ある日、我が家に異性が棲みついた。精緻なつくりのアンティークドールのように、とびきり上等なルックスの持ち主。
彼が来てからというもの、私の毎日はとても刺激的になった。それはもう何て言うか……心安らぐ暇も、ゆっくり昼寝をする暇もないほどに。
まさかそのせいではないと思うけれど、私は夏風邪を引いてしまった。
昨夜から喉に違和感があったのを深く気にせず、居候の彼の熱心な読書に付き合っていたら、ついついとっぷり夜は更けて……今、喉は違和感で済ませないくらい痛くなっている。
「うぅ」
起き上がってみようとしたもののやっぱりくらくらと眩暈がして、私はまたベッドに倒れ込んだ。
「ばーじる……」
喉に絡まる弱々しい声で彼の名前を呼ぶ。
現在手元の体温計は、38度なんて滅多に見ることができない数字を叩き出している。わあすごいと思ったが、そんな感心している場合ではない。
「ばーじるー、どこー……」
もう一度声を絞ると、テーブルの陰から顔が覗いた。私と違って優等生を地でいく彼は、とっくに起きていたらしい。
朝の優雅な読書の時間を邪魔してしまったのだろう、不機嫌な顔はそんなときによく見せる表情。
だけど今こっちは猫の手も借りたい状況だから、許して欲しい。ひょっとしたら彼は、猫の手くらい役に立たないかもしれないけれど。
なぜならバージルは──身の丈、私のてのひら程の大きさしかないからだ。



てのひらバージル

看病編




呼びつけると、バージルはゆったりもったいぶるような動作で傍にやってきた。
むっつり唇を曲げてひと睨みするも、どうやら私の様子がいつもと違うことに気付いたらしい。彼はすぐに表情をやわらげた。
「風邪引いたみたい」
寝坊の理由を告げると、バージルはちらりと時計を見た。仕事の時間を気にしたのだろう。
彼はこびとなのに、人間の生活リズムをよく理解している。
「会社には休むって連絡入れる」
私はバージルに向けて手を差し出した。意図が伝わらなかったらしく、彼はそっと首を傾げた。
「携帯持って来て。不携帯なの」
いつもなら枕元に置いておく携帯が、こういうときに限って出張中なのだ。
おつかいを頼まれたバージルは肩で溜め息をついて、けれど私が指差した通りテーブルに上がって携帯に辿り着いた。
そういえば、携帯電話は彼にしてみれば少々重い。
(どうするのかな)
固唾を飲んで見守る。バージルはストラップを担ぐようにして、ずるずると携帯を引きずって運び始めた。
(あああ)
あまり丁寧な作業とは言えないが、今は文句も言えない。
「ありがとう」
お礼を言って、電話を受け取る。
「はぁ……」
欠勤の連絡を入れるのはいつだって気が進まないけれど、無断欠勤なんてなおさら出来ない。
「もしもし。です……」
もう少しコール音が続いてもよかったのに、すぐに通話が始まった。
電話に出てくれたのが仲の良い先輩だったことに安堵し、今日は休ませて下さいとお願いする。一人暮らしの私を気遣って、先輩は『大丈夫か』と心配してくれた。
「はい。大丈夫です。……はい、一人ですけど、……あ」
厳密には一人じゃない。
バージルはじぃっとこちらのやり取りに聴き耳を立てている。
(いつもは気配ゼロのくせに、こういうときは自己主張強いんだから)
「いえ。看病してくれる人はいます。一応、ですけど」
ね?と横目で見ると、バージルは『仕方ないな』と頷いた。



連絡という気の重い作業が終わると、それだけでかなりホッとした。
あとはじっくり静養するだけ。
「うーん、だるい……」
ぼんやり天井を見上げると、何だか遠近感がおかしい。熱特有の状態だ。
「困ったなぁ」
頭は回らないけれど、視界はぐるぐる。
不意に、携帯を持ってきてくれてからは隣でじっとしていたバージルが身動きした。
「ん?」
枕に腰掛け体をひねり、手を私とそれから自分のおでこにぴたりと当てる。一応、熱を比べてくれているらしい。
「嬉しいけど、こびとの体温て高そ……痛っ!」
照れ隠しのつもりが、彼には通じなかった。
寸暇なくびしばしと飛ばされたこびとの反撃技、青色のつまようじがちくちく頬を刺す。
「もっと気を遣ってよー」
バージルはふんと顔を背け、そのまま枕を下りてしまった。
「あ……ちょっと」
てくてく離れていくちいさな背中──彼は今日はベージュのマオカラーシャツを着ている。どの服もコスプレみたいになってしまうのは仕方ない、人形用の衣装はどれもそんな感じなんだから──を恨めしげに見送る。
バージルの姿はあっさりと見えなくなった。
「看病してくれるって言ったくせに」
こほっと咳込んでも寝室にひとり。
ちっちっちっちっと時計の秒針の立てる音が、余計に部屋の静けさを強調する。
相変わらず気持ち悪く歪む壁。じんわりと熱い目蓋。
……何だかとんでもなく不安になってきた。
喉はいがいがだし、関節もあちこち痛い。
もしも熱が下がらなかったら……
(私、このまま独りで、)
ぺりぺり
「……?」
耳元で変な音がした。ぺりぺり。
ペットの猫はケージの中のはず。あと、物音を立てる存在は。
「バージル……?」
一瞬だけ視界が暗くなって、それから額がすーっとひんやりした。詰まった鼻にも、かすかにミントのような香りが届く。
「これ……」
触れてみると、ぷにぷにのジェルシートがおでこに乗っていた。
バージルは私を見捨てたわけではなくて、ひやっピタシートを取りに行って来てくれていたのだった。
確かにこれなら氷水を用意したりタオルを絞ったりの人間向け作業がない分、バージルも楽々だ。
冷え冷えのシートはとても気持ちいい。
「バージル……ありがと」
せっかく礼をしたのに、肝心のバージルはこちらに背を向けている。
人の頭の横でいらいら動いて何をしているのかと思えば、粘着質なシートにくっついてしまった手をむにむに剥がすのに苦戦している真っ最中。
こびとにも楽な作業と思ったけれど、彼にしてみれば布団サイズのシートを貼るのはやっぱりなかなか大変らしい。
(……可愛いやつ)
シャツの裾を引っ張って手伝ってあげる。
シートとバージルが分離してから、改めて私はしっかり彼に目を合わせた。
「ありがとう、バージル」
礼をした私に、バージルはぺたぺたになった手を組んで『これくらい何でもない』というような表情を見せた。
それから、すとんと私の肩の辺りに腰を下ろす。
どうやらこのまま隣にいてくれるようだ。
こびとに出来ることなんて、たかが知れている。いざというとき救急車を呼べるわけでもなく、車で病院に連れて行けるわけでもない。なのに、すごく安心した。
私は文字通り熱のこもった眼差しで、じっとバージルの背中を見つめた。彼は微動だにしない。
「暇でしょ?」
バージルはちらりとこちらを振り返った。
私は枕元の文庫本を開く。
「これ、読んだかもしれないけど」
差し出された本に、バージルはいつもの『開いたページにペーパーウェイトを置いて本が閉じないようにする』読書スタイルを取った。そのまま本を読み始める。
バージルとは会話もないし、寝室にひとりぼっちのようなもの。
静寂に、時計の秒針の音。そして、ときどき本のページが捲られる音。
ただひとつ音が加わっただけで、私はいつの間にか眠りに誘われていった。



一眠りした後は、ちょっとだけ体が楽になっていた。
「うーん……」
横のバージルはちらりとこちらを見たものの、また本に視線を戻した。ページはそんなに進んでいない。あまり長く寝ていなかったのだろう。
そういえば。
私もバージルも朝から何も食べていないことを思い出した。
「バージル、お腹空いた?」
訊くとバージルはちょっとだけ視線を揺らした。私がこんな状態なだけに、きっぱり『空腹だ!』とも言えないのだと思う。
長いことご飯を作ってあげられなかったら、彼はどうなるのだろう。
今まで一緒に食事していたから、お腹が空くという感覚は人間と同じようだし、そうなると……
「……こびとって、餓死するの?」
びしゅんびしゅん
お約束、青いつまようじが額に飛んで来た。こっちは弱っている病人だっていうのに本当に容赦ない。
「ごめんってば!ちょっと聞いてみただけでしょ」
まだまだこびとの生態は分からない。
「手のかかるキミを一人残して、死ねないよね」
『手のかかる』を強調したら、バージルは青つまようじを飛ばし……ではなく、ほっぺたを叩いてきた。ぺちんと軽い音をさせて、そしてそのまま、ちいさなてのひらは乗せられたまま。
どうやらさっきのセリフはぎりぎりセーフだったようだ。
私の体温をすこしずつ奪うようなバージルのひやりとした手は、くすぐったくも心地よい。
目を閉じてなごんでいたら、いいことを思い出した。
「そうだ。テーブルにりんごがあるんだ。あれ、転がしてきて?」
りんごならビタミン豊富で、まさに風邪によく効いてくれそうだ。
しかも果物。面倒な調理なんて何もいらない。
バージルも同じことを考えたらしく、すぐに行動に移す。
転がせる所はごろごろ、段差はカーペットやクッション目がけて慎重にごとんと落とし、りんごは無事に私の手元へ届けられた。
「フルーツナイフも引きずって来てくれる?」
ナイフの所望に、バージルはちょっと考える素振りをした。
「怪我しないように気をつけて。あ、やっぱり大きい刃物は怖い?」
バージルはふるふると首を振った。びしっと戸棚を指差す。
「なに?」
食器棚に入っているもの……
「フォーク?フルーツピック?」
どれも違う、とバージルは眉を寄せる。
「ピーラー?」
業を煮やした彼は、ジェスチャーゲームをすることに決めたらしい。
左の腰に右手の拳を当て、何やら構えるような仕草を見せた。その手を肘から前方にまっすぐ伸ばす。両拳を重ねて頭の上から斜めに振り下ろし──
「わかった!刀だ!」
バージルはそうだと嬉しそうに目を細めた。
「ああ、あれかぁ」
彼がうちに来た初日に、私が取り上げたちっちゃい刀。
「確かにあれならキミでも扱えるだろうけど……あれって、玩具じゃないの?」
だんっ!とバージルが地団駄を踏んだ。その剣幕といったら。刀はちゃんと斬れるものらしい。
「りんご以外は斬らない?乱暴なことに使わない?」
意外と気性の荒いこのこびと、刀を持たせて大丈夫かと念を押す。
バージルは真面目な顔をして頷いた。
「じゃあ、いいよ」
身長よりも長いフルーツナイフより、使い慣れた刀の方が安全だろう。いや、本当に使い慣れていたら恐いけど。
バージルはするすると戸棚を伝い、引き出しを全力で引っ張った。
中からお目当ての物を取り出すと、ホッと表情をゆるめた。バージルのあんな安堵した顔は初めて見る。……あれはこびとにとって、凄く大事なものだったのかもしれない。
それに、自分で引き出しを開けて刀を取り出すことくらい、やろうと思えば今みたいに自力でできたのだ。
でも、バージルは勝手にそんなことをしなかった。ちゃんと私の許可を取ったのだ。なかなか偉い。
(……悪いことしたかなぁ)
まあでも初日は彼のことも何も分からなかったのだから、仕方ない。
今後は場合によっては帯刀許可を出してもいいかもしれない。
バージルは慣れた仕草で、刀を鞘から抜いた。
清潔な彼らしく、しっかり手と刀を水洗いする。
それが済むと、一人前にきりりと構えてお皿の上の果実に向き直った。
「ジャパニーズサムライ!」
冷やかす私には一瞥もくれず、りんごをスパッと二分する。
「わ、見事に一刀両断」
半分になったそれをもう一回切って、四等分。更に半分。
ひときれずつ、右と左から切れ込みを入れ、芯までちゃんと取ってくれている。
どの作業もスムーズで、お皿の上からりんごがはみ出したり落ちたりすることもない。
「器用だね」
しかもそこで終わりかと思いきや、皮まで剥こうとしている。
(……もしかして)
私の中に子供っぽいアイディアがむくりと浮かんだ。
頼んだら、あれをやってくれるかもしれない。
「バージル」
りんごを皮の面にひっくり返したところで、バージルは顔を上げた。
出来るだけ弱々しい声で告げる。
「うさぎさん、作って」
予想外のお願いだったに違いない──バージルはこちんと動きを止めた。
「うさぎさんだよ。皮を、こう、ひょこんと」
説明すると、『それは知っている』とばかりに眉を寄せる。
「いいでしょ?私は高熱で寝込んでるんだし」
こほこほと咳をしてみせると、バージルは迷うように刀とりんごを見た。あとひと押し。
「お願い、バージル……」
ついにバージルは、はあと溜め息をついた。
刀で皮を削ぎ、山形に切れ込みを入れ……
「ありがとう!」
私の手元に、バージル作・可愛いりんごのうさぎがたくさん届いた。
「可愛くて、食べるのもったいないね」
せっかくじーんとしていたのに、バージルはどすっとピックを刺してしまった。
(照れてる照れてる)
あまりにからかいすぎても青ピックがりんごではなく私に刺さるので、仕方なくひとつ口にした。
みずみずしい。
旬には早いと思ったけれど、意外と蜜もあるし、ちゃんと甘い。
「おいしいよ。バージルもどうぞ」
ピックで細かく切ってあげると、バージルもしゃくしゃく食べ始めた。
「たまにはこんなのもいいね」
同意してくれると思ったのに、彼はむっつり首を振って刀を指差した。果汁でべたべたの業物。
「わかったよ、早く治してご飯作るよ」
それでいい、とバージルは偉そうに頷いた。



りんごを全部食べて、風邪薬も飲んで。人心地ついたところで、私はもう少し眠ることにした。
さっきと同じように、バージルに本を開いてあげて、それから毛布をかぶる。
「おやすみ。バージルもあんまり夜更かししないでね」
一応注意すると、彼は了解とばかりに左手をちょこんと上げた。本から目を離しもしない。たぶんまた夜更かししちゃうんだろう。
(こびとって言うより、本の虫)
耳元に届く紙の音の回数を数えているうち、私はおだやかに眠りについた。





……の様子は、大分良くなったように思う。
彼女が眠りについてから何度か熱冷ましのシートを交換し、その都度体温を自分と比較してみるが、徐々に近づいて来ている気はする。
「この姿の体温が当てになるかは分からないがな……」
には怒ってみせたが、確かに体温は高いような気もする。自嘲して、何をするにも不便な小さな手を見る。
(小動物か?)
思いついてから、そんな自分にぐったりと嫌悪してしまった。
早く何とかしたいものだが──
「うぅ……ん」
が寝返りを打った。
肩から外れた毛布を何とか引きずって直してやる。
こんな動作すら一筋縄ではいかないのだから面倒なものだ。
首を最大限に反らして壁の時計を見上げれば、もう5時だ。夜明けも近い。
俺の手の届く範囲にあった救急箱のシートは使い切ってしまったし、後はすること(出来ること)がない。
更に、寝ていないからか足元が若干覚束ない。
「……仮眠するか」
二、三時間すればも起きるだろう。
俺は人形用ベッド(枠やらシーツやらがピンク色で気に入らないのだが、は「これしか売ってなかったの!」と取り替えてくれない。彼女は絶対に面白がっている)に潜りこんだ。
看病で意外に疲弊していたのか、眠りはすぐにやってきた。





たっぷり眠った翌朝。
「……バージル?」
欠伸をしながら横を見る。
バージル用のリサちゃん人形ベッドは、真ん中がまだ膨らんでいた。
彼が私より遅く起きるなんて珍しい。
「よいしょ」
ゆっくりと起き上がる。まだだるいけれど、一日ゆっくりしたおかげで、気分はもうだいぶ良くなっていた。
と、額のひやっピタシートが枕に落ちた。すっかりぬるくなったそれは、頑張って私の熱を抑えてくれていたらしい。
捨てようとゴミ箱を覗くとシートの箱がまるごと一箱、空になっていた。使用済みの分も丁寧に丸められて捨てられている。
きっとバージルが定期的に取り替えてくれていたのだろう。もしかしたら……夜通し。
そうっとリサちゃんベッドを上から覗くと、こほこほと咳き込む音と共にブランケットが不規則に震えた。
「バージル?起きてる?」
ぺろんと掛け布をめくると、予想通り……真っ赤な顔をしたバージルがいた。
「あーぁ、移っちゃったかぁ……」
苦笑すると、バージルはむすっと寝返りを打った。
「私もまだ全快じゃないし、当分ふたり風邪っ引きだね」
それならそれで、まあちょうどいいかもしれない。
くちっ、とバージルがくしゃみした。
「ごめんごめん」
慌ててブランケットを戻す。
それから、以前私がふざけて買ってあげたパーティー用ミンクのコートを掛けてあげた。
バージルは思いっ切り嫌そうな顔をしたが、ぬくぬくの快適さには負けたらしい。おとなしくコートに包まった。
「さてと」
新しいひやっピタシートをバスルームの戸棚から持って来て、一枚取り出す。
自分に貼る前に、端っこを小指の爪くらいの大きさに切り取る。もちろんこれはちいさいバージルの分。
「今日は私が看病してさしあげますよ、こびとの王子様」
バージルは反撃する気力もなく、毛布に潜ってしまった。
「ええと、次は」
朝ごはんの用意。
私もちょっとふらふらなので、またもりんご、それから冷蔵庫のヨーグルトを食べることにした。
もちろん昨日のお返し、りんごは当然うさぎさんカットで。
バージルは全然感動してくれないどころか、いらいらするに違いない。でも、彼は何だかんだで出されたものは残さない。
ある日突然うちにやってきたバージル。不思議な存在。
(こびとサイズでも、彼がいてくれて良かった)
熱のせいだけでなくほかほかした気持ちになっていると、背後でくしゅっとバージルがくしゃみした。



→ おひるね編へ








→ afterword

188888番をご報告して下さった、蘭さまに捧げます!

久しぶりのてのひらバージル!今回は看病がんばってもらいました。
普通サイズのバージルなら風邪なんて絶対移らない気がしますが、ちいさいバージルはやっぱり抵抗力も弱そうですよね(笑)
バージルの着てたマオカラーシャツは、私がハマっているゲームに出て来る衣装です(笑)バージルは嫌がるかもしれませんが、とっても可愛いんですよ〜!

それではリクエストして下さった蘭さま、ここまでお読み下さったお客様、どうもありがとうございました!!
2009.9.12