お互い初めて会ったフリをしながらデートする。
これはバージルと、どちらにとっても相当な試練だった。
バージルは前方が混雑していればの肩を抱いて引き寄せ、人混みを避けようとしてしまう。
は荷物を持っていない手がいつもある場所、つまりはバージルの手なり袖なりを求めてうっかり触れようとしてしまう。
(これは)
(相当っ、難しい!!)
後ろにはカメラを首から下げたケイシー。時折響くシャッターの無情な音が、緊張感を重ねがけしてくる。
デート開始30分もしないうち、ふたりは心労でおかしくなってきた。
「どこまでが初対面で許される?」
「並んで歩くくらい……?だけどデートくじの相手とするデートなんて、私だってわからないよ」
顔は互いに正面に向けたまま、こそこそ小声で相談する。
この距離も近過ぎるのか、どうなのか。
「おまえに分からないものが俺に分かるか」
「あ。バージルからそんなセリフ、初めて聞いたかも」
思わずにっこり目を合わせようとして、慌てて俯く。
「し、親密なの禁止だよね」
「……面倒で敵わんな」
バージルは髪をかきあげた。
「あの記者に事情を話すか?或いは分かってくれるかもしれんぞ」
「ダメだよ。分かってくれたとして、口止めとしてあの人とデートしろって言われたらどうするの?バージルのくじ30枚買ったって聞いたよ」
「それは……」
「そんなの、私が嫌」
はいつになくきっぱり言い切った。
バージルは何か言いかけたものの、すぐに咳払いで誤魔化した。
「言っておくが、この状況は」
「私が安請け合いしたからでしょ。でも、よく考えたら……考えなくても、やっぱり嫌だって分かった」
バージルが、知らない誰かとデートする。
たかがチャリティーイベントだと頭で割り切れても、されどデートに違いないと心で納得できない。
子供じみた独占欲だと思う。しかし、ケイシーのようにバージルと一晩だけでも一緒に過ごしたいと考えた女性は確かに存在したわけで。
奇跡かバージルの魔法かインチキかは分からないが、とにかくデートの権利を勝ち取ったのは僥倖だった。例えこんな窮屈な思いをすることになってはいても。
落ち込んだのつむじを、バージルはそっと見下ろした。
「……まあ、この状況も楽しめるかもしれんな」
ぽつりと呟く。
「楽しむ?これを?」
「他人を演じる気分でいればいい。それこそ、出逢った時を思い出せ」
「出逢った時……」
たくさんの想い出を共に重ねて過ごしてきた今、日本で出逢った頃のことは本当に遠い昔のことのように感じる。
押し黙ったに、バージルは彼女に分かる程度にだけ微笑した。
「難しく考えるな。おまえはただ俺に合わせておけ」
「ん……」
唐突にバージルが足を止めた。もつられて立ち止まる。ふたり向き合うと、しっかりと目が合った。
「手を繋いでもいいだろうか?」
はっきり明瞭な声で、バージルは言った。上向けた手をエレガントに差し出して。
(なに!?)
ケイシーに聞こえてしまう。がばっと後ろを振り返ってみれば。
記者は口をパクパクさせながら、とバージルを人差し指でぐさぐさ刺すような仕草をしていた。さっさと繋いじゃいなさいよ!叫び出しそうな彼女の興奮が伝わって来る。
(ああ……わざと聞こえるように言ったんだ)
はもじもじとバージルに向き直った。
出逢った日のバージル。ほんのすこし、このひとのことを怖いと思った。そう、ほんのすこしだけ。
今その感情は心を逆さに振っても出てこないが、恋に堕ちる感覚を再現するのは、彼相手なら至極簡単だ。ただ、バージルの瞳を見つめるだけ。
機械仕掛けのように精確に、ごとんと心臓が重く鳴る。
「それじゃあ……お願いします」
傍目にもおかしなくらい震えている手を、彼の手に重ねる。
「失礼」
他人行儀にかるく手を取って、バージルはあっさり前を向いて歩き出した。
背後からカメラのシャッター音がやかましく追って来る。
(あああ)
セーフかアウトか判じかねるが、バージルの方は涼しげな顔のまま、親指でさらりとの甲を撫でた。彼は傍目には無表情にも見えるが、にはわずかに口角が上がっているように見えた。
(『楽しめる』?)
バージルは本気で他人を演じる気になったようだ。
この奇妙なデートの残り時間は、あと3時間。





手を繋いだことによって、ふたりの間には適度な距離感がごく自然に保たれるようになった。
バージルはの手を引けば人混みを避けられるようになったし、にとっては普段のままでいられるので、ずいぶん楽に過ごせている。
ただ、それでもやはり問題は尽きなかった。
この見張りつきデートの場所が、よりによって常日頃から利用しているショッピングモールだということが既に罠。
ぶらぶらと雑貨や服を眺め、時折わざとケイシーのために立ち止まる。ぼそぼそと「こういう雑貨は好きですか?」「別に好きでも嫌いでもない」等々、当たり障りのないつまらない会話を交わす。
バージルのために書店に立ち寄れば、彼がついつい本気で書棚を漁り出しそうな雰囲気を醸し出し、欠伸しだしたケイシーの手前、が慌てて彼のジャケットの裾を(こっそりと)引っ張って現実に呼び戻す。
映画のポスターに「バージルはあの俳優さん嫌いだったっけ」と口走ったに、彼が「名前を呼び間違われるのは不愉快だ」とフォローする。けれどがきちんと「ダンテさん。ダンテさんはどんな映画が好きですか?」と聞いたところで、彼は答えを返してくれないのだ。この舞台俳優の扱いはややこしい。
そして何とかまあまあ順調なように思えても、
「あ、あのコーヒー豆、そろそろ切れるから買って行かなきゃ」
すぐに頭を覗かせる生活感。
「……偶然だな。君の家でもあのコーヒーハウスの豆を使うのか?」
よりは冷静なバージルのフォローが的確に入る。
やらかした方はびくりと肩を震わせた。
「あ、えっと……ハイ。夫がここのブレンドを好きなんです……」
「君の伴侶とは気が合いそうだ」
「……。」
合うも合わないも、本人である。
このしれっとした語り口。
(さすが、なの?)
もはや呆れを通り越して感動しそうなほど。
「ついでだ。そこで休まないか」
バージルがコーヒーハウスに顎をしゃくった。
普段は店頭で豆を買うだけの店ではあるが、いつものショッピングコースならそろそろの足が痛くなって、どこかでひと休み入れるタイミング。
(そこはいつものバージルなんだね)
「はい!」
うれしくなって、はにっこり笑った。
カシャッ。
途端にシャッターが切られて、は慌てて気を引き締めたのだった。



ふたりが席に案内されると、ケイシーも抜かりなく横の席を確保した。
店内はこぢんまりとしており、席数も少ない。ショッピングモール側はガラス張りだがシェードが下ろされ、こちらを覗きにくくなっている。フロアは木材で、疲れた足にやわらかく優しい。コーナーに置かれたベンジャミンの緑も目に鮮やかで、とても雰囲気の良い店だ。
(ああ、今度ゆっくり来たいな)
こんなややこしい時でさえなかったら、店内の感想を語り合えるのだが。
「ご注文はお決まりですか?」
ひとりきりの店員に、バージルだけでなく、もオリジナルブレンドをオーダーした。
やがて湯気の香りもゆたかなコーヒーが運ばれ、それぞれひとくち味わう。
しかし。
「美味しい……ですね?」
「そうだな……」
お互い内心、首をひねる。
どこかひとあじ足りない。
もちろん、プロの淹れ方に素人によるハンドドリップが本来敵うはずもない。
(バージルが淹れてくれるから美味しいのかな)
いつもよりちょっとだけ苦味が強い気がするコーヒーを啜る。は無言でブラウンシュガーとミルクを足した。
と、そのスプーンを持つ左手に、バージルがそっと触れてきた。
(ん?)
顔を上げると、予想外に彼は真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
訊ねると、バージルは薬指の指輪をとんと指で弾いた。
「指輪……今日この場では野暮に思える」
「……え?」
「外さないか」
「え!?」
「気分だけでも互いに独身時代に戻るのもいいのでは、と」
バージルは何を言い出すのか。
横でケイシーがOh my!などと色めき立っている。この分ではカメラも取材メモも絶好調に違いない。
(不倫のシーンなら途端に色っぽくなるけど……)
確かに指輪をしていない方が、ケイシーの手前、説得力が出るのかもしれない。が、バージルが何を考えているのかいまいち掴めない。
「じゃあ、外してみましょうか」
とりあえず、言われた通りに外してみる。
言い出した本人も自分のものを外した。
「ずっと嵌めていると見える」
バージルがの薬指の跡を人差し指でなぞった。そこは普段は指輪の下、日焼けもせずに雪のようにしろい線が真一文字に描かれている。
言われてもバージルの指を見てみるが、もとが石膏のしろさの上に日焼け知らず。ほどの分かりやすさはない。
(何となく面白くないっ)
この場では言えないため、心の『後で言うことノート』に書き留める。
代わりに、表舞台でも楽屋でもどちらでも違和感のないことを口に上らせた。
「夫に貰ってから、意味もなく外したことはありません」
「そうか」
自分から外させたくせに、バージルは何だかつまらなそうだ。
話題が切れて、は手元に視線を落とした。
自分の指から離れ、久々に自由を堪能しているであろう指輪を、矯めつ眇めつ眺め回す。
(これを貰った時のこと、思い出すなぁ)
自然との頰が緩んだ。
「この指輪、すごく気に入ってるんです……って、あれ?」
バージルが小首を傾げた。
「何か?」
「えと……」
顔にぐっと近づけて、指輪の内側を凝視する。
(何か彫ってある!?)
それに、ごくちいさな石も象嵌されているようだ。
("You are sent from heaven"?こんなの、いつ!?)
目を上げると、思い切りバージルと視線がぶつかった。
傍目には分からない程度の差だが、彼はほんの一瞬前の表情はどこへやら、ずいぶんと楽しそうである。
「な、何か彫ってありました。でも、こんな……いつの間に……」
「君がそれを貰った時から外していないと主張するのならば、最初から彫ってあったのでは?」
「……。そうかもしれませんね」
またも『後で言うことノート』に項目が増えた。もやもやがどんどん溜まって沈澱していく。
(これって、私が鈍すぎていつまでも気付かないから外させたの?)
溜め息混じりに、は指輪を嵌め直した。
「つけてしまうのか?」
「はい。もうこれは私の一部で、ないとどうしても落ち着かないので」
それは嘘ではない。
元の通りとなった左手にほっとする。
指輪をすることで、自分が誰かの──バージルのものであると主張することができる。
「……君がそう言うのなら」
バージルも指輪を戻した。お互い、いつも通り。それだけで、は安心してしまった。
たかが指輪ひとつの有る無しで。
(意外と日常的になりすぎて忘れてることって多いのかも)
もっといろいろな事柄に感謝すべきなのだろう。
内心うんうん頷きつつ、はコーヒーを飲んだ。
(あ)
コーヒーもさっきより苦味がまるくなった気がする。
「このコーヒー、いつもの」
「それほど伴侶を大事にしている様子なのに、なぜ男を買うような真似を?」
「かっ」
は噎せた。
「ごほっ」
確かに自分はまたもうっかり口を滑らせかけた。だが、それを封じるためとはいえ、よくもそんな。
(バージルぅぅぅ)
明らかに彼は自分を翻弄して楽しんでいる。今笑い出さないで耐えているであろう、その鋼の精神力こそ褒めたくなるほど。
「日常から……」
「日常から?」
日常から逃げ出すため?
いや、この返答は駄目だ。真実がそこにないとは言え、禍根を残すのは避けなければ。
「他の……」
「他の?」
他の男性と過ごしてみたくなったから?
論外だ。やはりそんな願望があるのかと彼を誤解させた上に怒らせるなどとんでもない。
何か、何か返す一手は。
この場でおかしくない、けれど裏舞台のバージルをもぎゃふんと言わせる、気の利いた何か。
横目で見れば、ケイシーもメモを取る勢いでこちらに注視している。
(そういえば!)
先程ケイシーはなかなか素敵な一言を使っていた。あれなら、きっと。
は冷めたコーヒーで、咳で荒れた喉を潤した。
「私の……」
「君の?」
「……私の夫はComplete packageなのですが、知らない誰かさんと過ごしてみることで、夫の魅力が更に三割増しになるんだろうなと確かめたくなったんです」
ゆるゆる視線を上げれば、バージルもコーヒーを飲んで時間を稼いでいる。
鸚鵡返しに何か言って来ないし、目も合わないということは、多少は彼に効いたのだろうか。
「……あなたは?」
バージルが顔を上げる。
「あなたも指輪をすぐ戻すくらい、奥様を、だ、大事にされているじゃないですか」
これは結構なチャレンジだった。にとっては。
それなのに、バージルはあっさり頷いた。
「そうだな。俺は妻を愛している」
「えっ!?」
「えっ!?」
時が止まった──だけでなく、横のケイシーすらも巻き込んで。
「何か問題でも?」
バージルがぐるりと睨む。
「い、いえ!」
「なんでもないわ」
女二人はあわてて首を振った。
の方はもう顔を上げられない。
(静まれ心臓~~~ケイシーにおかしいと思われちゃうよ)
顔が熱病のようだ。自分で分かるほどの熱さ、傍から見たらどれだけ真っ赤になっていることやら。
(ばばばバージルは他人を演じてる方が素直にセリフを言えるの!?)
それともこれすらも台本のうちか。
(どっち?)
今すぐ訊ねたい。滅多に聞けない言葉は脚本家、それとも俳優本人、どちらのもの?
思ってもみなかった強烈な応酬に眩暈がする。
が深呼吸に深呼吸を重ねたとき、
「ご馳走さま!」
いきなりケイシーが席を立った。
こちらのテーブルにも代金を置く。
ははっと顔を戻した。
「ケイシーさん?」
「もうそろそろ時間だし、あたしは社に戻るわ。楽しい取材をありがとう」
「あ、いえ……」
「それじゃあね、また何か機会があれば」
抜かりなくバージルにウインクを飛ばし、ケイシーは嵐のように立ち去って行った。
バージルはやれやれと椅子に凭れた。
「勝手なものだ」
「でも、なんとか凌いだ……ね……?」
は一気に脱け殻気分。許されるなら机にダイブしているところだ。
「もう規定の時間も終わるな」
バージルが腕時計を確かめた。
「よかった。終わってみると、あっという間だったね」
「俺が別の女と過ごしていても同じ台詞が言えたか?」
「言えません、ごめんなさい。……あ、じゃあ、もう自由時間になったんだし、ついでに」
「豆か?」
ふたり、先程までの名残で何となしに周りを警戒してみる。
「……まあ、もう記者がこちらに戻る事もないだろうし、大丈夫か」
店員を呼び、いつものコーヒー豆を500グラム計ってもらう。
いい香りの麻袋を抱え、はもう誤魔化す必要もなくなった100パーセント本物の笑顔で、バージルを見上げた。
「今度ゆっくりここに来ようね」
「おまえはここを気に入ると思った」
バージルの方も今はリラックスした表情だ。
「むしろ今までどうしてここでお茶しなかったんだろうね?」
「それはケーキだなんだと、茶の前に優先する物がおまえにあったからだろうな」
「……そうでした」
気まずく目を逸らすに、バージルが手を差し出した。
「貸せ」
袋を彼に手渡す。
「ありがとう」
いつものように、の手が空く。
それから数瞬だけ間があって、お互いどちらからともなく手を繋いだ。



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