under the skin




それは突然のハプニングだった。
夕食を済ませ、はお決まりの席、ソファで読書するバージルの足元に座ってスマートフォンをいじっていた。
さっき杯を重ねたワインが回ってほろ酔い気分、ゆらゆらと頭が重い。心地よく船を漕ぐ頭がぐらりと後ろに倒れて、ごんとバージルの膝に当たった。
「痛ぁ」
「寝るなら二階へ行くぞ」
「んー……もうすこしだけ……」
気の毒さを微塵も見せないバージルに、は顔をふるふる振った。何せ平和をことこと弱火で煮詰めたような、この時間がとても好きなのだ。おまけにアルコールも手伝って、心地よさは最高潮。むにゃむにゃと伴侶の腿に頬を預けた。
「もし寝落ちたら、この前みたいに抱き上げて寝室に連れてってくれるでしょ?」
「あの時のおまえは真面目に勉強していたからだ。今日は運ばんぞ」
「えー」
「起こす手段も文句は言わせん」
「……。今のでちょっと目が覚めた」
きっぱりしたバージルの声音に、手元から落ちかけていた端末をしっかり持ち直す。画面に新しい通知が来ているのを見ると、の口元がほころんだ。
メッセージをやりとりしている相手は親友、今は日本に帰っていて、こちらに残ったダンテとは遠距離恋愛になっているである。
、就活順調だって。レジュメのこと、バージルに感謝してる」
「そうか」
「私からも、ありがとう」
バージルのおおきな左手が、本のページを捲るついでを装っての髪を撫でる。彼の薬指のプラチナに目を留めて、そろそろ細工の相談をしなくちゃな、とがのんびり考えた時。
バッと音がして、いきなり全ての照明が消えた。
「え!?」
「停電か」
今はブレイカーが落ちる原因となるような電化製品は何も使っていない。
背後でバージルが立ち上がる衣擦れの音がした。慌てても立ち上がる。
「バージル?」
明かりに慣れきった目は、この暗闇では何も見えない。
べったり張り付いて息苦しくなりそうなほどの闇の中、後ろにいるはずの恋人に手を伸ばす。
「ねえ。バージル?」
中指が何かに触れた。
やわらかいそれの正体に気づく前に、
「いっ」
かぷりと歯が立てられる。
「もう、バージル!ふざけてないで」
怒ってはみたものの、この深い闇の中に確かにバージルの存在を確認し、はひとまずホッと安堵した。
「もしかして見えてる?」
「恐らく、おまえよりはな」
お詫びのように中指と薬指の先にそっとキスされた手は、そのまましっかりと繋がれた。
バージルにゆっくり手を引かれ、窓の近くにふたりで並ぶ。辺りを見回しても、街ごと闇に包まれている。かろうじて、爪で引っ掻いたような細い月がうっすら雪の積もった道路を儚く照らしている程度。今なら星もひとつぶひとつぶ数えられそうだ。
「まーっくら。明かりがないとちょっと怖いね。不便だし」
「予備電源があるから、最低限の水回りは問題ない」
「お湯使えるの?」
「使える。だが無駄遣いはできん」
「そうだね」
「復旧に時間がかかりそうだからな」
「ホリデーシーズンだしね」
隣家ももちろん真っ暗だ。庭に飾られているはずのきらきらしいLEDのオーナメントも、今は夜闇の中に息を潜めている。
どこからか、わおーんと情けない犬の遠吠えが届いた。やがて呼応するかのようにあちこちの犬たちがサイレンに似た合唱を始め、辺りは不穏な気配に満ちていく。
尋常ならざる夜。
「こんなの初めて」
少なくともがこちらに越して来てから、停電に見舞われたことはない。
は手に持ったままのスマートフォンを起動し、時刻を確かめた。九時を回ったばかりの、シンデレラもまだ舞踏会を楽しんでいる時間。
そのまま視線を画面右上に移すと、バッテリーの残量が気になった。停電では充電もままならない。
「せっかくだから、デジタルデトックスしよ」
暗くて何も出来ない以上、むやみやたらに騒いでも仕方ない。
に『急に停電になった!バッテリー節約で電源切るからしばらく返事できないけど、地震とか災害が原因じゃないから、それは心配しないでね。復旧したらまたメッセする。それじゃ、またね!』と送り、そのまま電源を落とした。
「バージルも切ったら?」
意外にも落ち着いているように見えるに、バージルは内心驚いた。
「さすが災害大国の人間と言ったところだな」
「それって一応は誉めてくれてる?」
「ああ」
バージルの方は特に誰かにメッセージを送ることなどないまま、スマートフォンの電源を落とした。
端末からの光も消え、室内は再び完全な真っ暗闇に戻る。バージルはの肩に手を置いた。
「このまま窓の近くにいろ。下手に動くな。俺にはおまえが見えているから安心しろ」
「私もバージル見たいよ」
「少し待て」
バージルはぽんとの肩を叩いてから、斜め前へ歩いて行った。足音を高く立てているのはのためのようだ。
足音が向かった先を思い浮かべるに、彼は暖炉をつけることにしたらしい。
今夜はオイルヒーターで寒さを凌いでいたが、停電の今、古典的な暖房器具を頼る必要がある。
「暖炉つけるの?」
「ああ」
「やった」
は暖炉の方が好きなので嬉しくなった。普段からもっと使いたいのだが、彼女が家に一人の時は危ないと、家主に暖炉の使用を認められていない。夜は夜で近代的な暖房で既に部屋があたためられていることが多く、準備に時間がかかる暖炉をあえて使うこともない。必然、暖炉の出番は特別な日のみと少なくなってしまう。
「どこかに火種が……」
暖炉の周りを触りながら探すバージルに、動くなという命令を無視して隣に歩み寄ったが紙を差し出した。
「はい」
「これは?」
「たぶん、今日解いたプリント」
「間違いが3箇所ほどあったはずだが?」
「それはもう完璧に覚えました、Sir」
溜め息をつきながらも、バージルはその紙にマッチで火を付けた。
もともと組んでおいた暖炉の中の細い枝に火を移す。様子を見ながら枝や紙を足していくと、橙の炎がすこしずつ広がっていく。
脇に積まれた薪の上から適当に一本手に取り、バージルはそれがりんごの木だと気がついた。りんごは燃やすといい香りがする、とっておきの薪だ。クリスマスや新年など特別な日にと購入したもので、地下に山と積まれた他の薪と違って数に限りがあるが、今使ってもバチは当たるまい。新たにくべたその薪に無事に火が回る頃には、も視界を取り戻した。
「火が完全に落ち着くまで、まだ時間がかかるぞ」
薄着のにバージルは自分の着ていたジャケットを羽織らせた。
「ありがとう」
バージルのあたたかい体温とあまいアンバーの香りごと譲り受ける。深呼吸すれば、慣れ親しんだ彼の香りと暖炉の香りとが混ざって、何ともいえない多幸感に包まれた。
「バージルは寒くない?」
「大丈夫だ」
薪が爆ぜる音がかすかに聞こえる。
暖炉の上、本来はインテリアとして置いているだけの蜜蝋キャンドルに目を留め、バージルは暖炉から直接それに火をつけた。あたたかい色の光がゆらゆらまるく辺りを染める。
「だいぶ明るくなったね」
「これで暖房は問題ない。もう寝るか?眠かったのだろう」
はうーんと腕を組んだ。
時間的にはまだ十時にもなっていないはず。
先程までは耐え難かった眠気も、このハプニングでとっくにどこかへ吹き飛んでいる。
それに、今つけたばかりで煌々としている暖炉の炎。自分が寝ても、バージルはしばらく起きていることになるだろう。
「まだ起きてる」
バージルは頷いた。
「もう少し部屋を明るくするか?」
「うん」
「ならばパニックルームに蝋燭を取りに行く。懐中電灯かランタンもあったはずだしな。おまえはどうする?」
「ついてく」
「足元に気をつけろ」
バージルが燭台を持った。
暖炉が多少は闇を押し返したとはいえ、まだまだ部屋も廊下も暗い。はバージルの袖口をしっかり掴んだ。
バージルの方はと言えばキャンドルのわずかな光で本当にしっかり見えているのか、それともこの家の間取りを完璧に覚えているのか、歩みに躊躇が全く見られない。もだんだん気が大きくなってきた。
「こんなことなら、パニックルームのお掃除ももっとちゃんとしておけば良かったね」
「何の為に?あの部屋で過ごしたいのか?」
「こんな時でもないと使わない部屋でしょ?」
「使わないに越したことはない部屋だぞ」
「そうだけど……」
にしてみれば、使わない前提、もしくは使うシチュエーションが来ない方がいい部屋が家にあるということ自体が驚きなのだが。
バージルが足を止めた。
「着いた。足元に階段が五段程ある。踏み外すな」
「うん。……わ!」
「だから気をつけろと」
「気をつけたけど、バージルが隣りにいると思うと気が緩むの」
「……。」
腰を支えてもらって、何とか派手な転倒は免れる。
ぱちんとスイッチを入れる音がして、は「あ」とバージルの方を見た。電気が使えないのを失念した手癖だったようだ。
「……。」
「……。」
もう一度、ぱちんと虚しい音が響く。お互い何も言わないまま、部屋に入った。
「燭台を持ってくれ」
「うん」
足元を照らすように光を掲げ持つ。
綺麗に整頓されたパニックルームから、バージルはあっさりとランタンを探し出した。電池式のタイプのそれを灯すと、のキャンドルと交換する。
ランタンと蝋燭で、周囲はだいぶ明るくなった。
「あとは懐中電灯か」
「ここにあるよ。……あ!」
サバイバル道具の山から、がお宝を嗅ぎつけた。
「チョコチップクッキー!これも持って行こうよ」
「おまえ……楽しんでいないか?」
「これも訓練の一環だよ。消耗品も、ほら、あれ、ローリングストック!」
「……さすがは」
「災害大国出身」
複雑な表情のまま、バージルは予備の蝋燭と電池と毛布を抱え込んだ。
クッキーの箱だけでなくガス入りのミネラルウォーターもついでに見つけてジャケットのポケットに突っ込んで、はにんまりと微笑んだ。



暖炉の前にランタンを置いてラグに座り込み、ふたりで毛布に包まる。目の前に水とお菓子を並べれば、ささやかなキャンプの真似事が始まった。
穏やかに、煮詰まった夜の続きがやってくる。
ぱちんと薪の爆ぜた音に打たれたように、が目を上げた。
「そういえば、こんな夜にぴったりの物がある」
一瞬だけバージルの隣を離れ、大きな長方形の箱を抱えて戻った。
「それは……」
「パズル!」
星空と海、一面が青いグラデーションという、うつくしくも恐ろしく難解なこのジグソーパズルは、バージルから貰ったばかりのクリスマスプレゼント。
「……その難易度のパズルをやるのか?」
「このパズルを選んだあなたがそれを言う?」
「照明の下で組み立てるのと、停電時の乏しい明かりの下では全く違うだろう」
「でも、いい機会だと思わない?」
「スクラブルで語彙増強するいい機会だとは思わないのか?」
「勉強は今夜はもう充分」
隣の制止も聞こえないフリ、はざらざらとピースを広げた。ラグが一面、湖になったかのように青を纏う。水面に座り込んでいるかのような不思議な浮遊感に、はうっとり微笑んだ。
「ああ、青が綺麗だね。こんなに暗いのに、余計に綺麗に見えるかも」
褒めてもパズル側の難易度は下がらんぞと毒づきつつも、バージルは最後の抵抗を試みた。
「……フレームは?」
「ここにあるよ!」
が手を伸ばして引き寄せれば、まだ一部にラッピングが施されたままの金枠の舟が湖に浮かぶ。
あくまでやる気満々の彼女に、バージルは溜め息をついた。
「本当に手を付けるのか」
は横目で、ちちちと指を振った。
「"Do not go gentle into THIS good night"!」
「……"Old age should burn and rave at close of day"」
「"Rage, rage against the dying of the light"!ってことで、さ、まずは端っこのピースを探そう」
「おまえにかかると賢人の壮大な詩も、スケールが一気に家の停電サイズになるな」
「まあね。あ、ほら、バージルの膝のとこ。右上隅のピースかな?」
一枚の毛布を分け合っているせいで、互いの身体が邪魔をしあって、可動域がひどく狭い。それも不便というより楽しさが勝っているのは、わざわざ隣を確認せずとも伝わってくる。
バージルは毛布のあたたかい空気を逃がさないよう慎重に腕を伸ばして、最初のピースをフレームに嵌めた。
「あと何ピースだ?」
「2999!」
自ら選んで購入したのだから分かってはいたものの、改めて聞くとその数たるや気が遠くなる。さりげなく手元に配置されていたミネラルウォーターのキャップを捻って喉を潤す。にも同じものを開けて手渡した。
「完成まで果てしなく遠いな」
「まったり組み立てようよ」
「それはそうだが」
ごん。
奇しくも同じピースに手を伸ばしたふたりの額がぶつかった。
「完成までに3000回くらい、頭ぶつけそう」
「そうだな」
忍び笑いが空気を揺らす。
実際、幾度も頭や肩や腕や膝がぶつかったし、大抵はの方がバージルの倍以上に痛みを感じたが、それでもどちらも別の毛布を用意して相手から距離を置こうとはしなかった。



天辺と底辺がもう少しで完成といったところで、はおおきな欠伸をした。時計に目をやれば、とっくに二時を回っている。
「今夜はここまでだな」
暖炉の薪もちょうど燃え尽きようとしているところ。燃えさしを崩すため、バージルが立ち上がった。
「先にランタンを持って寝室に上がれ」
「うーん……」
はもそもそと毛布を引きずって、後ろのソファにころんと倒れこんだ。
すかさずバージルが見咎める。
「ここで寝るのか?」
「寝室よりあったかいんじゃない?……ふぁぁ」
答えたはもう夢に片足を突っ込みかけ。既に自分からは動きそうにない。
バージルはやれやれと腰に手を当てた。
。二階へ運んでやるか?」
「んー……ここがいい……」
「全く」
バージルは呆れながらも寝室へ上がって、二人分の布団と枕を抱えて戻った。
「ほら。もう少し詰めろ」
を背凭れ側に押し込み、後ろから抱きかかえてバージルも横になる。そのままスプーンのようにぴったり重なった。
「ソファで眠るの、なんだか懐かしいね」
嬉しくなって、はバージルの方を向いて抱きついた。もともと狭いソファの上、スペースは更に減ったが、くっついていられる幸せは譲れない。二階の大きすぎるベッドでは、こうまで密着できないのだから。
もぞもぞと快適なポジションを探す彼女の頭のてっぺんに顎を乗せ、バージルはその背中を撫でた。
「あまり動くな。こんな夜に襲われたくなければな」
途端、ぴたりとは動きを止めた。
「……。明かりなしでシャワー浴びるの、滑ったり転んだりして怪我しそうだもんね」
「……。バスルームは危険だが、シャワーブースなら狭いから安全だろう」
「……冗談って分かってるよね?」
「だったら早く寝ろ。俺が本気にしないうちに」





……湯気で曇ったバスルームから、いとけない子ども二人が弾丸のように飛び出した。
石鹸の香りごとそれぞれバスタオルで受け止めて、金の髪の母はくすくす笑う。
「ほらほら二人とも、しっかり拭きましょうね」
じぃっと石像のように耐えている子、ちっともじっとしていない子。
どちらも同じようにわしゃわしゃと拭かれていたが、じっとしていない方が、ついに母親の手から逃れた。
「あ。待ちなさい」
てんてんと廊下にちいさな足跡をつけながら、リビングの方へ走っていく。
「もう」
追いかける前に、母はおとなしい子どものまだしっとり濡れた銀の髪をくしゃくしゃ撫でた。タオルでくるんで抱きしめる。
「捕まえて来なくちゃ。すこしだけ待っていられる?」
おさな子は、くしゅんとちいさく返事した。
「あら」
母は微笑んで、別のバスタオルを取り出した。
「もっとしっかり拭かなくちゃ、風邪を引いてしまうわね」



しつこいくらいに髪を拭われて、バージルはいやいやと頭を振った。
なおも母の手は追いかけてくる。
「……もういい」
「え?」
──自分を覗き込んだのは、青の瞳ではなく黒の瞳だった。手にはバスタオルではなく、薄いガーゼの、よく冷やされたタオルを持っている。
「……
ようやく現実に戻って来たようだ。それでも何故だか頭がぼんやりと頼りない。
起き上がろうとしたバージルを手でそっと制し、の眉がハの字に下がった。
「まだ寝ていて。バージル、熱があるの」
「熱……?」
訝しんだが、確かに全身が怠い。おまけに鼻の通りも悪く、息苦しい。
「今は何時だ」
訊ねながらも自分で壁を見上げる。時計は一時を回っていた。これはまた随分と寝過ごしたものだ。
は今にも泣き出しそうだ。
「ごめんね。昨日、私が布団も毛布も奪っちゃってたみたい」
その償いとばかりに、今のバージルにはまふっとたくさんの毛布が掛けられている。
バージルは顔を顰めて上掛けを剥いだ。
「……暑いし重い」
「そう?」
は心配そうに一枚だけ毛布を外した。彼女の手に触れれば、驚くほど冷たく感じる。自分は本当に体調を崩したようだ。バージルは気怠く瞬き息をついた。
「今、お薬はシロップしかないの」
はチェリー味と書かれた、いかにも甘ったるそうな色の風邪薬の瓶を持ち上げて見せた。子ども用のそのシロップは、彼女が面白がって購入したものだ。彼女自身は健康そのものだったため、未だに封切られていない。
バージルは無表情で顔を振った。
「ソレは効かない……」
普段はシルクの耳触りのバージルの声が、ぼそぼそと麻布のように荒く毛羽立っている。はますます申し訳なさを感じて肩を竦めた。
「分かってる。ちゃんとした錠剤、外が明るい内に買って来るよ」
「電気はまだ復旧していないのか」
「うん。ラジオのニュースでも、もうしばらくかかるだろうって。バージル、お腹は?チキンスープあるよ。りんごもバナナも」
「薬を飲む時でいい」
「わかった。お水は横にあるから」
頷き、バージルは目だけ動かして部屋を見回した。電気が戻っていない割には暖かい。
彼の考えを察したのか、は降参のようにひらひらと両手を上げた。
「ごめんね。暖炉使ってる」
その手はどちらも怪我したようには見えないから、薪で指を切ったり、火種で火傷を負ったりはしていないのだろう。 この際仕方ないとバージルは納得した。
それよりも。

「ん?」
幼い頃の記憶で、思い出したことがある。
その薬剤の名称を告げると、はすこしだけ複雑そうな表情を見せた。が、すぐに頷き立ち上がる。
「行って来るね」





とろとろと微睡んでいたが、外で車のドアが閉まる音と、それに続く話し声でバージルは目を覚ました。
『車出してくれてありがとうございました』
『いいのいいの、こんな時だもの。こっちも蝋燭ありがとう』
『いえいえ。それじゃ、また何かあったら』
はお隣にSOSを出したらしい。停電の影響で交通機関も乱れているのだろう。
やはりそろそろ免許を取らせるべきかと、バージルはうつろに考えた。暖炉どころではなく心配事が増えることにはなるが、彼女自身は便利になるだろう。
働きが鈍い頭で、車種は保険はと思考を重ねているうち、
「ただいまー」
大きな紙袋で視界が半分塞がれたがリビングに入って来た。重そうな荷物に、よろよろと足取りも危なっかしい。
何をそんなに買って来たと問おうにも、咄嗟に声が出ない。
目顔で問われ、は紙袋とバージルに交互に目配せしてみせた。紙袋をどんと置く。
「せっかく車出してもらって買い物に出たから、お薬以外もいろいろまとめて買って来たの。どこも混んでたよ」
はコーヒーテーブルをソファに寄せ、そこにオレンジジュースの瓶を袋から出した。
「お水減ってない。喉乾いたでしょ?グラス持って来る」
今にもキッチンに消えそうなを、
「待て」
バージルが喉に絡む声で引き留めた。
何となし緩慢な動きでが振り返る。
「……なに?」
「アレは?」
は視線をあちらこちらへと揺らした。
「先にごはん食べて、お薬飲まない?」
「アレがいい」
「薬局で聞いたけど、アレはアロマオイルみたいなものらしいよ。シロップより効かないんじゃないかな」
「気休めにはなる」
「……もう」
こうなると、頑固なバージルを言い包めることは難しい。
溜め息をつきつつ、は頑固者の腰の横に座った。
紙袋をがさごそ鳴らし、青い塗り薬のジャーを取り出す。
「これでよかった?」
バージルは我が意を得たりと偉そうに頷いた。
「失礼します」
断り、は毛布を捲る。が、そこまでしてもバージルには動く気配がない。
「……脱がないの?」
「怠い。おまえに任せる」
「……。」
「……。」
しばし目線で攻防しあうも、結局は看病側が目を逸らした。
バージルがきっちり着込んだシャツのボタンを、首元からひとつひとつ外していく。手元をじぃっと見つめられ、簡単なはずのその動作がやたらと難しい。
は眉根を寄せた。
「ねえ。楽しんでるよね?」
「さて」
「全く……」
鳩尾まではだけたところで、は指を止めた。
「寒くない?」
バージルは軽く頷いた。
「手早く塗っちゃおうね」
ジャーを開けると、メントールのすうっとした香りが鼻に届いた。半透明のジェルを指で掬えば、ひんやりとした感触が指に気持ちいい。香りとともに、いかにも効果がありそうではある。
「懐かしい匂い」
「日本にもあるのか」
「うん。普通はちっちゃい子どもにしか使わないと思うけどね」
の皮肉を、バージルは瞬きひとつで受け流した。
風邪引きさんの熱い肌に乗せる前に、は自分のてのひらでジェルを伸ばして温めた。
「冷たかったら、言って」
おっかなびっくりの手で、バージルの鎖骨の辺りにそうっと触れる。普段より熱い肌。まだ冷たかったのか、彼はふっと息を止めた。
「ごめん。もうすこし温める」
バージルは文句を言うでもなく、ただの挙動を見守っている。ジェルを手に取る、てのひらに乗せてあたためる、肌に触れる、やさしく撫でる……それらひとつひとつの動きにつれて、青い眼差しの軌道が残りそうなほど。
落ち着かないから!と照れ隠しに怒ってみようとして、は開いた口をまた閉じた。
(そういえば)
遠い昔、自分が子どもの頃に風邪を引いた時も、母親にこうやって優しくジェルを塗ってもらった記憶がある。やはり自分も、じぃっと母の手を目で追っていたのではなかったか。
「……熱がある時って、なんだか気弱になるよね」
充分に人肌に温まった薬剤をバージルの胸に伸ばす。なめらかな肌の感触に心地良さを覚え、癒されるのはお互い様か。バージルの呼吸も深い。
「まあ、あなたが風邪程度で気弱になるとは思えないけど」
肌の下、彼の鼓動を確かめるようにてのひらを胸に押し当ててみる。規則正しく、若干速く、とくとくと刻まれる音。いとおしさに衝かれるままゆっくり手を滑らせれば、バージルがくすぐったそうに目を細めて、の手首を掴んだ。すぐに熱が伝わって来る。
「まだ熱いね」
「だが、楽になった」
「本当?もうこれ効いた?」
「ああ」
「じゃあ、シロップも効くかもね?」
「それは要らん」
いたずらっぽく微笑んだに、バージルが軽く唇を尖らせた。やけに子どもじみた仕草だが、そこにちょっとは力が感じられるようになって、はすこしだけホッとした。朝、しっかりと腕に抱きしめられていたまでは良かったが、その肌がやたら熱く、彼の体調が悪いのだと気付いた時は本当に焦った。
もうひと掬い、ジェルを取る。バージルの鎖骨から胸骨の辺りまで、仕上げるように丁寧に撫でる。
「……これくらいかな?」
バージルが頷いた。
終わってしまえばやけに名残惜しいが、触れた肌からそうっと手を離す。
ボタンを留めていくのは、外した時よりも時間がかからなかった。喉元だけは開けておく。普段よりも無防備に覗いているバージルの肌に、胸がときめく。
お互い、この薄い肌の下に隠し持った感情は同じ温度だといいな、とは思った。
「さて、次こそごはんとお薬だね」
今は感傷に浸っている場合ではない。はぱんと手を叩いて、すっくと立ち上がった。
窓の外には既に薄暮が迫っている。
闇が忍びこみつつある室内に、いつもの手癖で、は壁のスイッチをぱちんと押した。
「あ。……あ!?」
そういえば停電だったと思い直すと同時、ちゃんと電気がついていることに気付く。
この時刻には眩しいくらいの光量だ。
「復旧したね!思ったよりも早かった」
窓からひょいと隣家を見れば、ポーチのライトが点々と玄関へ続いて道を照らしている。
周囲の家々もすっかり元通りのようだ。
周囲が明るく見渡せるということは、ただそれだけで心強くなる。
はにっこり笑って、バージルを振り返った。
「さ、あとはバージルが元気になるだけだよ」
暖炉の前に置きっぱなしにしたままの、一面の青を指差す。
「パズルも組み立てなきゃだし」
それから、とは一瞬口ごもった。
「……お風呂も明るくなったと思うし」
早口言葉のように呟き、はスリッパを鳴らして駆け去った。
「……風呂」
聞き間違えたかと、リビングに独り残されたバージルは瞳を揺らした。が、彼女のあの焦りようを見れば、どうやら自分の耳は正しく音を捉えたようだ。
「……今日は手出しするのはやめておくか」
先程までの戯れで、肌の下で熾火のように燻る想いはある。もうひと触れで、全身に火が回る寸前の。身を焦がす炎に巻かれてしまうのもそれはそれで一興ではあるものの、ここは下手にちょっかいなど出さず、さっさと体力を快復させるのが最適解だろう。
「風邪が移らなければいいが」
そればかりは自分ではどうしようもない。
だが、もし移ったとしても、例の塗り薬はまだまだ充分な量が残っている。彼が治療する側に回るのも、なかなか楽しいことになりそうだ。
「……結局、触れたいだけか」
潔く認めてしまえば、が塗布してくれたメントールの匂いが揶揄うように鼻先をかすめていった。







→ afterword

そもそもはmodバージルさんを見ていたら、どうしてもあの素肌にヴェポラッ〇を塗りたくなって…!前も双子にヴァポラ〇ブ塗りたいって書いたような。実際にお話書いたかどうか覚えてないのですが、どこかで同じネタやってたらすみませn
パズルは、テレビの英語番組で「停電の時は蝋燭の灯りでパズルを組み立てた」というエピソードを見て、何それ素敵それも入れようということになったのでした。相変わらず後先考えないスタートからのごちゃ混ぜです。
そういえば、バージルさんちはいつ玄関で靴を脱ぐ日本形式になったのかな。ラグ座り込みは前からちょいちょい書いてましたが、最初は靴履きっぱなしでおうちに入ってた気がする。ま、まあ、これに関しては絶対に靴脱いで家に上がる方が衛生的でいいですよね。

なんとか無事に年内Upできてよかったです…
ここまでお読みくださってありがとうございました!
素敵な年越しを♪
2019.12.30