想いのつよさがすべてを決定する。
なんて適当な綺麗ごと。
だけど今の私はまるごとすっかり、それを信じている。
信じさせてくれたのは──




MAGIQUE




とおくひびく、かねのおと。
空気を震わせ余韻を惜しみ、それが消えそうになると次が鳴らされる。
彼女はその音に耳を澄ましていた。
何もかもから、逃げ出したかった。
いつからだろうか、身体は不調を訴え続けている。
内にわだかまる不快な吐き気と、こめかみを刺すような頭痛。
そして圧倒的な質量の不安。
それらどれもを(あるいはどれかだけでも)やりすごそうと身を屈め、彼女はひたすら鐘の音に集中していた。
音は波のように引いては寄せる……



……気付いたら、見知らぬ土地にいた。
薄汚れた建物、埃っぽい風。
けばけばしい悪趣味なネオン、道に置かれているのは車高が低く図体ばかりが大きい車。
おまけに、
「冗談じゃない……」
黒衣に赤い瞳の死神みたいな化け物がこちらを凝視している。
その手には、馬鹿みたいな大きさの鈍色の鎌。
「まだハロウィン気分なの?」
しかしの嘲笑気味の言葉を理解する様子もなく、そいつはにたにたと嗤う。
(夢を見てるんだ)
早く起きてしまいたい。
しかし、尻餅をついて支えた掌が感じる痛みは、を乱暴に現実に引き戻す。
夢ならどんなによかったか。
ざりっ。
化け物が身動きした。
どんどん近付いて来る。
「や、やめて」
閉じた目が最後に捉えたのは、そいつが振りかぶった刃物の照り返し。
ざりっ。
──こんなわけのわからないところで死ぬなんて。
ひゅっ
何かが風を切るような音。
続いて、嫌な匂いが鼻をつく。
死臭だ。私の。
けれど。
「……?」
身体のどこにも痛みはない。
ばさり、とか、ざああ、とか枯れた音が耳を打つ。
震えながら目を上げてそちらを見て、は息を飲んだ。
「逃げようともしないとは」
いつの間に現れたのか、化け物の代わりに男が立っていた。
銀の髪に青い服の男。
手にした日本刀が月の光に冴え冴えと煌めいている。
そこから滴り落ちるのは、どす黒い液体。
おぞましい色に、の心がきゅうっと冷えた。
「き、斬ったの……?」
かちかち鳴ってしまう歯の奥から、無理矢理に声を絞り出す。
男は僅かに目を細め、首を傾げた。
目の前の異様な光景にも、淡々とした表情。
重そうな刀を片手で軽々と振って、悪臭を放つ液体を払い落とす。
少しの淀みもない動作。
(まさかこのひとも……人間じゃ……)

「おーい。無事か?」

不意にもうひとつ声がした。
びくりとは肩を震わせる。
機械仕掛けのようにぎこちなく首を巡らせれば、青い服の男とよく似た顔立ちに赤い服の男が、後ろの瓦礫の山を身軽に飛び越えて来るところだった。
しかも、その男の手にも大ぶりな剣。
(仲間が増えてしまった)
かたかた震えが止まらないを、登場した赤い男はまじまじと見つめる。
ひとときばかり置いて、彼はに手を差し伸べた。
「怪我はないか?お嬢さん」
訊ねる声に、ではなく青い服の男が答えた。
「無駄だ。言葉が通じないらしい」
「……それはちょっと厄介だな」
赤い男は伸ばした手を戻して組んだ。
「こんな廃墟の近くになんで女がいる?」
「俺に聞くな。この依頼を受けたのはお前だろう」
「けど、人命救助なんざオレだって聞いてない」
男たちは何やらもめているようだった。
何度も深呼吸しながら、はじっと二人の会話に耳を傾ける。
(英語?)
化け物が出るようなところだ、言語も分からないに違いないと思っていたが、よくよく聞いてみればそれは学校で習ったこともある身近な言葉。
「……あの」
おそるおそる、口を開いてみる。
「少しなら、言葉分かります」
二人は同時に素早くを振り返った。
ややあって、赤い男が青い男を睨む。
「通じてるじゃねぇか」
「いや、さっきは」
「あんたがおっかなかったんだろ」
青い方よりは気さくな笑顔を浮かべて、赤い男はに近づいてきた。
「ヤバいとこに来ちまったな。ここはさっきの悪魔か、後ろで睨んでるバージルみてぇな飢えた狼くらいしかいねぇ危険な場所だぜ」
「誰が何だと?」
「あんた怖ぇんだよ。見ろ、黒子羊が震えちまってる」
「……。」
確かにまだ体の震えが止まらない。
だが、ともあれ、目の前の男二人は意思の疎通ができる分、さっきの化け物よりはいくらかましに思える。
ゆっくり顔を上げると、赤い男はまだ尻餅をついたままのの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「オレの名前はダンテ。あっちの怖いのはバージル。……あんたは?」
よく見れば、赤い男はとても綺麗な空色の瞳をしている。
化け物ならばこんな目はしていないだろう……
そう思い込むことにして、は足を励ましてそっと立ち上がった。
「私の名前は、です」
「そうか。よろしくな。とりあえず、こんな場所はおさらばしようぜ」
再び男が手を伸べる。
ダンテと名乗ったその赤い男にそうっと手を差し出して──は息を飲んだ。
の右手の先は、淡く光る輪郭だけを残して透明人間のように透けていた。
ダンテは一瞬眉を聳やかした。
ちらりと後ろの青い男、バージルに目配せする。
バージルも目を細めて顔を振った。
「これはちょっと厄介そうだな」
愕然としたまま凍り付いてしまったの手を、ダンテは何でもなさそうに掴んだ。





混乱したままは二人に連れられて、廃墟を抜けた。
この辺りの地理にはまるで覚えがなく、当然帰る家の方向も分からない。
そう告げると案内されたのは雑多な家具──ビリヤードやジュークボックスが置かれた、彼らが呼ぶところの『事務所』。
「適当にくつろいでくれ」
ダンテがどさりとコートをソファ目がけて投げた。
哀れなコートは背もたれにぶつかりぐしゃりと落ちたが、ダンテは気にも留めずに奥に行ってしまう。
は何となくそれを拾うと、きちんと折り畳んで掛けた。
することがなくなると、落ち着かなそうにそうっとソファのいちばん端に腰を下ろした。
そうした彼女の行動を、バージルはじっと見つめていた。
の右手は今はしっかりと『存在』している。
(だが、先程のあれは錯覚ではない)
透けて向こうの背景が見えていた手。
ダンテは彼女の手をちゃんと握っていたから、目に見えなくなるだけで実体はあるのだろう。
「あの……」
が遠慮がちに声を出した。
あまりに観察しすぎたようだ。バージルは目を離す。
「気分は悪くないか?」
問われると、はこくりと頷いた。
怖いことも驚いたことも通り過ぎ、今はすこし持ち直した。
まだ完全に落ち着いたと嘘はつけないが、体の震えは止まっている。
「大丈夫です」
「そうか」
バージルは自分から聞いたくせに、もはや大して興味なさそうだった。
身に纏った青のようにひいやりとした佇まい。
は何となくダンテを待ち遠しく思った。



ダンテがコーヒーを持って戻ると、部屋の空気が僅かにほぐれた。
「コーヒー。インスタントだけどな」
が何か返事する前に、バージルがカップに手を伸ばした。
「何か飲み物が出てくるだけましだ」
「そりゃどーも」
また軽口の応酬が始まりそうだ。
この二人は今日が特別に虫の居所が悪いのではなくて、いつもこうなのかもしれない。
「……頂きます」
会話に割り込むようにして、はコーヒーに手を伸ばす。
ミルクも砂糖も足されていないブラックのじわりとした苦さが舌にしみた。
カップを包んだてのひらから伝わるぬくもりに、ひと呼吸ごとに心が鎮まっていく。
「……話せそうか?」
ダンテが気遣いを滲ませて話し掛けてくる。
「はい」
はカップと手を膝に下ろした。
しかし、話したくとも話せることがない。
(私はどうしちゃったんだろう……)
ここに来る直前は会社にいて、普段と変わらない仕事をしていた。
それ以外、特に何も特別なことはなかったように思う。
そう言うと、ダンテはくしゃみを我慢するような顔をした。
「そっちの世界には、こっちみたいな化け物はいないって言ったよな」
「はい。いません」
更に付け加えるなら、ダンテやバージルのような銀の髪の人間も身の回りで見たこともないのだが。
「よくわかんねぇことに巻き込まれたっぽいな」
「……。」
やはりそうなのか。夢ではないのかと、いまだに疑ってしまっているのだが……
「手掛かりはなしか」
バージルがあっさり言った。
「何か分かるまで、ここに居ろ」
ダンテが頷いて同意した。
「だな。お嬢さん一人で下手に外をうろつくのは危険だ」
「でも」
出会ったばかりの人たちに、そんなに迷惑も掛けられない。
躊躇していると、バージルが顎をしゃくった。
「その様子では迂闊に外も歩けないだろう」
彼に示された自分の右手はまたも不可思議に透けていた。
「また……?なんで……」
手の感覚はしっかりあるし、左手で触れることだって体温を感じることだってできる。
それなのに、見ることだけができない。
わけが分からない現象に、また体が震え出した。
「ごめんなさい、私……気味悪いでしょう」
「いいや、全然」
今にも泣き出しそうなを落ち着かせるように、ダンテがにぃっと笑って首を振ってみせる。
「オレ達もちょっとばかりスーパーナチュラルな存在だから、お嬢さん見てもそんなに驚かないぜ」
「少し、か?」
バージルが呆れた。
ダンテがいらっと頬を膨らませる。
「少しだろ?」
二人は本当に、異常な自分を気味悪がっていないようだ。
見守るの視線に気付くとバージルはコーヒーを一口含んだ。
「とにかく俺達がお前に害することはない」
聞くなりダンテが溜め息をつく。
「回りくどい言い方すんなよ。オレ達はの味方だぜって言えよ。……ん?仲間か?」
「迷惑だ」
「どっちがどっちにだよ?」
「さてな」
「おい!」
また始まった、連綿と続く口喧嘩。
じっと聞きながら、は不思議と彼らの声に落ち着きを取り戻す自分を感じていた。





ダンテもバージルも、嘘はついていなかった。
事務所には必ずどちらか一人が残って、が完全に一人きりになることはなかったのだ。
ダンテは何かしら話し掛けてきてくれ、を安心させてくれる。
バージルはダンテのように声を掛けてくることはなかったが、それとなしに現状について調べ物をしてくれているようだった。
は世話になる間はせめて家事だけでもと、掃除や食事の支度を手伝った。
肝心の右手の調子は相変わらずの気分屋。
透けたり、しっかり戻ったり。
の意思にはまるで無頓着だった。



今日は事務所にはと、それからバージルしかいない。
話しかけやすいダンテの方は、依頼を受けて出掛けてしまったのだ。
あれこれ忙しいだろうに自分のために時間を割いてもらっている身で文句は言えないが、それでもどうしても……バージルはまだ苦手だった。
会話がない。あっても弾まない。
おまけに彼の態度は一枚ガラスを隔てているようで、こちらとはきっぱり遮断されてしまっているように思える。
(面倒ごとに関わりたくないんだろうけど)
見知らぬ世界からやってきた女なんて、本当は知ったことではないのだろう。
そんな態度。
「……お前」
不意にバージルが立ち上がった。つかつかと歩み寄ってくる。
「何ですか?」
内心びくびくしながら見上げると、バージルは唇を引き結んでの足元を指で示した。
促されて目線を落とす。
「え……!?」
膝から下、両足が透けていた。
全身からさあっと血の気が引いていく。
「うそ……!」
慌てて右手を確認するが、今は何ともない。
今度は足がおかしくなってしまったというのか。
とんとん爪先で床を踏んでみても虚しく、幽霊のように頼りない見た目。
「……究明を急がなければならないな」
バージルが眉根を寄せて呟いた。



その夜。
依頼から帰ったダンテは、バージルから事情を聞くとみるみる不機嫌になった。
自分がいないときにそんな状態。
おまけに唯一付き添っていたバージルは、部屋に閉じこもってしまったを一人っきりで完全放置だ。
どすどす足音高く軋む廊下を進む。
彼女の部屋の前に立ってすぐに扉を開けようとして、中の人物が女性であることを思い出す。
慣れない手つきで三回ドアを叩く。
。入るぜ?」
耳を寄せると、
「……どうぞ」
くぐもった応えがあった。
静かに中へ入るとはベッドの上、毛布にぐるぐる体を隠すように包まって膝を抱えていた。
「バージルから聞いた?足のこと」
沈鬱なの声音。
ダンテは上手い言葉が見つからず、曖昧に頷く。
「ああ……」
「まだ戻らないの」
ダンテの心配顔を見てとって、は無理やり笑顔を作って言った。
「手は大丈夫なんだけどね」
両の手を持ち上げてひらひらさせる。
ダンテは何も言わずに隣に腰を下ろした。
毛布から覗くの顔は蒼白い。
「具合は大丈夫なのか?」
「うん。何ともないです」
「じゃあ」
ダンテはの手を引いた。毛布から出るように促す。
「下に来いよ。腹が減ってちゃ元気も出ねぇぞ」
は目を瞬かせた。
今日は足がおかしくなってから部屋に引き込もってしまったから、夕食も用意していない。
「何かあるの?」
聞かれて、ダンテはすこしだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……ピザ取った。」



奇妙な沈黙の中、三人は黙々とピザを食べた。
を待っていたために冷めてしまって温め直しもしなかったそれは、もそもそと乾いた味。お世辞にも美味しいとは言えない。
ジンジャーエールで流し込むように食べて、ダンテはちらりとの様子を窺った。
相変わらず薄ぼんやりと透ける両足。心なしか、先程よりも更に形を失っているようにも見える。
(早く何とかしてやりてぇが……)
どうしたものか、さっぱり分からない。
を呼びに行く前にバージルとも軽く話し合ったが、彼にも打開策は浮かばないらしい。
少しは何か思う所もあるようだが、バージルのことだ、不確定なことは軽々しく口にはしない。
その方がのためでもあるとダンテも思った。
ぬか喜びなどさせたくない。
ただでさえ日ごとに元気をなくしているようなのに。
「……なあ」
ちょっとずつしか食べない彼女に、ダンテは声を掛けた。
三角の切れ端を手に、はそっと顔を上げる。
つとめて明るく見えるよう、ダンテは思い切り口角を持ち上げた。
「明日、どっか出掛けないか?」
「え?」
驚いて目を丸くしたと同時、バージルも顔を顰めて反応した。
「ずーっとここにこもりきりだろ。そりゃ気分も暗くなる」
だから、外出。
にこにこ目を合わせてくるダンテに、はおろおろ焦り、意見を求めるようにバージルを見た。
バージルは何も言わないが、その表情には『それには反対だ』と書いてある。
はふるふると顔を振った。
「……無理だよ」
「何で?」
「だって、私……」
は椅子を引いて足をダンテに見せる。いや、見せる仕草をした。実際にはそこには何もない。
「こんなだし」
ダンテが大仰に溜め息をつく。
「最初っから諦めんなよ、明日には直ってるかもしれないだろ?出掛けようぜ」
「でも。直ってても、いつまたこうなるか……周りの人には幽霊とか思われるかも。そのとき変な目で見られるのは、私と一緒にいるダンテだよ」
「構わないさ」
ダンテはひょいと肩を竦めた。
「周りに幽霊とデートと勝手に思われようが何だろうが、知ったことじゃない。逆に『可愛い子だろ?』って自慢してやるよ」
「……もう」
両腕を広げておどけてみせるダンテに、が折れた。
「じゃあ……明日の朝、足が直ってたら。そのときは、出掛けたい」
「よし、決まりな」
にっと笑ったダンテにつられて、もすこしだけ笑う。
そしてこのときもダンテも気付いていなかったのだが……の足が、すこしだけ色を取り戻した。
気付いたのは、バージルだけだった。





残念ながら、次の日になってもの足は相変わらずだった。
「……仕方ねぇな。また明日だ」
本当にがっかりしたようにダンテは口を尖らせた。
子供のような表情に、は微笑む。
「直ってるといいけど」
「直るさ」
自信たっぷりに言い切ると、ダンテはぽんとの頭に手を乗せた。
ぐしゃぐしゃと髪をかき回すように撫でる。
「だ、ダンテ!」
乱れたの髪を両手で大雑把に梳いて整え、ダンテは彼女の顔を覗き込んだ。
(どこか遠いとこから来たって?)
いくらそう説明されても、ときどき幽霊のように消えてしまう奇妙な体を見ても、──こうしているときの彼女は普通の女の子と何ら変わらない。
ダンテはじっとを見つめた。
黒いうるんだ瞳。
「……可愛いな、お前」
「なっ」
途端にが頬を染めて眉を吊り上げた。
「からかわないでったら!」
「おいおい。本気で言ってるんだけど」
「もう!は、早く依頼に出掛けないとなんでしょ!?」
視線に耐え切れずにはぐいとダンテの肩を押す。
彼の体を押し退けると、視界にバージルの姿が映った。
呆れ顔というよりも、険しい不機嫌な表情でこちらを見ている。
「早く……行って」
バージルを意識したら、自然と尻すぼみの声になってしまった。
それに気づき、ダンテもつまらなさそうにから離れる。
「じゃあ行ってくるよ。事務所の留守番、頼むな」
「はい」
大剣と銃を持って出掛けて行くダンテを見送って、はぎこちなく後ろを振り返った。
ダンテが出掛けたということは、残るのはバージルだ。
いつもならバージルはダンテとの会話には我関せずで読書しているのだが、今朝はどうも様子が違う。
事務所のソファに座って一点を見つめたまま動かない。
どうしたのだろう。
「バージル?」
勇気を出して呼び掛けると、バージルはゆっくりとを振り返った。
その視線はの足元に落ちる。
「戻っているな」
「えっ」
言われて、は下を向く。
バージルの言う通り、足はくっきりと色を取り戻していた。
代わりにどこか消えているのでは、と手を見てみるが、右も左も無事だ。
「どうして……」
何がきっかけなのやら、さっぱり分からない。
手を開いたり、足を曲げたりしていると、バージルが立ち上がった。
静かに口を開く。
「元の世界に帰れると思うか?」
思いもよらないことをまっすぐ問われ、は言葉を喪失った。
──『元の世界』。化け物などいない世界。
ダンテとバージルのいるこの世界は、の世界ではない。
こちらでは、は化け物よりも存在してはいけない人間なのかもしれない。
(だから姿がおかしなことになるのかな)
「……帰れるかな……」
どうしてこちらに来たのかも分からない。戻り方なんて、雲を掴む話のようにすら思える。
けれど、このままこちらにいたら、いずれは全身が消えるかもしれない。
誰にも認められないまま、それこそ幽霊のように。
ぞっと胸が冷えた。

バージルがすっと手を伸ばしてきた。
そのままの右肩に触れ、するりと手を下ろす。
バージルに触られてぎくりとしたが、すぐに異変に気づき、は顔を歪めた。
「……また……」
彼が確かめるように触れた右手の先は、またも空気に溶けていた。
「ちゃんとした姿でいられるのなんて、一瞬なんだね」
何だか自分が情けなく思えてくる。
すこしでも油断したら泣いてしまいそうだ。
バージルが手を離す。
「お前が不安を覚えると、姿が虚になる」
「……え?」
バージルはじっとを見据えた。
「向こうの世界で何かあったんじゃないのか?」
全てを見透かしているようなその薄い青の双眸。
「だからそれに似た感情を覚えると不安定になり、姿が消える……」
バージルの一言ひとことが楔のように打ち込まれる。心をざわつかせていく。
胸が痛い分だけ、それが真相だと思った。
けれど、そうだとしたら。
(バージルは……)
震える唇で、何とか言葉を紡ぐ。
「……さっきの質問は……わざと?」
「試した」
あっさりと彼は頷いた。一切の感情も見せずに。

ぱぁん。

乾いた音が事務所に響く。
透けて見えない右手で、はバージルの頬を打っていた。
「最低!」
睨んだ拍子に、涙がこぼれた。
こちらに来てから、まだ泣いたことはなかったのに。
はバージルから逃げるように二階へ駆け上がった。
右手も両足も、多分消えているだろう……



部屋に残されたバージルは、深く溜め息をつくと天井を仰いだ。
「……他に方法があったと……?」
彼女の感情の揺れは、そのまま姿に現れる。
それが分かっただけでも進歩ではないか。
対策を考えるためにも確かめなければならなかった。そう思う。
正しかったはずだ。
それなのに、どうにも胸の底がざらついている。
泣かせてしまった。
「……最低、か」
打たれた左の頬の痛みよりも、胸の痛みの方がただただ重かった。



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