次の日起きたら、バージルはいなかった。
狩りにでも出掛けているのだろう。
顔を合わせたくもなかったから、ちょうどいい。
あたしは誰もいない部屋の真ん中で食事を取ることにした。
お腹が膨れて人心地ついたら、また脱走に挑戦すればいい。
ぼんやりしながら冷蔵庫を漁って、ありあわせの卵とハムと野菜にパンを添える。
「……。」
何を食べても美味しくない。
味を感じない。
パンを持つ指にも力が入らない。
居場所がなくて直に座り込んだ床のざらざらとした肌触りは、何故か昨日のバージルの舌を思い出して、背中に嫌な電流が走った。
──どうしてこんなことになったのだろう。
抵抗できない使い魔を抱くことが、バージルの望みなのか。
そんな情けないことが彼の望み?
まさか。
未だに彼が何を思って召喚術などに手を染めたのか、分からないまま。
問い質そうにも状況は最悪だし、本人の姿すら見えなくなった。
と。
視界の隅っこに閻魔刀が入った。
「え?」
バージルが愛刀を置いて狩り?……ありえない。
「憂さ晴らしに買い物?」
もっとありえない。
あたしは立ち上がって、静かに黒く光る鞘を手に取った。
「よくこんなもの振り回せるね」
幼い頃は、この鞘くらいの腕の細さだったのに。
いつの間にか、こんな剣呑なものを扱えるような大人になってしまった。

……バージルも、大切な愛刀を忘れて行くくらいに動揺していたのだろうか。
『興醒めだ』と行為を途中でやめたのも、あたしが本気で嫌がったからだったら。

ありえない。
「悪魔だから、何でも気紛れなだけ。考えるだけムダ」
何とはなしにずしりと重い刀を何気なく抜こうとし、ずくんとこめかみが撃ち抜かれたように痛んだ。
「っ……!」
すぐに頭全体に広がる激痛。
呼ばれた、と感じた。
けれど。
いつものように続いて目眩が起こらない。
手足が末端から消えていくような感覚もない。
意識ははっきりしたまま。
ひたすら頭だけが痛い。
その痛みも、波のようにちりちり引いてはざあざあ寄せる。
「何なのこれ……」
まるで何かを葛藤しているような苦痛。
──葛藤?
「バージル」
今の今になって、躊躇っている。
──あたしを傍へ呼ぶことを。





なあに。またあの子たちと遊んできたの?服が泥だらけよ。
ごめんなさい、ママ。でも、ふたりとあそぶの、たのしいの。


幼いとき、三人で飽きもせずによく遊んだ。
何をして遊ぶのかと言えば、あたしが花摘みよりは鬼ごっこを好む男勝りな女の子だったこともあって、もっぱら怪獣ごっこばかり。(その場にいるのは全員、悪魔の血を引くのに怪獣ごっこというのも可笑しいが)
あるとき、ダンテが言った。
、お姫さまになれよ!おれは王子さまをやるから!」
「いいけど、バージルは?」
首を傾げたあたしに、にいっとダンテは笑う。
「お姫さまをさらう、わるいかいじゅうやく!」
このときバージルはどんな顔をしたのか覚えていないが……、とにかく、それはスタートした。
きゃあきゃあ言いながら、仕方なく追い掛けて来るバージルから逃げ回り、勇ましく木の枝を持ったダンテに助けられ。
たくさん遊んだその次の日、ダンテが言った。
「バージル、王子さまかわってくれよ。おれもかいじゅうやりたい」
飽きっぽい子供そのまま、ぶらぶら足を投げ出したダンテの、何気ない言葉。
あの場所で、ダンテだけは何気ないまま。普通だった。
そう考えればあたしとバージルは、ダンテよりほんのちょっと大人びていた。
そしてきっと……同じ淡い気持ちを抱えていた。
だってふたり同時に「えっ」と息を飲んだから。
あのときのバージルの顔ははっきり覚えている。
彼は困惑していた。
そんなバージルを無視して、ダンテは思いっきり怖い顔を作ってみせる。
「いくぜ!がおー!」
怪獣になりきるダンテはとても可愛らしかった。
どうしても怯える演技なんかできなくて笑顔で逃げ回りながら、あたしは王子様の助けを待った。
三人で考えた冒険コースの小川と崖を越え、やがてバージルが木の陰に隠れたお姫様の元へ辿り着く。
ちいさな胸が震えてしまうのを手で隠し、あたしは王子様の台詞を待った。
初日にダンテが考えた台詞。
決められた通りに間違えることなく、バージルが静かに──ひたとあたしを見つめて真摯に言う。

「お迎えに上がりました、様」

『お待ちしておりました、バージル王子』あたしの言うべき台詞はそれだった。
けれど、口にしたのは全然別の言葉。

「……おそい」

どうしてだかむず痒くて、そっぽを向いた。
それでもやっぱり我慢できなくて視線を戻せば……バージルは、とても大人びた表情で微笑んでいた。
──そのとき、あたしには王子様に助けられたお姫様の気持ちが完全に分かった。分かってしまった。
そうして怪獣ダンテがぷりぷり怒って駆けつけてくるまで、木陰だけ、ふたりの間だけ時間が止まっていた。
思えばあの頃から、あたしはバージルには可愛くないことばかりを口にしていたような気がする。
そしてそれは、思いがけない巡り合わせで再会した今も。
素直になれずにいる。
もしかしたら、バージルも。
……『ねぼすけ』と怒るのも、『ダンテ、今日は早くかえろう』と言い出すのもバージルだった。
二人が変わったのは姿だけで、心はまるで成長していない。

バージルが性急にあたしを求めるのも
猫のようにしつこく構っては欲しくないくせに、距離を置けば引き寄せてくるのも

そんな理由からだったなら。
彼の我儘を、契約だと騙されてあげてもいい。



「バージル……呼びなさいよ!」
何を躊躇うの。
傲慢に不遜に高飛車に呼びつければいい。
あたしはそれを待っているんだから。
「バージル……」
何か伝わるものもあるかもしれないと一縷の望みをかけ、力に任せて閻魔刀を握り締める。
刹那、確かに違和感がぴりりと身体を駆け抜けた。
──それは最初の兆し。
どくんと重低音が響くような疼痛は、左のこめかみに。
そしてあたしは──彼に呼ばれた。





白く塗りあげられた景色が、くすんだ廃墟を描き出すのに数秒も必要なかった。
薄闇に慣れた目が捉えたのは、無数にぼこぼこ沸く下級悪魔たちに青白い剣──きっと彼が『力』で形成したものだろう、敵に刺さるとそれは硝子のように千の破片に割れた──を繰り出しているバージル。
強力だが脆い一本の幻の剣が相手に出来るのは一匹だけのようで、それは駆除には甚だ非効率的だった。
バージルがどれだけ戦っているのかは分からなかったが、数の上でも不利に傾きそうなのは目に見えている。
どうしてこういうときにこそ呼ばないのか。
(意地っ張り)
本当にお互いに素直じゃない。
「バージル!!」
声を限りに叫び、あたしは大きく閻魔刀を振りかぶった。
バージルがハッとこちらを振り向く。
遠目にも、その表情がよく見えた。
常よりも複雑な、青の瞳。とても人間らしい、一言では形容できない色。
──王子様に任命されたときの顔。
想いが全部、この刀に乗って届きますよう。
矢のように一直線に飛んだ閻魔刀を軽々と片手で受け止め、バージルは微笑した。

「遅い」





閻魔刀を手にしたバージルは、まさに鬼に金棒だった。
もともと一匹ずつの力は大したことがない悪魔たちをあっさり斬り伏せ、やがて廃墟はがらんと静かになった。
砂だけが辺りにもうもうと煙っている。
ちゃき、と銀色の刃が鞘に納まる音がした。
その音を合図にして、座って観劇していたあたしはぱんぱんとお尻に纏わりつく砂を払って立ち上がる。
バージルがこちらを見つめているのが分かった。
あたしはばさりと髪を背中に流して腕を組む。
いつもバージルがそうしているようなふてぶてしい態度。
「呼び出しももう飽きちゃった」
バージルはゆっくりと誇示するように刀の下緒を目線に引き上げる。
「俺が呼んだのは閻魔刀だが」
「そう?おまけがついてて悪かったわね」
「そうだな、そのせいで手間取った」


ざ。
閻魔刀が砂の上に落ちる。
刀の代わりにあたしがすっぽりとバージルの腕の中に収まった。
背骨が悲鳴を上げそうなほど、きつく抱き合う。
ふたり同時に互いを求めているから、力の加減なんて出来ない。
母親におもちゃを買ってとねだる子供のように、一心不乱に、ただお互いだけ。
息苦しくなってもがいても、バージルの腕は緩まない。
「……
バージルが熱を込めてあたしの名を呼んだ。
けれど、もうその言の葉は何の術力も持たない。
──あたしが、自分自身で動いて彼を愛したいと思うから。
気持ちに嘘をついて、これは彼の仕業なのだと縛られてあげる必要なんてなくなったから。
あたしは拘束されずに自由なままの腕で、それを知らせるように彼の背中を撫でた。
満足そうな吐息があたしの耳をくすぐる。
「もう名前ではおまえを縛れないか」
「魔法が解けちゃったからね」
「ならば」
あたしの顎を持ち上げて、うっそりと笑う。
「違う魔法をかけるまで」
艶のある声でバージルはとんでもないことを宣誓した。
どう言い返そうか考えているうち、キスが降って来る。
「……もう抵抗はなしか?」
一瞬離れた隙をついて、あたしはぺろりと唇を舐めた。
上目遣いにバージルをひたと見つめる。
「遊びならここまでね。悪魔と火遊びなんて嫌だから」
バージルがゆっくりと瞼を閉じ、そして開ける。
悪魔のくせに真摯な目。いっそ愚直とすら言えそうな。
「本気だ」
言うが早いか、せっかちに求めてくる唇。

──あーあ。ママ、ごめんね。結局、悪魔の誘惑には逆らえませんでした。

一秒だけ心の中で謝って、あたしは唇を開いてバージルの舌を受け入れた。





はじめてふたりで部屋に帰った。
それからしたことなんて、ひとつしかない。
現実を受け入れたばっかりなのに、今度は見知らぬ世界へ連れて行かれる。
バージルは悪魔だ。
そして、もっともっととねだる自分も、彼に似合いの悪魔だ。



「何で使い魔なんて必要だったの?実際は用事なんてそこらのメイドで足りるような事ばっかだったじゃない」
バージルは答えない。
「それとも、本当にあたしを呼んだの?」
からかうように間近に目を合わせてみる。
不意にバージルがあたしの首を手のひらで引き寄せた。
額が触れ合う。
……じんわり互いの肌を行き交う、冷めない夜の熱。
「最初、使い魔を得ようとして……真っ先に思い浮かんだのが、おまえだった」
「嘘」
あたしは目を丸くした。
「だって、力なんてないに等しいのに。どうせそれも知ってたんでしょ?」
「そうだな」
──でも、おまえだった。
掠れた声が耳を撫でる。
──傍に居て欲しい存在を考えたとき、真っ先に浮かんだ。
「本当におまえが現れたときは、馬鹿なと思った」
今はやわらかく弛緩した指があたしの髪を梳く。
「寂しかったの?」
──そうかもな。
「それで、あたし?」
──そうだと言っている……。
バージルの声は、人間だったらきっともう聞き取れない。
あたしは初めて、自分が半魔でよかったと思った。
愛しいひとの声の大切な言葉をちゃんとこの耳で聞ける。
「すぐにあたしだと分かった?」
「ああ。おまえは幼い頃から何も変わらない」
「あたしもすぐ分かったよ。その髪と瞳。忘れられるわけない」
銀と青。
一色ずつなら大人しい色なのに、組み合わせるとどうしてこんなに鮮烈に輝くのだろう。
「……あ」
あたしはそっと肘をついて軽く身を起こした。
「どうした?」
見上げてくるバージル。
──この色を、あたしは探していたんだ。
「描きかけの絵があるの。誰かさんのせいで中断されてばっかりだけど」
「壁に描いているんだったな」
「そう」
下地を作ったまままだ何も乗せられていない、まっさらな壁。
そこへ描きたいものが決まった。
透けるような空の青、激しく劈く稲妻の青、くすんだような雨の青、心地よく泡立つ海の青……
バージルの中のあらゆる青を、留めてみたい。
──きっと絵は完成しないだろうけれど。

「絵を完成させるの、手伝ってよ」
バージルの裸の胸に手をついて起き上がる。
触れた肌からゆっくりと規則正しい鼓動が手のひらに伝わって、それはとてもあたたかく。
頬を寄せてしまいたい気持ちを必死に堪えて、バージルを見下ろす。
「俺には絵心はないぞ」
バージルは一体何をさせる気だ?と悪戯っぽく笑みを浮かべた。
その目元に、あたしはそっと口づけてみる。
舌に溶けるのは、甘美な名残の汗の味。
……もっと欲しい。
また少しだけ身体を起こし、間近に彼を見つめる。
「もっとバージルの色々な表情を見せて」
一瞬だけ、バージルは目を見開いた。
手のひらからも、彼の動揺を感じる。
でも、せっかく落ち着いてきた心臓を逸らせているのは、あたしも同じ。
バージルが愉しそうに微笑んだ。
「……今から試すか?」
蠱惑的な彼の眼差し。
「いいけど、尻尾は触らないでね。あたしの弱点だから」
隠すように揺らせば、バージルが逃がさないとばかりに手でしっかり掴んだ。
指に絡ませるように撫でられれば、逆らい難い甘い電流が身体の深奥を震わせる。
「んぁ……いや……」
「弱点は自ら晒すものではないな……」
理性を掻き乱す声音。
それを封じたくて、バージルの唇を噛む。
この先は、どんなに隠そうとしても、身体は素直に反応してしまうから。
これはせめてもの、あたしの抵抗。最後の抵抗。
「悪魔」
「互いにな」


秘めていた燠火は、掻き混ぜれば一瞬でまた激しく燃え上がる。
今宵は爪月、悪魔が契りを交わすには最高の夜。







→ afterword

携帯サイトにて「judgment night」様との相互記念、ナーナ様に捧げるバージル夢です。
幼馴染み+再会+甘………?何かどれもリクエストからズレて…
微裏もものすごく微妙すぎて微々々裏くらいでごめんなさい…!!(土下座

作中の「お迎えに上がりました」「遅い」のやり取りは、ナーナ様のバトンのお答えからお借りしました!
拝見したときから「この感じ、いい!」とビビッと来まして、無理を言ってお願いしてしまいました。
強気な半魔ヒロインとバージル。いかがでしたでしょうか。

ナーナ様、それからこの作品をお読みくださったお客様も、どうもありがとうございました!!
2008.9.16