庭のスプリンクラーで水を撒いて遊んだり、家の周りを散々ぐるぐるしたりして、がやっと中に入る気になった頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
玄関前のベンチで文庫本を読んでいたバージルも、さすがに文字が読めなくなってきて立ち上がる。
「外はもういいだろう?また明日にして、中へ入れ」
「うん……」
はぎこちなく返事する。
実は、中へ入りたい気持ち自体はここに着いた瞬間から抑えがたい程なのだが……同じだけ、入るのが恐くもある。
この家は、いわばバージルのテリトリーなのだ。
いくら『おまえの家でもある』と言われても、当たり前だがまだ及び腰なお客さん気分わけで──
「勿体振るほど『セレブ』とやらではないから、がっかりするかもしれないがな」
の態度を勘違いしたらしいバージルが扉を開く。
「じゃ……入りまーす……」
お邪魔しますと言ったら怒られそうだと思ったら、おかしなことを口走ってしまった。
小声のそれには気付かず、バージルはの足元を指差す。
「靴は脱がなくていいぞ」
「それくらい知ってます!」
ぷくぅとむくれると、バージルが横を向いて吹き出した。
こちらに帰って来てからというもの、彼はとてもご機嫌だ。
(不機嫌よりはいいけど)
ある意味、不機嫌がデフォルトのバージルを見てきたにすれば、今の彼はちょっとはしゃぎすぎていて(失礼だが)不気味に映る。
「照明はここだ」
説明しながらバージルが明かりをつけた。
「わ!」
現れた室内に、のもやもやした気分が一気に吹き飛ぶ。
天井の大きなシーリングファン、螺旋階段、ゆったりと伸びた廊下など、見るだけでときめく。
「左手側がゲストルームで、右手側がダイニングやリビングだ」
「広い広いー!」
一つの部屋が20畳?いやもっと?と考えても目が回る。
と同時に、どっぷり落ち込んだ。
「こんな家に暮らしてたんじゃ、うちなんてうさぎ小屋みたいだったでしょ?」
の言葉に、バージルは真面目な顔で振り返る。
「いや。日本家屋はいい。特に床の間が気に入った」
そういえば掛け軸をしげしげと眺めるバージルは、和室にとても馴染んでいたことを思い出す。
「ありがとう」
にっこり笑って礼をすると、バージルも柔和に目元を崩した。
穏やかな視線に、は慌てて目を逸らす。
「それで……私の荷物はどこに置いたらいいの?」
「ああ、二階に空き部屋があるから、とりあえずそこに。後で間取りを見比べて、おまえの好きな部屋を選ぶといい」
「空き部屋……選ぶ……」
部屋が複数余っているということそのものがあり得ない。
呆然としているの態度も意に介さず、バージルは二階を見上げる。
「荷物を入れる前に少し片付けないと、埃っぽいな」
「忙しくなりそう」
「まあな。だがまずは……」
バージルが玄関の荷物の中から、紙袋を持ち上げた。
「食事だな」



テイクアウトしてきたサンドイッチとサラダをテーブルに並べる。
それらを見渡しながら、バージルは少し驚いていた。
一人分の食事には大袈裟だったテーブルの広さも、今はちょうどよく感じる。
ファーストフードでなく、ちゃんとした食事が並べば、『一人ではない』ことにより実感も湧くだろう。
二人での、食事。
「早くおまえの食器も揃えないとな」
バージルに、はこくこくと頷く。
「さっきちらっと食器棚見たけど、ぴったり一人分しかないんだもんね」
「客など来ないからな」
「えっ!?週末はバーベキューパーティーとかじゃないの!?」
「ドラマの影響を受けすぎだ……」
バージルははぁと額に手を当てた。
とは言え自分も日本にはまだサムライやニンジャがいるのではと誤解していたくらいだから、のことはあまり笑えないのだが。
「ごちそうさま」
ぱたりと手を合わせて日本式に食事を終えると、はすぐに立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
インスタントコーヒーの最後の一口を飲み、バージルは訊ねる。
がスーパーマーケットの袋をかさかさと振ってみせた。
「ジェロー作る!明日の朝に食べよう!」
どんな味かな〜と小躍りしてキッチンに入る
「適当に調理器具あさるよー!」
遠く響いてきた声。
「自由に使え」
答えた後で、バージルはこっそり微笑んだ。



一階のゲスト用のバスルーム(二階のバスルームは普段バージルが使っているとのことで、何となく遠慮した)から上がると、はうろうろとバージルを探した。
一階にはいないので二階へ上がる。
「バージル〜どこ〜?」
すると、いちばん奥、廊下の突き当たりの扉が開いた。
「どうした?」
姿を見せたバージルは、ゆったりと寛いだ服を着ている。
髪がぺしゃりとなっているから、バージルもシャワーを浴びたのだろう。
は何となくそわそわと俯いた。
「あの、毛布とかなんかないかな?」
「寒いのか?」
バージルが首を傾げる。
「むしろ暑いかと思うが……」
部屋を振り返る。
日本ほど湿気はないから、シーリングファンで空気をかき混ぜていれば過ごしやすい方だが。
がふるふると首を振る。
「寒くはないけど、さすがに床に直接寝るのはやだなー、って」
「?」
その説明にますますバージルは分からない、と眉を寄せる。
は自分に割り当ててもらった部屋に視線を送った。
「私の部屋、まだベッドないでしょ?だから……」
「寝室があるからいらないだろう?」
「ベッドルーム?あるの?」
「……あれだが。」
きょとんとしたに、バージルは呆れ顔で自分がさっき出てきた部屋を示す。
「だってあそこ、バージルの」

──!!!

がっ、との顔が真っ赤になる。
それは、つまり、バージルと、ひとつのベッドで、
「ちょーっと待って!あの、それは!」
「心配するな。おまえがどんなに寝相が悪くても、落ちるのは難しいくらい大きいベッドだぞ」
どこか楽しそうなバージルの口調。
……いや、だから、そうじゃなく!
はびたーんと廊下の壁に張り付いた。
「む、無理なんです!」
挙動不審な彼女に、バージルが思い切り怪しむ。
「何がだ?」
「に、日本ではですね、こっ婚姻前の男女はそそそそういうことをしちゃいけなくて、掟を破ったらハラキリを」
「……此処はどこだ、?」
彼女の言わんとすることを感じ取ったバージルが、じりじりと距離を詰めて近付く。
「……アメリカです、ってバージル!」
いきなりちゅっと耳にキスされ、驚きではゴン!と頭を壁にぶつけた。
「ったぁ……」
涙目で踞るに、苦笑しながらバージルが手を差し伸べる。
「今のは悪かった」
「……。」
しかしは手を取らない。
(どう考えても危険すぎる!)
だいたい、キス一つでまだこの状態なのだ。
至近距離で見つめ合うこともままならない。
現在必死で、対バージル免疫を生成中。
そこへ、ひ、ひとつベッドで眠るなど。
(安眠どころか、いつ心停止してもおかしくない!)
ぐるぐる考えるを邪魔せず見守ってくる、そのバージルの視線にすら──

「ごめんなさい。私、下のソファで寝るね」

バージルを見ることはせず、階段へ向かう。
しょぼんと丸めたの背中に、はぁと大きな溜め息が追い掛けてきた。
(だって……まだ無理なんだよ……)
正直、いつになったら慣れるとか、大丈夫とか、そんなことは分からないけれど。
ずるずる、とパジャマの裾を引きずるようにして足取りは重い。
辿り着いたリビングのソファ、そのコの字の長い部分にぽすんと腰を下ろす。
「ソファさん、これからどうぞよろしく……」
幸いふかふかのクッションはたくさんあるし、カウチポテト用のソファは一人悠々と寝そべることができた。
「うん、快適快適」
ごろごろと寝返りを打っていると、いきなりばさりと視界が暗くなった。
「わっぷ!」
もがいてみれば、指が触れたのは柔らかな毛布。
ぷはっと顔を出せば、バージルがむすっとを見ている。
「あ、ありがとう……」
気まずくて、もう一度毛布に潜り込み……はふと目を瞬いた。
コの字ソファの向かいで、バージルも枕と毛布を調えている。
「えっ?」
声を上げると、じろりと睨んでくる。
「俺一人で心地好いベッドに寝て、ソファで寝たおまえが筋肉痛にでもなれば、どうせ文句を言うだろう?」
「い、言わないよ!だからバージルは上で寝たらいいよ!」
「それだと俺が落ち着かない」
険のある声で吐き捨てると、バージルはに背中を向けてさっさと毛布に包まった。
「時差で疲れてるだろう。早く寝ろ」
「う、うん……」
バージルに指摘されるまでもなく、いつもの24時間分よりも長く行動して、体はぐったりだ。
「おやすみなさい……」
素直に横になり、クッションに頭を乗せて目を瞑れば、あっという間に眠りが訪れた。
すぐに聞こえ出した規則的な寝息に、バージルはの方へ寝返りを打つ。
すぅすぅと平和に眠る
健やかな彼女の寝顔を眺めれば眺める程……もやもやしてくる。

「……ソファでだって出来るのだからな……」

地を這うような恐ろしい声音と、その内容。
幸運にも(?)は眠っていたから、聞かずに済んだのだった。





翌朝。
結局なかなか寝付けずに寝返りばかり打って、ようやく眠ったのが明け方だったバージルは、辺りにふわりと漂ういい香りで目を覚ました。
「……?」
ぼんやりとしたまま、寝不足の瞼を擦る。
カチャリと物音がしたのはキッチンからで、いい匂いはトーストが焼ける匂い。
どうやらが朝食を準備しているようだった。
気だるくソファから抜け出し、そちらへ向かう。
そっとキッチンの様子を窺えば、が使い慣れない設備や器具と格闘していた。
「えっとー、お皿お皿」
形の違う皿を二枚用意してから、温めておいたフライパンに卵を割り入れる。
「……あ、こっちの目玉焼きって、両面焼くんだっけ?」
首を捻り、ハッと顔を上げる。
「フライ返し!あれがなきゃ返せない!うわーどこどこ!?」
「サニーサイドアップでいい」
それまでずっと、が自分のために朝食を準備してくれているという幸せな光景を味わっていたバージルが、横から割り込んだ。
あたふたしている彼女の手を引いて止め、片面焼きをオーダーする。
「あ……おはよ」
が少しだけばつの悪そうに微笑んだ。
「おはよう」
バージルは挨拶ついでに、ジュワーッといい音を立てているフライパンに蓋をかぶせる。
「他に足りない物は?」
「うーんと、今のところ大丈夫」
答えてからは、そろそろとバージルを見上げる。
バージルがそれに気付いた。
「何だ?」
「いや、ご機嫌いかがかなーと」
昨夜はソファに横になった瞬間、寝てしまった。
寝心地はよくて、朝の目覚めもすっきり爽やかだったのだが。
(バージルはよく眠れたかなぁ)
日本では早起きだった彼が、珍しく自分よりもだいぶ遅く起きてきた。
「旅行の疲れ、少しは取れた?」
「ベッドで寝ればもっと休めたのだろうがな」
バージルは首に手を当て、わざとらしくコキコキと倒してみせた。
それに対しては肩を竦める。
「だから、私に付き合うことないってば。一人でベッドで寝てください」
「強情者め」
「そっちこそ」
むいーっとふざけて睨み合う。
自然に顔が近づき、いい雰囲気に乗じてバージルがに唇を寄せたとき、

かしゃーん!
「あ、トースト焼けた!」

が呆気なく離れた。
「目玉焼きももういいね。朝ごはんにしよう!」
るんるんと皿にトーストと卵を盛り付ける。
隣で手伝いをしながらも、バージルは……少しだけ、むくれていた。



コーヒー、クミンシード入りのトースト、目玉焼きに簡単なサラダ。
そしてさりげなく一緒に並べられたのは、ピーナツバターとジェロー。
「んー、美味しい!」
トーストにたっぷりとピーナツバターを塗って、はご満悦である。
それを見て、バターを塗ろうとしていたバージルの手が止まる。
「……そっちを貰おうか」
一人暮らしのときだったら、絶対に買うことはなかったピーナツバター。
「どうぞどうぞ、たくさんどうぞ」
「そんなにいらん」
がもったりとナイフに取った半分だけを薄く塗り、食べてみる。
「ね、美味しいでしょ?」
「甘過ぎる……」
味は分かってはいたものの、あまりにが美味しそうに食べるから……ついつられてしまった。
「ジェローもあるんだからね」
「朝から胃がもたれたら、おまえのせいだぞ」
それでも勧められるまま、昨夜が作り置いたゼリーを口に運ぶバージル。
そしてそんなバージルをにこにこと見守る
「おいしい?」
「甘い。」
──そんな笑顔つきで訊かれたら、不味いと言えるわけがない。
バージルはわざと仏頂面で返答した。
ゼリーをぺろりと平らげるよりは大分遅れたものの、バージルも無事にデザートを完食した。
ふとが顔を上げる。
「あ、そうだ。今日も出掛けるんだよね?」
「ああ。食器も必要だしな。何処か行きたい所があるのか?」
「うん……」
何故かもじもじと口ごもるに、バージルの第六感が働いた。
「あのドーナッツ屋か?」
ひょこん、とが反応した。
「惜しい!その向かいの、アイスクリームショップ!」
「まだ甘いものが入るのか……」
元気な声に、バージルは苦笑する。
ピーナツバターにジェローだけで、自分はギブアップ寸前なのに。
「ダメ?」
しょぼんと肩を落とした
「なら、早く支度して出掛けるぞ。用事を先に済ませよう」
告げれば、途端に嬉しそうに見上げて来る。
そんな彼女を現金だと思いつつ、こちらまで嬉しくなってしまう。
「バージルにも一口あげるね」
「遠慮し」
断りかけ、バージルは言葉を飲み込む。
「……ああ。貰う。」
自分が考える『一口の貰い方』はのそれとは全然違うだろうが。
きっと──直接アイスクリームを食べるよりも、遥かに甘い。
ひょっとしたらはまた照れて怒るかもしれないが、またすぐに仲直りして……その繰り返し。


これからは立ち寄る店も、食べるものも、彼女に合わせて変化していくだろう。
悪くない、と思った。
の不安が少しでも紛れ、そして笑顔で過ごせるのなら、そんな変化も悪くない。
いや、──甘んじて受け入れよう。
バージルはそういえば、とを見つめる。
「おまえは米や味噌汁が恋しくないのか?」
「さすがにまだ大丈夫」
「俺は食べたい。」
「……じゃあ、夜はご飯炊こうね」
これじゃどっちが日本人なのか分からないよ、だの、日本人は和食の魅力を理解していない、だの……
じゃれあいながら、ふたりは午前の明るい日差しの街中に出掛けていった。







→ afterword

「worthy words」の続き、今度はヒロインがアメリカ上陸編でした。
アメリカっぽい食べ物は?と考えて、ハンバーガーやステーキではあまりに夢がないので、甘いものをということでピーナツバターとゼリーにしてみました。
ヒロインを元気づけた甘い食べ物、ドーナッツはク○スピー、アイスクリームはコ○ルドスト○ン辺りかなーと思ってます。

バージルとヒロインの生活は、文字通り甘い生活になるんでしょうか?
もう少しだけ続きます。
よければまたお付き合いください!

それでは、ここまでお読みくださいましてありがとうございました。

2008.5.29