#4




お世話になった事務所を後にした。
ダンテの気持ちを踏みにじるような結果になってしまったのは申し訳なく思うが、それでも、はもう奔り出した想いを止める術を持たなかった。
早く。
一刻も早く、彼に。
バージルに会いたい。
どうしてなのだろう。
たった一度、助けてもらっただけなのに。
再会したときでさえ、まともな会話どころか、礼を言わせてもらうことすら出来なかったのに。
それなのに、あの瞳を、所作を、声を、彼を思い出すだけで胸が震える。
(あの夜、とっくに捕らえられてしまってた)
まるで取り憑かれたかのようだ。
ただひたすら、焦がれている。
早く彼のもとに辿り着きたい。

"Help me"

ダンテのメモ通りに、ひた走る。
スラムの端も端、治安の悪いストリートを更に抜け、周囲にひと気が全くなくなったところに、それはあった。
足元の砂地と、そこにまるで不似合いな瀟洒な建物。
クラシックな外観はほとんど城と言ってもいいような荘厳さだ。
看板も何も出てはいなかったが、は確信した。
バージルは確かにここにいる。
根拠のない自信だった。
「はあ……」
高鳴り、苦しくなる呼吸を収めて、震える拳を固めてドアをノックする。
応える声はない。
「いいもん……」
彼がいないことは分かっていたような気がする。
そして自分は最初からビンゴを狙うつもりもない。
はその場に座り込んだ。
待つのは得意だ。これまでずっと待っていたのだから。
──だが。
「これは……」
辺りの空気の温度が下がり、背中を悪寒が駆け上がる。この感覚は稼業で鍛えたもの。
「……来た」
黒い影が地面からぼこぼこと湧いて来る。を休ませる気はないとばかりに現れる、悪魔の群れ。
何故バージルがここに居を構え、そしての足元が砂だらけになっているのか悟った。
素早く立ち上がる。
「……Come on, guys!」
久々に抜いた愛剣に自信を貰う。
自分だって、デビルハンターの端くれ。
——戦ってやる。
目の前の悪魔とも、それに、心を捕らえて離してくれない、悪魔の彼とも。





半分に欠けた月が闇に引っ掛かっている。
依頼をこなして戻ったバージルは、いつもと違う住居の様子に目を疑った。
どうやって此処まで辿り着いたものか、あの女がいたのだ。そして悪魔どもと舞を踊っている。
いや、違う。一寸の無駄な動きもなく戦っているのだ。
それは真実、舞踏のように見えた。
細身の剣で薙ぎ、隙が出来れば銃で撃つ。決められた動作を決められたタイミングで行う。まるで敵の動きもあらかじめ決められているかのようだ。
彼女はとてもうつくしかった。
髪を結わえていたのだろうリボンが解け、空に艶やかにそれが舞っても、彼女の動きは寸分も狂わない。
しなやかな豹のような身体。
知らずバージルの喉がごくりと鳴った。
初めて、女に目を奪われていた。
出て行くタイミングを完全に逸しているうち、彼女が不自然に身を捩った。
どれくらいの時間を戦っていたのか、疲れに女の足取りが重くなっていた。
——馬鹿な。
一体どれだけ、間抜けに見惚れていたというのだ。
悪魔の鎌が女の左肩を切り裂く。
まるであの日の繰り返し。
バージルは舌打ちしながら飛び出した。
「!」
女がこちらに気付く。
その瞳に浮かぶ、何色もの感情。
が、悪魔がその隙を見逃すはずもない。
「Heads up !」
彼女を叱咤し、閻魔刀の鞘を抜く。ひと薙ぎで朱が一面を染める。
悪魔を一掃したと気配で確認したところで、女がガクリと膝を折った。そのまま砂に突っ伏する寸前、抱き留める。
至近距離で視線が絡んだ。
刹那。

「おかえりなさい」

女が、彼の腕の中で呟いた。
とても愛おしそうに。
「何故……」
ここに?
どうして俺の名を──そんな風に呼ぶ?
何をどう聞いたらいいのか分からず、バージルはただ彼女を抱き締めた。
不意に彼女が腕を伸ばしてきた。
そして、浴びた悪魔の血で濡れて下がっていた、彼の前髪を上げる。
「こうしないとダンテみたい……」
彼女の桃色の口唇から零れた弟の名。バージルはそのとき確かに、嫉妬した。
「俺はバージルだ」
ぶっきらぼうに言い捨てると、彼女は震える指でバージルの頬に触れると、ちいさく微笑んだ。
「……知ってるよ……バージル……」
かくり。
緊張の糸が切れたのか、女の身体から一切の力が抜けた。





気付くと寝台の上に寝ていた。
本の中でしか見た事のない、天蓋つきの大きな寝台。
先程触れたばかりの覚えのある香りをシーツに見つけ、はどきりと震えた。
これは『彼』のベッドなのだろう。
そう思えばなんだか堪らなくなって、一人では持て余すベッドの中程で身体をそっと縮こめる。と、その拍子に左肩が悲鳴を上げた。
そういえばさっきの戦いでまた左肩を怪我をしたのだった。だが、その割に不思議と身体の下のシーツは汚れていない。
恐る恐る、肩に手を当ててみる。
「……あ……」
そこは丁寧に包帯が巻かれていた。
あれだけの深手、流血もかなりのものだったはずだが、もう血は滲んでいない。
手当てをしてくれたのだ。
──バージルが。
鼻の奥がツンとした。
(そういえば、彼は今どこに?)
探していた人物は、ここにはいない。
寝台からそっと下りてみる。
足元は大理石。素足にひんやりと冷たさが沁み入ってくる。
寒い部屋に腕をさすりながら、辺りを見回す。
彼の部屋。
さりげなく収納されてはいるが、寝室だというのに書物の多さが目を引いた。サイドテーブルにも分厚い本が革の栞を挟まれて置かれている。
窓ガラスが掏摸ガラスなのも、カーテンが豪奢なのも、きっと本の紙焼けを防ぐためなのだろう。
(陽射しが苦手……ってことじゃないと思うけど)
飾り気は全くない。けれど、0よく手入れが行き届いた実用的な部屋だと一目で分かる。
(ダンテは掃除大っ嫌いなのに)
こうまで性格が違うものかと、やはりは微笑ましく思った。

「気付いたのか」

低い声がして、びくりと振り返る。
そこにはいつも着ている青いコートを脱ぎ、軽装に着替えたバージルがいた。
シーツのものと同じ、彼の香りがふわりと舞う。それだけでのよわい心臓はがむしゃらに騒ぎ出した。
「あの……手当て、どうもありがとう」
は緊張で震える声で礼を言った。
しかし、彼から応えはない。
手で掬えそうなほど重たくなっていく沈黙の中、更にあのときの礼を言おうと身動きしたとき、バージルはいま入って来たばかりのドアに向き直った。
「今夜はもう休め。明日送って行く」
……送って行く?
の中で言葉と意味が結びつかず、彼女は眉を顰めた。
「送って行くって……何処へ?」
当然の質問に、今度はバージルが眉を顰めて振り返る。
「決まっているだろう、ダンテの事務所だ」
ガツンと頭を打たれた気がした。
「え……」
バージルは勘違いしている。
がダンテの彼女か何かだと。
そうとしか思えない。
(状況が状況だっただけに勘違いしても仕方ない……のかもしれない、けど)
それにしても。
(あたしがどうしてここに来たのか、とか)
説明を──いや、命を助けてくれたお礼すらまともに言わせてくれないのか。
「休め」
言葉を重ねておいて、無表情でバージルは出て行く。いや、出て行こうとする。
は勢いよく駆け出した。
「ちょっと待って」
は眦を決した。
せっかく手の届く距離に来たんだから、もう、逃がさない。
「ここは貴方の寝室でしょ。貴方が使えばいいじゃない」
強くバージルの腕を引く。
一瞬触れたつめたい肌。
視線がぶつかった。
つめたく青の瞳。
「……それは、俺を誘っているのか?」
囁かれ、背筋に電流が奔った。
熱で火照った顔で見上げると、バージルがふんと鼻を鳴らした。
「生憎、俺は弟の使い古しに興味はない」
静かに腕を振り払われた。
『弟の、使い古し』。
そして氷のような彼の瞳。
今度こそ、の腑が煮えた。
「何を……言ってるのよ!」
バージルは答えない。
はいやいやをするように大きく顔を振った。
「あたしはダンテとは何でもない!!!」
言葉に弾丸のような力を込める。
一瞬、バージルの髪の一筋が揺れたような気がした。
だが、彼は結局そのまま扉を後ろ手に閉めた。

「明朝、出て行け」

ドア越しに降る、凍てついた言葉。
はその場に頽れた。