午後二時。食後の午睡を経てまだ眠い目を擦ってゲーム機をオンにする。
インターネットサービスにサインインしてから、ファイティングアクションのソフトを起動する。
寝起きでへろへろの手には重く感じるコントローラを床に置き、ちゃんと直していない寝癖を誤魔化すようにヘッドセットをカチューシャよろしく頭のてっぺんに装着する。
そうこうしているうちに始まったゲームのオープニングをボタン連打ですっ飛ばしたら、いつも通りにオンラインモードを選び、ゲーマー達の集うロビーを次々覗く。
「……いた!」
ここ最近、自分をオンラインへ駆り立てているID。それが目に飛び込んできた瞬間、身体がすみずみまでしゃきんと一斉に覚醒した。
逸る指で再び無駄なボタン連打をし、弾む呼吸もそのままに、その人物と同じ部屋に入る。幸い、ロビーにはその人ただ一人しか参加していなかった。
二人きりの状況に幸せを噛み締めつつ、ヘッドセットのマイクを口元に慎重に近づけ、そして「ハイ」と声を掛けてみる。
『お、来たか』
応えはすぐに耳に届いた。心地良い声が耳をくすぐって通り抜け、全身に染み渡る。
『早く始めようぜ。今日は絶対に勝ち越してやる!』
「今日も勝たせてもらいますっ!」
そうして、彼──オンラインID “ TONY ” ──との対戦が始まった。




X - factor




トニーと知り合ったのは、二週間くらい前のこと。
登場するキャラクターのかっこよさに惹かれて購入したゲームはオンライン対戦が熱く、基本的にはネットに接続して遊ぶモードがメインのため、もせっかくだからとネットに接続してみることにした。それも何と、ボイスチャット付きで。
最初は恐る恐るプレイする日々だったが、操作に少しずつ慣れ、更に国際色ゆたかなプレイヤーたちと遊ぶうちに、何だか自然とカタコトの英語が口をつくようになった(何故ならどういうシーンでどういう言葉が使われるか、どこの誰と当たってもほぼ同じで、それが上手いこと反復学習になっていたのだ)。
そうして曲がりなりにも相手と意思が通じるようになれば、ますます対人戦にのめり込んでいき──そんな頃、初めて『彼』と対戦した。
他のプレイヤー同様、挨拶もそこそこに試合が始まり、90秒たっぷり使った末、辛くもが勝利を収めた。
接戦を制した喜びに軽く拳を握ったのとほぼ同時、" One more ! "と相手から声が掛かった。
その後しばらく" One more ! "が続き──対戦回数が10を越えた辺りから会話がぽつぽつ生まれ、話してみれば二人は同じ年頃のようで、ますます話は弾んでいった。
はすぐに彼のID、" TONY "を覚えた。
以降、ロビーでお互いかち合うと、そこから二人で別のロビーへ抜け出して、必ずサシの勝負が始まるようになった。対戦に誘うのはからのこともあれば、彼、トニーからのこともある。
トニー──もちろん" TONY "はIDなので、は彼の本名がトニーで合っているのかどうかは知らない。が、トニーと呼びかけても否定はしないので、はとりあえずそう呼び続けている。
『何かお前どんどん強くなってかねえか?』
今日も飲み物をろくに口に含む間もなく30連戦し、が20勝を積み上げたところで、トニーがむくれた。
『睡眠学習でもしてんのか?』
確かに、彼にとってこの後は寝る時間、いや、下手したら起きる時間になるのかもしれない。日本はこれからようやく夜を迎えるのだけれども。
「ええっと……」
は怪しまれないような返事を探した。
トニーにはまだ自分が日本に住む日本人だということは明かしていない。の英語は文法が怪しい上に長文は喋れないから、さすがに母国語が英語であるとは彼も思っていないだろう。トニーは負けが込んで来たとき以外は、比較的易しい言葉を並べてゆっくり話してくれるのだ。
「最近、ゲームの夢は見てる」
ちょっと考え答えると、トニーが向こうで吹き出した。
『それってヤバいレベルだろ』
「かもね。……あ、ねえ」
掠れた声から彼がそろそろ回線落ちしそうな雰囲気を感じ、はテレビの前に身を乗り出した。
『んー?……ふわぁぁ。再戦は勘弁な。俺、もう落ちるよ』
勘は当たったらしい。トニーは欠伸を連発している。
「その前にね、その」
『明日だろ?また来るよ』
「うん。あ、そうじゃなくて」
いや、明日の対戦予約が取れたのはラッキーなのだが。
「あのね、お互い連絡取りやすくするためにね、よかったらその、フ、フレンド登録をね」
『あーOKOK。メールしといて。おやすみー』
もう限界とばかりに、トニーは退室してしまった。ロビーにはひとりがぽつんと取り残された。
「……もう意識とんでて、何にOK出したか分かってないってオチじゃないよね……」
とりあえずフレンド登録の許可は貰えた。メールを送って申請しても、無礼には当たらないだろう。
ゲームを終了させて、速攻でフレンド申請を出す。いまだに躊躇っているの心とは真逆に、メールは電子の海を軽やかに渡って行った。
「寝惚けてて、明日にはすっかりさっぱり忘れてるとかありませんようにー!」
が、手を組んで八百万の神様に願ったのは、ほんの一瞬。
「……え!」
最速と言えるタイミングで、フレンド欄のいちばん下──TONYの名前が登場した。





フレンド登録が済んだので、トニーとの待ち合わせは前よりずっと楽に簡単になった。
トニーがオンラインになっていれば、対戦しようと招待メールを送る。逆にトニーから誘われることもある。
そうして二人はほぼ毎日、オンラインで顔を合わせるようになった。
そんな、いつもの夕方(トニーにとっては深夜)のこと。
かたならまっ!トニーの持ちキャラが技を掛けてきた。
あいにーどもあぱわー!の持ちキャラが反撃した。
『おまっ……それ、卑怯だぞ!』
「へへーん、立派な戦術ですー」
トニーと遊んでいるうちに知らず開発され、今では指がコマンドを覚えているその苛烈なコンボで、は試合を気持ち良く締め括った。
『……もう一戦!』
トニーはすぐに再戦ボタンを押してくる。
「いいけどー?」
勝ち越している時より負け越している時の方が、トニーは長くオンラインにいてくれる。
飄々としている物言いや言葉の裏で実は負けず嫌いですぐ熱くなる、プロフィールによればアメリカ在住、同じくらいの年頃の人物。それがこれまでで知り得た、トニーに関する情報の全てである。
『ところで、
「んー?いよいよハンデつける?」
『いや、ゲームの話じゃなくてさ。……はどこに住んでる?』
「えっ!?」
それは予期していない質問だった。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
「えーと、それはね」
『んー』
急かさないが、答えを待つトニーの声音。
「えっとね」
はあわあわと部屋を見渡した。何か──何か、アメリカの地名は!……あれか!
「でっ、デトロイトなんだ!」
壁に貼ってあった映画のポスターに感謝しつつ、は叫んだ。
『へえ。デトロイトのどこ?』
「っ……」
もうお手上げだ。デトロイトが何処にあるのか(そもそもデトロイトがアメリカで良かった)、それが県──いや、州なのか街なのかすらも分からないのに。
仕方ないので、はむすっと唇を捻じ曲げた。
「……これ以上はちょっと……」
『あ、ああ、そうだよな。悪い』
トニーは本当に申し訳なさそうな声を出した。
『俺はシカゴなんだ。だから、……がマジでデトロイトなら結構近いと思ってさ』
「へえ。し、シカゴ」
デトロイトとシカゴは近いのか。
『な、学校は9月からだろ?……一度会わねえ?』
「えっ!?」
声が引っくり返った。
彼も結構がんばって誘ってくれたのか、ヘッドセットの向こうでわざとらしい咳払いが何度か響いた。身動きしているのか、がさごそ音も続く。
『つまり、ほら。いつもオンライン対戦だとラグきつくてさ。だから俺、お前に負けるんだよ』
「そんな」
はマイクを口元から外し、そっとため息をついた。
(会いたいと思ってくれたのかと……)
あくまでゲームをしたいのか。
トニーの提案に、は微妙な顔でテレビを見た。
画面では、トニーの再戦ボタンが挑発的に光っている。のサインはまだスタンバイ状態だ。
「回線のせいにしてるうちは、まだまだだよー。そんなに遅れてる?」
『がっつり遅れてるぜ』
「嘘だぁ」
は苦笑した。
確かにこの前、日本人同士で対戦した時はまるでラグを感じなかったが、トニーとの対戦でもそれほど苦労していない。そもそも画面の遅延なら、お互いに同じ条件のはず。
「……まあ、でも」
は再戦ボタンを押した。
「新学期始まる前に、会ってみても、いいかもね」
『っ、マジで!?』
トニーの声はかなり興奮している。
向こうにとってはゲームが会いたい理由だとしても、彼が喜んでくれるなら、まあいいか。
「親に遠出を許してもらえるか、聞いてみる」
『おう!』
明るい声音のトニーを、はその後の連戦で完膚無きまでに打ち破った。





さて。遠出について、トニーに期待を持たせるようなことは言った。
が、彼が考えている遠出との実際の旅行距離はまるで違う。何せ海を越えるのだ。ちょっとそこまで一泊二日、という訳にはいかない。
悩んだ末、は交換留学に挑戦することにした。
幸い、ここ最近の努力──彼女にしてみれば、トニーと会話のキャッチボールを続けたくて必死に彼の言葉を吸収していただけなのだが──は家族や高校の教師の目にも止まっていたので、話は意外なほどスムーズに進んだ。両親に至っては、「に取り柄が見つかって良かった」と大喜びしたぐらいだった。
教師が提示してくれた提携高校のリストから抜かり無くシカゴの学校を選び、はひたすらトニーに向かって突き進んだ。
(風向きまで応援してくれてる!)
巡りきたチャンスの尻尾を、どうやら自分はちゃんと掴まえることが出来たようだ。
意気揚々と、は日本を出発のときを迎えた。



向かうところ敵なし!状態のまま乗り込んだ自身初の国外へのフライトは、だがしかし、正直あまり良い思い出にはならなかった。
緊張のしすぎと、それを押さえ込むために注文しすぎた好物(そして無料)の林檎ジュースが、さんざっぱらの胃を苦しめたのだ。
機内最後の食事となる朝食はヨーグルトしか口に出来ず、はそのままへろへろとジャンボジェットのタラップを降りたのだった。
「うー……」
未だにもやもや吐き気が渦巻くお腹に手を当て、どうにかこうにかスーツケースを引きずって歩く。
ふと、頬を風が撫でていった。
さらさらと巻き上げられた髪に誘われるように上を向くと、突き抜けるような青空と、そこへにょきにょき刺さる高層ビル群が視界いっぱい広がっている。
「シカゴだー!」
ほんの数ヶ月前までその地名すらよく知らなかったくせに、はまるで何十年も恋焦がれた土地に足を踏み入れたかのように感動した。現金なもので、吐き気は風にさらわれてすっかりどこかへ消えていた。
もうじきトニーに会える。本当に、もうすぐ。
トニーはどんなひとなのだろう。
彼の容姿については、はあえて考えないようにしている。何せ妄想しだしたらキリがない。
それに、失礼ながら、たぶん彼は『geek』、オタクと呼ばれる人物に違いない。オタク男子の容姿については自国もアメリカも大きな違いはないと、いくつかの映画やドラマを通しても学んで知っている。
としては、トニーがどんな姿でどんなファッションセンスを持ち合わせていたとしても、彼が最高に魅力的な声を持っていることに違いはないし、彼のウィットに富んだ言葉を直にこの耳で聞けると思うだけで幸せなのだ。
だが皮肉なことに、トニーの暮らす土地に来て二人の距離はぐんと近づいたのに、しばらくは彼の声すらも聞けそうにない。
渡米が学業目的であるから当然だが、こちらへはゲーム機を持って来られなかったのだ。だからトニーとはWEBメールで連絡を取り合うことになっている。
この留学のために新調したスマートフォンで、彼に『着いたよ』メールを送ろうとし、ははっと顔を振った。トニーよりも、その前に。
「まずはホームステイ先のおうちに行かなきゃ」
無事にシカゴに到着したと、日本で気を揉んでいるだろう両親にも伝えなければ。
「さて」
はぐるりを眺めた。
ここからはタクシーだ。
バッグから地図を出そうと、スーツケースから手を離した瞬間。
どん、と派手な音を立てて背後から人にぶつかられた。
「あ、すみませ……」
そういえば、歩道のど真ん中でおのぼり状態だった。慌ててスーツケースを引き寄せようとして、の手は空を掴んだ。
「あれっ?」
スーツケースが無い。
見回すと、さっきぶつかっていった人物が取っ手を引いているのが見えた。
(置き引き!)
全身からさーっと血が引く。
「ちょ、ちょっと待って!それ、私の……!」
「Need my help?」
背後から少年が肩に手を置いて来た。親切そうなグリーンの瞳が、ぴかりと微笑む。
不意に現れた味方に、は束の間ホッと脱力した。
「い、いえす!」
サンキューと続けようとしたの肩から、するりとショルダーバッグが奪われた。
「なっ!?」
見れば前方で、スーツケースを奪った少年がこちらに手を振っている。何と、親切そうに見えた緑の瞳の少年は共犯者だったようだ。
「ま、待ちなさい!待ってよ!ねえ!」
慌てて追い掛けにかかるも、彼らはよりずっと長い足を持っている。そして何より、土地勘が違う。迷いなく人混みを縫っていく少年らと、差はぐんぐんと広がるばかり。
「も、最悪……!」
自分ではもう到底追いつけない。
(誰か)
は涙目を左右に泳がせた。
八百万の神様じゃなく、ここで祈るべきなのは。
「へるぷ」
情けないほどか細い声は、神様──いや、以外の人間に直接届いた。
「待ってな」
ぽん、とこれまた肩に手を置かれ、は思わずびくりと身体を引いた。が、もはや取られる物は何ひとつ持っていないのだった。
「ご、ごめんなさ」
疑ったことを謝ろうとし、声を掛けて来てくれた人物を振り返り、は目を見開いた。
さっき肩に触れた人物は、遥か前方で、既に盗っ人二人を鮮やかに取り押さえていた。



プラチナブロンドとでも言うのだろうか。それよりも、シルバーと表現した方が近いだろうか。絹糸のようにつやつやして柔らかそうな彼の髪を、はぼんやりと見つめた。
に荷物を取り返してくれた彼は、
「ちゃんともう一回謝れよ」
泥棒少年たちをぎろりと睨んだ。
「すいません……」
「もうしません……」
首根っこを掴まれた猫のようにぐったり背を更に丸め、二人組はに謝った。
「も、もういいですよ」
はぶんぶんと手を振った。スーツケースとバッグを交互にぽんぽん叩く。
「荷物もこうして返って来たんだし」
「本当にいいのか?」
助けてくれた少年のまんまるな瞳がを覗き込んでくる。シカゴの空と同じ青。半ば気圧されるように、はこくんと頷いた。
「はい」
何度もしっかり頷いてやると、犯人らは年相応の明るい表情を取り戻した。
「じゃ、じゃあオレらは」
「これで!」
からバッグを引ったくった時のように素早く踵を返した二人を、
「ちょっと待て」
銀髪の少年がなおも引き留める。上着の背中をむんずと掴まれ、彼らは盛大にたたらを踏んだ。
「何するんだ、ですかよ」
自分達の犯した罪の手前、手荒い事をされても強く出られず、妙な口調になっている。
そんな彼らには頓着せず、銀の少年はすいっと腕を前に伸ばした。
「お前ら、あれ奢ってくれよ」
「は?」
銀の髪の少年が指差したのは、アイスクリームの移動販売車。スピーカーから流れる楽しげな音楽に吸い寄せられるように、次々と客が集まっている。
「あれ……すか」
「そ。当然、二人分な」
少年は今は終始落ち着いた口調なのだが、それでも泥棒未遂組は完全に飲まれている。ぶつぶつと口中で文句を転がしながらも、めいめいで財布を取り出し、レジの列に並んだ。
待つこと数分、オレンジがざくざくと顔を覗かせるジェラートが届けられた。
「じゃ、オレらはこれで!」
今度こそ、彼らはたちから逃げ出していく。
「ったく」
残った銀髪の少年は溜め息をついた。それから手近なベンチを確保して、どかりと腰を落ち着ける。
「大変だったろ。ちょっと休もうぜ」
に隣を勧め、ジェラートを手渡す。
「は、はい」
はおずおずとベンチに座った。そう長い間立っていたわけではないのに、捕り物騒動のせいか、ひどく足が疲れていた。
こちらに到着してからずっと緊張していたせいもあり、肩も強張っている。
ベンチに背を凭せると、知らず、ふうっと大きな息をついた。
陽射しのなか、ジェラートの氷の粒はきらきらきらめいてひどく眩しい。
見とれていると、「どうぞ」と隣の彼が促した。
「ありがとう」
勧められるままひとくち食べると、つめたさと甘さに一気にこころが解れた。ばたばたあわあわして落ち着かなかった心が、今になってやっとちゃんと地に着いた気がする。このために、彼はこうしてアイスを用意してくれたのかもしれない。
しゃりしゃりと、横からずいぶん豪快な音が聞こえる。ちらと彼を盗み見ると、少年は気取らずアイスを頬張っていた。それにしても、彼はこんなに大口を開けているのに、このまま氷菓子のCMを撮影できそうなくらい、とんでもなくかっこいい。
「溶けてるぜ」
「……わ!」
盗み見は、何時の間にかガン見にエスカレートしてしまっていたらしい。
放置されてぽたぽた泣き出したジェラートの雫を、彼は自分の分の紙ナプキンで受け止めてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
少年は爽やかに笑った。
(何このひと!)
再び見とれる。
「……っと、気をつけろよ」
「すみませ……」
「しょうがねえな」
手元が危うくなったから、ついに彼はカップを取り上げた。いかにも楽しそうに。
「食い方知らねえなら、食わせてやろうか?」
「そ、そんな」
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「女って、何で食うの遅いんだろうな」
割と真面目な口調で首を傾げ、少年はそのままジェラートを食べようとし、の視線にはっと動きを止めた。
「調子に乗りすぎた。ごめん」
慌てて返す。
受け取ったは、気まずさに耐えながらも何とかアイスを食べ切った。味などもう分からなくなっていた。
暑い。気温のせいか、隣の人物のせいか、自分はそろそろアイスクリームのように溶けてもおかしくない。
「あの」
努めて意識を現実に保つ。
「手、べたべたじゃないですか?」
大げさに手をひらひらさせると、彼も同調した。
「べたべただな」
「私、ウエットティッシュ持ってます」
指の先だけで何とかかばんからティッシュを取り出す。見慣れたデザインのパッケージを確認すると、遠ざかっていた現実がにわかに我が身を包み、はひそかにそっと安心した。
一枚取って少年に手渡そうとすると、
「日本から来たのか」
彼はのスーツケースに付けられたタグを覗き込んだ。
「そう。ついさっき到着したの」
「あのまま荷物やられて、嫌な思い出・第一章にならなくて良かったよ」
「ほんとに」
さっぱりした手を擦り合わせ、は少年に向き直った。ぺこり、と頭を下げる。
「助かりました。ありがとうございました」
「いいって。それより、今日こっちに来たって割に英語うまいな」
褒められて、は「そういえば」と目を瞬いた。
何だろう。彼の英語はとても聞き取りやすい気がする。
「あなたが、ゆっくり話してくれてるからかな」
「そうか?」
少年は目を細めて、ちょっとはにかんだ。
「ま、そっちはどう見たって外国人観光客だしな。名前は何て言うんだ?」
ここに来て初の自己紹介だ。はさんざん練習してきた成果を披露した。
です」
「え?」
少年の動きが止まった。
聞き慣れない名前だろうし、分からなかったのだろうか。
はもう一度口を開いた。
っていいます」
「……ふーん……」
少年は何やらじっとこちらを見ている。こちらの人には響きが違うから新鮮なのか……それでもそんなに凝視してくるほど珍妙だろうか。
は彼の視線を振り払うように顔を俯け、ティッシュを元の場所へ戻した。それからおずおずと隣を見上げる。
「……あの、あなたは?」
あきらかに動揺を見せ、彼は大きく身動きした。
「あ、だよな。ごめん。俺は……」
一瞬、言い淀む。
「……俺の名前は、ダンテ」
「だんて」
はその名を呟いた。
咄嗟にどんな漢字を使うのだろうと考えてしまった辺りで、自分も彼をじいっと見つめてしまっていることに気づいた。なるほど、彼は彼で「」のスペルでも組み立てていたのだろう。
「す、素敵な名前ですね!」
慌てて取り繕った。
「サンキュ」
にっ、と上がった口角に、はまたもとろけそうになってしまった。
しばし互いに視線を交わし——ダンテが何か言いかけたところで、通りの時計がボーンと鳴った。16時。は愕然とした。
「もうこんな時間!?」
結構のんびりしてしまったらしい。
何時間でも彼を見つめて目の保養をしていたいが、そうはいかない。
「そ、そろそろ行かないと!」
ぱっと立ち上がると、少年も同じように腰を上げた。
「どこへ行くんだ?送ってやろうか」
「え……」
それは何て魅力的な提案だろう。
しかし、は心を鬼にして首を振った。
泥棒をとっちめてくれて、アイスでこちらの心を安心させてくれて、だけど彼が悪人ではないなんて証拠は何処にもない。何しろ彼はかっこよすぎる。用心するに越したことはない。
「タクシーを、拾ってくれたら嬉しいです」
「OK」
まるでの思考フローを理解したかのように、ダンテはあっさり頷いた。
大通りに立ち、ごく簡単にタクシーを止め、と荷物を乗せ、そして彼はとびきりの笑顔で言った。
「Good luck」
扉が閉められたとき、は思わず天を仰いだ。
(いい人だったのに……)
アメリカ一日目。
トニーには申し訳ないが、この日しばらく、の心の中はダンテでいっぱいになってしまっていた。



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