バージルは何度も来る内に分かった、女の部屋に窓から忍び込んだ。
勿論、ここに金があることを知っているからだ。
主がいないというのに、女の部屋は落ち着かなさを齎す。
こんな所は金を手に入れてさっさと退出するに限る。
音を立てないよう、静かに金の入った戸棚を開けた。
望みの紙束を手にしたところで、

「こんばんは、泥棒さん」

声を掛けられた。
何故ここまで気配に気付けなかったかと自分を悔やんだが、考えてみれば、あの夜に目にした女はなかなか腕の立つハンターだった。
そしてバージルは慣れない、後ろめたい行為の最中だったわけで、完全に金の方に意識が集中して背後への警戒を怠っていた。
「……泥棒ではない」
そこだけ否定して、戸棚を元の通りに閉める。
努めて深く息を吸うと、周りには薔薇のやわらかな香りが漂っていることに気がついた。女の香りらしい。
湯上がりであろう彼女の濡れた髪が波打ち、光を纏っている。
──酷く居心地が悪い。
「勝手に侵入したのは悪かった。だが、これは俺の正当な取り分だ」
無様な言い訳だ。バージルは自嘲気味にそう思った。
女がくすりと笑う。
重かった空気が何故だかやわらいだ。
が、それも束の間。
「でも、今は一応あたしがお金の管理してるの」
女の言い様に、バージルはカチンと来た。
(早くもダンテの妻気取りというわけか)
下らない。
バージルは無言でコートを翻し、窓へ歩いた。
茶番に付き合う暇はない。
「待って!」
何故だか女が慌てて叫んだ。
その必死さに、バージルはぎくりと足を止めた。
(あの時と同じ声)
あの時──バージルと彼女が出逢った夜と同じ声。
一度は無視した、女が縋って来る声。

(俺はどうして立ち止まっている?)

面倒にならないうちに、帰らなければ。
直感が彼を後押しした。
この女と深く関わるべきではない。
何故なら、彼女はダンテのものだから。
「文句ならダンテに言え」
わざと断ち切るように弟の名前を強調し、バージルはひらりとフレームを越えた。
女が勢いよく窓枠から身を乗り出した。
「待って!あたし、ここであなたを待ってたの……!」
──何?
バージルは一瞬だけ混乱した。
けれどその意味を確かめたくとも、もう遅い。
足は軽やかに地面を捉えていた。

「Mr. Vergil!……Vergil!」

何度もバージルを呼ぶ、切なるその声。
心臓がごとんと音を立てた。
思わず後ろを振り返れば。
双つの瞳が、彼を、バージルを、悲痛なまでの必死さで見つめていた。





ダンテが依頼から戻ると、が事務所のリビングのソファで膝を抱えていた。
気丈な彼女にしては珍しい。
ダンテはそっとの隣に腰を下ろした。
近づけば、彼女の香りが鼻腔をくすぐる。その度、ダンテは落ち着かない気持ちになる。
──一緒に暮らす内、ダンテはに惹かれはじめていた。
はダンテとバージルが悪魔だということを知っていて、なおも会いに来たのだと言う。悪魔だと肯定しても、怯えるでもなければ、変に関心を持つわけでもなかった。
悪魔なんでしょ?と聞かれたときのこと。
『悪魔っつっても、半人半魔だけどな』
半魔だと言った方が怖がらせなくて済むかと気を遣ったダンテに、彼女はにっこり微笑んだ。
『ダンテはダンテ、バージルはバージルでしょ?人間だって宇宙人だって、同じことだよ』
そう笑ったの笑顔は眩しくて、魅力的だった。
隠し事がいらない関係がこうも楽だということ、そして秘密を打ち明けた後の心がどれだけ軽いかということも知らなかった。それだけでなく、自分すら否定したい自分をまるごと受け入れようとしてくれている。彼女に惹かれるなと言われる方が無理だった。
事実、が追い求めているのが自分ではなくて、兄のバージルの方だと分かっていても、それでも心は制御できるものではない。
ダンテは手の中の紙切れを握りしめた。
本来ダンテがこんな情報を手に入れる筋合いはないし、渡してしまうのが正直嫌だったが、これこそ彼女がいちばん喜ぶものだと分かってもいた。
これを渡せば、彼女は笑顔で感謝してくれるだろう。
……それだけで、ダンテ側の理由としては充分だった。彼女が笑顔になるならば。
心を決めて声を掛けようとすると、が膝から面を上げた。
「……バージルが来たよ」
「何だって?」
ダンテはそっと眉を顰めた。
ついに来やがったか。
とはおくびにも出さすに、よかったな、と言おうとした。
が。
張り詰めた空気の痛さにダンテは口を噤む。
「なら、何でそんなカオなんだ?会えたんだろ?」
は会えてうれしかったと喜ぶどころか、今にも泣き出しそうなくらい何かを堪えていた。
恐らくシャワーを浴びたまま放ったらかしたのだろう、髪はいつものように綺麗に梳かされてはいずに、やけに頼りなげにふわふわと肩で踊っている。
ダンテの心に嫌なものが兆した。
「何かあいつに、嫌なことでも」
「違うよ」
ダンテの考えに見当がついたのか、がぶんぶんと首を振った。
「けど……」
髪の動きにつれて、いつものの香りが漂う。
「また、お礼も言わせてくれなかった」
そう言って、再び膝に顔を埋める。
「……。」
なんで、それくらいの時間もくれないの?
は嗚咽のような声で呟いた。
「……例えば」
ダンテはそっと口を開いた。
「その『お礼』ってやつは、どうしても直接言わなきゃ駄目なもんなのか?」
「……え……」
「オレが伝えとく。もしくは、手紙でも何でも残す。……それじゃ駄目なのか?」
が目を見開いた。
今のいままで、そんなことは考えつきもしなかった、という顔。
それから、
「……どうしても。駄目なの」
ごめんなさい。
謝られて、ダンテの胸がごとんと痛んだ。
(ああ)
が欲しいのが、オレだったら。
オレだったなら、絶対にこんな苦しませやしないのに。
ダンテは奥歯を噛み締めた。言葉がいつものように出てこない。
「……、これは渡しとくぜ。じゃないと、フェアじゃねえからな」
何とか声を押し出し、ずっと手に握っていた紙切れを差し出す。
「なに……?」
は不思議そうに紙切れを開いた。
次の瞬間、その目が零れそうなほど瞬いた。
「ダンテ、これ……」
ダンテは小さく頷いた。
「バージルの住所……」
バージルの居所。
これを渡すことは、ダンテにとって一つの賭けだった。
圧倒的に確率の低い、分の悪い賭け。
「あいつじゃなくて、オレを選べよ」
ぎゅっと力を込めてを抱き締める。
初めて触れた彼女のあたたかさに、心臓を鷲掴みにされた。
手放したくない。本当は。
今更ながら、メモを渡した後悔が押し寄せた。
……」
距離を少し離して瞳を交わすと、彼女はとても清々しい表情をしていた。
さっきまでとは打って変わって、吹っ切れたような、とても綺麗な笑顔。
けれど、それは、
「ダンテ。ごめんなさい。……ありがとう」
ダンテのものにはならないのだ。
「あのね、ダンテの口座開いたから。通帳はテーブルにあるし、それから……」
雑事を告げる彼女から力なく腕を離した彼に、彼女はしっかりと目を合わせる。
そしてそのまま、立ち上がる。
「今から行くのか?」
知らず、声が震えた。
もう夜更けだし明日でもいいじゃねえか。引き留めるべき理由ならたくさんあった。
それなのに、言葉が重くて出てこない。
呆然としたままのダンテに、はこくりと頷いた。
「もう、待つだけは嫌になったんだ」
迷いのない、澄んだ眼差し。
どうして彼女はオレのものにならないんだろう。
「ありがとう……ダンテ……」
もう一回言うと、はダンテの頬にそっとキスをした。気持ちが籠ってはいるが、あくまでそれは友達としての──
「また来るよ」
そうして、はダンテの所から出て行った。
頬に、心に、拭いがたい情熱だけを残して。