きゃあぁぁぁっ
夜を引き裂く、女の悲鳴。
無惨な骸が横たわる──と思いきや、銀の一閃が女を救った。
「あ……」
間一髪、命拾いをした女はガクガクと震えながら、自分を助けた者を見上げる。
漆黒に溶け込む青の衣服と、闇を跳ね返す銀の髪。
それは見慣れぬ形の剣を下げた男。
「貴方は……」
女が立ち上がろうと足元を確かめた、その刹那。
「え?」
一掬い程の砂がさぁっと舞い上がる。
その中に、既に男の姿はなかった。




Peach and Green




りーん。
玄関に取り付けられたベルが、か弱く中の住人を呼ぶ。
「ダンテ、出てくれるー?」
夕食の後片付けで手が放せないが、リビングに声を掛けた。
「おー」
あまり気乗りしないながらも、ダンテは玄関に向かう。
「どちらさん?」
扉を開け、……ダンテは瞠目した。
「夜分にすみません……」
現れたのは、女。
透けるような白い肌が金髪という額縁で飾られた、とびきりの美人。
お得意の口笛を吹くのも忘れ、ダンテは彼女に見惚れた。
「あ、あの」
まじまじと見つめられ、美女が恥じらう。
「あっ、あぁ。悪い。用件は?」
ダンテにしては珍しく、滑舌が悪くなっている。
我ながらダセェなと思いつつも、やはり彼女から目が離せない。
自分を同じように見つめ返してくる、けぶるように淑やかに輝くスモーキーな瞳。
美女がふわりと笑んだ。
「一週間ほど前、貴方に助けて頂いた者です。覚えていらっしゃいませんか……?」
「えーと……」
ダンテは顎に手を当てて考える。
こんな美女を助けたら、まず忘れない。
「そりゃーお嬢さんの勘違いかな……」
「え?でも、確かに……」
女は首を傾げて訝しむ。
探ってくるような目線を受け、ダンテはぽりぽりと頬を掻いた。
恐らく彼女が探しているのは、バージルだろう。
「ま、とりあえず中に入ってくれよ」
久しぶりにまた、ややこしいことになりそうだった。



客をリビングへ通すと、ちょうどキッチンからが戻って来た。
ダンテの横の人物に目を留め、挨拶する。
「こんばんは。ダンテ、依頼のお客様?」
「……それはまだ……」
「?」
妙に歯切れの悪いダンテ。
その彼と自分とに、おどおどと視線を送る美女。
はとりあえず微笑んだ。
「えっと、こちらに座って下さい。お茶淹れてきますね」
不安そうな女に優しく声を掛け、いそいそとキッチンへ向かった。



がキッチンで紅茶を準備していると、二階からバージルが降りて来た。
キッチンにがいるのに、リビングからは何やらダンテの話し声がする。
「客人か?」
居間に顔だけ向けて、に訊ねる。
「そうなの。でも、依頼人なのかはまだよく分からなくて」
カップ4つをトレイに乗せ、はリビングへ戻る。
手の塞がった彼女の代わりにドアを開け、バージルも連れ添って入室した。
すると。

「……貴方は!」

ソファから、客が立ち上がった。
バージル目掛けて小走りに近付く。
「あのときは……どうもありがとうございました!」
抱き着かれそうになったところを危うくいなし、バージルは僅かに首を傾げた。
「あの時、とは……」
何のことだ?
「バージル、いつ浮気したんだよ?」
事件の匂いを感じ取り、更に自分には関係なさそうだと分かったダンテは、悠々と足を組む。
思ってもみなかった一言に、が薄く眉を寄せた。
「馬鹿な事を言うな」
バージルはぴしゃりと言い捨てると、の手前、必要以上に迷惑そうに女を見下ろした。
急に温度を下げた目線に、女は少し怯えつつも引き下がりはしなかった。
「覚えてらっしゃいませんか?あの夜……化け物から助けて頂きました」
「……」
バージルは何とか記憶を引っ張り出そうと、ここ最近外出したときのことを思い浮かべる。
そのうち帯刀していたのは、二回ほど。
それも夜となると──
「……あぁ」
確かに、人を助けたような気はする。
あの夜はと外食しようと約束していたため、依頼も超特急で終わらせたのだった。
とにかく早く帰らなければという思いで頭がいっぱいだったから、その日のことならもう覚えているはずもない。
「思い出して頂けたんですね!」
紗がかかった回想を必死に手繰るバージルとは裏腹に、またも抱き着きそうな勢いで女は喜ぶ。
「嬉しい……」
しかも感極まったらしく、ぐすぐすと泣き始める。
困り果てたバージルに、が助け船を出した。
「あの、それであなたは、彼にわざわざお礼を言いに来てくれたんですか?」
涙を拭きながら、女は顔を上げた。
「ええ、それから……」
女はきらきらと宝石のような瞳でバージルを見上げる。
「お仕事のお願いに……」



女はユリアと名乗った。
住まいはここからは少し離れた、郊外の丘にあるという。
場所を告げられてダンテが「ああ、あの屋敷か!」と分かった辺り、結構有名らしい。
その屋敷の広さと景観の話で脱線しかけたダンテとに、バージルは視線で注意を促した。
紅茶で喉を潤し、ユリアは再び語り始める。
「……静かで落ち着いたところなのですけれど、なにぶん周りが森なものですから、以前から野犬や狼といった動物はしょっちゅう庭まで入り込んできては荒らしていくのです」
ユリアはとつとつと続ける。
「それがここ最近夜になると、犬とも狼とも呼べない化け物がたびたび現れるようになって……。あまりの恐ろしさに、使用人が次々辞めてしまって困っているのです」
「じゃあ、その化け物を倒せば大団円!てわけか」
簡単じゃねぇか、とダンテは紅茶を啜る。
「行けよ、バージル」
「は?」
急に話を振られたバージルが、ぎろりとダンテを睨む。
「何故そうなる?」
「だってよ……」
ダンテはユリアの方にちらりと視線を投げた。
バージルがゆるりと向き直れば──
「あの。バージル様に来て頂きたいのですが……」
熱のこもった眼差し。
こんな潤んだ水晶のような瞳で懇願されたら、無下に断れる男は百人に一人いるかいないかだろう。
──が、ユリアにとっては不幸なことに、バージルはその百人に一人の男だった。
「悪いが、断る」
「はぁ?!」
ダンテがぎょっと目を剥いた。
「何でだよ?」
「報酬額がご不満なら、言い値をご用意しますから……」
ユリアも何とかしようと食い下がる。
だが、バージルはむっつりと横を向いたまま。
しーんと流れ出した沈黙。
打破すべく最初に身動きしたのはだった。
「……ねえ」
バージルの膝に手を乗せる。
「もしもあたしに気を使ってるなら、そんなことしなくて平気だよ」
「何を」
分からないと瞳をすがめるバージルに、はひとつ頷く。
「いつもなら、ここまで頼まれたら引き受けてる依頼でしょ?」
「まあ、な……」
「だったら、断る理由なんてないじゃない。それともユリアさんのそばにいたら、浮気が本気になりそう?」
!」
心外だと気色ばんだバージルに、は笑顔を返した。
「でしょ?だから行ってきて」
不満そうなバージルから目を逸らし、おどおどと成り行きを見守っているユリアに頷いてみせる。
「バージルが依頼を受けます。すぐに夜も安心して眠れるようになりますよ」



ユリアをタクシーで送り出すと、館にはいつも通り三人が残った。
……ただし、館の空気はひどく重い。
が使ったカップとソーサーを洗っていると、ダンテがつつつっと歩み寄って来た。

「なあに」
「……いいのか?」
「だから、何がよ?」
かちゃ、と皿が甲高い音を立てる。
「だからさ……バージル、一週間はユリアの屋敷に泊まることになったんだぜ?」
「あたしが交渉したんだから、分かってます」
「いいのかよ?オレがんなこと言うのも何だけどさ」
「……」
は手を止め、ダンテにしっかり向き直った。
「ユリアさんとバージルの出会いを聞いて、ダンテ、何か思わなかった?」
ダンテは上を見上げ、一瞬おいて口を開く。

「「Deja vu」」

も声を重ねた。
ダンテが後を続ける。
とバージルのときに似てる」
「でしょ?」
自分とバージルの出逢いも、やはりがバージルに命を救ってもらったのだった。
「だから他人事のような気がしない、ってか?」
ダンテは呆れて肩を竦めた。
「そのシナリオだと、バージルとユリアがくっついちまうぞ?」
「まさか」
はダンテの真似をして肩を竦めてみせる。
「信じてるから大丈夫」
そう言うと、すたすたとキッチンを出て行った。
ダンテは一人ぽつんと取り残される。
「……信じてる、か……」
それは言うほど簡単なことではない。
「一週間、長くなりそうだ……」



こんこん。
はバージルの部屋の扉をノックする。
中の人物はさっきから無口になっていたので、ご機嫌斜めに違いない。
「バージル。入るよ」
バージルはの方も向かず、机に向かって荷物をまとめていた。
ユリアの邸宅に出発するのは明日なのだ。
「バージル」
「何だ」
返ってくるのは硬い声。
はバージルの背中にそっと抱き着いた。
「今回のこと、勝手に決めてごめんね?」
バージルが大きく息をついた。
回したの手に触れる。
「おまえの考えは大体分かる」
「ほんとに?」
の手をほどくと、振り返って彼女の頬に掌を当てる。
「彼女に自分を重ねたんだろう?」
「……うん」
は素直に認めた。
バージルに惹かれて彼を追って来たユリアの気持ちは、痛いくらいに分かってしまう。
──どうしても、自分を重ねてしまう。
しゅんと俯いたの額に、バージルは口づけを落とした。
不意にその唇が楽しげに笑う。
「おまえの考えの通りだと、オレはユリアと結ばれることになるが?」
「もう!ダンテと同じこと言わないで!」
彼の胸を拳でどんと叩く。
「そんなことにはならないって、信じてるから」
「だから依頼を受けろと?」
「……うん。彼女のこと、なんだか放っておけないから。……お願い、バージル」
真摯に見上げられ、バージルはやれやれと目を逸らす。
が我儘を言った後、必ず見せる表情。
諦めと、彼女に振り回されているのに、何故か甘さが滲む口元。
「おまえのその目には抗えないな」
「ありがとう、バージル」
はもう一度、しっかりとバージルに抱き着いた。





翌日。ごく平静を装って、バージルはユリアの屋敷へ出立した。
この胸に沸々と煮え立つ思いを、きっとは正しく理解していない。
出掛けにダンテが『バージル、浮気すんなよ?』とからかってきたが、バージルにしてみればそんなことは心外も心外だ。
彼が不機嫌な、真の理由。
それはがダンテと今日から一週間、館に二人きりだということ。
今こうして自分が悶々と車のハンドルを握っている間も、二人は和やかに朝食後のコーヒーでも楽しんでいるのだろう。
があの笑顔でコーヒーを継ぎ足す相手は自分ではなく、ダンテ。
──腹が立つ。
ぎり、と胃の底がねじ切れそうになるほど痛んだ。
車に八つ当たりするようにグッとアクセルを踏めば、タイヤが悲鳴を上げる。
黄信号から赤信号に変わる寸前を堂々とすっ飛ばし、道を急ぐ。
「覚悟しておけ……」
まだ見ぬ今回のターゲットの化け物に、バージルは滾るような殺意を送った。



ユリアの屋敷は、まさに豪邸という形容が相応しい建物だった。
前庭には歴史を感じさせる苔むす噴水が優雅に配置され、美景を楽しめる小路にはさりげなくりんごの木が陰を落とし……しかしバージルの目には、この美しい景色は何も映っていなかった。
気忙しく呼び鈴の紐を引く。
いらいらと腕を組み、待つ時間がひたすら長く感じる。
やがて静かにモンテカルロ風の瀟酒な扉が開かれ、穏やかそうな老夫が現れた。
「これは……お嬢様より伺っております。バージル様、ようこそいらっしゃいました」
大きく扉を開き、バージルを招く。
軽く頷いて屋敷に足を踏み入れた彼は、左右ずらりと並んだ使用人達に出迎えられた。
「バージル様!」
使用人の奥から着飾ったユリアが顔を綻ばせて、ドレスの裾を絡げながら駆け寄って来る。
「バージル様」
頬を染めて見上げて来たユリアを、バージルは無感動で見返す。
「まずは屋敷の外を見回って来る」
「あ、待ってくださいませ!」
着いた早々に仕事を始めようとするバージルを、ユリアは慌てて押し留めた。
「長旅の運転でお疲れでしょうし、これから使って頂くお部屋にご案内します。さ、リチャード」
ユリアの手招きに、バージルを最初に出迎えた初老の男が進み出る。
身なりなどからして、第一執事といったあたりか。
「はい、お嬢様。バージル様、どうぞこちらへ」
リチャードは柔和な姿勢で先へ立つ。
だだっ広い玄関ホール正面の階段を上がれば、ここの家の代々当主が描かれたものだろう肖像画がずらりと掛けられた豪華な踊り場。
更にいくつもの重厚な扉を抜け、廊下を折り返し、ようやく客間に辿り着く。
「この部屋は窓からの眺めもよいからと、お嬢様がお選びになったのでございますよ」
たっぷりとドレープが取られたカーテンを開ければ、この丘のふもとの街が一望できた。
確かに景観はいい。
だが、バージルは大きく溜め息をついて執事を振り返った。
「俺は観光に来たのではない。ここではなく、もっと裏の森に近い部屋はないのか?」
「は、しかし、その部屋は日当たりも風通しも悪く……」
「そこでいい」
言うなり、今置いたばかりの荷物をすぐにまた持ち直す。
「案内してくれ」
1ミリも妥協の余地がなさそうな『お嬢様お気に入りの客人』に、リチャードはこっそりと肩を落とした。



用があれば何なりとお申し付け下さい、とお決まりのセリフで側に控えて来た使用人を手振りだけで追い払い、バージルは部屋を見渡す。
確かに、先程の部屋よりは環境や設えなど劣るものの、それにしても充分すぎるほど贅沢な部屋だ。
バスルームも付いているし、何より急に使うことになった部屋なのにしっかりと掃除も行き届いている。
(ユリアは使用人が続けて辞めて人手が足りなくなっている、と言ったが)
どう見ても特に困っている様子もない。
ユリアが極端な世間知らずなだけなのか。
窓から外を窺えば、鬱蒼とした森が遠く見える。
が、まだ午後も浅いとあってか、特に異状に感じるところはない。
悪魔、それも下級のモノになればなるほど、夜に行動することを好む。
(……。)
バージルは音もなく閻魔刀を佩く。
ただボーッと無為に過ごすなど、真っ平御免だ。
ユリアが怯えるように本当に化け物がいるならいるで、その巣穴をこちらから攻撃してやれば済む話。
少しでも早く館に帰り──に出迎えてもらいたい。
使用人がぞろぞろと通る廊下から出ることはせず、バージルは二階の窓からするりと外へ飛び降りた。



バージルが森の探索に出掛けて、二時間程が経過した頃。
こんこん。
「バージル様。午後のお紅茶はいかがですか?」
ユリアが扉の前に立つ。
何故この陰気な部屋に通してしまったのかと執事を責めてはみたが、バージルがどうしてもと言うのであれば仕方ない。
「バージル様?……お休みですか?」
いくら待ってみても、応えがない。
試しに小さくノブを動かせば鍵もかかっておらず、ドアは簡単に奥へ開いた。
勝手に客人の部屋に入るなど無礼だと迷ったが、結局ユリアはそのままドアを大きく開く。
「……失礼します」
ゆっくりと室内へ入ってみる。
けれど、彼女が探す相手は部屋にはいなかった。
「……バージル様?」
やはり、いない。
ユリアは首を傾げた。
外のメイド達は、確かに彼の姿を見ていないとはっきり言っていたのに。
「おかしいわね……」



何度も部屋と廊下を行き来し、ようやくユリアが引き揚げていったところで、バージルは窓から客間に戻った。
どうして窓から出たのだなど聞かれたら面倒なので、ずっと外壁に身を隠していたのだった。
結局、ひと振りも使われなかった愛刀を下ろす。
森は軽く探索した程度ではあったが、巣穴もなければ周囲に怪しい気配もしなかった。
もしもこれがユリアの詭弁で、化け物など存在もせず、ただ彼女の気紛れで呼び出されただけだったとしたら……
──相手がダンテなら、三枚に下ろしているところだ。
しかしユリアはただの人間の女。
「面倒なことになった……」
バージルは不機嫌に腕を組んだ。



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