第一話 虹 / the moment it happened






クレドが名前を呼ぶ。
ただそれだけで、炭酸水がしゅわしゅわ弾けるように心が騒ぐ。
「はい」
返事をし、席を立ち上がる。
今回もちゃんと成功しただろうか。
緊張しながら目の前の教師の表情を窺えば……眉間に深く刻まれた皺。
「……追試は三日後だ。しっかり準備しておくように」
「はい」
赤点だった答案を、唇を噛み締めて受け取る。
先生にはちゃんと反省しているように、申し訳なさそうに見えるように。
その実、本当は喜びで踊り出しそうな気持ちを何とか隠し持って。
──今回も、大成功だ。





「なんだよ、また追試?」
ボールを器用にリフティングしながら、ネロが呆れる。
さすがは稀代のスーパールーキー、新入生ながらも上級生に全く見劣りしない。
「しょうがないでしょ。苦手なんだもん、数学」
うっかり感心してしまったことは表に出さないようにむくれたふりをしながら、はスポーツドリンクを用意する。
普段は適当に粉を水に溶かして、ボトルをシャカシャカ振って終了の作業が、今は少し楽しい。
追試を言い渡されて喜んでいる学生なんて、この学校に一人くらいなものだろう。
「ってことは、またこれから三日間はマネージャーはわたしだけなのね」
「キリエ。そうなの、ごめんね」
タオルをどっさりと抱えてやってきた二人目のマネージャーに、は手を上げて謝る。
は、キリエとともにサッカー部のマネージャーをしている。
編入して来たばかりで何もかもに戸惑っていた頃に、声を掛けて来てくれたのがこのキリエ。
しっかり者の彼女には助けられてばかりいる。
「それにしても、他の教科は得意なのに、どうして数学だけ?もしかして、兄さんの授業分かりにくい?」
「あー、そうじゃねえの?クレド、厳しいしな」
「兄さんに言っておくわ」
「悪かったよ……」
いつもと同じようなやりとりをネロと交わした後、キリエは真剣にに向き直る。
「ほんとに、もしそうなら……」
は慌てて首を振る。
「違う違う!クレド先生の授業、大好きだよ!」
(内容じゃないけど)
「分かりやすいし!」
(細大漏らさず、しっかり聞いているから)
「だけど、数学ってどうしても性に合わないっていうか〜」
(嘘ついてごめん、キリエ)
「とにかく、悪いのはクレド先生じゃないから!」
そう。悪いのは先生に恋してしまった自分。
真剣に考えてくれているキリエにも、まだ打ち明けられずにいる。
「うーん。今度、うちに来る?週末なら兄さんいるし、分からないところをじっくり聞いてみたらどう?」
キリエの提案に、は目を見開いた。
──なんて素敵な。
だけどそれは、フェアじゃない。気がする。
はにっこり笑って肩を竦めた。
「ありがた〜いお誘いだけど、やっぱり休みの日にまで先生の顔見るのはちょっとな〜」
「あー!までそんなこと言うの!?」
「ごめーん」
「もー、兄さんだって24時間小難しい顔してるわけじゃないのよ?」
「えー、そうなの?信じられない!」
ずるいよ、キリエ
私だってそんな先生を見てみたい
「オレも結構長くクレド見てるけど、笑ったとことか見たことねぇぞ?怒鳴られるか、小突かれるか、たいていそんなとこだし」
ああ、ずるいのがここにも一人
私だって小突かれてみたい

──二人には、口が裂けてもそんなこと言えないけど。

「ま、とにかく。追試が終わったら、三倍働くから。よろしく、キリエ」
微苦笑するキリエに、はおどけて敬礼してみせた。





「では、始め」
クレドの号令で、追試験がスタートした。
は速攻でシャープペンシルを走らせる。
特に詰まる問題もなく、どんどん解答で答案が埋まっていく。
追試だからするする解けるわけではない。
もともと数学は好きになりつつあるのだ。
それを、わざわざ追試のために計算して間違えているわけで……
「だー、もう分かんねぇ」
の後ろで既にギブアップしているのは、隣のクラスのダンテだろう。
ここ何回も一緒に追試を受けている「赤点仲間」だ。
彼ともウマが合うのだが、先ほど教室前で『今回もヨロシク』『ベイビー、待ってたぜ!』なんて会話をしていたら、ダンテの双子の兄のバージル(こちらは超がつくほどの優等生)に、すれ違いざまに深々と溜め息まじりに『愚か者コンビ』と言われてしまった。
そんなバージルにこの追試の本当の理由を話したら、さぞかし素敵な罵り言葉を吐いてもらえることだろう。


(……よし)
はペンを机に置いた。
後は、いちばんしあわせな時間を過ごすだけ。
そっと答案から目を上げる。
教卓の横に椅子を置き、何やらたくさんの書類に目を通しているクレド。
ときどき、掛けた眼鏡を外しては目頭を揉んでいる。
その度に伏せられる、深い鳶色の瞳。
(あーぁ、やっぱりお疲れモード)
その眉間には永遠に消えることはないのではないかというくらいに深い皺が刻まれている。
見つめているうちに、もついつい眉に力が入る。
『もー、兄さんだって24時間小難しい顔してるわけじゃないのよ?』
先日のキリエの言葉がよぎった。
クレドは、家では笑顔を見せたりするのだろうか。
今までが見たクレドのいちばんやわらかい表情と言えば、追試の採点が終わって、それが合格点だったときのその一瞬の表情。
もっとも最近では、それすら見ることができなくなっている。
「……zzz」
ついに背後からは寝息が聞こえ出した。
ダンテは問題と格闘する努力すら放棄したらしい。
追試がだめだったら留年の可能性まで出てくるのに、余裕なものである。
(また先生は怒っちゃうね)
今日はいちばん最後まで解答用紙を提出するのを我慢した方がいいかもしれない。
せめてこの教室を出て再追試のことを思い出すまでの数分だけでも、追試の苦労を忘れさせてあげられたら。

「あと10分」

──もう終わっちゃうのか。
毎度毎度、数学の時間だけ過ぎていくのが早い。
はクレドの手前、解答を見直すフリを始めた。



「ダンテ、再追試だ」
「げー!!頼むよ、たった3点足りないだけだろぉ!?」
「ではどうしてその3点分、先に頑張っておけないのだ?」
「バージルみたいなこと言うなよ……」
「お前の兄が正しいということだな。また三日後、来るように」
「……だってよ、……」
「再追試受けさせてもらえるだけおめでとう、ダンテ」
内心(再追試なんてずるい!)と腸が煮えくり返りながらも、は爽やかに笑ってみせる。
「Shoot!」
舌打ちしながらダンテがドカドカと足音高く教室を出て行った。
「お前も笑っている場合ではないだろう、
クレドが呆れて答案を奪い取る。
「はぁい」
「全く。それだから、赤点コンビなどとバージルに言われてしまうのだぞ」
「クレド先生、それを言うなら愚か者コンビですよ」
「もっとたちが悪いだろう」
「へへ」
会話の間、クレドの赤インクの万年筆は大きな丸を回答に書き続ける。
(最後の問題は間違えておいたから、満点はない)
さすがに三日で満点は怪しすぎる、その辺も抜かりない。
「最後は難しかったか?」
クレドが片手で眼鏡を外した。
その仕草にどきりとしたのを誤魔化すために、は手を後ろで組んで大げさに視線を揺らした。
「はい。かなり意地悪な問題だと思いました」
「意地悪ではない。応用問題だ」
「その難しさが意地悪だって言ってるんですよ〜」
「基本が出来ているのだから、あとは発想の転換だ。説明するから、横に来なさい」
クレドが隣を示す。
は嬉々として隣にくっつく。
その場にしゃがんで、真剣に聞いてます!というポーズを作ってみせる。
「この方程式は……」
間近で、自分だけに注がれる声。
こっそり目を閉じて聞いていれば、それが関数の説明だろうが、全部愛の言葉めいて響いてくるから不思議だ。
?聞いていたか?」
急に調子の変わったクレドの声にはっとした。
「あ、はい。分かりました。あとは代入するだけですよね」
「そうだ。これが分かれば満点だ。……何故、追試など受ける前にこれが出来ないのだ?」
「最初のテストでどんな問題が出るのか傾向が掴めるから、追試は点がいいだけですよ、たぶん」
「傾向と対策なら、授業でも繰り返し説明しているだろうに」
「すみません」
ちらりと見上げれば、クレドもを見下ろしていた。
クレドはすぐに目を逸らす。
「……まあいい。今回もこれで放免だ」
「わぁい」
97点の答案を受け取って、ははしゃいで(名残惜しく)クレドの隣を離れた。


「行ったぞ〜!」
グラウンドからは、ネロの声が聞こえる。
今日もサッカー部はもちろん練習だ。
現在たった一人で頑張っているマネージャーのキリエが、乾いたグラウンドに水を撒いている。
それを窓から眺めて、はあっと声を上げる。
「先生、クレド先生!」
荷物をまとめて教室を出るだけ、というところだったクレドを呼び止める。
「どうした?」
「見て、あっち」
は、キリエの方角を指で示した。
キリエの持つホースの先、細かい水飛沫に透けて、ちいさな虹がかかっている。
と同じようにそれを見つけて、クレドは目を細めた。
「……ああ。虹か」
「きれいですねぇ」
うっとりと微笑する
開け放たれた窓からそよそよと優しい風が吹き、彼女の髪を揺らす。
風に巻き上げられて漂よう甘いシャンプーの香り。
何の香りだろう、やけにいい香りだが……と首を巡らしその正体に気づくと、クレドはぎこちなく咳払いした。
「……早く行かなくていいのか」
「私一人いなくても、サッカー部は何も変わりませんよ。ほら、あの通り」
見事な弾丸シュートを決めるネロ。
クレドを見上げて、は笑った。
振り返った視線の先、クレドはなぜか真剣な表情をしていた。

「お前がいることで、変わるものもあるだろう」

──えっ。
がぱちぱちと瞬きをしていると、突然クレドが踵を返した。
「キリエの負担が減るとか、そういうことがな」
クレドの言葉に、むすぅと頬を膨らませる。
「ああ、そういうことですよねー、やっぱり」
ぺたんと自分の席に着席する。
「早く部活に行きなさい」
「はぁい、クレド先生」
は棒読みで応じる。
教室を去り際に僅かにを振り向けば、その顔にはまだまだ子供の膨れっ面。
その頬の丸みに妙に安心して、クレドは僅かに口元を緩めた。
そして、
(最後の問題はもっと難しくしてもいいかもしれんな)
そんなことを、思った。










→ afterword

ついに書いてしまいました、クレドせんせい夢。
思ったようなギャグにならなくて、なんだかシリアス風味に。おかしいな…
バージルの口調と書き分け出来てなくてすみません。
さらにクレドの怒り方もまだまだ甘くてすみません。
そしてヒロインが計算高くてすみません。
謝りどころがいっぱいですが、やっぱりクレド先生いいなあ、と。
こんな先生が数学教えてくれたなら、私ももっと成績よかったのかな〜(笑)

ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。
Lesson.2もよろしくどうぞ。
2008.6.23