──逃げなさい

吹き荒ぶ風、それに引きちぎられるように絶え絶えに届くあえかな悲鳴。

──逃げなさい!

……何から?
彼は周囲を見回す。
手で掬えそうな程に濃く、ねっとりと張り付いてくる闇以外に見えるものは何もないのに。
大体、逃げるなど脆弱な。
何者であろうと、斬り捨ててみせる。
……が、意識は強く抵抗しているのに、身体がついていかない。
惨めにもがたがたと震えている手足。
何故。
悲痛な声は次第に彼に近づいてくる。

──逃げなさい、    !

彼は眉を顰めた。
何故、この声は自分を知っているのだろう。
知らない声のようでいて、胸の奥底を引っ掻いて感情に揺さぶる……訴えかけてくる。

──逃げなさい、バージル!ダンテ!

彼は目を見開いた。
……あなたは……!
──母さん。
バージルの視界が鮮烈な赤で染まる。
「母さん!」
震えながら必死に伸ばした手は、けれど何も掴めない。

──逃げなさい……そして……

懐かしくも切ない声。
母の想い全てを聞き遂げる前に、

「……っ……!」

バージルは目覚めた。




Prayer within




べっとりと汗を掻いて不快に肌に張り付くシャツだけ着替え、バージルは階下へ向かった。
時間の感覚もない。
水を飲もうとキッチンへ入れば、がいた。
「あ、バージル!おはよう」
気配に気付き、はにっこりと挨拶する。
「今は……朝か」
挨拶の種類に大まかな時刻を知り、ぼんやりとバージルはに歩み寄る。
「昨日は依頼で遅かったんでしょ?ゆっくり寝てればいいのに」
「ああ……」
食器棚からグラスを取り出す。
指先に、全く力が入らない。
「やだ、バージル!」
気付いたがスリッパを鳴らしてバージルに飛び付く。
「ひどい顔色じゃない」
紙のように真っ白なバージルのおでこに手のひらを当てれば、汗でぐっしょりと濡れた前髪に気付く。
「熱はないのに、どうして」
「昨日、依頼で少しな……」
ふら、とバージルの身体が揺れる。
「寝てなきゃだめだよ!」
「いや、大丈夫だ……」
あくまでバージルは虚勢を保とうとする。

「毒だろ?」

いつの間にかキッチンに来ていたダンテが、壁に寄り掛かりながらバージルの様子を観察する。
バージルは唇を引き結んだまま、答えない。
「咬まれたか?」
ダンテの言葉に、がバージルの肩や腕に手を滑らせて探っていく。
右肘の上辺りに手がかかったとき、一瞬だけバージルが鼻に皺を寄せた。
すかさずがバージルの袖を捲り上げれば、禍々しい紫色の咬み痕がくっきり残されていた。
「ひどい傷……!」
「大したことはない」
「何言ってるの、早く休まなきゃ!」
「大丈夫だ、……っ」
強がりも虚しく、バージルの身体がぐらりと傾いだ。
「バージル!」
は倒れ込んで来たバージルを支える。
「おいおい」
それまで成り行きを見守っていたダンテが素早く二人に近付いた。
「ったく、世話の焼けるお兄ちゃんだ」
「な、やめろ」
も手、貸せ」
「うん」
ダンテは有無を言わさずバージルを担ぎ上げ、は部屋のドアを開けた。
「例え家族だろうが、男をベッドに運ぶなんざ金輪際ご免だね」
憎まれ口と共に、ドサッとバージルをベッドに投げ出す。
「同感だ」
「バージルってば!……ダンテ、ありがとう」
舌打ちしたバージルの額をぴしっと叩いて、はダンテを労う。
ダンテは彼女にひとつ頷くと、バージルを見下ろした。
「で?咬まれた後、毒抜きは?」
「……止血しながら毒はあらかた吸い出したが……」
「んじゃー、大丈夫だろ」
ダンテはくるりと背を向ける。
「毒で死なれたら一族の恥だから、念のため解毒剤でも買ってきてやるよ」
「ダンテ〜!……本当にありがとう」
感激のあまりダンテを拝む
ドアから出る寸前、ダンテはにやりと振り向いた。
「ストロベリーサンデーね」



熱はないのだが、バージルの冷や汗は止まらなかった。
「もう一回着替える?」
「ああ」
がバージルの背中に手を添えて上体を起こす。
バージルの動作はひどくだるそうで、痛々しい。
そっと着せかけられたシャツに鉛のような重さの腕を何とか通し、バージルは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるを見つめる。
彼女の姿に、先程の夢の残滓が重なる。
──母の記憶。
「……今朝、懐かしい夢を見た」
バージルの低く絞り出すような声に、が動きを止める。
「どんな夢だったの?」

「……母が、俺達を庇って死ぬ時の夢を……」

あまりにも不意な話題に、の胸がぎゅうっと詰まる。
ダンテから薄々聞いたことはあった。
けれど、バージルがその過去を直接語ったことはない。
は黙ってバージルのつめたい手のひらを取った。

「……『伝説の魔剣士スパーダ』そう讃えるのは、護られた側の見解に過ぎない……」
バージルは焦点の合っていないような瞳で何処か遠くを見つめる。
「滅ぼされた側のモノにしてみれば、スパーダは逆賊……恨みこそすれ、讃えることなど有り得ない」
その強大すぎる力を魔の世界に封印し、そして人間の女──エヴァと結ばれ、二人の子供を授かったスパーダ。
バージルとダンテの父。
「奴等は……魔族は、スパーダを最後まで赦しはしなかった」
そうしてスパーダが人として生を終えた後、残されたエヴァと双子に魔の手が伸びる。

「俺は戦えなかった」

閻魔刀は。
あれで斬ればいいだけだ。
敵の数は多いけれど、だいじょうぶ。
ダンテ、ダンテは?どこにいる?
母さん。──かあさん?

「手が震えて、足も動かなかった」

気付いたときにはもう反撃の余地もないくらいに囲まれていた。
ガチガチと鳴り続ける歯。
知らずに何かを掴んでいた。
自分と同じように惨めに震えているそれは、
──ダンテの手。

「俺もあいつも、何も出来なかった」

二人の前にさっと影が落ちる。
同時にふわりと漂う、優しい香り。
母の姿が視界いっぱいに見えた。
次の瞬間、バージルは母に後方へと突き飛ばされた。

──逃げなさい、バージル!ダンテ!

「俺達は、むざむざと敵前逃亡した。……母をその場に残して」
そして視界を染めたのは誰の血の赤か。
……だから今も、赤を好きになれずにいる。
「バージル……」
はぎゅっとバージルを抱き締めた。
まだ幼い子供の時分に、それはどんなに過酷な状況だったことだろう。
そして彼らには不幸にも、取って戦えるだけの強力な武器、それらを扱える力があった。
だからこそ、際限なく後悔の念が二人を苦しめてしまう。

『戦えた』
『武器も力もあった』
『母を守れた』
『なのに、逃げた』
『母を見殺しにして、のうのうと生き延びている』
──二人に罪はない。罪はないというのに。

「さっきの夢で、エヴァが何か言いかけていた……」
バージルはゆっくりと目を閉じる。
先程の夢を反芻するように。
深く息を吸い込む。
「何か……」
忘れているはずはない。
ただ、日々思い出すにはあまりに苦しい過去だから、なるべく胸の奥深くへ仕舞い込んでいた。
出来れば向き合わずに済むように。
──結局また、逃げている……。
「大事なことだった気がする……」
「……大事なことなら、いつかすぐに思い出せるようになるよ……」
バージルの額の汗を拭って、はそこへそっと唇を落とす。
「今は休んで……」
毛布をしっかりバージルに掛ける。
……やがて、バージルが規則的な寝息を立て始めた。
それを見守ってから、は静かに泣いた。
どんなに泣きたくても、今更もう泣けないに違いない、二人の子供のために……



が使ったタオルと着替えを階下へ持って行くと、ダンテのバイクの音が聞こえた。
玄関へ出迎えに行く。
「おかえりなさい、ダンテ」
扉を開ければ、荷物を抱えたダンテが身軽に入って来る。
「おお。あいつは?」
「寝てる。……相当強い毒だったみたい」
の言葉に、ダンテはすっと目を細めた。
「何かあったか?」
「悪い夢を……過去の夢を見たって……」
ちいさく呟くに、ダンテが思い切り顔を顰める。
「そりゃ、確かにひどいヤツ喰らったんだな」
視線を揺らすに、ダンテはぱっと表情を変え、買って来た荷物をがさごそと振ってみせる。
「大丈夫だって。この解毒剤も気休め、野菜ジュースみてぇなもんだ。だいたい、斬っても撃っても死なないふてぶてしいバージルだぜ?毒なんかでコロリだったら、とっくにオレが試してみてる」
「ダンテってば」
ブラックジョークにぺしりとパンチのお返しをしておいて、はキッチンへ立つ。
律儀にいちごと生クリームなどを用意している彼女の背中を見て、ダンテが苦笑した。
「サンデーならいつでもいいから。今はあいつについててやれよ」
がぱっと振り返った。
泣き腫らしたのだろう、真っ赤に充血した瞳。
「ダンテ。今回は、本当にいろいろありがとう。今度、ピザでも何でもダンテのリクエストを作るから」
「そいつを楽しみにしておくよ」
ダンテはぱちりとウインクで答えた。



──逃げなさい。

彼はまた闇の中にいた。
今度はこれが夢だと分かっている……そのことに何の意味がないとしても。
身体全身ががたがたと震え、無様にその場に釘付けだ。
隣でダンテもまるで自分を鏡に写したように同じ姿で震えている。
彼は思わず弟の手を握った。
ダンテがハッと顔を向ける。
恐怖に滲む瞳。
自分と同じ顔。
ぎゅ、と繋いだ手に力を込めれば、向こうも同じように手を握り返して来た。

──逃げなさい、バージル、ダンテ。

母の声がはっきりと聞こえた。
何故だか、さっきよりも明瞭に。
これならば、こちらからも声が届くだろうか。
母さん。
彼は何度も呼び掛ける。

──逃げなさい。そして

母さん!
どん!と強く背中を突き飛ばされる。
手を繋いでいたダンテもろとも転ぶ。
『今だ!逃げよう、バージル!』
彼よりも先にダンテが立ち上がって駆け出した。
その手に引かれるように、バージルも走り出す。
母さん。
一瞬だけ振り返る。
母のやさしい微笑が見えた気がした。

──しあわせになりなさい。

エヴァの声は、そこで完全に途切れた。



「バージル。バージル」
手を強く揺さぶられ、彼はうっすらと瞳を開ける。
「…………・?」
焦点が合えば、目の前で恋人はこの世の終わりのように思い詰めた表情をしていた。
「どうした?」
「起こしてごめんね。でも、すごく魘されてたみたいだったから……」
はバージルの頭を抱き締めた。
「バージル……」
呼ぶ声と、そしてまだ繋がれたままの熱い手に、バージルはそっと頬を緩める。

──ああ。俺を救ってくれたのは、だ。

「おまえのお陰で、エヴァの言葉を思い出した……」
「え?」
は潤んだ瞳を上げる。
「お母さんは、何て……?」
バージルはの頬にてのひらを添えた。
「幸せになれ、と……」
「…………」
堪らず、はバージルから目を逸らした。
彼の前では泣くもんかと思っていたのに、溢れる涙があっという間に幾筋もバージルのてのひらを濡らす。
バージルは丁寧に涙を拭うと、そっとの頭を抱き寄せた。
重ねるだけのやさしいくちづけを交わす。

「おまえがいてくれるから、俺は……」
幸せだ。



三回目の目覚めは、爽やかだった。
バージルは自分と手を繋いだまま隣で眠っているを愛しそうに見つめる。
目覚めた時に誰かが横にいてくれるということが、どれだけ心休まるか……
バージルはを起こさないように絡めた指をほどき、ゆっくりと抱き上げてベッドに寝かせる。
自分が掛けていた毛布を彼女にそっと掛け、乱れたその髪を梳いて整える。
見えた耳に優しくキスすると、バージルは音を立てないように部屋を出た。
廊下は真っ暗で、どれだけ寝ていたものか、時刻はいつの間にやら夜になっていた。
喉の渇きを覚え、キッチンに向かう。
今朝もそうして移動したのだが、そのときよりは随分足取りも心も軽い。
キッチンの手前、バージルはリビングからの物音にぴたりと歩みを止めた。

「……気分は?」

リビングのソファでピザの箱を抱えて座ったダンテが、振り返りもせず声を投げて来る。
「もう大丈夫だ」
「よかったな」
「ああ……」
答えたまま、根が生えたように立ち尽くし身じろぎしないバージルに、ダンテは頭を反らして様子を窺う。
「何だよ」
「いや……」
バージルはしばらく逡巡し──口を開く。

「……エヴァの最後の言葉を覚えているか?」

ダンテから、からかいの雰囲気が一瞬にして消えた。
『悪い夢を……過去の夢を見たって……』
やっぱりまだ引き摺っているらしい。
──自分だけでなく、バージルも。
忘れようとしても、忘れさせてはくれないあの血の赤。
目に焼き付けられたあの日から、戒めの如く、赤を身に纏うことにした。
もう逃げようがないように、目を逸らすことさえ許さないように。
だからこそ、母の最後の言葉も忘れずにいることが出来たのだと思う。

──しあわせになりなさい。

「……ああ。覚えてるぜ」
重い口を開けば、バージルが溜め息をつくのが聞こえた。
ダンテも肩で大きく息を吐く。
──それにしてもバージルは、大袈裟に考えすぎだ。
(先は長いんだぜ?)
テーブルにばらばらと散らばった紙を寄せ集め、それをバージルに扇いでみせる。
「母さんに『Yes』って答えるためには、コレを何とかしたいんだけどなぁ?」
示された請求書。
バージルは呆れながらも分厚い束を受け取る。
「これで借りはなしだな」
「おー」
物分かりのいいバージルに、ご機嫌になったダンテはピザを持ち上げる。
「スポンサー、ピザ食うか?腹減ってんだろ」
しかしバージルは鼻で笑うと、くるりと踵を返した。
「有難いが断る。俺はもう一休みさせてもらう」
「どーぞ」
仲の悪い双子にしては、珍しく穏やかに会話が終わった。
この光景を母エヴァが見ていたら、相当喜んだに違いない。



キッチンで喉を潤し、バージルは自室へ戻った。
ベッドの上には、背中を丸めて無防備にすやすやと眠る
スプリングを軋ませないように注意し、彼女の隣に潜り込む。
規則正しい寝息と、あたたかな体温。
にぴたりと寄り添い、そのどちらをも味わう。

──しあわせになりなさい。

バージルは腕に抱いた幸せを感じながら、心穏やかな眠りに落ちていった。







→ afterword

5であの運命の日の状況が割と明らかになりましたね。
もうあれこれ矛盾だらけになったので下げようかなとも思いましたが、双子がそれぞれの色を纏うことにした(なった)くだり、兄弟で考えの向かう方向の違いが出てて、そこは今でも好きな捏造だなと思ったのでそのままにしました。
エヴァママ美人でしたね!(唐突)
初出・2008年6月