『お隣のスパーダさんたちには気を付けなさい』
小さいころによくパパママからそう言われていたけれど
まだ幼いあたしは何にも分からなくって
お隣の金の髪のママに誘われるまま そこの子供たちと遊んだ
銀の髪の双子の男の子たち
彼らは今、どうしてるだろう?




Mephistopheles




あたしはペンキ塗りを仕事にしている。
……と言っても、本業は画家。
駆け出しで無名なあたしには大きな依頼が来るはずもなく、許可を受けてはストリートの壁に大胆に絵を描いて自己アピール(そしてストレス発散)する日々。
そんなだから、いちばんの収入源は民家や教会などの壁のペンキ塗りなのだ。
筆がローラーに、絵の具がねっとりしたペンキに変わっている以外は、色を塗ることにおいて絵描きに通じる作業。
綺麗に塗れたら嬉しいし、そして確実にお金にもなるし、何だかんだで楽しんでいる。
今日も一件、仕事を頼まれていた。
自宅からそう遠くはない依頼先の民家、指定の色はベージュ。
汚してもいいシャツを羽織って、着倒したスカート──作業には不向きだけれど、とある事情からあたしはスカートしか穿けない──を身に着け、作業しやすいように改造した筆挿し付きのブーツを履いたら、準備完了。
いつものように自転車に乗り込む。
そして、いつものように現場に到着し、作業に取り掛かる……はずだった。



……何だか頭痛がする。
家を出た時から、今こうして作業の準備を進めている最中も。
煤けたお家の壁が、更にぼやけて見える。
この色をまっさらなベージュで塗ってあげなきゃいけないのに……ビィーンと耳鳴りがひどい。
「なに……」
それに抗うように努めて気にしないようにしていたけれど、くらくらと眩暈まであたしを邪魔する。
段々フェイドアウトしていく意識。
「これは……まずい、かも」
立っていられなくなり、あたしはその場にへたり込んだ。
地面に手を付いたはずが、くにゃりとその感覚も危うい。
──救急車を……。
ところで携帯を持っていたっけ?
何だか目も霞む。
ついに座っていることも出来なくなって、糸の切れた操り人形のようにあっさり倒れてしまった。
右を向いているのか、突っ伏しているのかも分からない。
──あたし、死ぬかも。
視界が完全に暗く色落ちた、そう思った次の瞬間。

今度は頭の一点で光が弾けた。
ガァンと鈍器で後頭部を撲たれたような衝撃。

「う……」
痙攣するような瞬きと共に、一切の感覚が戻った。
そして目に飛び込んで来たのは、ありえない光景。
「何ここ……」
さっきまで平屋のお家の庭先にいたはずだったのに、今は打ちっぱなしにされたコンクリートの壁が四方を囲む、どこかの部屋らしきところ。
「どうして……」
訳が分からない。

「驚いたな」

ぼんやりしているあたしの耳に、誰のものか声が響いた。
反射的にそちらを見る。
「まさか、お前が来るとは」
「……バージル……!?」
鳩が豆鉄砲を食らったような、とはまさにこの事。
あたしは自分の目も耳も何もかも信じられなかった。

──目の前にいたのは、正真正銘、『スパーダさんちの双子の子供』の片割れだった。





『お隣のスパーダさんたちには気を付けなさい』
ママが頭の中で警鐘を慣らす──

薄闇に目が慣れれば、周りの状況が浮かび上がって来る。
ひやりと冷たいコンクリートの上、複雑に描き出された紋章。
バージルが手に持つ、黒革の古ぼけた書物。
そして突然あたしが常識では説明できない、ありえない移動を強制されたこと。
それらを合わせて考えれば、バージルに何をしていたのと訊ねるまでもなかった。
「召喚術ね」
悪魔が何かを呼び出す時に使う術。
「……。」
バージルは微かに眉を動かした。
「あたしが知っているはずがないって?」
だいぶ意識がはっきりしてきた。
めちゃくちゃな移動の仕方も、彼絡みなら何の疑問も抱かない。
ぱんぱんとスカートの裾の埃を払って立ち上がる。
「隠してるならお生憎様だけど、知ってるんだ。あなたが悪魔だってこと」
腕を組んで、微動だにしない彼を見る。
……記憶の中の彼よりも随分と背が伸びた。
けれど変わりようがない、青い瞳とそして悪魔と人間のハーフの証の銀の髪。

銀の髪が隠せない証拠なの。ママはそう教えてくれた。
おつきさまみたいなきれいな色なのに、あくまなの?
そうよ。それも、とっても怖い悪魔なの。だから、スパーダさんたちには近付いちゃだめ。

──ママ、ごめんね。十年以上も経って、あたしはまた約束を破ってしまった。

本当に、あのバージルが目の前にいる。
懐かしさに胸がぎゅうと締め付けられて苦しくなった。
バージルとダンテ兄弟のことは、今でも夢に見るくらいに鮮やかな記憶。
『遊ぼうぜっ!』ダンテがうちのドアをノックする元気な音。
『ねぼすけ』早起きなバージルにはよくそう小馬鹿にされたっけ。
目を閉じれば、彼らと一緒に遊んだ日の天気まで思い出せる。
幼くて可愛くて眩しい、宝物のような想い出。
あたしは彼が召喚術なんて怪しげな手法で誰かを呼び出そうとしていたことなど、軽く忘れてしまった。
「その髪、相変わらず綺麗ね。ダンテは元気なの?」
「……いつからだ?」
今までだんまりだったバージルがいきなり低い声を押し出した。
「何が?」
「いつから、そうだと知った?」
(……半魔だということを、だよね)
口数が少ないのも昔と変わりがないようだ。
あたしはうーんと上を見上げて考える。
あまりにもあたしがお隣の一家に懐いてしまったので、本気で家族は心配したらしく、慌てて引っ越しを決意した。
確かその時。
「あたしが引っ越ししたのを覚えてる?その辺りかな。ママが教えてくれたの」
「成程」
バージルは唇を歪めるようにして笑った。
──彼はこんな陰のある笑い方をしただろうか?
「バージル?」
「……俺も知っているがな」
「ん?何を?」
問い掛けにも無言で、バージルは近付いて来た。
数メートルが数歩、数歩が目前に。
ひたりと長身が立ちはだかる。
「ちょっと、何?」
さすがに狼狽してバージルを見上げるが、それでも彼は何も言わない。
威圧感に押されるまま、あたしはじりじりと後退した。
そして背中がぴたりと壁に張り付いてしまう。
逃げ場がない。……逃げ場?何から。
「な……」
たん、とバージルが壁に手を付く。
その中央にはあたし……つまりはバージルの腕に閉じ込められた。
──こんなに身長差がついてしまったのか。いつの間にか。
顔を上げなければ彼の表情が見えないほど。
そして見上げても、バージルは分かりやすいシンプルな表情なんてしていない。
「バ……」
変な汗がじわりと滲んでくる。
「何なのよ、冗談やめて」
バージルの片手があたしの腰の辺りに添えられた。
「ちょっと!!」
慌ててバージルの肩を押したが力で敵うはずもなく、動きを止めることなどできない。
その手は呆気なくスカートの中に侵入し──
「ちょっ、ねえ、バージル!!」
「俺が知らないと思ったのか?」
凍る声でバージルは嘯く。
知らない男のような声に、背筋がぞくぞくと戦慄いた。
バージルの掌は太腿の裏を這い上がる。
「この身体の秘密……」
言葉と共にあたしの秘密──尻尾が、ぐいと引っ張られた。
「っあぁ!」
痛みか快感か咄嗟には分からない感覚に、あたしはかくんと人形のように容易く仰け反る。

「──お前も半魔だ」

そうしてバージルは、あたしが長い、長いこと家族以外の誰からも隠し通していた秘密をいとも簡単に暴いたのだった。





ねえママ。どうしてのかみは、あのこたちみたいなぎんいろじゃないの?
それは、ママの力がそんなに強くなかったからよ。銀色は、特別な色なの。とても強い悪魔の子供じゃないと、あんな色にはなれないの。


低くなった太陽が僅かにコンクリートの床にオレンジ色の光を投げかける。
灰色に溶ける陰鬱に沈んだ色。
「……それで?悪魔を呼び出して、どうするつもりだったのよ」
バージルは軽く左頬を押さえ──無礼な行いの罰として、さっきあたしが平手打ちを放ったのだ──、手近な椅子に腰を下ろす。
「悪魔が悪魔を呼び出して、させることと言ったらそうないだろう」
そこまでは分からないか?
そう言外に馬鹿にされているような気がして、悔しくてあたしはバージルを睨んだ。
「使い魔にするつもりだったら、残念だけど、あたしの力は大したことないから役に立てないよ」
使い魔なんて、その存在自体もたった今思い出したくらいだけれど。
使いっ走りなんて言葉があるが、バージルはそれを欲しかったのだろうか。
一体、何のために?
バージルの横顔を窺ってみても、何も分からない。
彼が怒っているのか、喜んでいるのか、そんな単純な根っこの感情さえも掴めない。
久しぶりに会った彼は変わりすぎていて、全く考えが読めなくなってしまった。
ちいさい頃は言動こそぶっきらぼうだけど、ちっちゃな紳士のように優しかったのに。
だからずっとずっと、家族から禁じられていても想い出を忘れられないまま、彼らはどうしているかと思い続けていたのに。
召喚され、正体を強引に暴かれて、こんなの散々な再会だ。
綺麗な想い出が壊れてしまうなら、いっそ会わない方がよかった。
あたしはギリと唇を噛む。
「分かったなら、あたしを帰して。もういいでしょ?」
バージルが微かに首を振った。
「……既に、契約は交わされている」
「え?」
ただ呼び出されただけで従属の契約が交わされるなんて、聞いたこともない。
勘違いしてないかと言いかけ……ざっと血の気が引いた。
「あ」
悪魔が他の存在を意のままに司るために必要な鍵。
「名前」
──バージルはあたしの名前を最初から知っている。
「そういうことだ」
一切表情を変えず、バージルは言い放つ。

「これからよろしくとでも言おうか、?」

久しぶりに彼に名前を呼ばれても、もはや嬉しくも何ともなかった。





バージルとの生活は、上辺ばかりは平和と形容できるものだった。
あたしはバージルからかりそめの解放を受け、しようと思えば今までと同じようにペンキ塗りの仕事も、ウォールペインティングも出来た。
それでも、何を何処でしていようと、彼がひとたび「」と名を呼べば再びあの頭痛に苛まれ……次の瞬間はコンクリートの部屋の中。
空間を捩じ曲げての移動が、半分はヒトたるあたしにどれだけ辛いことか。
バージルに懇々と説明しても、全くのお構いなし。
その上、そんな風に人を勝手に呼びつけておいて、大抵は何も用事がない。
もしも用事があったとしても、食事の準備だったり更に些細なものだとコーヒーを淹れることだったり……とかく下らなく取るに足らないことばかり。
そんなわけで、痛みを伴う召喚に嫌気が差して、あたしはあまり外出そのものをしないようになってしまった。
そうすると二人で部屋に籠ることになるかと思いきや、そうではない。
バージルは外で何かをしているのか、家を空けることも多かった。
──二人でいれば、もしかしたら過去の想い出話に花が咲くこともあったかもしれないのに。
バージルとの距離は広がったまま、契約だけが鎖のように虚しくあたしと彼を繋いでいる。
それは幽霊と過ごすような空しく意味のない日々。
いい加減飽き飽きして、彼の外出時に逃げ出してみようかとバージルから「許し」を得ることなく外へ、プリズンブレイクよろしく脱出を試みたが、一見ごく普通のドアも窓も、近寄ると耐え難い頭痛と目眩を引き起こした。
吐き気に耐えて脱出口に手を掛ければ、次の瞬間には気を失う。
いつ、何回挑戦してもその繰り返し。
窓辺や玄関で失神して伸びているあたしを見つける度、バージルは呆れて溜め息をついた。
そしておざなりに介抱した後、こう言う。
「契約が切れるまで待て」
契約がいつまでなど、肝心なことはバージルは教えてくれない。
悪魔は気紛れなものだ。
人間とうっかり恋に落ちてしまったママを見れば分かる、確かにそうだ。
でも、バージルのお遊びに付き合っていたくはなかった。

もう泣かないの、。あの子達と一緒にいるのはあなたのためにはならないの。
あなたも尻尾を隠して、人間のお友達を作りなさい。
それがあなたのためなの……

あたしは人間として生きることを家族に誓った。
もう悪魔の双子とのことは遠い想い出の中、綺麗なままに。
そうしておくのがいちばんなのだと、バージル自身が言動で教えてくれたのだから。
早く、契約だの魔術だの不気味な物事など何も関係のない、尻尾を隠して過ごす平穏な日常に戻りたい。
それなのに、バージルとの生活はだらだらと続いてしまっている。
恐ろしいのは、これが悪夢などではなく、頬を抓れば痛みを感じる現実だということだ。





久々にバージルの許可を得て、外へ出た。どんよりと曇った午後の鈍い日差しの下、あたしは壁に向かっていた。
もちろん、そこに絵を描くため。
ずっと前に描き始めた壁なのだけれど、色も構図もどこか物足りなくて、適当に筆を走らせては白のジェッソで塗り潰し、またゼロからスタートということを既に幾度も繰り返していた。
この絵は完成しないかもしれない。
心が湧き立つものがない絵なんて、いい作品になるはずがない。
ぽいと筆を水入れに投げ込み、あたしはその場に座った。
目前を行き交うのは子供たちばかりで、みな小脇にスケートボードやバスケットボールを抱えている。
どの顔もきらきらと輝き、楽しそうだ。
(いいな)
あんな表情を色で表現できたら、この壁の絵もきっと完成に近付くはず。
(もう少し粘ってみようか)
今なら、彼らの笑顔のかけら分くらいは壁に描き出すことが出来るかもしれない。
──と。
「う」
……また頭痛だ。
きりきりと何かを捻じ込まれるような痛み。
「……我慢できない!」
今度という今度は、言葉で怒るだけでは足りない。
あたしは激痛が早く収まるようにと目をぎゅっと瞑って、その場に蹲った。





「バージル!!」
移動完了と同時に、あたしはその場に声を張り上げた。
何十回も強制移動させられていれば、嫌でも身体は慣れてくるもの。
今回もすぐに頭痛は吹き飛び、肺活量をめいっぱい使って怒鳴りつける。
「今度という今度は許さないから!!!」
降り立った部屋にバージルがいないことが分かると、あたしはつかつかと廊下を進んだ。
ここにいなければ、大抵が書斎だ。
「バージル!!!」
怒りに任せてバンッとドアを開ける。
予想通りにバージルは机に向かっていた。
ゆっくりとこちらに視線を流す。
「騒々しい。もっと静かに帰って来られないのか?」
呼びつけたことなどすっかり忘れているようなその態度。
怒りがぐんぐん沸騰して、あたしはドンと机を叩いた。
「静かに帰って来て欲しかったら、むやみやたらと呼びつけなければいいのよ!用がないのに召喚しないでって言ってるでしょ!?慣れてもあちこち痛むんだから!!」
恐らく痛むのはあたしの半分、人間の部分。
それをバージルは知っているのかいないのか。
「俺が、いつ呼んだと?」
バージルが目を細めた。
「とぼけないでよ!今よ今!」
感情に流されるまま、勢いよく怒りを吐き出す。
あたしは何をこんなにイライラしてるんだろう。
再会してからこっち、バージルとの会話はいつも穏やかに進まない。
「本当に覚えがない」
バージルが手にしていた書物をパタンと閉じた。
一瞬漂う、古臭い埃の匂い。
その本は確かにロシアの古典文学で、魔術の類には関係がないもののようだったけれど、そうそう騙されてあげる筋合いもない。
あたしは眉を思い切り顰めてバージルを睨んだ。
「じゃあ、何であたしがここに呼び出されなきゃ行けないのよ。商売道具の画材も一切放り投げて、文字通り身ひとつで!」

ぱきん。
バージルの声が合図。
主との契約に従い、あたしの身体は忠実に反応を示す。

──即ち、服従。

関節のひとつひとつに見えない楔を深く打ち込まれたように、自由がきかなくなる。
動かせるのは瞳と唇だけ。
「名前を使うなんて……この卑怯者」
「とにかく落ち着け。俺は今日はお前を召喚していない。本当だ」
す、と掌が頬に当てられる。
バージルの肌はその目の色のようにつめたくはなく、むしろほだされてしまいそうな程にあたたかい。
「触らないで」
未だ動きを禁じられた身体がもどかしい。
「早く戒めを解いて」
「……出来ない」
手を下ろし、バージルが背を向けた。
「何でよ?」
「今も別に、お前を縛したわけではない……」
言い訳めいたことを口にする。
その言葉にあたしは必死に身動きを取ろうとするが、どう足掻いてみても指先すら言うことをきかない。
「じゃあどうしてあたしは動けないの」
「……。」
答えない。
「バージル!」
「……お前は俺に考える時間すらくれないのか?」
突如振り返ったバージルは、そのままあたしの首に手をかけた。
「!」
ひゅ、と器官が変な音を立てる。
(ころすの)
バージルは、けれどあたしの予想とは違い、その手を顎に上げた。
上向かされても今の自分では平手打ちどころか、──迫って来るバージルの唇から逃げることすらできない。
「……っ」
乾いた唇が一瞬だけ重ねられ、そして軽やかなリップノイズを立てて唇が離れる。
と同時にいきなり全神経の権利が戻ってきた。
「っは、なんなの、どういうつもり……」
突き飛ばされたように、思わずがくりとその場に膝をつく。
「何故お前が勝手に召喚されるのか、名前を呼ばれただけで拘束されるのか、……今のように突然解放されるのかも、俺には分からない」
あたしの問いは完全に切り捨て、バージルは手を差し伸べて来る。
「……。」
彼の手には頼らず、あたしは無言で立ち上がった。
拒絶された手をゆっくりと引っ込め、バージルは踵を返す。
「考える時間をくれ」
そう言って机に戻る。
──またそれか。
いい加減に口論の気合いも殺がれてしまう。
「……早くあたしを解放して。それまでは我慢するから」
ふと、バージルが顔を上げてこちらを見た。
物言いたげな眼差し。
「何よ」
「お前は怒っているばかりだな」
怒らせている張本人がそれを言うのか。
「ええ。用事もないのに呼び出される使い魔の気持ちなんて、どうせ分からないでしょうね」
吐き捨てるように皮肉を投げ、背を向ける。
(また街に出掛けて絵を描こう)
そうすれば、この鬱々とした気分も少しは晴れてくれるはず。
けれど歩き出した行く手は、素早く立ち上がったバージルに阻まれた。
「……用事があれば呼んでいいと?」
バージルの昏い瞳の色。
うっかり見つめていたら、コバルトブルーの透明水彩絵の具が思い浮かんだ。
あれがパレットで固まってしまったときの、あの詰まった色合い。
好きな色を駄目にしてしまった悔しい思いと、それでも水を乗せれば僅かに流れる空色の見事さ。
あの色。
水彩なら溶けるけれど、目の前の青は凍ったまま永遠に溶け出すことなんてないように思える。
「お前の母親は夢魔だったな」
気付いたときには、もう逃げられない距離にいた。
──動けない。
伸ばされた手は、いつかのようにあたしの腰に触れる。
けれどその動きは以前とは全く違うもの。
「ならばお前もさぞ愉しませてくれるはず」
間断なく動くバージルの指先。
その指があたしのワンピースを手繰り上げていく。
布の撓みと空気に触れたひやりとした感覚で、素肌が外気に曝されていることを知る。
「バージル」
強気で非難したいのに……できない。
喉が意のままにならない。
おかしい。
バージルはまだあたしの名前を呼んでいない。
だったらどうして目蓋ひとつ動かせないのか。
「抵抗しないのか?」
しないのではなくて、できない。
耳朶を噛まれ、囁かれて、やっと、この身を縛るものの正体に気付く。
それは魔術でもなければ契約でもない。
──ただの恐怖。
「慣れているのか」
煽る言葉と共にバージルの舌先が首筋を這い上がる。
その感触にぞわぞわと鳥肌が立った。
なおも彼は肌をまさぐる。
つめたい瞳と熱を運ぶ爪指。
不意に太腿を撫でて遊んでいたバージルの手が、あたしの尻尾を引っ張った。
まるでテーブルランプの紐を引くようにさりげなく、けれど効果的に。
「!!」
その強烈な感覚が、逆にあたしの身体の呪縛を断ち切った。
「バージル!!」
ぱあん。
再びあのときと同じように、小気味よい音がバージルの頬に響いた。
荒い息のまま、目の前の悪魔を視線で殺せそうなほど睨む。
「こんなこと……信じられない……」
バージルが視線を逸らした。
そして身を引く。
「……興醒めだな」
燃えるようなその体温が離れていく。

──つめたいくせにあつい。

支えを失って、あたしはへなへなとコンクリートに座り込んだ。



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