Platinum chain (Reprise)




ぴんぽーん。
玄関のチャイムが控えめに来客を告げた。と同時に、は扉を開ける。かれこれ約束の1時間も前から、そわそわと落ち着きなく待っていた相手なのだ。
「こんにちはっ!」
「こ、こんにちは……元気ね、あなた」
若干腰が引けつつ入って来たのは、ホリー。バージルとの結婚指輪を手掛けたジュエリーデザイナーだ。
つい先日、ふとしたきっかけで指輪の内側に刻まれたバージルからのメッセージに気付いて(気付かされて)からというもの、も彼の指輪に刻印しようと、その機会をじりじりと見計らっていたのだ。
やはり、バージルが在宅中にホリーと打ち合わせすることだけは避けたかった。指輪を借りる以上、自分がされたような長い期間の秘密にしておくことは叶わないが、それでもせめてメッセージが刻印され、再び彼の指に戻るまでは内容を秘めておきたい。
だから、バージルが外出する予定時刻とホリーに来てもらう約束を念入りに摺り合わせ、『バージルはいないけど、今日ホリーさんと指輪の打ち合わせ済ませちゃうね』という万全の状態を準備したのだ。
「どうぞ、入ってください」
客人を誰もいない空っぽのリビングに通して、ソファを勧める。
キッチンで紅茶を淹れて戻ると、ホリーがにっこりとルージュの唇を微笑ませた。
「彼から大事に預かっているのね?」
の左手中指に目を留めて、ウインクしてみせる。
「え?……あ!」
注がれる視線を辿って、はあわあわと手を振った。
いつもと違う主の指で、サイズの合わないマリッジリングがくるくる回る。
今朝、バージルからこれを預かった時、最初はそれこそ大事にリングピローに保管しておこうかと思ったのだ。
けれど、やはり肌に着けていたいと考え直し、チェーンに通して首にかけてみた。鎖骨で輝くそれも良かったのだが、ふと擡げた悪戯心で中指に嵌めてみたら──当たり前のようにの指には大きすぎたのだが、その大きさが、いかにバージルの手が大きいか──彼の優雅な指が細めに見えても、男と女の違いをはっきり思い知らされるようで、どうしようもなく胸が疼いた。
そうして気付いてしまえば、もう中指から外せなくなってしまったのだった。
の動きにつれてよく踊る指輪をなくさないように、半ば左手を封じるように握り締め、不便は不便な午前中だったが、中指と薬指で、常なら並ぶことはない双つの白銀を見ているのは楽しかった。
「大事に着けてくれてて私も嬉しいわ」
目を細めるデザイナーに、は照れ笑いで応じた。
「とっても気に入ってるんです。作ってくださって、本当にありがとう」
中指を守ってくれていたバージルの指輪をそっと外す。
テーブルの上に準備しておいたリングピローに載せて、ホリーに手渡す。
そして、本題。
「これを……」
折り畳んだメモを滑らせる。
「見せてもらうわね」
デザイナーにメモを渡してしまうと、は俯いて真っ赤になってしまった。
の様子に微笑ましそうに目を細めつつ、ホリーはどれどれと紙を開く。
「……まあ」
ぽつんと呟かれた一言。それきり、彼女は黙ってしまった。
瞬きの音さえ響きそうな静寂に、いたたまれなくなってはおそるおそる顔を上げた。いつの間にかこちらを見ていたホリーと目が合う。弾かれたようには身を乗り出した。
「す、スペルミスですか?長すぎますか?おかしいですか?だめですか?」
「落ち着いて、大丈夫だから」
どうどうと両手で押し留める仕草をして、ホリーは改めてメモを読んだ。顎に手を添えて、ううむと唸る。
「なんていうか……」
「……はい」
「スケールが大きくて……でも、あなたにとって彼はそんな存在なのね」
「はい……」
が犬だったなら、ぺしょりと尾を垂れたろう。叱られる数秒前のコッカースパニエル。
ホリーはぽんとの肩を叩いた。ゆっくり顔を上げたに、親指を立てる。
「いいと思うわ!後は任せて!」





指輪を預けて、半月後。
刻印が仕上がったという連絡を受け、はうきうきとホリーのお店に向かった。
工房も兼ねている、こぢんまりとした店舗の一角。ホリーに真向かう形で、座り心地の良い布張りのソファに腰掛け、はバージルの指輪と無事に再会した。
「さあ、ゆっくり確認してちょうだい」
白い手袋を着けたホリーが、どうぞと笑った。
ベルベットを纏ったケースの中、プラチナの指輪は綺麗に磨かれ、誇りかに輝いている。
「失礼しまーす……」
何となしに及び腰のまま、はそうっと指輪を摘み上げた。陽に透かすように見る。
「わ……!」
内側にはしっかりと、メッセージが一言一句違うことなく刻まれている。午後の陽射しにきらきらと輝くアルファベットは、最初からそこにあったような気さえする。
「石もちゃんと入ったんですね」
「ええ。職人の腕がいいから」
「それに、デザイナーさんのセンスも」
「ふふ」
二人は再びリングを見た。
とある文字の上に、ヒドゥンジェムがひとつぶ埋められている。このことはバージルには話していない。まさにヒドゥン、まだ本当の秘密だ。
「それでオーダー通りかしら?」
ホリーが膝に頬杖をついて、顔を覗き込んで来る。
は大きく頷いた。
「はい!」



が指輪を受け取った、その日の夕方。
所用から戻ったバージルを、はショッピングモールに連れ出した。
最近ではコーヒー豆を買うだけでなく、店内で飲食もするようになったコーヒーハウスに入る。
先日、バージルとが他人を演じた店。成り行きでが指輪を外すことになり、その内側の秘密に気付いた場所でもある。
もうすっかりお馴染みとなった店舗の、これまたお馴染みの奥のテーブルにゆったりと席を取る。
夕方、食事時のカフェは人気が少ない。カウンターで、たまに見かける常連と思しき初老の紳士がペーパーバックを開いているくらいだ。
オーダーを済ませてしまうと、低く流れるBGMの他は、壁にかかった時計のこちこち音さえ聞こえてきそうなほどに静かになった。飾られたベンジャミンも、本日分の接客は終わりましたよとばかりにそよとも動かない。
居心地の悪さに、は椅子の上でもぞもぞ身動きした。
普段から、バージルと賑やかに会話するわけでもない。言葉なく、ただふたりで過ごすことは負担でもないし、その方が安らぎを感じるタイミングだってある。
だが、今日はすべきことがあるのだ。
視線を落として自分の指輪を見る。いつもと同じ場所にある。渡すべきバージルの分は、バッグの中にしまってある。
彼も恐らく呼び出された理由に気付いているだろうし、軽く切り出せばいいのだ。軽く。
『指輪が刻印されて戻って来たよ。着けてみて』
ただそれだけ言えばいい。
それだけのこと、なのに。
(普段、バージルとどうやって会話してたっけ?)
そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらい、きっかけのしっぽが掴めない。
の気まずさが最大まで膨れ上がる寸前、店主がコーヒーを持って来てくれた。絡まっていた場の空気が、そっとほどける。
「……それで?」
バージルがコーヒーを味わいがてら、カップ越しに片眉を聳やかした。
「食事の支度が面倒で、俺をこの店に連れて来たのか?ここにはクラブハウスサンドくらいしか無いが」
「違うよ」
むぅっと唇を尖らせてみせるも、彼なりの"氷の割り方"に心が和んで、は唇を綻ばせた。すこしだけ、落ち着きを取り戻す。
もうひと呼吸おいてから、バッグから今宵の主役、リングケースを取り出した。ぱちんと開けば、手入れされたばかりの指輪は店内の穏やかな照明をその白銀に照り返す。
「ご覧の通り、無事、指輪が戻って来ました」
「そうか」
バージルはちらりとケースに目を落としたが、それ以上動く気配はない。自分で嵌める気はさらさらないようだ。
こうなるだろうと分かってはいたものの、演技の溜め息をついてから、は自分の手元にケースを戻した。
上目遣いに彼を見上げる。
「……お手を借りてもいいですか」
尊大に頷くのみで特に言葉はないまま、バージルは左手を伸べた。
「では、失礼して……」
こんな改まった空気の中でバージルに指輪を嵌めるなんて、結婚式以来だ。気恥ずかしさで、差し出された左手より上に視線を上げられない。
刻印された文章を見せることも告げることもせず、はバージルの薬指におそるおそる指輪を嵌めた。ぴったりと彼の指に巻き付くそのサイズ。それが当たり前なのだが、自分にはぶかぶかだったことを思い出し、はちょっとだけ感動した。
その指から腕、肩と徐々に視線を上げていくと、ばっちり目が合ってしまった。バージルが小首を傾げる。
「スペルミスでもあるのか?」
が刻印について一切触れないことを疑問に思ったらしい。
「違うよ」
そんなのあったらホリーが教えてくれる!とむっつり反発しようとして、は口を閉ざした。真向かいで何気なくコーヒーを啜るバージルの目元に、針でつついたほどのちいさい朱が差している。どうやらこれも彼なりの照れ隠しのようだ。
その証左に、が微笑むとバージルは目を逸らした。
「……スペルミスなんか無いけど、後でゆっくり……できたらバージルが一人になった時に、見て?」
今度はが横を向く。
ふたりの中間地点で置き去りになったバージルの左手薬指の上、プラチナがやれやれと物言いたげに瞬いた。



──その夜、を『多少強引な手段を用いて』寝かしつけた後。
バージルはベッドからひとり抜け出し、月明かりの窓辺に立った。
指輪を受け取ってから、既に約6時間。忍耐力が限界突破して、どうにかなりそうだった。やっと、彼女が贈ってくれたメッセージを読める。
まるでそれが砂糖菓子で出来ているかのように、しずかにやさしくマリッジリングを指から外す。
ベッドサイドのライトで照らす方が明るく読み易いことは間違いないのだが、何故だかそれは躊躇われ、こっそり盗み見るように、仄かな月光に指輪を晒した。
頼りない光源に、ぼんやり浮かぶ刻印を目でなぞる。
途端、息が止まった。

“ U R the Earth and Heaven to me ”

(これは……)
随分なスケールだ。奇しくもバージルはジュエリーデザイナーと同じ感想を抱いた。
彼女にとって、足元を支える存在、心の拠り所たる存在。
そしてvの文字の上に埋められた、ブルーダイヤモンド。
知らず、口元を手で覆う。
の前でこれを見なくて本当に良かったとバージルは思った。今の顔は絶対に誰にも見せられない。月星にすらも背を向けてカーテンを引きたくなる程。
もう一度、肺の底からの深呼吸と共に、メッセージを読む。
(俺はを天国からの贈り物だと称したが)
それに呼応するように考えてくれたのか、それとも偶然なのか。
「……You moved heaven and earth」
さりげない言葉に留まらず、ここまでスケールを広げるとは。ホリーにどんな顔でこの文を示したのか、の挑戦を隣で見ていたかった。
苦笑しながら、バージルはリングを指に戻した。戻しながら、既にプラチナが肌に冷たさを齎す異質な素材ではなく、焼き立てのパンの上に溶けたバターのように馴染んでいることに気付いた。在るべき物が在るべき処に在る、当たり前の感覚。無かった頃が思い出せないくらい、自然でいて強烈な。
勿論それは指輪だけでなく、今はふたりのベッドで健やかに眠っている彼女の存在も。
バージルはを起こさないよう、そうっとシーツに滑り込んだ。
すぅすぅと規則的に寝息を立てる彼女の頭を胸に抱いて、さらさらと髪を撫でる。ついでに額にキスを落とし、それから大きく溜め息ひとつ。
──果たして明日、まともに顔を合わせられるだろうか。







→ afterword

指輪の短文でした。
こういう日常の、ともすれば埋もれてしまうようなちいさな出来事などを書くのが楽しくて仕方ありません。
あ!刻印の長さとか、ブルーダイヤはおねだん青天井とか、それはいつも通りスルーでお願いいたします。(え

短いお話ですが、ここまで読んでくださってありがとうございました!
2020.3.22