#6




が来てからというもの、屋敷の中が変わった。
単純にテーブルクロスやカーテン、花瓶など彼女が誂えた物が増えていったからという理由だけではなく、雰囲気や空気そのものがやわらかくなった。
バージルが空腹を感じてダイニングへ向かえば、用意されてあたたかな湯気を上げている美味しい食事。
彼の寝酒の癖を知ってからは、夜にはサイドテーブルにデカンタが置かれ。
草臥れた古書には、充分な補修が施され。
そのひとつひとつがささやかで、ひどく好ましく思える。
バージルが誰かと生活を共にするのは久しくなかったことだ。当初は息苦しくなって自分か彼女のどちらかが逃げ出すだろうと考えていたが、今の所そうなってはいない。
それどころか時々、館のどこかに居るはずのの存在を目で探すようになっていた。──いつの間にか、身の内に忍び込まれている。
はバージルに何ひとつ望まない。
ただ、傍にいる。
依頼で疲れて帰っても、必ず笑顔で迎えてくれるに、どれだけ心休まったか知れない。
けれど、それでも。
バージルは頑なに心を閉ざしたままだった。
言葉を掛ければ、彼女の頬が桜色に染まる。
傍へ立てば、可哀想な程にその手指が震える。
それは彼にとって嬉しい反応そのもの。目に留まる度、心は駆り立てられる。
萌し始めた感情を認めてしまえ、と。
何をこんなに意地を張って痩せ我慢をしているのだと、幾度も自嘲した。
朝起きて、また新しい一日が始まる。ただそれだけのことが、一人で暮らしてきた時よりも貴重に感じるのは確実にのせいであると認めて、彼女にも同じことを認めさせたい。
だが、最初に冷たいスタンスを築いた以上、それを簡単に崩せない性格が、バージルを彼たらしめる中核。
このままでは進むことも戻ることも叶わない。
——どうしたら変われるものか。
呆れながら、今夜こそは彼女と同じテーブルで食事をしてみようかと考える。
食事はいつでもバラバラに摂っていたから、それはなかなか革新的なことのように思えた。
共に食事をしよう。
そう誘ったなら、はどんな顔をするだろう。
踊り始めた心に、しかし、宵の明星が残酷なうつくしさで釘を刺した。
いつもよりも暗く垂れ込める朱い闇。
其処にかかる月。

今宵は満月。

バージルの中の悪魔の血が騒ぐ月齢。
が此処に住み始めて、初めて迎える日だった。
彼女に告げておかなければいけないことがある。






キッチンに立って夕食の支度をしていたところ。
突然バージルに呼ばれて、は文字通り身体が飛び上がった。
「バージル」
声まで掠れる。
バージルに名前を呼ばれたことなど、これが初めてだった。
「なに、どうしたの……?」
ぎくしゃくとしか動かせない身体を、何とかバージルの方へ向き直らせる。
バージルはダイニングテーブルの角に軽く腰掛け、外を見ていた。
窓の外は、太陽が最後の光を地平に走らせる頃。
バージルは静かに切り出した。
「今夜は食事も酒もいらない」
「え?」
は思わずバージルの傍に駆け寄った。
彼がわざわざそんなことを告げに来たことも今までなかった。
そこに何故か違和感を覚えたのだ。
「具合でも悪いの?」
間近におずおずと見上げると、ふっと彼が『微笑った』。
「そうではない……」
す、とバージルの手が伸ばされた。
反射的には息を飲んだ。
バージルの手が頬に触れるか触れないか。
寸でのところで、その手は翻って元の場所に戻る。
それがきっかけだったかのように、バージルはくるりとに背を向けた。
「今夜は俺の部屋に近付くな」
強い口調で言い捨てると、そのままキッチンを出て行ってしまう。
「バージル……?」
は床にぺたんと座り込んでしまった。
脳裏には、今の今まで傍にあった彼のやわらかな表情が鮮烈に残っていた。
そしてそれに対比するかのような、最後の……何処か苦しげな表情。
(——今夜は、何かあるんだ)
バージルの態度を変える、何かが。





その日、彼女はバージルに言われた通り、自分だけ食事を摂った。
にしてみればいつも独りで食べていることには変わりないが、それでも同じメニューを彼も食べてくれているのだと思えることは単純に嬉しく、実は貴重なものだったのだと気づく。
(それに)
食器を洗いながら、先程の一言が頭を堂々巡りしている。
バージルが『部屋に近付くな』と言ったこと。あの彼の様子がどうしても気になっていた。
普通ではない。
あまり彼と時間を過ごすことがないとは言っても、バージルが普段よりもどこかおかしいということくらいは分かる。
彼は、自分に触れようとした。
そしてそれを止めた。
何故?
の足は、自然と彼の部屋に向かっていた。怒られるのは承知の上で。
だが、ふたりの関係はの方が動かなければ何十年経ったとしてもこのままだろう。近頃はそれが確信になりつつあった。
に触れようとした直後、バージルは何かを怖がっているように見えた。
怖いものなしの彼を怖がらせるものなどこの世にあるとも思えないのに。
そう考えて、はいつかダンテと彼の出生について話していたとき、彼が言ったことをふと思い出した。
『悪魔を狩っているとき、感情が昂ってるとき……知らないオレが顔を出すときがあるんだよな』
知らない自分。それは彼らの身体に流れる、悪魔の血によるものだろう。
オレという器は変わらないけど、でも、中身が入れ替わったんじゃねえかってくらい、凶暴になるんだ。
確かにダンテは、そう言った。
内なる悪魔。
バージルが畏れているものも、もしかしたらそれなのかもしれない。
だが、仮にそうだとしても、それが今さら何だというのか。
はバージルが半身に魔を宿す存在だということを知っていて、それでも彼が好きなのだ。惹かれてしまったのだ。
純粋な人間たる彼女には、確かに彼らの恐怖は理解できない。
だが同じように、100%人間である自分のことを、彼らだって完全には理解できないはず。
意外と女というものがつよい性だということも。
「バージル……」
口の中で転がすと、甘い魔法のように胸に広がるその名前。
もう一回、名前を呼んでみて欲しかった。
彼のその声で。
いつもなら遅くまで消えることのない燭台が照らしているはずの、今はただ底から真っ暗なバージルの部屋の扉を開ける。
鍵は掛かっていなかった。





「バージル?いるんでしょう?」
か細い声が彼を呼ぶ。
「来るなと言ったはずだ……」
彼はゆらりと立ち上がった。
部屋には既に陰の気が満ち満ちている。もう太陽の効力は欠片も残っていない。
今の彼を支配するのは、悪魔だ。
それをぎりぎり抑えていた理性を吹っ飛ばしたのは、文字通り、無防備に飛び込んで来た
忠告はした。

その夜、
彼は悪魔となり、
身勝手に、
彼女を抱いた。





差し込む強い光に瞼を刺激され、手放していた意識が覚醒する。
しかし、隣りの彼女は未だに先程と同じ姿勢のままぐったりとしていた。
「…………」
バージルは今更のように優しく声を掛けた。
——愚かだ。
行為の最中は一言も口をきかなかったくせに。
キスさえもせず。
……」
舌に乗せれば、砂糖菓子のように甘くとろけるその心地よい名前。
それでも、隣の彼女が目覚める気配はない。
突っ伏した裸のしろい肌に、数え切れない程の痕が昨夜の行為の激しさを物語っていた。
つめたいシーツの不快感に眉を顰め、床にだらしなく落ちかけていたブランケットを手繰り寄せて彼女に掛けてやる。
「バー、ジル……」
彼女がぽつんと儚く呟いた。
起きたかとそっとその顔を覗き込めば、彼女はまだ眠ったまま。
涙の跡もはっきりと、震える睫毛と唇と。
「バージル……」
それなのに、自分を呼ぶ。
ギリッと激しい後悔が頭痛を齎す。
傷付けた。
内なる悪魔という理由に逃げて、真正面から彼女と向き合わずに、ただ身勝手に犯した。

「愚かだ……」

結局、の想いに応えてやることが出来なかったのだ。

「すまなかった……」

つめたく、時折まだ震える頬にそっと唇を付けた。
その桃のようなやわらかさに、心が未練を訴える。
もう、遅い。
を突き放したのは、他の誰でもない、愚かな自分だ。

これが三度目。
バージルはから逃げ出した。