それは、単純にバージルの不注意だった。



M e l l o w F l o w



昨夜外したまま忘れて置いて来てしまったアミュレットを取りに入った、の部屋。
ベッドの横のサイドテーブルに置いたはずだったのだが、そこにアミュレットはなく、代わりに彼女の手書きのメモがあった。
『ジュエリーケースに入れておくね』
それが示す通り、ドレッサーの上の宝石箱の中、布に包まれて丁寧にアミュレットが収められていた。
心配りにバージルの頬が自然、緩む。
いつもよりも丁重に扱われてご機嫌そうなアミュレットを手に取って首に掛けようとした、まさにそのとき。
「!」
完全に、バージルの不注意だった。
シャラッと軽い音を立てて、アミュレットの鎖にの香水壜が引っ掛かる。
まずい、と手を伸ばしてそれを間一髪、掴む。
しかし。
別の一個が代わりに彼の袖に引っ掛かり……
ガチャン!
それを拾う動作は惜しくも間に合わず、香水壜は床に落ちてしまった。
大理石の硬さと落下の衝撃に耐えるわけもなく、粉々の壜。
すぐにふんわりと漂ってくる甘い香り。
「よりによって、これか……」
溜め息をつく。
銘柄などには疎いバージルが知る由もないが、とにかくが気に入っていて、ほとんど毎日のように身に纏っている香り。常に隣にあるその香りは、彼にとってなくてはならないものになっている。
それを駄目にしてしまった。
おそらくは怒らないだろう。
だが、当分彼女がこの香りを纏うことはなくなるわけで。
「……買って来るか」
幸い今日は用事もなく、読書でもして過ごそうかと考えていたところ。
今はが食材の買い出しに出掛けているから、自分で香水を特定して買って来なければ。
割れた壜を手早く集め、中から特徴的な欠片をひとつ、摘まみ上げる。
後は自分の足に掛かってしまった香りで、銘柄は特定できるだろう。
その場を片付け、バージルは直ぐさま街へ出掛けることにした。





高級百貨店、そのグラウンドレベル。
一人で入ることになるだろうなどとは夢にも思わなかったそのフロア。
化粧品の香りが充満している中、バージルの他に男など見当たらない。
バージルは居心地の悪さをひしひしと感じた。
正直、こんなところは早々に退散したい。
適当に目の合った店員を捕まえる。
「何かお探しですか?」
問うて来る店員に、バージルは香水壜の欠片を見せた。
「これと同じ香水が欲しい」
店員は、まじまじと欠片(とバージル)を見つめた。
「これは……どうぞこちらへ。ご案内致します」
誘導されて、別の売り場に移動する。
カウンターに居た店員が、もう一度欠片を確かめてくれた。
「ああ、間違いないですね。こちらの香水になります」
商品を取り出す。
見せられた壜は、確かに割ってしまう前と同じ形をしている。
「それを貰おう」
「プレゼントにしますか?」
「ああ」
毒を食らわば、という気分でバージルは頷いた。
綺麗に包んでもらえば、も喜ぶだろう。
手際良く箱を包んでいく店員を、バージルは手持ち無沙汰で待った。
ふと、店員が手を止めた。
「これ、素敵な香りですよね。実は私も今付けてるんですよ」
え?
思わず顔を上げる。
今の今まで気付かなかった。
が、言われて注意してみれば、確かに店員から同じような匂いがした。
だが……何かが違う。
の心地よい香りとは。
決定的な何かが。
バージルは何故だか不快な気持ちにもやもやし、眉を顰めた。
(早くの香りを確かめたい)
強く、そんなことを考えた。





百貨店から戻ると、先に戻っていたがすぐに出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ああ」
いつものように、がバージルのコートを受け取ろうと手を伸ばす。
と。
が鼻をひくひくさせた。
「バージル、あたしと同じ香りがする」
楽しそうに笑う。
バージルもつられるように苦笑いした。
「実はさっき、おまえの香水を割ってしまったんだ」
丁寧に包装された紙袋を手渡す。
「急に出掛けたと思ったら、わざわざ買って来てくれてたの?よかったのに……」
目を丸くして、袋をあらためる
出て来たのは、いかにも華奢なガラスがうつくしい四角形のボトルにゴールドの蓋の香水。
「それで間違いないか?」
一応、聞いてみる。
がふわりと微笑んだ。
「うん、これだよ。ありがとう、バージル」
「では……」
の手を塞ぐ紙袋と箱を取り上げる。
「早速、付けてくれないか」
一瞬きょとんとしただったが、すぐに頷いてくれた。
蓋をそっと外す。
一瞬ためらいを見せ、何故か彼女はくるりとバージルに背を向けた。
それからブラウスの裾を持ち上げ、覗いたしろい腰に右、左と軽く香水を纏う。
最後に髪を左手でかきあげ、晒されたうなじにもほんのすこしだけ。
──何なのだ、この一連の動作は。
バージルは息を飲み込んだ。
再び髪を下ろすと、はにかみながらもは彼に向き直る。
「これで完成です」
動けずにいる彼に、がにっこり笑顔でとどめを刺した。
──もう無理だ。
バージルは邪魔になった手の中の袋と箱を後ろへ放り投げた。
「バージル?……わっ」
一気に彼女を抱き寄せる。
がびくりと大きく震えた。
付けたてのトップノートがいつもよりも強く、バージルの脳天を刺激する。
これは反則だ。
理性が耐え切れるわけがない。
「んー!むー!んぅー!」
ばたばたと騒ぐを胸の中に閉じ込め、彼は寝室へ大股で歩き出した。





時刻は何時の間にやら、夕方になっていた。
日が高いうちに何度も抱かれてむくれていたも、ようやく機嫌を直しつつあった。
散々口づけたせいで、香りがだいぶ薄くなったうなじへまた唇を落とす。
「おまえの香りは特別だという事が分かった」
がくすぐったそうに肩を竦めた。
「バージルだっていい香りするよ」
ぎゅっと抱きつかれる。
嬉しくなってバージルは彼女を抱く腕に更に力を込めた。
「服に香りを付けてるの?」
間近に見上げられて、鼓動が逸る。
意識をしっかり保っておかないと、また無理をさせてしまいそうだ。
バージルは努めて真剣な顔を作った。
「ああ。直接肌に付けるのは好まないからな。スカーフに香水を付けてチェストに入れているから、服に香りが移るんだろう」
「ふうん。なんだかそれって、女の人みたい」
少し尖ったの唇。
「誰かに教えてもらったの?」
続けて、面白くなさそうに逸らされるの瞳。
それは嫉妬か?
思わず口走りそうになった言葉を堪える。
湧き上がった甘い感情を、バージルは唇で何とか噛み殺した。
「母がそうしていたのを真似しているんだ」
告げた途端、の瞳が意外そうに丸くなる。
「……バージルの、お母様が……」
「母も、お前のような甘い香りがしたな」
無論、もうくっきりとは思い出せない遠い記憶。
けれど、本質は同じ。
尖った心も丸くさせてしまう、甘いだけではない、あたたかい香り。
「バージルたち二人のお母様なら、とっても美人なんだろうなあ……」
「興味があるなら、今度写真を見せてやろう」
「ほんと!?見たい!ねえ、もしかして家族写真とか」
「但し、母の写真だけだ」
「バージルのケチ!」
「ほう。では、母の写真もなしにするか?」
「うう……」
拗ねるの頬を指で撫でる。
「昔話は苦手だが、少しなら話してやろう」
ぱっとの表情が元通りに輝いた。
そうしてしばし、ふたりでぼんやりと想い出に浸る。
何とも幸福な時間。
香りが齎してくれた、かけがえのないひととき。
幸福感で胸を満たしながら、ふと、彼はあることに気付く。
(先程から、香りが変わったな)
恐らく、それは。
彼女とバージルの香りが溶け合ったから。
「やはりこれが一番好みだな……」
呟きながら、彼はゆっくりと彼女のうなじに唇を落とした。







→ afterword

バージルは絶対にいい香りがしますよ!!!
この話のように香水はつけていなくても、色気という香気が立ち込め(以下略)

お読みいただきまして、ありがとうございました!

2008.7.14

追記)
ちょっと書き直しました。
ついでに香水も、大理石に落としてもいまいち割れそうになかったミスディオールから、すぐ割れそうなガブリエルに。
あと、付け方も、手首から腰&うなじに。この作品書いたときは手首の方が雰囲気が出ると思ってましたが、服を持ち上げて付けるのもなかなかいいと思います。男性目線で。もちろん、香水の正しい付け方的にも!
香水大好きなので、また香り絡みで何か書けたらいいなと思います。