第三話 雨 / tear, tearing up




『大気は不安定で、午後から天気は崩れやすいでしょう。夕方からは雷雨の可能性もあり、注意が必要です。傘を持ってお出掛け下さい』
──内容の割にのほほんとした口調のお天気お姉さんの朝のニュースは、見事に当たってしまった。
ぐずついて今にも泣き出しそうな空を眺めて、は溜め息をつく。
「今日は外で練習は無理かな」
「中の練習って嫌だけど、仕方ないよね」
隣のキリエもそっと肩を落とす。
賑やかなサッカー部の面々が校内での練習。
それはもう部活動という大義名分を抱いた、単なる大騒ぎと紙一重。
(……次期生徒会長のお叱りを受けなければいいんだけど)
苦々しい彼の表情を思い浮かべ、は再び深々と溜め息をついたのだった。



部活自体は案外スムーズに行われた。
キリエがいる手前、ネロが率先して自分の学年をまとめているおかげである。ルーキーなのにも関わらずそんなにリーダーシップを発揮されていては、上級生はなおさらしっかりしないわけにはいかない。
普段はだるそうなネロも、キリエの前ではやけに輝いて見える。
(さすが恋の力)
ともあれ、順調な練習にほっと一息つく。
「この分ならバージルにも怒られないで済むかな」
キリエもそうね、と頷いた。
「大丈夫じゃない?」
「じゃあ、みんなが校内ランしてるうちにドリンク作ってくるね」
「お願い」
合図のホイッスルを吹くのはキリエに任せ、はどっさりの粉末とポット3個を抱え、スポーツドリンクを作りに水道へ向かった。



空は灰色。
窓ガラスを大粒の雨が伝っていく。
廊下にはサッカー部のみならず、外で活動できない他の運動部の部員もひしめいている。
独特のむしむしした熱気。
むさ苦しいこの空気が、は実はそれほど嫌いではない。
(みんな頑張ってる)
運動部の中でもいちばん大会が近く気合い満々の野球部の横を通りがてら、今いちばん擦れ違いたい人物を目でさりげなく探す。
(この時間なら、クレド先生はまだ校内のどこかに……)
クレドはチェス部の顧問をしている。
この時期、チェスは特に大会など控えていないはず。だからクレドが部活に顔を出す確率は低い。
更に顧問としてのクレドは生徒を信頼して、部長に活動のお目付けもある程度は任せていると聞いていた。
もともと運動部とは違って怪我など事故の起こりにくい文化部である上、冷静な思考と判断が重要なチェス。参加している部員もおとなしい学生が大半で、血気盛んというわけでもない。
そう考えると、クレドの顧問姿はとても貴重なのかもしれない。
(一度くらい、先生が対戦してるの見てみたいけど)
白と黒の盤を前に、クレドはどんな表情をするのだろう。
いつものようにしかつめらしい顔か、それとも意外にいきいきと好戦的になるのか。
指し方はどうなのだろう。
読み合いは得意そうだが、中盤以降の展開は積極的に駒を動かすのだろうか。
(……気になる!!!)
チェスに興じるクレドを拝むためにはサッカー部のマネージャーの自分は、いったいどんな理由を作ったらいいのやら。
担任ではないクレドとの接点は、相変わらず少ない。
廊下で、図書室で──ちらりとでも会えたら、その日はかなりついている。
クラスの用事などで教官室に立ち寄るチャンスがあれば率先して引き受けているし、日直だってもっと回数が多くてもいいくらいだ。
(あーあ)
フェアじゃないのは百も承知で、ここはやっぱり、素直にキリエに力になってもらった方がいいのだろうか。
キリエはたぶん驚くだろうが、でも、協力してくれると思う。
休日にあれこれ理由を作って、家に会いに行くことだって──
(でも、そこからは?)
会える回数が増えれば、絶対に「もっともっと」と想いが強くなる。
限界まで気持ちを内側に抱えきれなくなったら──
告白するのは簡単だ。自分は割と度胸もある方だし、膨らみ続ける想いを我慢して苦しむよりは、勇気を出して打ち明ける方が絶対にすっきりする。
ただ、想いを伝えて楽になるのはだけ。
(先生を困らせたくない)
はぎゅっと眉を顰めた。
恋した相手が教師で自分はその生徒というだけで、どうして何もかもがこんなに難しくなってしまうのだろう。
巷には恋愛ドラマや映画が氾濫し、いかにも「たくさん恋をしなさい」というような風潮を作り上げている。そのくせ「正しい恋愛」の範疇から外れてしまった人間に、世間はとても厳しく当たる。
相手が既婚者だろうと同性だろうと未成年だろうと、教師だろうと……脳内には対象をふるい分けてくれる都合のいいフィルタリングなんて存在しない。恋を自覚したその後は、せいぜい理性や良心で踏み留まるだけ。
(誰かに相談したい……)
キリエでもない「誰か」を探してみる。
……。

「すいません」

突然、後ろから声がした。
自分にかどうかは分からないが、とりあえずは振り返る。
「私ですか?」
「はい」
呼び止めて来たのは、同学年の男子生徒だった。
「突然声かけて、すいません」
彼は白い歯を見せて、やけにさわやかに笑う。
「あ、いえ」
はとりあえずふるふる首を振ってみるが、正直な所、彼にはあまり見覚えがない。
クラスが違うのも当然ながら、あまり接点がないのだろうと思った。
制服をきちんと着こなしたその姿。
風紀の乱れを嫌うバージルはともかく、とは悪友のダンテや後輩のネロなどは、『いかにクレドやバージルの目を掠めて制服を着崩すか』に朝の身支度の時間の大半をかけているように思う。
「部活中ですよね。それ手伝います」
彼は重たげなポットを目に留め、すっと手を伸ばして来た。
「あっ、まだこれ空だし」
反射的に手を引いたものの、彼は笑ってポットを全部奪う。
「空でも充分重いですよ。かさばるから」
結局、の手にはスポーツドリンクの粉しか残らなかった。
「水道に行くんですよね?」
訊ねながらも彼は既に歩いている。
「あ、そうです」
わたわたと着いていきながらも、の頭には疑問符ばかりが浮かぶ。
感じのいいこの彼は、いったい何の用だろうか。
と言っても、自分が部活中だということを知っていて声を掛けてきたのだから……
「あの。サッカー部に入部希望ですか?」
ちょうど水飲み場に到着し、ぴたりと彼が足を止めた。
こちらを振り返ると、その茶色い髪が風にさらさらとよく靡く。
「……さんにたくさん会えるから、本当はそうしたいんですけどね」
(え)
突然の、爆弾発言。当の本人は斜めに視線を逃がし、運んで来たジャーを威勢よく洗う。それは照れ隠しにも見えた。
勢いよく全開で流した水音で誤魔化すように、彼はひっそりと口を開く。
「残念ながら、あまり丈夫な体じゃなくて。だから入部希望じゃないんです」
綺麗になったジャーが手渡された。
「あ、ああ……えっと」
何だか余計なことを聞いてしまったかもしれない。
危なっかしい手つきでポットを受け取りながら、はそわそわと焦ってしまった。
何しろ普段周りには、怪我してもピンピンしている頑丈な連中しかいない。
「何か、ごめんなさい」
いえ、と彼は首を横に振った。
「あなたはよくダンテ君と一緒にいますが、やっぱり彼みたいな元気な人が好きなんですか?」
「えっ!?」
よく知らない相手からの直球、スピードは緩やかでありながらも胸元を抉るような質問。
は彼を見上げた。
(ああもう)
彼は『冗談です』というように穏やかな表情をしているくせに、目はひどく真っ直ぐだ。
戯れの質問とおどけた態度であったなら、こちらにはそれなりに返す余裕ができたと言うのに。
「ダンテは友達で」
言いかけ、そこで言葉が止まった。
渡り廊下をこちらへ、クレドとバージルが歩いて来ていた。バージルは手にノートを持っている。クレドに何か質問しているのだろう。
(ああ、こんなときに!)
「どうかしましたか?」
の視線を追い掛け、彼もああと頷く。
「そうか。……バージル君の方か」
残念そうなトーン。
「え、違、あの」
彼は首を傾げた。
目の前、クレド達はどんどん近付いてくる。そうこうしているうちにクレドがに気付いて、瞬きと共に軽く頷いた。
(先生)
鼓動が過剰な反応を始めたが、これはもう仕方ない。
「違うんですか?」
答えないに、しつこく彼は問いを重ねる。
今すぐクレドに、「雨でじめじめ嫌ですね」なんて話しかけたいのに。それとも、「私にも数学教えて下さい」でもいい。とにかく話せたなら、何でも。
さん?どうかしましたか?」
(あああ!だから何でこんなときに!)
は頭がパニック状態になった。
質問には違うと否定するか、あなたには関係ないとでも言っておけば良い。なのに、さっきまで散々会いたいと思っていた本命がすぐ近くにいるだけで、考えがぐちゃぐちゃで上手にまとまらない。
この見知らぬ彼と一緒にいるところを見られただけでも嫌だというのに。
どうしたら。
バージルもこちらに気付いた。ああ、と目を眇めた涼しげな表情。
──『都合のいいフィルター』。
目が合った瞬間、は魔物にでも取り憑かれたかのような勢いに押され、とんでもないことを口走っていた。

「そ、そう。私、バージルが好きなんです!」

そんな一言。
その場の誰もが目をまるく見開いた。










2009.9.28