worthy words




ある日、私が大学から帰ってくると、珍しく祖父が家に来ていた。
「おじーちゃん。久しぶりだね」
縁側で猫を撫でつつ茶を飲んでいた祖父が、おぉと片手を挙げる。
「お帰り、。今日はに頼みたい事があって来たんだよ」
「私に?」
そんなことは今までなかったので、私は首を傾げた。
「うむ。まあ、これを読んでくれないかね」
手紙を差し出す。
「エアメール?」
見慣れないスタンプが押された、薄っぺらい封筒。
誰から?と裏返せば、これまた見慣れないスペル。
「ば、バーギルさん……て読むのかな?」
「ブルーギルみたいな名前だねぇ」
釣り好きな祖父が、くいくいっと釣竿を振る仕草を見せた。
ブルーギルはちっこくて、青く光る鱗が綺麗な魚の名前。
もちろんブルーギルではないけれど、バーギルとはちょっと変わった名前のような気がする。
「おじーちゃんの知り合いとかじゃないの?」
「まあ、確かにわしは有名な刀匠だがね」
えへん、と祖父は胸を反らした。
祖父は自負の通り刀匠だ。
最近は博物館の、もしくは個人蔵の骨董品の修理を請け負うことが多い。
何でも日本でも職人がめっきり少なくなったとかで、雑誌や地元テレビの取材を受けたこともある。
ここら辺では、まあちょっとした有名人だ。
が、その祖父はすぐにくしゃりと背を丸める。
「外国に名前が轟いておる!……わけではないしなぁ」
「じゃあ、この手紙は見ず知らずの人からなんだね」
「うむ。英語なぞ、わしとばあさんではお手上げだからな。の所へ来たんだよ」
「私だって、そんな得意なわけじゃないけどね」
カサカサと手紙を広げる。
几帳面そうな文字が読みやすく並んでいた。
ただしもちろん、可読性がいいからって、内容が簡単に分かるわけではない。
「ええっと……」
私は眉をこれでもか!と寄せて、英文に挑んだ。
「『……突然、コンタクトしたことを謝罪します。
実は、この手紙をあなたに書いた理由は、私の使っている剣のハンドルが』」
「柄じゃないのかね?」
「ああそっか、柄か。ええと、柄の……柄の……よくわからないけど、何かが壊れたらしいよ」
「ふむふむ。柄頭が取れたかしたのかねぇ」
「『……それで、ぜひ私の剣をあなたに修理してもらいたいと望んでいます』」
「そりゃあ構わんが……」
「あ。この人、日本に来るみたいだよ。予定は……来週末になってる」
私は手紙に記された日付け部分を祖父に見せた。
「ほぅ」
「うちの場所も分かってるみたいだし、念のため連絡してきたみたいだね」
「そうか」
祖父は、何度も頷いてから、ちらりと私を見た。
、そのバーギルさんがうちに来るとき、接客してもらえんかな?」
「うーん。あんまり英語に自信はないけど……」
滅多にない、祖父の頼み事だ。
断る理由もない。
「おじーちゃんの頼みだもんね。いいよ」
私はにっこり微笑んだ。



初夏の風が心地好く吹いていた。
成田空港に降り立ち、手荷物を受け取ると、彼はポケットに折り畳まれていたメモを取り出す。
風がはたはたとメモを煽る。
それは異国の地に来た旅行者の心情を代弁するかの如く揺れている──と思いきや、メモを持つ彼自身は堂々と構えている。
彼はゆったりと紙と周囲を見比べるようにしていたが、やがて溜め息をつき、ターミナルのタクシー待ちの列に並んだ。
出立前に、この国の住所表示はスマートではないからと散々聞かされて、彼なりに覚悟はしていた。
だが方向音痴でもない自分が、まさかここまで地図が分からないとは。
程無く、タクシーの順番が回ってきた。
無個性な車に乗り込み、運転手に先程のメモを見せる。
運転手は何事か尋ねて来たが、何を言われているのやら生憎言葉は分からない。
けれど空港周辺で働いている運転手なら、外国人と話が通じないことなど日常茶飯事なのだろう。
タクシーはすぐに走り出した。
窓の外の風景はごちゃごちゃと色彩に溢れ、フライトで青空と星空を越えて来たばかりの彼の目には、少々下品なものに映った。
長旅の疲れもあり、彼は車の揺れのリズムにそっと瞳を閉じる。
浅い眠りはすぐ訪れた。



梅雨入り前の、からっからに乾いた晴れの日。
私は祖父の家に来ていた。
手紙のバーギルさんが、今日訪ねて来ることになっている。
「外国の人なら、この家にも驚きそうだよね」
障子をあけて空気を入れ換えながら、後ろで畳を乾拭きしている祖母に話しかける。
「この辺も下町だからねぇ。珍しいんじゃないかね」
答える祖母自身、着物姿だ。
そうだ、とばかりに祖母が振り返った。
ちゃん、その外国の方に浅草を案内してあげたら?」
私はさすがに苦笑する。
「いやー、バーギルさんも、旅行のプラン立てて来てると思うよ。連れもいるかもだしね」
「あら、そうねぇ…。ここは散歩するだけで外国の方には楽しんでもらえそうなんだけれど」
「まぁ、家から駅とか送る間に仲見世を通ったりしてもいいしね」
「そうだね。……あら」
祖母の視線が、私を飛び越えて障子の向こうをとらえた。
「どうかした?」
ちゃん、あの方じゃないのかしら」
ほらほら、と祖母に促されて、私も外を見る。
「えっ?もう?」
手紙にあった時刻よりもまだ早い。
だが確かに目を向ければそこには、明らかにおのぼりさんではない人物がいた。
「わ……」
息を飲む、とはまさにこのこと。
日本男児では持ち得ない、DNAレベルからして違う容姿。
プラチナブロンド……というよりは、銀色の髪が、遠くからもよく目を引いた。
慣れない土地だろうに、歩く一歩一歩に全く迷いがない。
その両手で大事そうに抱えられた包みが、今回修理に持ち込む刀なのだろう。
下町のぼんやり褪せた風景を、切り裂くかのように近づいてくる彼の姿。
なぜだか怖い、と思った。
あまりに堂々としているからだろうか。
旅行者ならキョロキョロするものだ、なんて勝手な固定観念に過ぎないけれど。
少し怖い。
けれど、不思議とずっと見ていたい。
迷うことはないのだろうか、迷ったらどうするのだろうか。
そんな風に、あらゆる意味で、目が離せない。
どんどんと彼が近づく。

「あんなひとを、『いけめん』て言うんじゃないの?ちゃん、目が釘付けよ」

祖母にころころと笑われて、ようやく私は彼から視線を剥がすことができた。
文字通り、目を奪われていた。



がらがらがら、と古めかしい音を立てて引き戸が開く。
「Hello?」
遠慮がちに入って来たその人物に、私は震える声で挨拶した。
緊張のあまり語尾が上がって、これでは私が訪問客みたいだ。
「あなたが、バーギルさんですか?」
ゆっくり、カタコトで話す。
文章の最後で、バーギルさんが眉を寄せた。
「……バーギルではない。バージルだ」
「あ。ご、ごめんなさい」
呼び間違えを指摘され、私はさっと顔に血が上った。
名前を間違われて、いい気分をする人なんていない。
改めてしっかりと頭を垂れて謝罪する。
「ごめんなさい……」
「いや。そこまでする必要はない」
少しだけ焦った、彼の口調。
……そういえば、外国の人にはお辞儀も珍しいのか。
そっと顔を上げてみる。
思っていたよりも間近に青い目があって、心臓がギュウッと悲鳴を上げた。
──かっこよすぎる。
まださっき感じた底知れない恐怖はあるけれど、女心の単純なところ、それはかっこいい人の欠点は見えにくくなるというもの。
「落ち着かなきゃ……髪と目の色が違うだけ、三割増し、三割増し……」
呪文のようにボソボソと繰り返す。
「What?」
彼が覗き込んで来た。
「わぁあ、なんでもないんです、すみません!ミスターバージル!」
「……。」
謝ったのに、まだ文句のありそうなバージル氏。
「あのぅ?Sir?」
見上げると、更に溜め息をつかれた。
「……『Sir』はやめてくれ」
きっぱりと言われる。
随分はきはきと物を言い切るひとだ。
ノーが言えない日本人を自認している私でも、それは感じ取れる。
別に嫌味な感じで浮かんだ思いではないし、そもそも、曖昧にのらりくらりと喋るなんて彼には似合わない。
会ってまだ数分なのに、それはもう確信に近かった。
迷いなく歩く人なら、迷いなく語るに違いない。
「じゃあ、『バージルさん』。そろそろ祖父の工房へ案内しますね」
ちょっと気取った仕草で、バージルさんに会釈する。
「ああ、頼む」
そう言った彼の表情は意外にも、やわらかかった。



「ほーぉ。これは見事な太刀だねえ」
祖父がすらりと日本刀を抜き放つ。
光に反射させれば目を灼くような輝きを返す。
「相当の業物だ」
「……って言ってます」
「そうか」
工房に来てからも、バージルさんの落ち着きぶりは変わらない。
祖父にじろじろ見られてもお構いなしだった。
私はもうすっかりこうした彼の態度に慣れ、『神経太いんだなあ』とすら思うまでになっている。
「しかしこれは見事に斬られたねえ」
そう言って祖父が示したのは、柄巻の部分。
繊細に編み込まれた柄の文様が、真ん中辺りでざっくりと途切れている。
「編み直すのに、ちょっと時間がかかっちまいそうだね」
「……だそうです」
「どれくらいかかる?」
私は彼の疑問を祖父にぶつけた。
祖父はううむ、とくぐもった声で唸った。
「これほどの業物、ちゃっちゃか修理してホイ終わり、じゃもったいなかろう。せめて3週間は欲しいねえ」
「3週間くらい、だそうですが」
「……そうか……」
ここへ来て初めて、バージルさんが表情に微妙に戸惑いを滲ませた。
「あ。ホテルとか、帰りの航空券の問題ですか?」
滞在が延びれば延びる程、ホテル代はかさむ一方でばかにならないだろう。
ああ、と彼が頷く。
「航空券はまだ手配していないから大丈夫だ。が、ホテルは1週間しか確保していない」
「ホテル……」
「どこのホテルを取ってるんだい?」
その言葉だけ聴き取ったらしい祖父が割り込んで来た。
「どこのホテルに宿泊予定ですか?」
「ギンザだが」
「「銀座ぁ!?」」
私と祖父は、同時に声を張り上げた。
「そりゃまたすごいとこだねぇ」
「まさか、帝国とか?」
「……何か問題でも?」
ぼそぼそひそひそ話す私たちを不審そうに見るバージルさん。
日本刀といい、かなりリッチな人なのかもしれない。
「いえ、問題じゃないですけど……」
そこへ、祖母がお茶とお茶うけをお盆に乗せて運んで来た。
各自に熱々の湯飲みを配る。
実質二人分しゃべって喉が渇いていたので、私はすぐに口をつけた。
隣のバージルさんも、若干ぎこちなさそうに湯飲みを手にする。
みんながお茶で一息ついたところで、祖母が私に顔を向けた。
ちゃん、バージルさんにはうちに泊まってもらったら?」

ごほっっ

「あらやだ、むせちゃって」
「ごほごほっ……だって、おばあちゃん!」
「いいじゃないの。ホテルはお金もかかるし、長くお待たせするのはこちらなんだから」
「それなら、わしも焦って作業しないでいいな」
「おじーちゃんまで……」
バージルさんが祖父母の家に泊まることになれば、通訳の私も必然的にここに泊まることになる。
……めちゃくちゃ気疲れしそうですが……
横目でバージルさんを見れば、黙々とお茶を飲んでいる。
「……美味い。」
ニュアンスでぴーんときたのか、祖母が彼の湯飲みにそそくさとお茶を足す。
「玉露の味がわかるのねぇ!おばあちゃん、このお兄さん気に入っちゃった!」
ほほほ、と笑ってご機嫌な祖母。
なんだかいつもより若返っているような。
「イケメン好きはどっちよ……」
げんなりしたまま、なんとなくバージルさんを見る。
すると、こちらはすました顔で一言。

「彼らの会話はだいたい分かった。世話になる。」

バージル氏の、そういう話だろう?とばかりの表情。
全く大したひとだ。
「……かしこまりました……」
「よかったわねぇ、ちゃん」
「いやー、よかったよかった!」
またしても通訳いらずの祖父母。
どうやら、自分に都合のいいことを感じ取る能力は、世界共通のもののようだ……



バージル氏が家に滞在して、三日目の朝。
「お箸、もう使いこなせてますね」
祖母が作った味噌汁をごく当たり前のように飲むバージルさん。
最初はさすがに箸も茶碗も、変な持ち方をしていたのだけれど。
「三食使っていれば慣れる」
一日目、スプーンにフォークを揃えて用意したのを突っぱねただけのことはある。
私なんて、ナイフにフォークのしゃちほこばった食事には未だにそわそわしてしまうというのに。
「器用なんですね」
「……普通だ」
妙に答えに間があったので、気になってバージルさんを見たら。
──微笑の三分の一くらいの、何とも微妙な笑みを浮かべていました。
「なぁんだ……」
ちゃんと笑えるんじゃない。(微妙ですけど)
三日目にしてやっと、無表情か機嫌悪そうな顔以外を見ることができました。
「何か用か?」
そう言うのは、もう眉を寄せたいつものバージルさん。
「いいえ?」
「あるのかないのか、どっちだ?」
「何でもないですってば」
「ならばいい。……ところで、
「はい?」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
まあ、外国ではファーストネーム呼びなんて普通のこと。
それでも妙に緊張する。
「どうかしました?今朝は納豆はないですよ?」
一日目の朝食に出した納豆は、さすがにバージルさんでもお手上げだった。
「それは匂いで分かる。この黄色いのは何だ?」
箸で、たくあんを指すバージルさん。
「ああ、それはたくあんですよ。えっと、ピクルスみたいな……」
「ほう。」
これはいけると考えたのか、ぽりぽりと小気味いい音を立ててたくあんをかじる。
「日本では、お茶と一緒にお出しすることもあるんですよ」
「なるほど」
ぽりぽり、もう一枚。
「お漬物が好きなら、千枚漬けとかもおいしいですよ。今度買って来ますね」
「日本には色々な食べ物があるのだな」
なおもたくあんを食べる彼。
──かわいい。
ぽっかり浮かんで来た思いを、私は慌ててお茶で飲み込んだ。



通訳を引き受けたからといって、ずーっとバージルさんにべったりマンツーマンしてるわけにはいかない。
私には私の生活があるのだ。
とは言え、大学にいる間も全然落ち着けない。
最後の講義が終わったら、直帰。
めっきり友人付き合いが悪い人間になってしまった。
それでも、多少は他の人間関係を犠牲にしてでも、バージルさんとの時間は増やしたかった。

「いたいた、バージルさん!」
私はいつものように、縁側で読書をしている彼の背中に声を掛けた。
か」 バージルさんが振り返る。
その拍子に、彼の膝から猫が飛び降りた。
「ミーコ!バージルさん、すっかりなつかれましたねー。最初は威嚇されてたのに」
「お陰で足が痺れたが」
ぼそっと呟かれた言葉。
でも、それが100パーセント本音じゃないということも、分かるようになった。
「お疲れさま。はい、これ」
「……シェイブドアイス?」
「はい。今日は何だか蒸して暑いから、おいしいと思いますよ」
馴染みの喫茶店のおばちゃんに作ってもらった、赤と青の鮮やかなかき氷。
「いちごシロップとブルーハワイ、どっちがいいですか?」
見せると、意外にも彼は真剣に悩んだ。
「……。」
「あれ?レモンとか、メロンの方がよかった?」
「いや。ブルーハワイを貰おう」
「はい」
ブルーハワイをバージルさんに渡すと、私は手元に残ったいちご味のかき氷をしゃくしゃく食べる。
甘ったるいシロップと、キーンと喉を滑り落ちる冷たさに舌鼓を打っていると。
「やはり、そちらがいい」
突然、いちご味を引ったくられた。
代わりにブルーハワイを押し付けられる。
「で、でももう口つけちゃいましたよ!?」
あたふたしている間にも、バージルさんはさっさといちごかき氷を食べている。
「ブルーハワイ、嫌いだった?」
どうも腑に落ちない。
バージルさんは、ふとスプーンを止めた。
「おまえがいちご味を食べている方が気に入らない……」
「???」
「早く食べないと溶けるぞ」
……訳が分からない。
反応できずにボーッとしていたら、器から太ももにぽたりと青い水が垂れた。
「つめたっ!」
「言ったそばからか」
「わーん、べとべとする……」
「これで拭け」
「あ、ありがとう」
ばたばた騒ぐ私たちの横で、猫のミーコがやれやれとばかりに欠伸をした。



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