できることなら、そのてのひらの上で踊りたい。




てのひらバージル




『彼』がうちに来たのは……あれ?いつだったかな。忘れちゃった。
とにかく、寒い日だった。寒くて寒くて、ほんとは冷蔵庫が空っぽで困ってたんだけど、買い物すらめんどくさくてまっすぐ家に帰った日。
「ただいまー」
家族は猫しかいない、ひとりだけの部屋。
ぱちんと明かりをつけて、
「ん?」
いつもならにゃーんと出迎えてくれる猫が来ない。
「おーい。ただいまー」
靴を脱いで上がる。
寒い!早くヒーターつけなきゃ。
そんなことを考えながらリビングに入ると、猫の逆立った毛並みのこんもり猫背が見えた。
しゃーーーっ!
耳をぺったり伏せて、ものすごい威嚇中。おとなしい子なのに珍しい。
「こら。どしたの」
カメムシでもいたか、と猫の後頭部越しに部屋の隅を覗く。
そして今度は私が、
「きゃーーーっ!!!」
ひっくり返った。
な、何かいる!何か虫じゃない、もっと変なものがいるよ!!
にゃっ。猫が私に「後は任せた」と一度すりすりしてから去っていった。
「ちょっと……」
しっかり、私。
まだ幻覚を見るような寒さじゃないよ。
すーはーすーはー深呼吸してもう一度、
「きゃーーーっ!!」
やっぱり何かいるって!
二度叫んだとき、
ちくっ
足首のあたりに痛みが走った。紙で切ったときみたいな、その瞬間は曖昧なのに鋭く切れてる感覚。
「痛……」
しゃがむと、自然と『それ』と距離が近くなる。
三度目はさすがに叫ばなかった。
ちらり……、とそれを観察してみる。
私のてのひらくらいの身長の、よくできたアンティークドールみたいだ。
銀色の髪と、青い服。
人形と違うのは、それが動くこと。
──こ、こびと?
「私、寒さで頭どうかしちゃったかな……」
ちゃきん。
ちっちゃな音をさせて、こびとが剣を鞘に入れた。
よくよく見たら、日本刀だ。
日本刀を持ってるこびと。
「……ぷっ」
可愛いじゃない。
吹き出したら、
ちくちくっ
「痛い!」
二回目の攻撃で、足首の切り傷がばってんマークになってしまった。
「もう!」
ずいぶんと乱暴な子だ。
「これは預かります!」
抵抗して暴れるこびとを人差し指でぐいぐい押さえて、日本刀を取り上げる。
それを戸棚の引き出しにしまったら、もう安心だ。
こびとを見てみると……あー怒ってる怒ってる。
いらいら腕組みなんかしちゃって。
武器を取り上げて怖いものなしになった私は、こびとに顔を近付けた。
「へー。よく見たらキミ、綺麗な顔してる」
つん、と肩をつついたら、ばしんと指を叩かれた。
本当に乱暴だ。……いや、何か顔赤いから、もしかしたら照れてるのかも。
「乱暴なキミ、名前はあるの?」
言葉が通じてるのか微妙だったけれど、こびとはぴたりと動きを止めた。
「ん?」
口をぱくぱくしてる。名前を教えてくれてるみたい。
「ごめんね、聞こえない」
ちょっと考え、ペンを持たせてみた。
身長と同じ長さのペンにすこしばかりよろよろしながら、こびとは器用に文字を書いた。
Vergil
「ぶぁーぎる、かあ」
どすどすっ
「いったぁ!」
ペンで手を滅多刺しにされた。
「何よ、違うの?」
どんどんとこびとはペンでgを強調する。その部分の読み方が気に入らないのか。
「ぶぁーぐる?」
どすぅっ
「痛いって!」
結局、彼の名前がバージルだと分かるまでに、私の手は黒い点々だらけになってしまった。
「全く」
呆れてため息をついたら、バージルも疲れたらしく、どさりとその場に座り込んだ。
……なんだか憎めないやつ。

──これが私と、てのひらサイズのバージルの出会いだった。





二人───ちっこいバージルを頭数に入れるなら───でぼんやりしていると、
ぐうぅ。
私のお腹が鳴った。
そういえばそんな時間だ。猫にもごはんをあげないと。
「あー、パスタか何かあったかなぁ」
空っぽの冷蔵庫を思い出して物憂く立ち上がる。
どすん。
ちくんとした痛みと共に、黒い点が足首についた。
「もう、今度は何?」
しゃがんで彼を覗き込む。
するとバージルは、私を呼び付けたくせに横を向いた。
親指の爪サイズの顔で、何だか困っている。
「……はぁん。キミもお腹すいたんだ?」
指でつついてからかうと、バージルは背中を向けた。
もっとからかおうとしたけど、ちっちゃな背中が何となく哀愁を帯びていたので、やめておく。
「それで……、何を食べるの?」
バージルが肩越しにこっちを向いた。
「こびとフードなんて見たことないけど」
どんっ!激しく足を踏み鳴らす。
「ミーちゃんのカリカリでいいかな?」
冗談だったのに、バージルはゆらりとペンを持ち上げた。
「分かってるってば」
ほんとに短気な子。
「私と同じものでいい?」
こくり。バージルは精一杯おおきく頷いた。



ティースプーンに、お湯で粉を溶かしただけのインスタントのコーンスープをちょびっと掬う。
それにクルトンのかけらを添え、バージルに提供した。
「どうぞ」
むっとバージルが顔を上げる。
あー、言いたいことがなんとなく分かった。
「悪いけど、うちにはこびと用の食器はないんです。手で食べて下さい」
せめてものサービスとして、紙ナプキンを濡らして横に置いてあげてみた。
バージルは、その布団みたいな大きさのナプキンで手をしっかり拭いている。
うんうん、綺麗好きなのはいいことだ。
「いただきまーす」
自分のミートソースを食べながら、ちらりとバージルの様子を窺う。
彼はかけらのクルトンを更に砕いて、私から見たら粉みたいになったものでスープを掬って食べていた。
器用なことをしてる。
食事がお互いに一段落したところで、気になっていることを訊ねようと思った。
「ねえ」
ナプキンで手を拭ってから、バージルが私を見上げる。
「どこから来たの?」
バージルは何度か瞬きし、ふるふる顔を振った。
分からないのか。
「じゃあ、サンタクロースの国から来たってことでいいか」
がちゃ!バージルがスプーンに八つ当たりした。
「だって分からないんだから、それでいいでしょ。保健所に突き出したりはしないから」
いらいら、とんとん。腕組みと片足踏みしめ。それでもやはり保健所行きは嫌なようだ。
やがておとなしく三角座りで落ち着くバージル。
「ねえ」
その背中を指の腹でつついた。
「キミ、行くあてはあるの?」
バージルは斜め上を見た。ゆっくり首を振る。
それから整ったアンティークドールの顔で、じっ……と私を見つめた。ガラス玉より澄んだ青の瞳。
その瞬間──私のこころに魔が差した。というか、差された。
「……ここに、いる?」
バージルはもったいぶって迷う仕草をした後(どうせ行く場所もないくせに!)、やけに偉そうに頷いた。
『お前がそう言うなら、いてやろう』
私にはそんな言葉が、確かに聞こえた。





食器を買って、洋服を買って。
気付けばずいぶん財布が軽くなってしまった。
だけど同じように、心も軽い。
早く家に帰らなきゃ。

「ただいまー、ミーちゃん、バージル」

玄関を開けると、とととっと軽やかな足音を立てて、猫のミーが出迎えてくれた。
すりすり可愛い。
……が。
「バージル〜?」
もう一人の同居人は来ない。冷たいやつめ……

「バージル、キミのこびと服買って来たよー」
「来ないとあげないよー」
「そのままの汚い服でいいのー」

立て続けに呼んだら、
ふぉん ぱりん
「痛っ!」
青いつまようじみたいなのが、おでこに飛んできた。
恐る恐る額に触ってみたけど、ちょっと痛みが残ってるだけで、他には何もない。
「何だろ、今の……」
ぼんやりしていると、ようやくバージルが姿を見せた。
腕を組んで、偉そうな態度。
ほんとにバージルは、ごくたまーにしか可愛げがあるところを見せない。
「ほらっ。服買ってきたよ」
ばさっとおもちゃ屋の紙袋をさかさにする。
次から次へ、ばらばら飛び出して来たのは人形用の服。
「バービィちゃんの服はたくさん種類あるのに、その彼氏となるとあんまりないんだよねー」
山なす衣類から一着を適当に選んで、唖然としたままのバージルに当ててみる。
オレンジ色のボーダーのラガーシャツ。
「……ぶっ!!」
似合わないだろうなあとは思っていたけど、まさかここまで期待を裏切らないとは!
「あははは、お腹いたいっ」
ふぉんふぉん!ざくざくぱりーん!
「痛ぁっ!……バージル!」
やっぱりさっきのつまようじはバージルの仕業だったのか。
「ちょっと、今のは何?」
バージルは知らんぷりで服を品定めしている。
「刀を取り上げて、ボールペンも与えなければ安全だと思ってたのに……」
こびとは魔法も使えるとは……。
ちっちゃいながらも、あなどれない。
つまようじは案外痛いので警戒しながらバージルを観察していると、彼はしぶしぶと服を選び出した。
箱から出せとばかりに私に突き出す。
「それでいいの?」
彼が差し出したのは、たぶんバービィちゃんとの結婚式用の黒タキシード。
『仕方ないだろうが!』バージルはどんっと足を踏み鳴らした。
「はいはい」
箱からするんと滑らかな生地の服を取り出し、バージルの前に置く。
「着替えたら、ご飯にしようね」
私はもう一つの紙袋から、ゴールデニアファミリーの食器を見せてあげた。
コートを脱ぐ手を止めて、バージルは冴えない表情で頷く。
『どうせそれも見た目ばかりで、切れないナイフなんだろう?』そんなことを言いたいに違いない。
「今日はシーフードドリアだよ」
おもちゃの食器を使わざるを得ないバージルのために、具材は細かく切ってあげよう。
──そんな涙ぐましい献身も知ってか知らずか……ぴっちりタキシードを着込んでテーブルに上がったバージルを見て堪え切れずに吹き出した私に、無数の青つまようじが雨と降り注いだ。

ああ、バージルのご機嫌取りは大変だ。





只今、私は上機嫌。
明日は彼氏とデートの約束をしているのだ。
最近彼は忙しくってろくに会っていなかったから、楽しみで仕方ない。
「んー、やっぱりこの色かな」
明日の服に、選び抜いたネイルラッカーの色味を合わせて確認する。
彼は爪なんて興味ないだろうし、どうせこれは自己満足なんだろうけど、そんなのは関係ない。
ファイルで形を整えて、表面を磨いて……ひとつひとつの作業が鼻歌混じり。
ベースを塗って、メインカラーを重ねたら、次は特別仕様のラインストーン。
右利きの私は左手は上手く石を置けたのだけれど、利き手の仕上げはやはり不安。
緊張で震える左手のピンセットで何とかちいさい石を拾い上げたところで、私の目に、この作業にまさにぴったりお誂えの人物が映った。
床に開いた文庫本の真ん中にペーパーウェイトを置いてページが閉じないようにして、その前でまるで展覧会の絵を眺めるように腕組みをして、遠くから真剣に文字を追っているバージル。
彼なら2ミリ大のストーンもしっかり持ち上げられる。
せっかくだから、お手伝いしてもらおう。
「バージル〜」
できるだけ優しい声で呼ぶと、何かを察したのかバージルは嫌そうにこちらを見た。
「ちょっと来て」
しかし彼は本を指差して首を振った。『今、手が放せない』アピール。どうせ時間はたくさんあるくせに……
「私の用事が済んだら、ページ捲るの手伝ってあげる」
交換条件に、バージルが瞳を揺らした。
さっきからこびとを見ていてよく分かったが、彼にとっては重いペーパーウェイトを動かすのも、本が閉じないようにページを捲るのも大変なのだ。
それでいてバージルは本の虫。しょっちゅう本を出せと私にせがんで来る。
その彼のことだ、私の提案に心が引かれないわけがない。
案の定、バージルは嫌々ながらも本を閉じて私の近くへ来た。
が、途端に口と鼻を手で覆って顔を顰める。
ラッカーの刺激臭だろう。
「あ。ごめん、キミにしたら結構キツい匂いかも」
謝ると、『いいから早く指示を出せ』とばかりにバージルは足を三回踏み鳴らした。
彼が匂いで失神してしまう前に終わらせなければ。
私はとりどりのストーンが入ったケースをバージルの前に置いた。
「この石をね、薬指の爪に……そうそう、その辺」
よっぽど本を読みたいのか、バージルはてきぱきと動いた。
既に完成している左手を見本に、右手もそっくり同じようにする。
何だか感心した。
「バージルって、もしかしたら器用なんじゃない?」
最後の石を接着し終え、バージルはすこしだけ満足そうに私を見た。
やっぱり──憎めない。
と、思ったのに。
バージルはすぐに目を険しく細めて『今度はこちらの番だ』とばかりに、びしっと本を指差す。
「今すぐはだめ。これが乾くまで待って」
生乾きでいちばんデリケートな状態の爪に風を送る。
たんたん。バージルがいらいらと足を鳴らした。『さっさとしろ』
「まだだめだってば。女の子の支度を待てないようじゃ、モテないよ?こびとの国にも女の子はいるんでしょ?」
からかったら、いつものお約束……ひゅんひゅんぱりん!青いつまようじが飛んで来た。



結局、バージルの刺々しい視線に耐え切れなくなったのは私。
そしてページを捲るのを手伝ううちに私まで内容に引き込まれ、いつの間にか一緒に読書に熱中していた。
バージルはこびとのくせに読むのが早くて、私がまだ読み終わらないうちに『捲れ』と指示を出して来て、その度に私が「もう少し」と彼を待たせた。
最初はいらいらしていたようなバージルも、私のペースに合わせる方が精神衛生上もいいと気付いたのか、ゆっくり文字を追うようになった。
そうして二人が同時に「『次へ?』」と目を合わせたとき……何とも言えないくすぐったさが込み上げた。
ボールペンで刺されたり、青つまようじで攻撃されたりさえしなければ、バージルと過ごすのはちょっと楽しい。
……が、そんな調子で本にのめり込んでいたら、ついついうっかりとまだ生乾きのネイルに触ってしまった。
「あああ」
私は盛大にがっくりした。
「せっかく綺麗に仕上がったのに〜!」
私のあまりの落胆ぶりにバージルも本から顔を上げ、爪を覗き込む。
指紋がぴとりとついているのを見た瞬間、彼も『あ』とばつの悪そうな顔をしてくれた。
正直、『それしき』とか呆れるかと思っていたから──私は慰められたような気がした。
明日のデートは楽しみだけど、一人では本を読むのにも苦労する彼のためにも、できるだけ早く帰って来てあげよう。そう思った。





本の文字が見えづらくなってきて、俺は窓の外を眺めた。
もう時刻は夕方。
そろそろ明かりを付けなければ、暗過ぎて本が読めない。
だが、電気のスイッチはとても高い所にあり……溜め息をついた。
今日はがいない。
彼氏とデートをするのだと、昼前に元気よく出掛けて行った。
それでこんなに帰りが遅くなるのか?と思ったが……会うのが恋人ならば、それはそうだろう。
……今夜は戻らないかもしれない。
本を読むのは諦め、俺は家具伝いに窓枠に上がって腰掛けた。
ぼんやりと、丸い月が見える。
──俺がこんな姿になってしまったのも、満月の夜だった。



何ということはない依頼を片付けたその帰り。
見上げた月に、らしくもなく目を奪われていたら、するりと音も無く俺の足元の影が伸びた。
「悪魔か?」
佩いた閻魔刀を抜くそれより前に、影が反乱を起こした。
コンクリートに沁み込むように、影が消えていく。
一秒ごとに萎んでいくそれに呆気に取られて──小さくなったのが影だけでなく、俺自身だということに気付くには、僅かに時間を要した。
辺りの景色の異様さ。そして自分よりも相当に大きい猫に鉢合わせして漸く、この身に起こった現実を認めることが出来た。
……認めたが、解決策がまるで思い浮かばない。
近くには人の気配もする。このままではさすがに不味いと、とりあえずは電柱の裏に隠れた。
しかし、いくら待ってみても体は元に戻らない。
更に間の悪いことにはここは俺の家からは遠すぎて、比喩でも何でもなくコンパスの大きさの足で帰るには、一体どれだけ時間がかかるか分かったものではなかった。
どうしたものか。
顔を上げると、先程の猫が専用のドアを通り抜けるのが見えた。
あれなら、俺にも通れるだろう。
一旦はこの奇妙な姿を隠して、この先のことを考えなければ。
──そうして忍び込んだのが、の家だった。



今にして思えば、彼女はよくも俺を匿ってくれたものだと感心する。
小人だの動物だの何だかんだと揄うにしても、衣食住と保護してくれているのは有難い。
あまり喜べたものではないが、この姿の暮らしにも慣れて来た。
の部屋は居心地がよい。
だが……。
いつまでもこのままでいいわけがない。
何とか元の姿に戻らなければ。
しかし、どうやって?
ぼうっと月を見上げたとき、ドアが開く音がした。
が帰って来たのだ。
俺よりも早く、猫が反応して玄関へ走って行った。
俺はいつものように、別に彼女を出迎えるわけでもなく、だが無視するわけでもなく、普段通りにリビングのテーブルの上に移動した。ここならにもよく見える。
「……ただいま、ミーちゃん。バージル」
リビングに入るなり、はソファに突っ伏した。
強いアルコールの匂い。
昨日の爪の匂いもひどかったが、この酒の匂いも相当だ。
「酔い過ぎだ」
呆れて叱ってみても、当然には聞こえていない。
そのままじっとしているからには、かなり悪酔いしているらしい。
馬鹿なことを。そう言おうとして……俺は言葉を飲み込んだ。
「……っ……。っく……」
細かく激しく震える背中。は泣いていた。
「どうして……×××……」
知らない名前が彼女から零れた。男の名。を泣かしている人物の名前だろう。
何があったと訊ねずとも、察しがつく。
猫がの膝に擦り寄った。俺と同じように事態を把握している。
「……ひっく。……っう。」
の嗚咽は止まらない。
見ていてこちらも苦しくなる程、しゃくりあげている。

どうにかしたいと手を伸ばしかけ──俺は自分の手の小ささに絶望した。
この姿では、とても届かない……



……何時間経ったのだろう。
は泣き止んでいた。そして疲れて、ソファに突っ伏したまま眠ってしまっていた。
「今、何時だ……?」
壁の時計を見上げれば、とっくに日付は変わっていた。
「くしゅっ」
が小さくくしゃみをした。
暖房も付けていない部屋に彼女の薄い背中は、見ていて寒々しい。
(何か掛ける物は……)
周りを探すと、が帰って来てから放り出してあったままのコートが目に入った。
俺の行動範囲が狭い以上、とりあえずはそれを掛けるしかない。
彼女のコートを拾い上げ──拾い上げることの出来た自分に、俺はぎょっとした。

身長が戻っている。

「……何?」
ずっとを見ていたから、全然気付かなかった。
呆然と体を見回し、ふとテーブルに乗ったままであることを思い出した。
そこから下りると、足元で猫が尾を膨らませて唸った。
「俺だ」
説明しようとしても、俺自身が俺を信じられない。
いつ戻ったのか、どうして戻ったのか……。
猫はよく利く鼻を鳴らして、匂いで俺を識別したらしい。
ひと鳴きして猫はの膝に頭を押し付けた。それから俺をちらりと見る。
「ああ、そうだな……」
この姿に戻れたなら、無意味に悩むことよりも他に、出来ることがたくさんある。
まずは──
「しっかりベッドで眠れ」
背中を支え膝の裏に手を入れて、を抱き上げる。
「う……ん……」
起きるかと思ったが、そうではなかった。
俺の首に手を回して抱きついて来る。
「……×××……」
意識がないくせに、またその名前が彼女の唇から洩れた。
俺をその男と勘違いしているのか。

目覚めない彼女をそっとベッドに横たえる。
腫れた瞼と、涙が伝った頬。
普段の様子を見ていれば、が簡単に泣くような女だとは思えない。その彼女を、酒で潰れたくなるまで傷付け、泣かせた男。
「……ど、して……」
寝ていても辛いのか、の眉が苦しげに寄せられた。
そうしてひたすら、
「×××……」
その男の名を呼ぶ。

──気に入らない。今の傍にいるのは、この俺だというのに。

彼女がもう一度その名を呼びそうになる前に、俺はの唇を自分の指先で塞いだ。
の唇は熱く柔らかく……触れた指を離したくないと思った。離したくない。
このまま彼女からアルコールが抜ければいいと思う一方、今正気に戻られては困ると、その両端で惑う。
「んん……」
息苦しくなったか、が薄く目を開けた。
「……×「俺はバージルだ」
言葉を指で遮って、俺はぐっと顔を彼女に寄せた。
はぼんやりと見上げてくる。
「ばーじる……」
まだ酒が残っている、とろんとした眼差し。
それでも間違えずに自分の名前を呼んだことに、俺はひどく満足した。
「そうだ。俺だ」
頬についた髪を避けてやり、そのまま頭を撫でていると、何秒もしないうちには再び目を閉じた。
……もう大丈夫だろう。
は今度はうわ言も呟かずに、規則正しい寝息を立てている。
俺はどうしても彼女にもう少し触れてみたくなり……「Good night」のキスをの額に落とした。
さっきはあれだけ遠いと感じたが、こんなにも近くにいる。
一方的とは言えこうして対等に触れていられることが、これほど喜ばしい事だとは。
「そうか……」
今、初めて理解した。
俺にとっては、この部屋が居心地がいいのではなく、彼女の傍が居心地がいいのだ。
……」
明日の朝、彼女はこの夜のことを覚えてはいまい。
俺のこの姿を見たら、相当に驚いて……多分、相当に余所余所しくなるに違いないだろう。
それでもいいと思った。
奇妙に始まった出逢いを、また最初からやり直せばいい。
俺はそう単純に考えていたのだが──



いつの間にか、のベッドに凭れるようにして眠ってしまっていたらしい。
昨夜閉めていなかったカーテンの向こうから、眩しい光が照りつけている。
「……?」
膝のずしりと重い感覚に目を落とせば、猫が伸びて俺の胸に手を置いていた。
激しく鳴いて、何かを訴えている。
「餌か」
俺に餌をねだる様子からすると、はまだ起きていないらしい。
昨夜あれだけ泣いたのだ、寝坊も仕方ないだろう。
「少し待っていろ」
立ち上がって何気なくベッドを振り返り、俺は目を見開いた。
そこはすっかり空になっていて……だが、確かにがいた。
いや、なのだが、彼女の姿は俺の掌ほどの大きさで──
……!?」
ざっと血の気が引いた。
もう起きていた彼女は、必死に何かを訴えている。
『なんなの!?』彼女の口はそう動いていた。

──入れ替わってしまった。俺と、の大きさが。

「……こんなことが……?」
俺の姿が戻ったと思ったら、今度はか。
降って湧いた大問題に激しい頭痛を覚え、俺は天を仰いだ。



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