わたしを揺らすのは
たったひとり
わたしのたいせつな
ドリームボート



dream boat




……つまらない。



はむすっと頬を膨らませる。
彼女の視線の先のバージルは、瞬きすら惜しんで読書に耽っている。
何やら、貴重な古代文明に関する書物を手に入れたのだと言う。
それはいい。
バージルの趣味は読書だし、埃の匂いさえするその古書の価値は、にだって何となく分かる。
だから、問題は。
(もう一週間も構ってくれてないよ)
普段は何かしらの愛情表現があるのに、ここのところバージルの興味は古書にだけ注がれて、は素通り状態だ。
依頼から戻っても、自室へ直行。
1日オフの今日の会話はと言えば、「バージル、お茶淹れたよ」「置いておいてくれ」……のみである。
確かにもともと四六時中べったり過ごすタイプではないし、会話も少ない方かもしれない。
それにしても、この状況ははっきり言って、すごく寂しい。
こんなときに限ってダンテも遠方へ依頼に出掛けているから、気を紛らわせることもできないでいる。
(……寝よう)
ふうとちいさく溜め息をつき、はバージルの部屋を出る。
「おやすみなさい」
に、応える声はなかった。

久しぶりに自室のベッドに潜り込む。
昨日まではバージルのベッドで寝ていたのだが、夜はが先に眠るし、朝起きればバージルはもう起きているしで、ベッドの上ですら擦れ違いだ。
冷たくなった隣のシーツを見て目覚めるくらいなら、最初から一人寝の方がまし。
「……バージルのばか」
は、シーツの中でぽつんと呟いた。





永遠に終わらないかと思われた親指の分厚さの本を、漸く読了した。
まだまだ完全に理解したとは言えないが、とにかく、必要な部分だけは頭に叩き込んだ。
バージルは一息ついて、ぱたんと本を閉じる。
窓を見れば、とっぷりと夜も深い。
専用のソファも、いつの間にか主を欠いて空になっている。
彼女が部屋を出て行く気配にも、おそらく掛けていってくれただろう言葉にも、全く気付かなかった。
……少々根を詰めすぎたか。
固くなった肩を軽く回しながら、寝室に戻る。
先に眠っているだろう恋人を起こさないように、静かにそっとドアを開け。
「……?」
バージルは僅かに首を傾げた。
ベッドはもぬけの殻。
いつも先に休んでいるはずの、がいない。
シャワーでも浴びているかと思ったが、それにしては時間が遅い。
(一人で寝ているのか?)
は何も言わないが、たまには一人で過ごしたいのかもしれない。
広いベッドに入ろうとし、バージルはいつもの癖でそうっとシーツを捲っている自分に苦笑する。
気遣うべき相手はいないのに。
「……。」
やはり、落ち着かない。
バージルはの部屋に行くことにした。





は、夢を見ていた。
はっきりした夢というよりは、夢の中で夢を見ているような感覚。
ふわふわと……いや、ゆらゆらと、まるで何かに揺れているような。
心地よいその感じ。
この感じを、確かに自分は知っている。
……そうだ。
バージルと、空の散歩をしたときの、あの……
「う」
突然、の意識が覚醒した。
バージルに対してぷんすか怒りながら眠りについたのに、結局見るのは彼の夢なのか。
(仕方ないけど)
どうせ明け方、起きてしまおうと身動きしようとして、それが出来ないことに気付く。
(え?)
狭いベッドには、持ち主のの他にもう一人。
いつの間に来たのやら、バージルが寝ていた。
眠りについたばかりなのか、その呼吸は深く、ちょっとやそっとでは起きそうにもない。
それなのにがっちりと、自分を後ろから抱き締めている。
いつもならそんなバージルに愛しさを感じたかもしれないが……今のは、少々腹を立てている。
(しかも)
バージルの左腕には、分厚い本がしっかり抱え込まれている。
(ここまで持ち込まなくても!)
何をそんな真剣に読んでいるというのか。
は半ば自棄になって、本を取り上げた。
恋敵のそのカバーを見やる。
予想通り、タイトルからして読めない。
むくれつつも更にページを眺めてみる。
書かれていることは分からない。
が。
(これ、月の満ち欠けの絵図?)
詳細な図案と、みっちり細かい文字で書き込まれた説明。
そして、その下には魔法陣や、難しい記号。
……ひらり
(あ、いけない)
何か紙を落としてしまった。
そうっと拾い上げ、それがバージルの手書きのメモであることに気付く。
(朔望と潮汐作用……?)
今度は月に興味を持ったのかとメモをしまおうとし、その手が止まる。
メモの裏は、カレンダーになっていた。
(満月)
文字とともに大きく丸が付けられたその日付は、明後日。
──そういうことか。
謎が一気に解けた。
は今さっきまでライバル心を抱いていた古書を、きゅっと抱き締める。
くるりとバージルに向き直り、その規則正しく動く胸に顔を埋めた。
次に見る夢は、さっきの夢よりもきっともっと甘く、幸せなはず……





やわらかな光が差し込んで来て、眩しくては目を覚ます。
隣にはもうバージルはいない。
けれど、さっき抱き締めていた本はそのまま。
むにゃむにゃと顔を上げると、窓に寄り掛かって読書しているバージルが見えた。
その手には、早速次の分厚い本。
今日は自室で引きこもりではなく、ここで過ごす予定らしい。
はそっと微笑む。
「次の満月は穏やかに過ごせそう?」
集中していたバージルが、ハッと身動きする。
はするりとベッドから抜け出すと、すっかり体温で温まった古書を差し出す。
「……そんなに気にしなくていいのに」
満月。
如何なる作用か、身体の半分を巡るバージルとダンテの中の悪魔の血が、滾る月齢。
その日の二人は朝からピリピリと一触即発の危険な雰囲気を纏っていて、慣れているにしても、そううかうかと気軽に話し掛けられないのだ。
夕方になれば双子のどちらかが必ず館から外出し、絶対に二人揃っていることはない。
がどうフォローしようと、異様な夜には違いない。
「気にするなという方が無理だな」
そっと目を伏せ、バージルはから本を受け取る。
この身に流れる血の内、半分は悪魔のもの。
悪魔の力を利用し身体の形態をも変化させ、戦っているとき──そのとき意識は、ヒトではない。
血を、もっと争いを、目に映るもの全てを破壊せよと残虐な心が暴れている。
悪魔に乗っ取られているような心理状態。
今のところ、ヒトの姿のときにそこまで感情を完全に暴走させてしまったことはないが……
近い状態なら、既に一度やらかしている。
この世で最も大切な存在を、いっそ壊してしまえと思う程に、凶暴な感情が湧いた。
それが、満月の夜だった。
あんな想いなど、もう二度と味わいたくない。
あんな恐怖など、もう二度と味わわせたくない。
だからバージルは、月を怖れる。
「バージル」
は、そっとバージルの左腕を抱き締めた。
「もしもバージルが満月の夜、変身して悪魔になっても、あたしは困らないよ」
「……そういう気休めは」
「本当に困らないもの」
近い距離で見つめ合う。
「……バージルは何が怖い?悪魔になること、じゃないでしょ」
「それは……」
「あたしを殺してしまうんじゃないかってことが怖いんでしょう?」
「……」
バージルが唇を噛んだ。
「だったら、大丈夫だから」
「どうしてそう言い切れる」
苛ついたように、バージルがの腕を解いた。
は真摯に、もう一度バージルの腕を取る。
彼の抱える怖れが共鳴してくるようだ。
は深く深呼吸した。
怖くない。
怖くなんてない。
「もしもあなたの中の悪魔があたしを殺そうとしても……絶対に、バージルはバージルだよ。踏み止まれるよ」
「……悪魔になってしまえば、そんな意識は残らない」
「じゃあ、次の満月に試してみればいい。バージルが『あ〜こんなに簡単なことだったのか〜』って納得するまで、試してみればいいよ」
「馬鹿な!」
「大丈夫。あたしがバージルはバージルだって思い出させてあげるから。大丈夫」
「……無理だ……」
「だいじょうぶだから……」
は背伸びして、バージルの首に抱きついた。
とん、とん、とん……
規則正しくその背中を優しく叩く。
今だけはバージルのお母さんになれたらいいなあ、と思いながら。





満月。
残酷なしろい光が、満遍なく世界に満ちる。
当然、三人が暮らす館の上にも、同じように。
たまたま入った依頼に出掛けたダンテの表情は、明らかにホッとしていた。
こんな夜は悪魔と戦っていた方が余程落ち着くのだ。
館に残ったバージルは、いつもよりも血の気のない顔をしている。
魔法陣も準備した。
いざというときの術に必要な媒体も揃えた。
下らないと思いつつも、ビロードのカーテンもしっかりと閉じた。
あとは……
……他に何が出来る?
「バージル」
呼ばれたバージルは、ゆっくりと振り返る。
彼にしてはやけに動きが散漫なのが、はっきりと見て取れる。
こうしている今もバージルは戦っているのだ──平時のように外の悪魔とではなく、内なる悪魔と。
「バージル」
もう一度、は彼を呼ぶ。
バージルをバージルたらしめる為に。
昨日自分が妙なことを言ってしまったせいか、前回の満月のときよりもバージルの心が乱れている。
それなのに。
「今日の夕食は油っこすぎたな。やけに胃にもたれる」
口元に笑みを作って強がる。
それが痛々しく、の胸を刺す。
……そしてやっぱり、こんなときは自分から動くしかないのだ。
「バージル。運動がてら、空のお散歩行こうよ」
カーテンを開く。
サッと差し込む、にとっては、清浄な月の光。
バージルは忌々しそうに顔を背ける。
「……明日まで待て」
ただでさえ軽い刺激で気が触れてしまいそうになっているのに、わざわざ月光に身を曝し、更に悪魔の翼で飛行するなど。
危険極まりない。
「いや」
は部屋の扉に歩み寄り、バージルが逃げられないように先回りする。
「あたしが望むなら連れて行ってくれるって言ったよね」
「……」
「たまーにしかしない、あたしのワガママは聞いてくれないの?」
戯けて両手を広げる。
いや、戯けてはいるが、視線は強い。
逃げるな、とバージルを射抜く意思。
悪魔に変身して心を乗っ取られるかもしれない男と、そうなったら空の上で命を落としかねない女と。
この場合、どちらがより無謀なのか。
──考えるまでもない。
命懸けの、とんでもない我儘。
でもそれは、他の誰でもない、自分のことを想ってくれての我儘。
観念したように、ふっとバージルの眼差しが緩んだ。
「『たまに』か?」
はにっこり笑って、バージルの手をぎゅっと握った。
あいている手で窓を開け放つ。
ふわりと夜気が漂ってくる。
ふたりの『散歩』は、ここから飛ぶのだ。
「どうなろうと知らないからな」
溜め息混じりに呟き、バージルがを抱き上げる。
音もなく広げられる翼。
「大丈夫だよ」
確かな体温に頬を寄せ、は瞳を閉じた。
「大丈夫……」





どくん。どくん。どくん。
響く心臓の音は、バージルのもの。
滑るように快適に空を飛ぶ感覚は、以前と全く同じ。
ただ、自分を支えるバージルの腕は強張っている。
「バージル……景色、ちゃんと見てる?」
足元を指差す。
ふたりのためだけの豪華なライトアップ。
以前見たときと同じうつくしさ。
いや、満月の光に彩られたそれは、更に得難いうつくしさだ。
「バージルは苦しくて、景色どころじゃないかもしれないけど」
蒼白なバージルを見上げる。
ややあってから、バージルは視線を合わせた。
それを待ってから、は言葉を切り出す。
「今見てる景色は、何もかも一緒……同じ世界を見てるんだよ」
「……そうだな」
バージルは眼下を見下ろす。
景色はちゃんと、うつくしい。
こうして腕にを抱き、翼を静かにはためかせていれば、月の引力からは気を散じることが出来る。
腕の中の存在のお陰で、魔の力をコントロール出来ている。
それも、負の方向ではなく、正の方向で。
(逃げる手段を、力を圧し殺す手段をばかり模索していたな……)
それは逆に、自ら罠に身を投じているようなもの。
一つの事に囚われすぎて他が見えなくなるのは、人の姿でいたとて同じか。
「わ、あの明かり何だろう?あんな建物あったかな?」
「あまりはしゃぐと、落ちるぞ」
身を乗り出したをきつく抱き締める。
悪魔と人間の狭間で揺らぎ、振り切れてしまいそうになる精神を結んでくれるひと。
満月を見上げる。
その光と対峙する。
(……大丈夫だ)
まだ心の奥はざわつくけれど。
が傍にいる限り、大丈夫だ)
バージルは、清廉な夜の空気を胸いっぱい吸い込んだ。





しん、と穏やかなままの部屋が終点。
とん、とを床に下ろす。
──何事もなく、戻れた。
ほうっとバージルは深呼吸する。
力の制御に神経を磨り減らし、消耗しきったお陰で、ひたすら眠い。
はともするとふらつきそうになるバージルをベッドに導き、彼のコートを預かる。
疲れを見せないの動作に、ブーツを脱ぐバージルの手が止まった。
、疲れなかったか?あんな状態で……」
「あんな状態?」
はぽとぽととミュールを脱ぐと、バージルよりも早くシーツに潜り込んだ。
バージルがゆるりと見返る。
「あんな……不安定な俺と、空を飛ぶなど……」
その声からは、いつもの覇気を感じられない。
「今夜も楽しかったよ」
は彼の身体を引き寄せた。
「バージルは、ね。あたしを甘く見すぎてるんだと思う」
言いながら、彼を毛布でばふっと押さえつける。
「何……?」
さして抵抗も出来ず、バージルは毛布にしっかり包まれた。
眠気でとろとろしたその青い瞳を、はじっと覗き込んだ。
「いくら悪魔になったバージルが相手でも、あたしがそうやすやすと殺されてあげると思ってる?」
の表情は、普段バージルが見せるような、自信たっぷりの眼差し。
祈るように思う。
今宵ばかりは、彼と自分の立場が逆になればいい。
「あたしはそんなに大人しくない、ってわかってるでしょう」
どこまでも強気な台詞。
ふ、とバージルは目をすがめた。
「ああ……そうだな……」
──同じ、だ。
があっさり命を奪われないように、俺だってそうやすやすと人間の心は明け渡さない。
俺が最後まで抗うように、も最期まで戦ってくれるだろう。
全く同じだ。
その均衡が崩れなければ、大丈夫だ。
何の根拠もないけれど、そう信じられる。
大丈夫。
頭にの声が凛と響く。
大丈夫。
この力は、を傷付けるためのものではなく、護るための力。
こころから安堵し、バージルは眠りに落ちる……
「おやすみなさい」
バージルにしっかりと毛布を掛け、はそっとベッドを抜け出す。
窓際に立てば、満月を追い立てるような太陽が見える。
明けは近い。
淡い空の色の奥、耳に馴染んだバイクが帰って来る排気音もする。
もう大丈夫。
ちいさく微笑んで、は再びベッドに潜った。
規則正しく上下しているバージルの胸に、頬をぴたりとくっつける。
いちばん安心できる場所の中、は瞼を閉じる。
「おやすみなさい……」
一緒にいい夢を見られますよう。







→ afterword

『dream boat』=理想の人。
この単語の意味も響きも大好きで、一時はサイトのタイトルにしようか悩んでいたくらいでした。
なので、今回のお話は思い入れもたっぷりです。
ときどき無性に、つよいヒロインとよわいバージルを書きたくなってしまいます。
甘えたい、甘えてもらいたい…どっちも大好きです!

ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました!
2008.10.21