感情の機微が分かりやすいという点において、その動物は彼の恋人ととてもよく似ている。
喜びや嬉しさを隠しきれずぱたぱた揺れる尻尾など、にあるはずがないパーツでも、バージルには容易く想像できる。
だが、実際にと犬が戯れているのを見ると、見ていると、
「…… 馴れ馴れしい犬だ」
の周りをぐるぐる回る犬。一緒に回ってはしゃぐ。……腹が立つ。
つと、がバージルの険しい様子に気付いた。
「あ、ほら、シーザー。あっちのお兄ちゃんにも挨拶しておいで」
「は?」
いらんと右手を顔に持ち上げて振る前に、
「わんっ!」
元気よく犬が胸にのしかかって来た。
「……っ、重い!」
着ぐるみのような大型犬に視界を遮られ、バージルは後ろによろけた。
「あはは、良かったね、バージル!気に入って貰えたみたいだよ」
「わん!」
嬉しそうなの機嫌を損ねるようなことは言えず、バージルは無言で大型犬の手を胸から剥がした。



Love me, love my dog!




事の発端は、ほんの一時間前。
?まだか?」
出掛ける支度をすると言ったまま、は部屋から出て来ない。
朝食は外に行くかと誘ったのはこちらで、喜んだ彼女は張り切ってめかしこんでいるのだろう。
しかし、いくらなんでも時間がかかりすぎている。このままではモーニングセットがブランチセットになってしまう。さすがにバージルは痺れを切らした。

ドアをノックしようと拳を上げたとき、玄関ポーチから当の本人の声がした。
(いつの間に)
は誰かと熱心に話し込んでいるようだ。
階下に降りると、姿を目で確かめるまでもなく、声の大きさで相手が分かった。
隣の家に住む、マーガレット夫人だ。
「あら、バージルさん!」
今の今まで世間話をしていたのに、間髪入れずにこちらに気付くとは恐れ入る。
バージルは目を伏せて挨拶した。がひょこりと隣に寄って来る。
「マーガレットさん家、今日から南アフリカに旅行だって!」
「南アフリカ?」
の言葉に、バージルは目を見開いた。
「それは……」
アジアか何かの聞き間違いかと疑ったが、マーガレット夫人は頬に大きく笑い皺を刻んで頷いた。
「突拍子ないでしょー。ウチの旦那が言い出したのよ」
親指で差された方向で、迷彩カーゴパンツを着込んだビール腹のご主人がピックアップにトランクを詰め込んでいる。横から子供達もバケツリレーの要領でまめまめしく手伝い、最後尾には何とペットの犬までそわそわ見守っている。まさに一家総出の状態だ。
つらつら観察し、大所帯だと改めてバージルは思った。
と暮らすようになるまで近所の存在など気にしたこともなかったのだが、いつの間にかこうして会話を交わすまでになっている。
関わりを持つことで煩わしさもあるが、バージルが依頼などで家を空けなければいけないときに、が気軽に遊びに行ける隣人の存在は、防犯上だけでなく彼自身の心配や不安を軽くする意味でも役に立っている。
但しバージルにとっては、少々賑やかすぎる家族なのだが。
「旅行へは、一家全員で?」
全員で出掛けてくれれば当分は半径1ブロックに渡って静かになるなと、バージルは都合よくうっそりと考えた。
隣人の悪い考えを知る由もなく、夫人は大きく首を縦に振る。
「そう。シーザーだけはさすがに無理だけどねぇ」
「シーザーはお留守番ですか?」
はバージル越しに隣家を眺めた。シーザーというかっこいい名前をつけられた白い大型犬は、確かに今は何だか寂しげに見える。
「シッターを呼んであるのよ。ホテルも高いし」
マーガレットの言葉に、はあらと首を傾けた。
「そんなこと」
ちらりとバージルを窺い——こういうときのは実に言動が速い——気難しい彼が制止するより先に、口を開く。
「わざわざシッターなんて頼まなくても、うちで預かりますよ!」
「ええー?悪いわよぉ」
夫人が断りの口調ながら乗り気なのは、火を見るより明らかである。
「全然、構いませんよ!ね、バージル!」
「ご主人、動物苦手とかじゃないの?」
「全然、平気ですよ!」
「そーお?」
「ええ!ね、darling!」
が極上の笑顔でバージルを振り仰いだ。
ここまで女たちの会話にとても割り込む余地はなく、やっと口を挟める段になったと思ったら。
「……それで、いつまで預かれば?」
バージルは苦々しい声を喉から押し出した。



かくしてバージルとの二人にお隣りの犬一匹を加えた一行は、朝食を求め初めての散歩に繰り出すことと相成った。
人間二人ならカフェは選び放題だが、ペット同伴となると当然のことながら、店も限られてくる。
公園沿いを少し歩き(シーザーは物凄く楽しそうに歩いた)、他に犬連れの客がいるオープンカフェを見つけた頃には、時間はブランチどころかランチタイムになっていた。
目を引く深緑色のサンシェードの真上から、眩しい光が降り注ぐ。
他の客の迷惑にならないよう端の席をキープし、シーザーのリードをテーブルの脚に巻き付けて、ようやくバージルは一息ついた。
(これなら家で食べていた方が良かったな)
朝出掛けなければ、隣の出立にかち合うこともなかったのだ。
(今更もう遅いが)
幸いにも利口なシーザーは、普段と違う風景にも全く動じず、バージルの足元に伏せて座ってまったりしている。
「お待たせ!」
ほどなく、食料調達係のが両手にトレイを乗せて戻ってきた。
途端にシーザーはぴんと耳を持ち上げる。
「バージル、サブマリンサンドとサラダの方でいい?」
「ああ」
トレイを受け取り、バージルはデザートの乗っていない方を自分に引き寄せた。それからもう一方を見た。
「おまえは……ミートボールスパゲティ?」
「……何で笑うの?」
「いや……」
普段頼まないメニューは、確実に『お供』の影響だろう。
ついでに彼女と犬の表情から、彼女たちが何を考えているかも分かった。
「おまえは何でも好きな物を食べていいが、犬には与えるなよ」
「え!?」
今まさにフォークにミートボールを刺したの動きが止まった。お裾分けを貰えそうな雰囲気から一転したのを俊敏に感じて、シーザーの耳もくたりと折れる。
「だめなの!?」
「玉葱がな」
「えー。意地悪で言ってるんじゃなくて?」
「誰が意地悪だと?今回も俺が折れてやったから、こうして犬を預かれたんだろう」
溜め息と共に、バージルはの右の手首を掴む。そのまま自分の方へ反らせて、行き先を失っていたミートボールをぱくりと食べた。
「まあまあだな」
言葉より遥かに満足したニュアンスを忍ばせた目線を、哀れなシーザーに向ける。
(悪魔だ……)
未だに手を握られたまま、は隣の恋人を無言で見つめた。



カフェを出てから公園を一回りし、家に帰ると全員が何だか疲れていた。
お互いに慣れない存在が一緒なことと、暑い中を歩き回っていたせいもあるだろう。近頃の気温は軒並み上がり、もう夏のようだ。
シーザーの足の裏をタオルで拭いてやってから、玄関の戸を開く。
「さ、どうぞ!」
に背中をぽんと叩かれ、ようやくシーザーが遠慮がちに中へ入った。ぽてぽてと乾いた足音が耳にとても新鮮だ。
きょろきょろ辺りを見回し、彼はすぐにその場に伏せた。尻尾をふりふり、じっとたちを見ている。
「いい子だよね、シーザー」
が感心した。
「そうでなくてはとても預かれん」
当たり前だと斬って捨て、バージルはリードを壁のコート掛けに下げた。



細々したことを済ませてひとやすみがてら、はリビングでノートパソコンを広げることにした。お気に入りのふわふわラグの指定席に腰を下ろすと、シーザーもすぐさま横にやってくる。
客犬の手足を踏まないように注意しつつ、バージルもの後ろのソファに座った。
「あ、本当だ。玉葱だめなんだね」
犬のオーナーのためのサイトには、他にもあれこれ未知の情報が並ぶ。
「他には……チーズもベーコンもだめなの?知らなかった」
「おまえは犬に何をやろうとしてるんだ?」
背後からバージルが呆れ声を出した。声には険が多分に含まれている。
「だって」
は膝に顎と手をちょこんと乗せて甘えてくるシーザーに目を細めた。
「犬飼うの初めてだし。ねー、シーザー?」
おでこから耳の裏まで指で掻いてやる。シーザーが気持ちよさそうに目を閉じた。
そんな仲睦まじい様子に、バージルはいらいらと足を組む。
(何故そんなに打ち解けている?)
そもそも、自分が最後に彼女に膝枕してもらったのはいつだっただろう。
チャンスは日々幾度とあれど、実際はなかなか実行に移せない。が自分の膝に頭を乗せて甘えるその逆は、そうそう出来ないのだ。
それを何にも考えずに容易く(まるで見せつけるように)行っている犬を見ると……バージルは大きく息を吸い込んだ。
は気付くことなく、シーザーをでれでれと撫でている。
「夜は何を食べたいですかー?」
「わん!」
「ドッグフードで充分だ」
「バージル冷たい……」
「変な物を与えて腹を壊したらどうする?犬は俺のように強くないんだぞ」
「何それどういう意味?」
が唇を尖らせた。
「だから──」
バージルは、続けようとした言葉を飲み込んだ。何も別に彼女を怒らせたいわけではない。ちやほやされている相手への嫉妬がメラメラしているだけだ。
嫉妬の対象が人間ならまだしも、動物では……彼女に懇々と説明する気も起こらない。
「……全く、余計な仕事を増やしたな」
せめて、彼女の髪に触れる。
やさしく撫でる指の方がバージルの本音だ。も怒気を引っ込めた。
「だって、困った時はお互い様でしょ。私たちが旅行出てる間、うちの芝生のスプリンクラー回してくれたの、マーゴさんだよ?忘れた?」
「……そうだったな……」
バージルは半ば忘れかけていた記憶を引っ張り出した。
あのときは今回とは逆で、ガーデナーを呼ぼうとしたバージルに、お隣が「水臭いわねぇ!」と手入れを引き受けてくれたのだった。
「綺麗に刈り込んでくれてあったし、あのときお礼はしたけど、何かもっとお返ししたいと思ってたんだよ」
「そうだな」
確かに、ちゃんとお礼すべきとはの言う通りだ。
(流石に犬に対抗しようとしてもな)
冷静になってみれば、が預かった犬を下に置かず大事にするのは至極当然のこと。それに苛々するとは、さすがに大人気なさすぎた。
バージルはちらりとシーザーに目を落とした。まんまるの黒い瞳は、こちらに何かを期待してきらきらしている。この感じ──やはり似ている。
「…………スプリンクラーで遊びたいか?」
「わんっ!!」
たちまちシーザーは玄関へ駆けて行った。散歩と勘違いしたのか、リードを咥えてバージルを振り返る。
「それはいらん」
首を振られると、シーザーはぽとりとリードを足元に落とした。
はぷっと吹き出した。
さっきまであまり相性が良くないように見えた二人が、まるで普段通りの何気ない会話をしているようだ。
「良かったね、シーザーと仲良くなれて。あの子もバージルのこと好きなんだよ」
バージルはちらりとを見た。そうして、
「そんなにあちこちから好意を持たれても返せない」
早口で言うだけ言って背を向けた。こんなときの彼はもちろん、照れている。



スプリンクラーとシーザーの相性はばっちりだった。物凄く仲良くなり(つまりシーザーは全力でびしょ濡れになり)、泥んこになって遊びたがり……もう充分遊ばせたと水を止めてシーザーを引き離した後、バージルは無表情で彼をシャンプーからタオルドライまでしてやった。
「わ、シャンプーしてもらったの?」
夕食の準備のために先に中へ戻っていたが、ふわっふわの毛並みになっているシーザーを笑顔で出迎えた。
「いい香りー」
シャンプーだけでなく、お日様の匂いがする。もふもふと顔を埋めて抱き締めたい衝動は、人様の犬なのでさすがに我慢しておく。
それからはシーザーの後ろの人物を目に留めた。
「おかえりなさい。バージルも遊んで来たの?」
「もう二度と水は使わせん」
「……お疲れ様」
銀の髪からぽたぽた水を滴らせているバージルを、今度はがタオルで拭いて労う。
陽光にきらきら濡れるバージルの髪は、乾かしてしまうのがもったいないくらい綺麗だった。



その日のシーザーの夕食は、バージルとふたりの意見を反映し、ドッグフードと茹でた野菜を混ぜたもの。
あれこれ揉めたため、人間たちの分はいつもより手抜きになってしまった。
人間たちは食後のコーヒー、犬はおやつのジャーキーまで平らげて、リビングに戻った頃にはやっぱりみんな疲れていた。
食休み、は床ではなくソファに座り、バージルの横で彼に借りた本を読み始めた。
シーザーは空気を読んで遠慮したのか、の膝枕のお世話にはならず、ふたりの足元で寛いでいる。くたりとぬいぐるみのように落ち着いて、呼吸にお腹が上下する他は動かない。
誰も見ていないテレビの音だけが流れる、静かな時間。
バージルはまだ読んでいなかった新聞を開き、さして興味もないヘッドラインを目で追った。
と、左肩にがこてんと寄りかかった。甘えてきたのかと思いきや、彼女の頭はぐらぐら傾いでいる。
「……?寝るか?」
「んー」
から、答えなのか寝言なのか判別できない声が洩れた。支える力を失ったその手から本がばさりと落ちる。
彼女を動かさないように右手を伸ばして本を拾い上げ、バージルはぱぱっと表紙を払った。
「矢張り難しかったか」
書庫から探し出して来た『動物行動学』は、犬と仲良くなるために紐解くには少々、学術的すぎたらしい。
時計を見上げれば、いつも寝室に向かうよりもまだ早い時刻。楽しそうにしていた彼女にも気疲れがあったのだろう。
「寝るか」
新聞を畳んで立ち上がる。ソファのクッションを直して場所を空け、タオルケットを適当に折り畳み、
「お前は何処で寝る?」
同じく眠たそうにぼんやりしている客犬に訊ねる。ソファに上がったり下りたりと迷った挙げ句、シーザーはフローリングに戻った。
「これを使え」
床に寝かせたとあれば翌朝に怒られそうなので、タオルケットを敷いてやる。シーザーはふんふんと匂いを嗅いだり噛んだりしていたが、満足したのかその上に寝そべった。
それからバージルは、眠った恋人を抱き上げた。
と、バージルだけでなくも移動すると知ったシーザーが、慌ててタオルケットから身体を起こした。ついて来ようと立ち上がる。
が、
「お前は此処で寝ろ」
バージルが鋭く牽制した。
「悪いが、これからの時間は邪魔させん」
勝ち誇ったような人間の声音に、シーザーは分かったような分からないような微妙な表情をした。



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