ざわめきの中、無駄な音ひとつ立てることなく、彼はひとり訪れる。
ぴったり夕方6時。
その時間になると私は他に何をしていてもその仕事を切り上げて、レジに立つ。
そうして出迎えた目の前の彼は一言。
「いつものを」
コーヒーショップでそんな馴染みのバーみたいな注文の仕方も、彼ならば許せる。
注文の内容は、




hot chocolate




彼の口からその可愛い単語を聞いたことは、たぶん片手の指で数えられるほどしかない。
「5ドルです」
代金をきっちり受け取って、私は彼に『いつもの』を用意する。
美味しくなりますようにとお祈りしながら、特別丁寧に。
「お待たせしました」
彼は無表情で紙コップを受け取って、席に向かう。
ドリンクを渡してしまえば、私と彼の会話は終わり。
週に二回、水曜日と金曜日のほんの一瞬。
それでも彼の存在感は強烈だった。



半年前、大学の姉妹校だし単位が取れるからと、ここアメリカにある大学への留学を決めた。
苦労も不安もあるけれど、それなりに楽しくやっている。
つい最近になって、すこしだけ時間に余裕が出てきた。
机に向かって本の虫になるのも学生らしくていいとは思ったけれど、生活費に余裕が欲しいし、社会勉強にもなるしとバイトを始めた。
それがこのコーヒーショップ。
時給は7ドルにチップと少し物足りないけれど、店が大通りに面していて、暇なときにはガラス張りの店内から賑やかな街並みを眺めていられるのが気に入った。
もちろん暇なときなんて滅多になくて、ほとんどひっきりなしにお客がやってくるけれど。
今日も盛況だ。
みんなほんとにコーヒーが好きだなあなどと呑気に考えながらプレッツェルをショーケースに補充していたら、先程の彼が立ち上がるのが見えた。
紙コップを捨てて、帰る準備。
それからレジ横へ立ち寄る。
彼は必ず帰る前にチップをくれるのだ。
とは言っても、直接店員に渡しはしない。
カウンターに置かれている、元はキャンディが入っていたガラスの空き瓶、その銀色の蓋を開けて1ドル札を入れる。
毎回毎回、必ず1ドル。
じっと彼を見ていたら、うっかり目が合ってしまった。
私は慌てて笑顔を取り繕う。
「ありがとうございます」
お礼を言っても、彼は無表情なままだった。





銀の髪と青い瞳が印象的なそのお客のことは、誰もろくに知らなかった。
必ず奥の席に座る。どんなにお店が空いていても、真ん中の席には着かない。
お店が混んでいるときもテイクアウトはしない。一度だけ、壁にもたれてチョコを飲んで空席を待っていたのを見たこともある。
無事に席が確保できたときは、たいてい本を読んでいる。彼の表情からしたら、楽しい内容の本だとは思えない。
そうして30分かもうすこし店内で過ごして、ゆっくりと席を立つ。
最後にはチップをくれる。
……彼についてそんなに詳しいのは、この店ではきっと私だけだ。
彼は何者だろう。
「よく本読んでるし、学生じゃないの」
バイト仲間が興味なさそうに言った。
「あの人かっこいいのに、興味ないの?」
訊ねたら、彼女に白い歯を見せて笑われた。
は興味あるみたいだね」
どきりとした。
週に二回だけしか会わないのに?
「そんなことないよ。大学にも気になる人いっぱいいるし」
「じゃあ、このビルはいらないのね」
彼女は愉快そうに1ドル札を指で挟んだ。
ガラス瓶にまとめられたチップは、閉店後にバイト仲間で分けることになっている。
私はいつも彼の1ドル紙幣をもらっていた。
お財布に入れてしまえば後は普通に使ってしまうのだけれど、瓶から取り出したばかりの紙幣は特別なものに見える。
きちんと折り畳まれた特徴的なそれ。
無言で神妙にしていたら、彼女が破顔した。
「冗談よ」
ほら、と紙幣を渡される。
真っ赤になって受け取りながら、私はやっぱり彼のことを思い出していた。





水曜日。
私は店へ走っていた。
今日は最悪。
今の時代レポートの提出はメールに添付でいいのに、頭の固い古株の教授は紙に印刷した形でしか受け取らないのだ。それも表紙を1枚付けて、本文は3000ワードで。
長文をこねくり回したところで力尽きて、私はすっかり表紙を付けることなんて忘れていた。
そんな私も私だけれど、慌てて用意した表紙を見るなり教授には「手書きか」と嫌味を言われた。
何だか妙にかちんときて、「表紙も後で用意します」とその場では提出しなかった。
提出遅れで成績が下がっても、完璧な形式で渡した方が自分の後味がいいはず。
そうして意地を張って放課後にパソコンで表紙を作って提出したら、その心意気をひどく誉められ、教授から逃げ出すのに時間がかかってしまった。
へらへら誤魔化す学生より気に入った、とのことだ。
厳しい教授に誉められて、うれしくならないわけがない。
そう、今日が水曜日でさえなければ。



6時半。
ばたばたと道を駆け抜け、店の前へ辿り着く。
ちょうど彼が店を出たところだった。
(間に合わなかった)
思わず不自然に立ち止まった私と、戸を押し開いた彼と、目が合った。
走って来たせいばかりでなく心拍数が跳ね上がる。
私とはまるで対照的に、無駄な音ひとつ立てない彼。
長いこと立ち止まっていたようだけれど、実際はほんの一瞬だったに違いない。
彼が身動きした。
「入るんだろう」
そう言ってドアを開けてくれる。
たった今閉めたばかりのその扉。
「あ、ありがとうございます」
彼と擦れ違うようにして店内へ入る。
いつものコーヒーの香り。
振り返ってドアを閉めようとしたら、また彼と目が合った。
何故だかその視線は険しく……睨んでいる、と言っても過言ではないほど。
(どうして)
その問い掛けがまさか聞こえていたとは思わない。
でも、彼は理由を答えた。
「今日は不味かった」
踵を返しながらの一言。
私は店長に注意されるまで、そこでぼうっと彼を見送っていた。





私がホットチョコレートを作るのにお湯ではなくてミルクを使っていたことが、店長にバレてしまった。
うっかり意地悪なバイト仲間に見つかってしまったらしい。
水曜日と金曜日、それも1回ずつしかしていないサービスだったのに、細かいことに気がつく人もいるものだ。
(ついてない……)
しばらく私はレジと掃除担当で、コーヒーを淹れる仕事をさせてもらえなくなってしまった。
それでも彼は同じように通って来るわけで。
無表情でレジに来る。
そうしてあの一言。
「いつものを」
──違うものを頼んでくれたらよかったのに。
「5ドルになります」
代金を受け取ると、オーダーを後ろの先輩店員に渡す。
自分がコーヒーを淹れなくていいということの唯一のメリットは、レジ前でじっと待つ彼を長い間見ていられることくらい。
彼は注文するわけでもないだろうに、ショーケースの商品を見ていた。
(ベーグルが焼きたてです)
他のお客になら笑顔つきで言えることも、彼には言えない。
やがてホットチョコレートが出来上がった。
「お待たせしました」
私は私が作ったものではないドリンクを差し出す。
彼には悪いけれど、今日のホットチョコレートも美味しくないだろう。
当店のオリジナルレシピ、お湯で作った甘さ控えめホットチョコレート。
相変わらず無表情で紙コップを受け取る彼。
──その日、彼はチップを入れて行かなかった。





一週間、彼は店に現れなかった。
まずいホットチョコレート(それが本来のこの店の味なのだけれど)が続いて、嫌になったのかもしれないし、それとも別にもっといい店を見つけたのかもしれない。
どちらにしても知る術はなかった。
のboy friend、最近見ないね」
ふぬけた表情をしていたのだろう、見咎めてバイト仲間がからかってきた。
「そんなんじゃないったら」
──そうなっていたらよかったけど。
言葉を飲み込んで、私は大通りを眺める。
行き交うひとびと。
この街では誰も彼もが忙しそうに歩いている。
斜め前の信号が赤から青に変わった。
また人の波が一気に流れ出す。
「あ」
見つけてしまった人影に、私は思わず声を上げてしまった。
銀色の髪の彼。
荒々しい運転で歩道を脅かすチェロキーをひと睨みして、こちらへ歩いてくる姿。
「Give it your best shot. どこかへ誘ってみたら?」
後ろから口笛が聞こえた。
「だから、そんなんじゃ」
文句を言おうとしたが、慌てて口を閉じた。
扉が静かに開く。
彼がよどみなく近づく。
──私は初めてレジに立ったときのように、ひどく緊張した。
どうして?
どうして、彼が来る?
今日は水曜日でも、金曜日でもない。
一週間のブランクも何事もなかったような、彼の変わりない姿。
そうしてあの一言。

「いつものを」
「どうして、今日?」

彼が僅かに目を開いた。
私はもっと目を見開いた。
──私は、今、何を。
ごめんなさい余計なことを聞きました。そう続ける前に、ぽつりと彼が呟く。
「……仕事で街を離れていた」
私は耳を疑った。
“ I'll have the usual ”以外の文。
もちろん初めて聞いた。
その声はすこしだけ言い訳を含んで響いた、ような気がした。
(お仕事で)
(どちらへ?)
(また来てくれて、うれしいです)
言えない台詞だけが、頭をぐるぐる回る。
彼がゆっくりと瞬きをした。
訝しむようにちょっとだけ傾げられた首に、私は自分の立場を思い出す。
「すみません!いつものを用意します」
「本当に『いつもの』ならいいが」
今私が書いたばかりの手元の伝票を、彼の指がとんとんと叩く。
殴り書きの文字。
choco
「……勝手に牛乳を使って叱られたか?」
彼は後ろでどの注文が来ても迅速に対応しようとしているスタッフにちらりと視線を送る。
私は何も言えずにただぼうっと彼を見ていた。
「1ドル追加するから、いつものを作ってくれ」
動きを止めたままの私に、彼はちいさく笑った。
「ついか?」
よく分からずに聞き返すと、メニューを指で示される。
「牛乳で作るならプラス1ドルと書いてある」
そして差し出されたのは6ドル。
──じゃあ、毎回入れていってくれたチップは。
かあっと頬が熱くなるのが分かった。
彼はいつから、特別な意味を込めたドリンクに気づいていたのだろう。
ミルクで作る甘いホットチョコレート。
「じゃ、あの……ホットミルクチョコレートを」
用意してもらおうと後ろを振り返ると、手に何かが触れた。
視線を戻せば──彼のてのひら。
「できたら、おまえに作ってもらいたい」
今度こそ、私は倒れそうになった。
身動きが取れずに固まっていると、背中をスタッフにつつかれる。
さっき私をからかったバイト仲間。
“ Go on ”彼女の唇はそう言っていた。
差し出された紙コップを私はぎこちなく手に取り、そしてドリンクを準備した。
手が震えてしまって時間がかかって、もたもたと提供した『いつもの』。
彼は無表情……ではなく、目を伏せてありがとうと受け取った。
レジから離れかけ──つと振り向く。

「仕事が終わるのは何時だ?たまには他の店で、甘くないコーヒーが飲みたい」

予想外すぎる質問。
唖然とした私が答える前に、仲間が叫んだ。
「8時です!」
彼は苦笑して、それから私に向けて目を細める。

「待っている」

盛んにからかったりハイタッチを求めてくる仲間と
奥のソファ席で悠々と足を組んで私を待つ彼と
──その日はもう、仕事にならなかった。





確かにこの街には紅茶よりもコーヒーが似合う。
秋めく公園のベンチは濃い芳香を楽しむひとばかり。
新聞を広げていたり、友人とチェスをしていたり。
思い思いの時間を過ごすひとたち。
そして私と彼──バージルも、そのうちの一組。
バージルはテイクアウトしたコーヒーを、私はソイミルクで作ってもらったキャラメルマキアートに口をつける。
あの日以来バージルは、ホットチョコレートを飲まなくなった。
そもそも彼の言う『いつもの』とは普通にブレンドのことだったらしい。
はいちばん最初の注文のときから間違えていた」
意地悪く微笑む彼を私は一睨みする。
「だったらそのときに注意してくれればよかったのに」
バージルがふんと鼻を鳴らす。
「最初の客からクレームを付けられたらどう思う?」
「どうって……」
言い返そうとして、口を噤んだ。
最初の客。
(最初?)
初めてレジに立った日。緊張の中、いちばん最初のお客がいきなり難しいものを注文したような気がする。何度か聞き直してしまったと思う。……最後にそのお客は溜め息をついていたような。
そしてもっとはっきり覚えているのは、先輩がホットチョコレートに牛乳を使っていたのを見て、それがオプションだと気付かずに自分がオーダーを受けた分も同じように作ってしまって……あのときはまだ慣れていなかったから、店長にもそう怒られずに済んだ。
そのお客が──
「レジ打ちには苛々させられたが味は悪くなかったから、俺はその次も同じものを頼むことにした。……わざと牛乳を使うようになったのは、いつからだ?」
再びバージルがにやりと笑む。
ずるい質問だ。
『いつから俺を意識していた?』
私はそっぽを向く。
大通りの人ごみの中、銀色を探すようになったのはもうだいぶ前のこと。
「……二回目に来たときが美味しいホットチョコレートだったなら、そういうことでしょ」
「成程」
あの無表情はどこへやら。
からかうのが楽しくて堪らないと明らかなバージル。
「……何で自分、こんなひとのこと好きになったんやろ……」
甘い自嘲は母国語でこぼれた。
「日本語か?」
バージルが手を伸ばして私の顎をつまむ。
「何と言った?」
私はちょっとだけ逡巡した。
それから口を開く。
「“ I hate you ”」
バージルがクッと喉を鳴らした。
「とてもそうは聞こえなかったが」
「分からないくせに」
「ニュアンス程度なら伝わる」
「嘘」
ぐずぐず言い返していたら、素早くバージルが唇を重ねて来た。
口内のキャラメルマキアートの後味を全部さらわれるくらいに、濃厚なキス。
仕上げにご丁寧に唇まで舐められる。
バージルの唇はさらりと気持ちがいい。
それがうっかり表に出てしまったらしく、彼はなおさら愉しそうに口角を上げる。
「おまえが俺を嫌いとは、到底思えないな」
その通りなのが実に悔しい。
離れた唇が寂しいとまで思ってしまうほど。
赤くなった顔を見られたくなくて、私は急いで立ち上がった。
「それじゃ、私これからバイトだから」

呼ばれて、私はできるだけ何でもないようにバージルを見る。
バージルはベンチと、それから公園の時計を交互に指差した。
「8時に」
もう何度も当たり前に交わされた約束。
頷きかけて、ふとやめた。
「バージルも来たら?久しぶりに、『いつもの』作ってあげる」
一瞬だけバージルは意外そうに瞬いた。
が、すぐに余裕たっぷりに立ち上がってみせる。
「5ドルでいいのなら」
「どうしようかな」
また店長に怒られるのもいやだしな。
わざとぶつぶつぼやいてみる。
ちらりと横を見上げれば、バージルは無言で手を繋いできた。
きっと他の人から見たら無表情なバージルの横顔。
その下に隠された感情が分かるほど近くにいるのは、私だけ。

──今日も、甘い方のホットチョコレートを作ることになりそうだ。







→ afterword

43434をご報告いただいた愛さまへ捧げます。
大阪弁は一言しか入れられませんでした…しかもこれでわざとらしくないのかどうかもよく分からず;
「こっちの方がいい!」というツッコミお待ちしております。m(_ _)m
長い間お待たせしてしまい、本当に申し訳ございませんでした。

内容に関して…
気になる人には特別にミルクでホットチョコレートを作るというのは、私の大好きな歌を元にしました。
アリシア・キーズの「You Don't Know My Name」という曲です。
本当に素敵な歌なので、よろしければ聴いてみてくださいませー(*´∀`*)

あ!そういえばアメリカで学生ビザ持ちのバイトは違法でs
その辺りは夢ということでどうかご了承くださいませ(逃走)

それではリクエストくださった愛さま、お読みいただいたお客様、本当にありがとうございました!
2008.11.7