何度も、何度も、
の名を呼ぶ
夢か 現か
区別がつかないくらいフラフラと
それでも、
確かな応えを手に入れるまで
──さがしだす。



#8




!!!」

幾日ぶりか、バージルは自宅の扉を開け放った。
冷え冷えとした空間に光は何ひとつとしてついておらず、真っ暗な雰囲気だけが其処にあった。
(間に合わなかったのか)
ふらふらと歩を進める。
知らず向かっていたのは、彼女が暮らしていた部屋。
震える手で扉を押し開ける。
当然のように……誰もいない。
ガクリと膝が砕けた。
家に入った時点で、誰もいないのは分かっていた。
ただ、理解するのと実感するのでは、重さがまるで違う。
の部屋を見渡した。
バージルがここに入るのは、これがたったの二回目だ。
きちんと整頓され、見事に片付いた部屋。
もっと頻繁に此処を訪れていたなら、まだ普段と今の差異も分かったはずだろうに。

カーテンが開けられきちんとまとめられた窓も
ピンと伸ばされて皺ひとつないベッドのシーツも
まるで最初から此処には誰もいなかったかのように
何ひとつ彼女の存在した証はない

……」

彼女が使っていたはずのベッドに倒れ込む。
まだ微かに残る、甘い香り。

ひたすらに、呼ぶ。
何度も、何度でも。
今頃気付いてしまったのだ。

──彼女を愛していると。





が洋館に戻ると、──バージルがいた。
それも何故だか彼女が寝泊まりしている部屋に。
まるで子供のようにベッドに突っ伏して。
「……バージル?」
小さく呼んでみる。
その身体はどこもかしこも血で染まっていて、の心を急速に冷やしていった。
悪魔は怪我をしてもすぐ治るとダンテを見て知ってはいたが、バージルの場合はその出血の量からしてどう控えめに見ても重傷。
(放っておいて大丈夫なものなの?)
できることなら今すぐにでも手当てをしたいが、時折苦しげにふるえるその睫毛や、神経質にぴくりと動く指先からすると、彼の眠りはいかにも浅そうだった。
(……起こさない方がいいのかも)
こうして眠っているのが体力回復にはいちばんかもしれない。その辺りは人間の物差しで測れそうにない。
せめて出血から体温が下がってしまわないようにと、ベッドから落ちていた毛布を拾い上げ、バージルにふわりと掛けた。
起こさないように、乱れた彼の前髪をそうっとしずかにかきあげて、そして気付く。
頬を伝う涙の跡。
それはの胸を甘く締め付けた。
バージル。
ただ一途に、このこころの底から愛しいひと。





悪夢の上辺で誰かに名を呼ばれた気がした。
バージルが目を開けると、視線の先に、眠りに落ちる前はいなかった人物がいた。
右手に重みを感じて見やれば、彼の指には彼女の指が絡まっている。繋いだ左手に顔を預けるようにして、彼女が眠っていた。
「…………!?」
動揺のまま、バージルは思わず叫んだ。
「ぅ……あ。」
眠っていた彼女が、はっと瞬きする。
「お、おはよう?違う、おかえりなさい、かな?あれ?」
いつものはにかんだような笑顔。
あたたかく、やわらかな。
どんな状況にあってもバージルを迎えてくれる、世界でたったひとりの。
「……っ……!!!」
何も変わっていない彼女を、バージルは思い切り引き寄せた。
体温を感じたくて、つよくつよく、抱き締める。
腕の中のが息を飲んだ。
「ば、バージル、嬉しいんだけど……ごめんなさい、ちょっと……痛い」
身を捩るようにして動く。
「すまない」
苦しいではなく痛いと言われた違和感に、バージルがそっと腕を緩めて見やれば、彼女の衣服には血が染みていた。
一瞬自分のものかと思ったが、血に沿って衣服まで切れていて──バージルは青褪めた。
「おまえ、怪我をしているのか?」
は逆にうっすらと頬を染めた。
「あ、えと。うん、実はそうなの。ちょっと無理しちゃって……」
「Foolish girl!」
言うが早いか、彼女を抱き上げてリビングへ向かう。
「え、ちょっとバージル!?」
玄関に近いそこには、いつでも救急用品がたくさん備えてある。バージルが自身を手当てすることはあまりないが、今日このときに再び役に立ってくれたことに感謝しなければならないだろう。
戸棚を丁寧に開けるのももどかしく、バージルはガラスを拳で叩き割って用具を取り出した。
「ねえ!今のであなたの方が手を切ってるじゃない」
「煩い」
彼女の指摘を一言で一刀両断しておいて、消毒薬を染み込ませた綿を彼女の傷口に宛てがう。
が目を細めた。
「……染みる」
「我慢しろ」
何度も綿を変えては血を拭う。
覗いた傷は出血量から想像したよりは浅かった。バージルはほっとひといきついて胸を撫で下ろし、傷にガーゼを当てた。しっかりと包帯を巻いていると、がふっと笑顔を見せた。
「あのときも、こんな風に手当てしてくれたんだね」
……あのとき。
最初に彼女がここを訪れたとき。
あれはまるで遠い日の出来事のようだ。
懐かしく思え、バージルは目を眇めた。
「お前はいつも怪我しているな」
「……そうかも」
うーんと考え込んだを、気を抜くと緩んでしまいそうな眼差しを意識してきつくした上で睨みつける。
「今回はどういう成り行きで怪我したんだ?」
怪我人は言いにくそうに視線を逸らす。
「依頼が……来て……」
「だから、何故依頼など受けた?」
バージルは重く溜め息をついた。
こんなときに、それどころではなかっただろうに。
呆れ果てたバージルから、ますますが顔を背ける。
「だって。……バージルがいなかったから……」
バージルは瞠目した。
そうだ。
彼女が行って来たのは、本来ならば彼が受けるはずの。
「……すまない」
そっと、巻き終わった包帯を撫でる。
はふるふると首を振った。
「それより……あなたも怪我してるでしょう?大丈夫なの?」
バージルの足や肩に視線を動かす。
バージルは顔を振った。正直、彼女の怪我で頭がいっぱいで、自分のことなど忘れ去っていた。
「いや、大丈夫だ」
は訝しげにバージルを眺め回した。
「でも。ダンテが斬ったんなら、結構深手じゃないの?」
(ダンテが?)
その言いかたの方が引っ掛かった。
「……どうして奴だと?」
はもう臆することもなく、バージルをまっすぐに見つめた。
「バージルがいない間、たまたまここを訪ねて来たの。それであたしを見るなり、凄い形相で飛び出していっちゃって……」
「成程」
バージルは頭を抱えそうになった。
の様子を見て、ダンテは事態を直ぐさま見抜いたのだろう。
だからあれ程までに容赦なく殺気立っていたのだ。
と──その千分の、いや百分の一くらいは、バージルのことも心配して。
「ほんとに大丈夫?」
が心配そうに見上げて来る。
澄んだ瞳にはバージルしか映っていない。
愛しさに胸を突かれた。

「では……治してもらえるか?」

「うん。じゃあ、手当てを……っ?」
の顎を指で掬い上げてキスする。
甘くやわらかな唇。
初めて手に入れた。
重ねた唇をそっと離せば、の涙に気付く。
けれどその涙は痛々しいものではなく──
その切ないまでのうつくしさに惹かれ、バージルは再び唇を重ねた。
ちいさく震える耳に、そっと囁く。

「……すまないことをした……」

「っ……バージル……」
の腕が首に巻き付いてくる。
彼女のいい香りがするやわらかな身体を、確かに腕に抱き締める。
ふと、彼女の胸元に光る赤い光に気が付いた。
バージルがわずかに体を離して視線を落とすと、は微笑みながらそれを胸元から取り出してみせた。
ちいさな赤い石のネックレス。
「それは……」
の指がバージルのアミュレットを弄る。
そっと持ち上げられたそれは、きらきらと光を四方に跳ね返す、複雑な断面をしている。
彼女のネックレスの欠片の分だけ、欠けている石。
は震える指でアミュレットとネックレスを重ねた。
「ぴったり」
彼女の言う通り、ぴたりと重なり合う、ふたつの赤い石。
ざわざわと血流の音を上げて、バージルの胸が騒ぐ。
(そうか)
これが欠けたのは、彼女を助けたとき。
彼女は最初に出逢った日からこの欠片を大事にしていてくれたのだ。
バージルが身勝手に彼女を抱いた夜、あのときも、は石に触れていた。祈るように、言い聞かせるように。
ふたりを繋いでいた確かな証。
どんなときもはバージルを見失わなかった。
(俺が、自分で自分さえも見失っていたときですら)
「バージルとお揃いなのが嬉しくて、ネックレスにしちゃったんだ」
恥ずかしそうに微笑む。
バージルは堪らなくなって息をついた。
もう二度と喪失いたくない、かけがえの無い存在。
バージルはアミュレットとネックレスごと、をきつくきつく抱き締める。

「……愛している……」

意固地にも遅れた分を取り返すように。
万感の想いを込めて。
愛しい君へ愛を。